遭遇する
『貴女もそろそろ婚約を取りまとめないとね』
その一文に、息を呑む。
ぐしゃり、という小気味良い音がして、手の中の手紙が潰れた。
一年前に結婚し、懐妊した姉がよこした手紙である。
安定期に入るまで安静にしているよう言いつけられ、手持ち無沙汰になっているはずだ。元来の性格と相まって、余計な世話を焼こうとしているに違いない。
そう、私の婚約者候補をリストアップしたりとか。
全身の産毛が逆立った。想像できるからこそ恐ろしい。
そろそろ潮時だ。
――修道女に、なろう。
「エミリー様、庭いじりはやめてください。叱られるんです、色々な方から……」
「今日はお姉様に贈る薔薇を摘んでいるだけよ。叱られたらそうおっしゃい。美談じゃない」
薔薇の匂いが立ち込める庭園で、左側には先に摘み取った赤薔薇と白薔薇、目の前には黄薔薇の生垣、右側には弱々しく抗議する若い庭師。平和だ。
「今日だけの話じゃないんです。それに、怒られることはともかく王女殿下が庭いじりすることが問題なんですよぅ」
「引きこもりの王女が庭いじりなんて健康的で良いじゃない。そもそも、引きこもり王女の顔をどれだけの人が識別できるのやら」
淡々とそう言うと、庭師は「うっ」と言葉に詰まった。まだ年若の新人庭師をいじめ過ぎただろうか。
王国の第二王女、エミリーとは私のことである。引きこもり王女というあだ名の通り、十歳のころから六年間、ずっと王宮に引きこもっている。表舞台には全くと言っていいほど出ていない。
いまは作業用に簡素な格好をしているし、たまたま私を見かけた程度では何者かわからないだろう。
「とにかく、注意はしましたからねっ」
庭師はごまかすように作業道具を抱えて去った。
別に触れて欲しくない話題というわけでもない。
引きこもりは事実だし、王女だとばれないお蔭で好きな行動をとりやすい。しかし、ごちゃごちゃ言われるのも面倒なのでそのままにしておこう。
黄薔薇の生垣から目ぼしいものを選び、ぱちん、と鋏で摘み取る。無心でその作業を繰り返し、「あ」と気づく。
庭師に訊けば良かった。どうやって修道院に入るのか。
長年の引きこもりにより私は世間に疎い。修道女になろう、と思ったところでなり方がわからなかった。
修道女になれば私は婚約しなくて済むのだ。修道女は生涯独身を貫かなければならないから。
そんな考えを持つほど、私は婚約したくない。引きこもり続けたい。
私が引きこもっているのは、ひとえに表舞台に出たくないからである。
王女という身分でありながら、今まで引きこもりでも困らなかった。私がいる必要はなかったのだ。
私には兄が二人、姉が一人いる。政治の場には兄たちが、華やかな社交の場には姉が出ていた。妹の贔屓目なしに姉は美しく、気高く、立派に咲き誇る王家の華だった。
つまり、私の出る幕はなかったのだ。お蔭で安心して引きこもれた。仮に引きこもりでなかったとしても、私の影は薄かっただろう。
しかしそれも、既に過去の話である。第一王女の姉が嫁ぎ、そして懐妊。では次は、と関心が私に移ってきてしまっている。
これはまずい。非常にまずい。引きこもりでも、一応第二王女である。
嫁ぎ先はそれなりの地位にある貴族で、私もそれなりの振舞いをしなければならない。今までのように引きこもっていられるはずがない。
だからこその修道女。引きこもり続けたい私の逃げ道。
しかしながら、きっと無理だろうとは思っている。引きこもりでも、腐っても、一応第二王女である。
神にこの身を捧げます、と言って修道院に飛び込んだところでそれが許される立場ではないだろう。おまけに信心深いわけでもないのでボロが出そうだし。
となると、嫁ぐことは已むを得ない、かもしれない。
「それならばせめて、国外かしら」
「何がでしょう?」
「うわあぁっ」
突然の背後からの声に情けない声を上げた。反射的に振り向く。
そこにいたのは、くすんだ金髪に深緑の瞳を持ち、爽やかな微笑を浮かべた青年だった。身に纏うのは制服ではなく、上質な衣服である。恐らくは貴族だろう。
なぜ私に話しかけたのだろう。まさか正体がばれている? 驚いた名残か、走った緊張のせいか、鼓動が早い。
すぐ薔薇を摘んで戻るつもりだったので、いまの私は特に変装しているわけでもないのだ。
そして、帽子もスカーフもなしに見知らぬ男性の前に立っていることが、何だか心細く感じた。
「驚かせてしまったようで、失礼致しました。……よろしければ、お名前を教えていただけませんか?」
耳触りの良い落ち着いた低い声で、青年は尋ねてきた。
名前? ということは、ばれていないのだろうか。
「エミーです」
しばらく考えた後にそう答えた。エミーは私の愛称である。本名を教える義理はない。
「エミー様。私のことは、テオとお呼びください」
向こうも愛称を名乗ることにしたらしい。お呼びください、と言われても呼ぶつもりはないのだが。そして引きこもりの私が彼と会うことももうないだろう。一応、今度から人の気配に気をつけないと。
「何か御用ですか」
私よりも大分高い位置にある顔を見上げ、その涼しげな目と合った視線をすぐ薔薇に落とした。
引きこもりの弊害というべきか、人と目を合わせることが苦手なのだ。その上、人見知りするので初対面の人はとても苦手だ。
しかもこの青年かなりの美形である。姉と同じようなきらきらした人間だ。どうにも劣等感が呼び起こされてくる。
だからこの状況を打破したくて仕方ない。早くどこかに行ってくれないだろうか、この人。
「これからある御仁に会う予定があるのですが、早く着きすぎましてね。散歩をしていたら、薔薇を摘んでおられる貴女が気になって」
「……そうですか」
気になってとは、どういう意味で。
この青年に立ち去る気配はない。それならば私が立ち去ろうと思ったが、先に摘んだ赤薔薇、白薔薇に比べて、彼が来る前まで摘んでいた黄薔薇の数が少ない。……もう少し摘まないと。
青年は空気、青年は空気と自己暗示して、薔薇を摘む作業に戻る。両の手の平が汗でじっとりと湿っていた。
「ところで、先程呟いておられた国外とは何のことでしょうか」
一瞬、手が止まってしまった。
無視したいのが本音だが、残念なことにそこまでの度胸がない。青年に背を向け、手を動かしながら、言葉を選ぶ。
「嫁ぐのならば、国外が良いのです」
ぱちん、と鋏の音が響く。トゲは後で取るので、そのまま摘んだ薔薇の山に放る。
反応がすぐに返ってこなかったので、少し怪訝に思って横目で様子を伺う。
なぜか、彼は目を見開いて衝撃を受けたような顔をしていた。
変なこと、言っただろうか。