再会する
『貴女のすべては可愛らしい』、黄薔薇の花言葉である。
我に返り部屋に戻っても混乱は続いたし、夜はなかなか寝付けなかった。
だから次の日王妃である母に呼び出され、その光景を見たとき、自分の目を疑った。
これは幻覚か。夢か。ともかく疲れているに違いない。
「テオ……様……?」
「昨日ぶりですね、エミー様」
爽やかな笑顔を浮かべた、昨日の青年が母の隣に立っている。
母はにこにこ彼を見ている。母にも見えているということは、私の幻覚ではないらしい。
どういう状況だ、なぜ彼が、私はどうして呼び出された。
言葉がまとまらなかった。
「あら、二人とももう愛称で呼び合う仲なのね」
愛称で呼ぶ仲も何も、愛称しか知らない仲だ。
母はなぜだか満足気である。姉に遺伝し、私には遺伝しなかった美貌の母の笑顔。目の保養になるが、まず状況を説明してほしい。
「一応紹介するわね。エミリー、こちらジャンメール侯爵家の嫡男、テオドール殿。貴女の婚約者」
「は?」
「そんな他人行儀なことはなさらず、どうぞ呼び捨てにしてください。親子になるのですから」
「あらあら! そうね、そうさせてもらうわ」
この二人は何の話をしているのだろう。もしかしたら私の理解できない言語で話しているのかもしれない。
「テオドール、この子が第二王女のエミリーよ。ちょっと手はかかると思うけれど、良い子だから」
手はかかる。ちくり、と胸に刺さる。
いや、感傷に浸っている場合ではない。
「お待ちください、一体――」
「ではあとは若い人たちだけで。このセリフ一回言ってみたかったのよねぇ」
うふふ、と軽やかな笑い声を響かせて、母は颯爽と部屋を出て行ってしまった。
おまけに侍女たちも退室させてしまった。待って、未婚の男女を部屋に二人きりって。
本気だ。母は本気だ。
「婚約とは、どういうことでしょうか……?」
地を這うような低い声で、青年――テオドールに尋ねる。
テオドールは苦笑して、「椅子にお掛けください」と勧める。それを首を振って拒絶し、恨めし気な目で睨む。しかし長く目を合わせられないので、すぐ視線は足元に落ちた。
彼との距離は、五歩分は空いている。扉に近いのは私だ。昨日の二の舞にはならない。
あのとき、真っ赤になって、動けなくなって。また頬にのぼってきそうになる熱を、唇を噛んでごまかした。
「エミー様と、私の婚約がまとまることになりました」
婚約がまとまった?
そんな話、初耳だ。
しかし不思議なことではない。きっと母が隠していたのだろう。引きこもるために私が抵抗することを予測していて、直前まで明かさなかったのかもしれない。
隠していたこと自体は今は置いておこう。それよりも。
「初めから私が何者かご存知だったのですか」
問いかけではなく、確認だ。たまたま話しかけた人物が婚約者だった、などという偶然がそう起きるわけがない。
その上、先程顔を合わせたときに彼に驚く素振りはなかった。婚約者である(とされている)私の顔を知っていたのだ。
ぎゅっとドレスを掴む。
謀られた。
私のことを知らない振りをして、あんなキザな真似をして。愚かな私は何も気づかずに翻弄されたのだ。
さぞ滑稽に映ったことだろう。悔しい。
「黙っていたことはお詫びします。ですが、知らぬふりをしなければお逃げになったでしょう?」
……逃げたかも、しれない。引きこもり王女と知られて、そのままその場にいるなんてきっと耐えられない。
ましてやそれが勝手に決められた婚約者――しかも国内貴族だと知ったら、すぐに両親に抗議しに行っただろう。
「ずっと、お会いしたかったのです。昨日貴女の姿をお見かけしたとき、我が目を疑いました。そしてこの機会を逃してはならないと思い」
「……よく引きこもり王女を認識できましたね。それほど王家との繋がりが欲しかったのですか」
嫌みの一つや二つ、言っても罰は当たるまい。
自分が気づけなかったことは棚に上げておくが、騙したのは向こうだ。
もやもやとした気持ちが心を占めていく。もう騙されるものか。
「違います」
はっきりと、テオドールは断言した。
「ならば、何のためだというのですか。他に何があると?」
私は吐き捨てるように言った。
他に、私に何の付加価値がある。今度はどんなそらを言う?
しばらく、彼は答えなかった。
やがてぽつりと、少し強張った顔で呟く。
「そのお話をする前に、お詫びしなければならないことがあります」
真っ直ぐ見つめられ、思わず身じろぐ。
私が戸惑う間に、彼は跪いた。
「六年前の夜会で、私はとんだ無礼を働いてしまいました」
六年前の、夜会。
夜会に出たのは一度きりだ。正直記憶も曖昧だが、一つだけ、あのとどめの言葉は覚えている。
目の前で、頭を下げている彼の髪色は、珍しいくすんだ金。ああ、そうか。
「『王家の落ちこぼれ』と言ったのは、貴方だったのですね」
テオドールの肩が跳ねる。
「申し訳ございませんでした」
何と言うべきか、と下げられている頭を見下ろし、考える。
もう六年経っている。
確かにあの言葉はとどめになった。傷ついた。しかし、あの言葉がなくても引きこもりになっただろうと思う。元々劣等感は私の中にわだかまっていたのだから。
正直に言って、今更謝られるようなことではない。
私自身、自分が落ちこぼれだと自覚しているのだ。王女に対しての暴言ではあるが、今になって私に謝罪されても、といった感じである。言われた直後ならまだしも。
確かに復讐の一つや二つしてやろうかとは思ったが、大層なものは考えていない。してもしなくても構わない、その程度だ。
テオドールは断罪のときを待つかのように、頭を下げ続けている。
「とりあえず、面を上げてください」
目を合わせることは苦手だが、頭を下げ続けられることの方が苦手だ。引きこもっているせいか、そんな機会は滅多にないし。
しかし彼は「いいえ」と首を振る。
「長い間、自らの非礼を謝罪することもなく生きてきたのです。面を上げるわけには参りません」
難儀な人だ。内心溜息をつく。
逡巡したが、彼との距離を詰める。そして、少しの躊躇の後、彼の肩にそっと手をかけた。
彼はびくりとして、私もすぐに手を外した。
「とにかく、面を上げてください。そして、もうそのことは気にしないでください。そこまで謝罪されることではありません。それよりも、そのことと婚約と何の関係が」
どんな繋がりがあるのか、さっぱりわからない。
テオドールは面を上げた。緊張したような面持ちで見つめられ、思わず私も身構える。
「ずっとお慕いしていました、と……言って、信じていただけるでしょうか」
「……は?」
慕う? 誰を?
疑問と混乱が表情に出ていたのか、苦笑して、テオドールは続けた。
「貴女は、目を離すことができなくなるような、そんな儚い雰囲気をお持ちです。惹きつけられたのは、友人も同じでした。貴女がバルコニーにいらしたとき、私は何とかして友人達の関心を逸らそうと焦りました。そして、長らく病床につかれていた貴女に……とんでもない暴言を」
彼は私をじっと見つめてくる。
その真剣な表情には、少し切なさが混じっている。瞳には熱がこもって、何かを訴えかけてくるようで。
ああ、まただ。視線に捕らわれる。
思考が追いつかず、見つめ返すことしかできない。
「婚約は、私の願いです。貴女が引きこもってしまわれ、私はもう二度と貴女の前に現れない方が良いのではないかと考えたこともあります。しかし、諦めることはできませんでした。この気持ちは今でも変わりません」
「……そんな、ことが……あるのですか」
まったく想像もつかなかったことを言われている。
その瞳は雄弁でも、いくら真剣に見えても、それを無条件に信じられるほど私は純粋培養ではない。
長年引きこもっていた私が、唐突に現れた別の世界にいきなり飛び込めるわけがない。
「昨日の薔薇には、もう一つ、花言葉として思いを託したのです」
「……黄色の、薔薇に?」
首を傾げた私に、彼は微笑を向けた。
「『貴女を恋する』」
身体が固まった。
テオドールは動けない私の手を取って――指先にキスをした。
そして、あのひどく甘やかな笑顔で、私を見上げる。
胸が締め付けられたような気がした。鼓動が大きく、早くなる。耳も頬も、それどころか全身が、急速に熱を帯びたのがわかった。
とっさに彼の手から自分の手を引き抜く。私の手にはまだ、テオドールの硬い手の感触が残っていた。
踵を返し、扉に向かって駆ける。礼儀作法など気にしている場合ではないのだ。
飛びつくようにしてノブを掴み、開けようとするが――開かない。
母だ。謀られた!
「王妃陛下にお気遣いいただいたようですね。これでじっくりとお話ができます、信じていただけるまで」
引きこもりの私が、こんなにも部屋から出たいと思う日がくるなんて。どんなに願っても、無情にも扉は開かない。
近づいてくる足音とともに、日常の崩れる音が聞こえた気がした。