接近する
「なぜですか」
「……国外の、誰も私を知らないところで、別人になりたいのです」
どうしても表舞台に出なければならないのなら、引きこもり王女エミリーとは全く違う人間として出たい。
昔、私は難病にかかっていた。
ずっとベッドの上で過ごした幼少期。私の意志は関係なしに引きこもりだった。
当時、身体は小さく細く、勉強だってかなり遅れていた。今は身体が小さい程度で、他は平均に追いついたものの。
そのときの劣等感がずっと抜けない。月日が経って、幾分か和らいだとは思う。
それでも、ずっと華々しい姉を見てきた。綺麗で、上品な派手さを持っていて、社交的で。私も、国民も、あの美しい王女を国の宝だと思っているのだ。
それに比べて、私は。
引きこもり王女の私が、今更表舞台に出たところでどうなるのだろう。
後ろ指をさされて終わるだけだ。
それならば、今までの私のことも、姉のことも知らない国外に行きたい。
表舞台に出なければならないなら、全くの別人として出たい。赤の他人を演じるように。
「お待ちください」
深い思考の海に沈んでいると、青年の声に意識が呼び戻される。
気づけば私の手は止まり、彼は私の隣にいた。近い。
「残される者のことをお考えですか」
残される者。
家族や侍女達は、多少は寂しがってくれるだろう、と思う。引きこもりの中でも繋がりのあった人たちだ。でも、それはどこに嫁いだとしても感じるものだろう。
国民は、どう思うだろう。引きこもり王女が国外に嫁ぐ。喜ばしいことなのではないだろうか。
ぎゅっと、手中の鋏を握る。胸の奥も締め付けられたような気がした。
何の問題もないことを、思い知ってしまった。
「私がどうなろうと、どこに行こうと、何の問題もありません」
「いいえ、私には一大事です。貴女にもう会えなくなったら……」
あまりにも痛切な声を出すものだから、驚いて彼を見上げてしまった。
眉間に皺を寄せ、自分の足元に悔しそうに視線を落としている。視線が合わなかったのでじっくり観察できた。
初対面の、はず。それなのに、どうしてこんな態度をとるのだろう。不可解だ。
俯いているせいで、くすんだ金髪が顔にかかっている。こんなことを男性に思うのもどうかと思うが、悩ましい表情、顔にかかる髪、美形が組み合わされるとなんとも色っぽい。
目が合わなければ怖いものなしなのでその様子を見ていると、ふと気づく。
このくすんだ金髪、珍しい色合いだが、以前見たことがあるような。
そうだ。
あれは初めて出た夜会のこと。
病気が治って、私が初めて夜会に出ることになったとき。
治癒したといってもまだ身体は小さく細く、体力もなかった。十分にあったのは劣等感だけだ。
それでも、初めての夜会に心躍らせていたのは事実だった。
しかし、実際は人に酔うやら気疲れやらで、散々だった。周囲の人々はきらきらしてその場を楽しんでいて、私はそんな周囲との違いに落ち込むばかりで。場違いなのだと思い知った。
すぐに部屋に戻りたい気持ちをなんとか抑えて逃げ込むようにバルコニーに出ると、そこに少年の集団がいた。何かをこそこそ話していて感じが悪く、私は立ち去ろうと思った。
そのとき、くすんだ金髪の少年が言い放ったのだ。
私を指差し、『王家の落ちこぼれ』と。
間違ってはいない。あの少年は正しい。
けれどその言葉は劣等感の塊の私に、とどめをさした。あのとき、私は部屋に逃げ帰ってしまった。
それから華やかな社交の場には気が進まなくなり、自分の意思で引きこもり始めたのだ。
あの金髪の少年、名前は何と言ったっけ。顔もよく覚えていない。国外に嫁ぐ前に復讐の一つや二つ……。
「エミー様?」
はっと我に返ると青年とばっちり目が合った。
「どうされました?」
「なんでもありませんっ」
慌てて薔薇摘みを再開する。どうにもぼーっとしやすくていけない。
早まる鼓動を落ち着かせる。
美形にまじまじと顔を見られるなんて。穴があったら入りたい。
なにやら悩ましげな顔をしていたはずなのに、青年は立ち直ったらしい。
「その薔薇はどうされるのですか?」
「……姉に贈るのです」
「そうだったのですか。てっきり、エミー様のお部屋に飾るために摘んでおられるのかと」
薔薇を私が自分の部屋に飾るなんて。果たしてそんな日がくるのだろうか。
「薔薇は……私には似合いません」
華やかなものは華やかな人間に。
王宮にいたときも、よく貴族の令息から姉に届けられたものだ。色とりどりの花束、特に薔薇が多かったように思う。薔薇には情熱的な花言葉が多いのだ。
……私が摘まなくても、姉はまた誰かに貰っているかもしれない。
氷を飲み込んだかのように、胸が重く、冷たくなる。
余計なことかもしれない。不肖の妹だが、姉の懐妊は嬉しくて、自分の手で何かをしたかった。
浮かれた思考のまま王宮の薔薇を摘んだが、姉はもっと立派なものを貰っているに違いない。
薔薇はもう、十分だろう。
摘んでしまった以上贈るしかない。きっと姉は、私が摘んだ薔薇でも喜んでくれる。多少見栄えが悪くても。
私が無言で片付け始めると、青年が遮るように言った。
「少し、鋏をお借りしてもよろしいですか?」
彼も摘むのだろうか。
疑問に思いつつ、しまいかけた鋏を彼に差し出す。
彼は満開の黄薔薇を一輪摘むと、すぐに鋏を返した。
「薔薇の花言葉をご存知ですか。色によっても異なるのだそうですよ」
「ええ、多少存じておりますけれど……」
伊達に引きこもっていない。有り余る時間、読破した本の中には花言葉の本もある。
青年は短めに切った枝からトゲを抜く。横から押すようにすると、トゲは手でも簡単に取れるのだ。
美形が薔薇を持っている姿は、様になる。これから会う人物にでも渡すのだろうか。
「薔薇は貴女に似合いますよ」
藪から棒に、何を言い出すのだろう。
どきりとしたのは、単に驚いたからだ。多分、きっと、恐らくは。
薄い唇に緩く弧を描いて、彼は薔薇を手の中でくるりと回す。トゲの抜き残しがないか確認しているのだろう。
「黄色の薔薇にはいくつか花言葉がありますが……そうですね」
彼がこちらを見る。視線が合う、なんてものではなく、視線に捕らわれる。
一歩、彼が近づいて、一歩、私が後退る。すぐに彼は大きく一歩詰めた。
さらに下がった私の足が、何かを踏んでぐしゃっと音をたてた。多分、摘んだ薔薇の下に敷いた紙だ。
――もう下がれない。どうしよう。
「失礼」
一言断って、彼の手が私の髪に伸びる。
息を呑んだ。
髪を梳かすように、そっと指先が触れる。壊れ物に触れるように、慎重な手つきで。
その指が、私の顔にかかる髪をすくって耳にかける。
指が微かに耳に触れ、思わず身を強張らせてぎゅっと目を瞑った。
しかしすぐに鼻先をかすめた薔薇の香りに、目を開く。
彼は、摘んだ黄薔薇を私の耳にかけた。
そして、まるで、誰もが姉に向けていたような、ひどく甘やかな笑顔で。
秘密の話をするように、囁いた。
「『貴女のすべては可愛らしい』」
呼吸すら忘れたかのように、私は動けなかった。
ただ、呆然と目を見開いて、頬が熱くなっていくのを感じて。
「それでは、また」
爽やかな笑みを残して去っていく青年を、私は見送ることしかできなかった。
とても間抜けな顔をしていたことだろう。