5話 最後の一日⑤
「カヲル、ちょっと来い」
侘び寂びの低音が、張り上げたわけでもないのに、道場の隅々までずしりと響き、はじかれたように、稽古中の門弟たちの動きが止まった。
反射的に見所を振り向いたカヲルは、いつのまに現れたのか、神出鬼没の祖父の――道場では師匠というべきか、姿をみとめる。
(――出たな、じじい……)
うわさをすれば陰というが、祖父の話なんかしなきゃよかったと後悔しても遅い。
そこに居るだけで、空気の質まで変わるほど、圧倒的な存在感だった。
身長は一八〇を優に超え、痩身ながら完成された体の厚みは、十代の若造の及ぶところではない。後頭部でひっつめた黒髪、細く蓄えた口髭、なにより右目の古傷を隠す眼帯がひときわ目立つ異相である。
年齢不詳――外見からは、とうていカヲルのような孫がいるとは思われない。
中身はもとより、若さ云々以前に人間の範疇に入らない。虎や獅子でもまだかわいらしすぎる。カヲルがまだしも近いと思うのは肉食恐竜だ。
「ぐずぐずするな、カヲル、耳がないのか」
目は千里眼、耳は地獄耳、口を開けば氷点下――我が祖父ながら、どこの世界の魔王だと思わないではいられない。
「呼んでないやつは稽古にもどれ。なにをぽかんと見ているか、未熟者ども」
心をえぐる未熟者発言に一同ひきつりつつ稽古にもどるなか、ちらりと目が合った宋師範はいつもの読みづらい表情で、軽くうなずき、いってこいときた。
気分はドナドナだ。
「カヲル」
「うん、大丈夫だ。ちょっと行ってくる」
心配そうな哲に軽く手を振り、仰せのとおり、祖父の待つ見所に向かう。
こっそり、ため息がひとつ。
もうちょっと年寄りらしく、背が縮むとか、腰がまがるとか、白髪になるとか、よぼよぼしてくれればかわいげもあるだろうに。かわいげなどとは一生無縁のじじいである。あと二十年や三十年、齢を重ねたとしても、祖父の天下はゆらぎそうもない。
(――っていうか、殺しても死にそうにないじじいより、かよわい現代っ子のおれのほうが先にくたばりそうな気がするんだけど……)
「お呼びでしょうか、師匠」
精々、姿勢を正して、神妙な声をだす。
触らぬじじいに祟りなし、というのがカヲルの長くもない人生経験から得た教訓である。祖父を相手にするときは、常に中庸をこころがけ、平常心が大切だ。
だがしかし、これがなかなか、ままならなかったりする。
「カヲルよ、ずいぶんとつまらん顔だな。昨夜は花乃と仲良くしたのではないのか?」
いきなり反則な、先制パンチをもらう。
カヲルの顔色が変わらなかったとしたら根性だ。
「……おおきなお世話ですよ、師匠」
「ふん、煮え切らんことだ。花乃もかわいそうに」
「もっとおおきなお世話ですよ、師匠」
「心音が乱れているぞ、カヲル」
カヲルとしては、うっせえじじいと怒鳴りたいところだが、それではこの男の思う壺である。
「師匠、用件はなんでしょうか」
「雑音がひどいな」
なんの雑音を聞いているのやら、祖父はうるさげに耳をほぜりながら、よく光る隻眼で見透かすように、にたりと笑う。
「師匠、師匠と心にもない呼び方をせず、素直にじじいと呼ぶがいい」
カヲルは、あっさり取りつくろう気をなくして、ぞんざいに言う。
「じじい、なんの用だよ?」
「ふむ、いつもの調子が出てきたではないか、カヲルよ。しおらしいのはおまえには似合わん」
「じじい、要件がないなら、もどっていいか?」
「まあ、そう急ぐな。武藤との稽古も、最後のあたりを見たが、ずいぶん危なっかしかったではないか」
「……」
「悪あがきするおまえは、なかなかおもしろかったがな」
祖父に娯楽を提供してたかと思うと、真剣に悩んだり迷ったりするのが馬鹿らしい。
ひとの葛藤をあっさり悪あがき呼ばわり。
「まあ、あがけるうちはあがくがよかろう。好きにしろ」
見透かすような一つ目がむかつく――本当にやなじじいだ。
カヲルにすればハードな神経戦で、平常心の呪文を必死にとなえていたのだが。
はたから見れば淡々とした、禅問答のようなやりとりだ。
そして、ようやく、祖父が本題に入った。
「カヲル、――新しく門弟になった竜崎と志方だ」
もちろん、最初から気づいてはいた。
祖父のかたわらで、しゃっちょこばってるのは、くだんの新顔ふたりだった。
短髪を染めてるのが竜崎、長髪のほうが志方と名乗る。
竜崎のほうが方丈の隠居の本命だろう。固まった手足は空手か拳法か。粗削りながら実戦慣れしているようだ。ストリートファイトかなにかで場数だけはこなしてるタイプかもしれない。
志方のほうは剣術屋らしさが立姿勢に出てる。小さいころからきちんとした師について、まっとうな指導を受けてきたように見える。お堅そうなお守り役というところか。
ふたりともそれなりに心得もあり、自分に自信があるのだろう。それぞれが遠慮のない品定めの目つきをカヲルによこす。
(ずいぶんまた、あからさまでわかりやすい……竜崎より控えめなぶん、志方のほうが陰険かもな……)
「煮るなり焼くなり好きにしろと善の言質はとった。ここでつとまるかどうかはわからんが、機会はやろう」
方丈の御大を、善と呼び捨てるのはこの男くらいのものだろう。
時源流叶道場の主は、傲岸不遜に言い放つ。
「この者たちに初心の型を教えてやれ」
「……おれが?」
「そうだ」
想定内のことではあるが、祖父の台詞に、もうひとつため息が出そうになる。
教えるというのを、文字通りに取ってはならない。
祖父の流儀で教えるといえば、ほぼ実力行使を意味する。カヲルにしても、手取り足取りなどという親切な教え方はされた覚えがない。流儀の技は盗むもの、目で覚えるか、体で覚えるかどちらかしかない。
「師範は?」
「初歩の初歩だ。宋が教えるまでもなかろう。カヲル、おまえなら手加減し損なって殺すこともあるまい」
(はははは。
いきなり波風をたてやがるか、じじい。
絶対、わざとだろ!)
おかげで、カヲルをにらみつけるふたりの目つきの険悪さが倍増しだ。
口が悪いのはカヲルではなく祖父なのだ。なぜにカヲルがにらまれるのか、不条理だ。文句があるなら目の前の隻眼の暴君に直接交渉してくれと言いたい。
「おれより、哲のほうが適任だと思うけど」
やっかいごとを押しつけるようだが、哲は稽古が好きだから、頼めば嫌とは言わないだろう。
「ほう、おまえはだめか?」
「……めんどい」
目の前のお兄さんがたは、まちがっても素直に教わるタイプではなさそうだった。
カヲルも道場に通ってくる近所の子供に教えることはよくあるし、教えることそのものは嫌ではない、が……この連中は教える以前の問題だ。
教える努力が無駄にならないように、素直にさせる手順を思うと面倒くさすぎて気が重い。
「しょうがないやつだ。武藤がよいというなら好きにしろ」
「えっ、いいの?」
本当に、哲に代わってもらってもいいのか?
だめもとでいってみただけなのに、やけにあっさり意見が通って、カヲルのほうが驚いた。
たまたま祖父の機嫌がよくてラッキーだったのかそれとも――。
あまりにも物事が思い通りに運ぶと、あとが怖いんじゃないかと、逆に疑いたくなる。
「どうした、カヲル、やっぱりおまえがやるか」
「……やらない」
一瞬いろいろな考えが頭のなかを駆け巡ったが、御役御免ならそれに越したことはない。
哲のほうが――と言ったのも、言い逃れのための嘘ではない。
哲は稽古好きに加えて、カヲルとちがい武力行使に迷いがない。真面目で手抜きをしない哲の教化力はかなりのもので、負けず嫌いな男ほどさぼりづらい。そしてなにより、カヲルと違って哲は外見に恵まれている。鼻っ柱の強い暴れん坊を相手にするには、見かけでなめられないことがかなり大事だ。
祖父の話はそれで終わりだったので、竜崎、志方のふたりをつれて、哲のところにもどる。
ふたりとも一言も口もきかずだったが、カヲルは気にしなかった。
じじいの指示を、哲にざっくり伝えた。
「それで、じじいが初心の型をこっちのふたりに教えとけっていってるけど、おまえやれるだろ」
「……わかった」
二つ返事で、さくっと決まった。
冷静さも判断力もある哲が、なぜカヲルの前でだけ暴走しがちなのが不思議だった。
「カヲルはどうする」
「おれは一抜け」
不承不承おれについてきたふたりが、唖然とした視線がよこしたが、気にしない。
最後までつきあう義理もない。
(ずっと我慢してたけど、こんなに空気の悪いところにいられるものかよ)
あとは好きにするがいい。
「哲、昼前に出るから遅れるなよ。じゃあ、またあとで」
甘かった。
いろんな意味で甘かったと、カヲルはこのときの判断をあとから悔やんだ。
悪い予感だけは当たるし、面倒ごとは油断してるときに限ってやってくる。
ちょっと、肩の荷をおろすのが早すぎた。
(哲、おれが悪かった。おまえひとりに、こんなの押しつけて、ほんとごめんな)
昼前、稽古を終えた哲とつれだった、出かけようとしたときだった。
竜崎、志方の二人組に、正門の脇で呼び止められた。
もっと、端的に言うと、出かけるところを、待ち伏せされた恰好だ。
哲がすこしも驚いてないことから、このふたりの行動をなんとなく予測してたんだろうとわかる。
厳しい顔をした哲が、割りこむように、カヲルの前に出る。
その肩に手をかけて止める。
「哲、朝、言ったろう。おれを庇う必要なし」
さすがに今朝の今で、忘れてはいなかったんだろう。
哲は、しぶしぶではあるが、いつでもカヲルと連携できる位置に引き退がった。
「話があるなら聞く、けど手短にしてくれ」
「若先生に一手指南してほしいんです。お願いできないですかね」
「断る。わるいけど、約束があって、外に出るところだから」
「逃げるんですか」
「逃げるって……」
逃げられるものなら、逃げたい。
バトルマニアな誰かなら、よろこんで相手しそうだが。
カヲルとしては、いちいち相手をするのは、めんどうきわまりない。
「あんたら、しばらくじじいのところに居るんだろ。遊んでほしけりゃ、そのうちつきあうから、いまは引いてくれ」
「はっ。ふざけんなよ、ガキ。こっちはいきなり、ジイサンの命令で、こんなド田舎によこされて、いい迷惑してんだよ」
あっさり地が出た。キレるのが早すぎないか。
敬語つかわれても鳥肌がたつばかりだから、かまわないが。
「そりゃ、気の毒だったな。お互い年寄りのわがままに困らされるな。同情するよ」
つね日ごろから、祖父の気まぐれに振り回されている身として、似たような境遇らしい竜崎たちに、同情くらいはしてやってもいい。
「けど、あんたらの事情は、おれにも哲にも関係ないんで、そこ、どいてもらえるかな?」
「はっ、逃がすわけにはいかないな」
「カヲルに触るな。手を離せ」
カヲルのジャケットの胸もとをつかんでる竜崎の手首を、哲が締め上げる。
竜崎は苦痛の呻きをもらしたが、こいつも意地なのだろう、カヲルを離すつもりはなさそうだ。ギラギラした目で哲とにらみ合う。
表情に乏しい哲だが、そうとう不機嫌なのがおれの目にはあきらかで、このまま相手が引かなければ、本気で折るつもりだとわかる。
「哲、よせ」
カヲルの意思を認するように視線をよこし、やがて、哲は竜崎の手首を離した。
哲のせいで、握力が弱まった竜崎の手は、振りほどくまでもなく簡単にはずれる。
「くそがっ。この……」
頭に血が上ったのだろう竜崎の声は、うわずって聞こえた。
「カイト、待て。ここではまずい」
志方のほうは、まだ冷静らしく、竜崎の名を呼んで止めた。
先に手を出すのはまずいというとっさの判断は悪くない。
「若先生、悪いけど、少しつきあってもらえないかな。君から一本取ったら、おれたちは帰っていいことになってる」
「どういうこと?」
志方にではなく、哲にたずねた。
「……あのあと師匠が……おれかカヲルに勝てたら中伝を許すって……」
「嘘だろ」
こいつら、中伝目当てだったのか。
「なに考えてんだ、クソじじい」
「師匠に対してクソはよくない」
哲のつっこみは、微妙にずれている。
祖父はカヲルに“勝てたら”と言ったのに、志方は“一本取ったら”と言った。そのあたりの認識の違いに、ふたりは気づいてないようだった。実際のやり取りをすぐそばで聞いていただろう哲は、わざわざ気づかせてやろうという気もなさそうだ。
興味のないことはまったく興味ない姿勢はあるいみ立派だ。
(じじいめ、こいつら焚きつけてどうするつもりだよ。おれに対するイジメか?)
「はあ、もう勘弁して。なんでまた、七面倒くさいこと、おれにふってよこすかな……」
哲かカヲルかの二択なら、客観的に見てカヲルのほうが組しやすく見えるのはしかたない。そこで素直にカヲルを選ぶあたりに、こいつらの甘えた根性が透けて見えた。
ましてや、祖父はお見通しだろう。
「あんたらさ、うちのじじいに遊ばれてるんだよ。中伝許しがそんな簡単に出るわけないだろ。時源流叶道場、なめすぎだよ。初心から中伝までには、最低でも三年くらいは見ておくほうがいいぞ」
横着してたら、三年が十年かもしれないがな、とつけ加える。
「相手して欲しいなら、明日まで待てよ。修練庭を錬武堂まで上がって同じこと言えるなら、あんたらの納得がいくまで相手するからさ。いま、おれたち、ホントに時間ないから、待ち合わせに遅れるとうるさいのがいるし……」
待ち合わせの時間はもうすぐだし、遅れたら比奈の機嫌は確実に悪くなる。
カヲルはちょっと焦ってたかもしれない。
理を説けば、あたりまえに理解してもらえると思ったこと。ミステイク1。
そんな彼を嘲笑うように、竜崎が悪意を投下した。
「なあ、若センセー、おまえさ、あの事故の生き残りなんだって?」