1.それは夢か幻か
軽快な金属音。
雲一つない秋の青空に、小さな白球の姿が映える。
当たりはレフト前ヒット。打球は後退守備をとっていた相手チームの隙を絶妙に突く、いやらしい位置へと落ちた──いや、この球を打った少年は狙ってそこへ落としたのだ。
レフトの守備についていた生徒がボールを拾い上げ、送球の姿勢をとった時には既に、バッターの伊織は悠々とセカンドベースを踏んでいる。
体育の授業を利用して行われた野球の試合。
野球部のエースを前に三振の山を築きそうな予感にげんなりしていたチームは、この快挙に大きな歓声を上げた。
「いいぞ、綾村ーっ! さすが運動が唯一の取り柄なだけあるぞー!」
「ほんと勉強だけはどうしようもないヤツだけど、こーいうとこで活躍してる姿を見るとクラスメイトとしてはなんか優しい気持ちになれるぞー!」
「虫や小鳥だって頑張って生きてる! 綾村だって頑張って生きてる!」
「お前ら! 応援したいのけなしたいのかハッキリしろ!!」
ドヤ顔でベンチへとガッツポーズを見せた伊織だったが、ベンチからやんややんやと返ってくる歓声(?)に、思わず被っていたヘルメットを足元に投げて怒鳴り返す。しかし、それは全員の笑いをさらに誘っただけで大した効果はないようであった。
綾村 伊織は決して勉強が得意な少年ではないが、その代わりとでも言う様に運動全般はかなり出来る方である。たった今、野球部のエースからヒットをもぎとった様に、運動部の顧問の教師達から言わせれば「帰宅部にしておくのが勿体無い逸材」であった。「スポーツ以外に綾村の未来を切り開くものは無い」とまで断言した教師もいる。
背は一八〇を超え、特に何をしているというわけでもないのに体はほど良く筋肉質で引き締まっている。いわゆる細マッチョというやつだ。それに加えて顔立ちだってそうそう悪いわけではなく、今はクラスメイト達へ罵詈雑言を投げ返している不機嫌な顔も、笑顔になるとけっこう爽やかだった。さらにそこへ上乗せしてスポーツまでこなすというのだから、これで女の子からモテたりしてたら伊織が男子達からのやっかみをくらっていたのはまず間違いなかっただろう。
だが幸か不幸か、男子連中との関係は良好である。伊織が女の子にモテないのには色々と理由があるのだろうが、最大のポイントをひとつあげるとするならヘタレって一言につきるのかもしれない。もっとも、そのお陰で皆から親しまれてるという部分もあるわけで、人生悲喜こもごもと言ったところか。
「ええい、雑兵共め。そこでオレが華麗に得点する様を指を咥えてみているがよいわ」
クラスメイト達への罵倒が大して効果をなしていない事に悪態をつきつつ。
伊織はゆっくりとセカンドベースからリードをとりはじめる。
こちらを警戒しながら投球モーションに入るピッチャーを見つめながら、脳内ではサードへと軽やかなスライディングで滑り込む自分の姿がはっきりとイメージできていた。おそらく、それを現実で実行するのも難しい事ではないだろう。
口の端を笑みに歪める伊織。
だが、伊織の健脚がイメージ通りに発揮される事はなかった。
「──これが、お前の欲しがっていたものか?」
「!?」
唐突に背後からかけられる声。
『弾かれる様に』とは正に、その時の伊織の姿を言うのだろう。
後ろへと振り返ったそこには、黒いドレスの様な衣装をまとった長身の女性が真っ直ぐと前を見つめて立っていた。
「え? ちょ……え?」
どちら様?
突然過ぎる事態に、そんな言葉すら伊織の口からは出てこない。
まるで夜の闇をそのまま色にした様な、腰まで届く長い黒髪。白磁の様な肌はどこまでも美しく無機質で、彼を見つめる女の紅い双眸は燃える様に冷たく煌いている。
「……備えよ、フェアエンデルグ。残るエピタフは貴様だけだ」
目の前の少年を見つめているようで、まるで何も見ていないかのよう。
どこか超然とした女の眼差しを前にしながら、口を鯉の様にパクパクさせる伊織は未だに発すべき言葉を迷っている。
何をワケのわからんことを……変質者? 変質者なのか?
脳内で彼女の言葉を反芻する。
電波だ。立派な電波だった。キャッチしちゃいけない宇宙からの電波をしっかり受信しているのは間違いないように思われた。
「アンタ、いったい──って、ぶほぅ!?」
ようやく伊織が捻り出そうとした言葉は結局ひどくありきたりなもので。
しかし、それすらも腹部へ受けた重い衝撃に中断してしまう。
見ればボールを包み込んだセカンドのグラブが、自身の体操服にめり込んでいた。
審判役のクラスメイトが、無駄に大きなアクションと共にアウトの声を上げる。
どうやらすでにピッチャーは投げた後で、自分は盗塁も帰塁もせずに突っ立っていたところを刺されたらしい。
「なにやってんだよ、綾村ー!」
ベンチからブーブーと沸き起こるブーイング。
いやいやいや、それどころじゃねーだろ! まず変質者に対してリアクションしろよ、お前ら!
クラスメイト達の呑気な姿に呆気にとられながら女性のいた方へと振り向いて……伊織は唖然となった。
いつの間にか件の女性の姿は影も形もなくなっていたのである。
逃げた?
一瞬そう思いはしたが、このグラウンドから伊織の視界外へと逃げる程の時間的猶予はなかった筈だ。
それにクラスメイト達の反応。
これではまるで、最初から──そこには誰もいなかったかのようではないか。
「……あるぇ?」
夢にしてはリアルで、リアルにしては非現実的で。
なんとも腑に落ちない感覚に苛まれながらも突っ立っているわけにもいかず、伊織は首を傾げつつベンチへと戻る。
……後になって思えばこの事こそ、全ての異変の先触れであったのだが。
ベンチで級友達から制裁を受ける伊織には、そんな事はまだ知る由もなかったのである