3話 最後の一日③
「花乃姉、おかわりっ」
カヲルは台所の板の間の隅でおにぎりをぱくつきながら、白い割烹着姿の花乃子に空っぽになった汁椀をさし出した。
修練を終えてもどったカヲルと哲はそのまま、道場ではなく、母屋の台所に直行した。
土間につながる広い台所には、暖かな湯気がたち、食欲をそそる匂いがして、手伝いの女衆が数人、煮炊きに配膳にと忙しく立ち働いている。
「あなた三杯目よ、カヲル。お腹をこわさないでね」
普通の汁椀の倍はありそうな大ぶりの汁椀である。
「この油揚げとカブと三つ葉の味噌汁が美味すぎる。もう一杯だけ」
「はいはい。武藤、あなたは、おかわりは?」
カヲルの斜向かいで黙々と食べている哲は、日本家屋のスケールに合わない長い手足を折りたたみ、ずいぶんと窮屈そうに座っている。加えて、猫舌のせいで、味噌汁が冷めるのを待つ時間だけ、カヲルにおくれを取っていた。
花乃子にしてみれば、わずかな親切心だったのだが。
花乃子に声をかけたとたん、哲はぎくりと動きを止めた。
目は泳ぎ、額には汗の玉が浮かぶ、顔色もこころなし青ざめている。蛇ににらまれたカエルのように、完全にフリーズしてしまっていた。
花乃子に見とれてぽかんとアホ面をさらす男はめずらしくもないが、哲だけは恐怖にも似た過剰な反応を示す。
カヲルはまたかとため息をつき、再起動をさせるために、机の下の足を軽く蹴とばした。
「しっかりしろ。哲、おまえも、おかわりいるだろ?」
「……っ……ごほっ……ごほ……っ」
再起動したはいいが、今度は、盛大にむせている。
「ったく、大丈夫かよ」
むせている哲の背中をたたいてやりながら、カヲルは首をかしげる。
(なんだって、花乃姉に金縛りやがるかな)
「う、」
「いいから、しゃべんな。花乃姉、哲のぶんもたのむな」
ふたり分の椀を下げていく花乃子に、哲はもごもごと詫びだか礼だかをとなえている。
よほど花乃子が苦手らしい。
花乃子が近くにいるだけで妙に緊張しているし、声を掛けられただけで挙動不審だ。
もともとの人見知りする性質も確かにあるが、花乃子にだけここまで極端なのには、どういうわけだろう。
「平気か?」
「うん、ごめん」
「いいけど」
「怒ってる……かな」
花乃子のことを言っているのか。哲にも変な態度をとっている自覚はあるらしい。
「いや……、どうかな……それはないと思うけど」
カヲルにとってはやさしいばかりの花乃子だが、欠点もある。
門弟たちの間で、当然のことながら、花乃子の人気は高い。ただあの師匠の娘であることと、桁外れの美貌と美術品めいた和服姿のせいで、おそれおおくも高嶺の花あつかいだ。
それでも、たまに告白する馬鹿も出る。何度もアプローチしたはずなのにしらじらとした表情で『どちらさまでしたか……?』とやられて、撃沈した勇気ある馬鹿をカヲルは何人も知っている。実際のシーンを目の前で見たときには、同じ男として、さすがに同情を禁じ得なかった。次の日にはそんなことがあった事実さえ忘れられていたから、なおいっそう哀れである。
そういう人間の見分けができない花乃子が、哲のことは身内と認識していて、ああして自分から気をつかったり声をかけたりするのだから、気に入ってる証拠ではないだろうか。
「花乃姉は、哲のこと覚えてるし、ちゃんと見てる、ときどきほめてるぞ」
高校決めたときも、武藤が一緒なら安心ねと言っていたのを覚えている。
「そのうち、慣れるだろ」
「うん、たぶん」
仲が悪いというのともまたちがう。
(しいて言えば相性が悪いのか……)
カヲルもなにか理由があるなら知りたいと思い、それとなく探りを入れたこともあるが、哲は自分でもよくわからないようだった。
問題がどこにあるかもわからない状態で、解決はむずかしい。
花乃子も、哲も、カヲルにとっては家族のようなものだから、もうすこし馴染んでくれるといいなとは思うが、力ずくでどうにかなることと、ならないことがある。
虫のいい考えかもしれないが、時間が解決してくれることを期待して、ときどきフォローをいれながら、見守るしかできないカヲルだった。
カヲルの祖父の家は、道場をやっているせいか、千客万来、人の出入りが絶えたことがない。
長期短期滞在客用の別棟まであり、とにかく部屋数だけは多く、男衆女衆の人手も足りるから、客が何人来ようと慌てたり困ったりすることはない。
住みこみの門弟や滞在中の客人たちもあわせて、祖父以外全員が、たいてい台所の隣の座敷ふたつの襖をとりはらい、いくつか座卓を並べて食事する。
ガタイのでかい男ばかり少なくとも十人は、多いときは三十人以上が、そろって食事する光景はなかなか壮観だ。
カヲルと哲には学校があるから、朝だけ、台所の板の間の古いダイニングテーブルで食べる習慣だった。
今は春休みで学校がないので、ゆっくり落ち着いて朝食がとれるが、学校があるときはそうはいかない。
修練庭からもどるとすぐ道場で型をさらい、大急ぎで汗を流して制服に着がえて、朝食は食うや食わずで飛び出す。それでも遅刻ぎりぎりで教室に駆けこむのが、ふたりの日課だった。
現代では、ICNET(インテリジェント・コア・ネットワーク)の発達で、義務教育でも家庭学習の単位が認められるようになった。入学してから一度も顔を見たことない同級生もめずらしくない。
不登校も選択肢のひとつなのに、なぜそこまでして学校に行くのかといえば、カヲルの場合、家にいれば修練という名目のもと、師匠という名の鬼に半殺しにされる毎日だからだ。
では師匠であり保護者でもある祖父の意見はというと、学校は行っても行かなくても、どちらでもいいらしい。
『行くからにはハンパなことはするな。道場と両立させろ』とか『毎日通いながら、まともな成績がとれないようなら、勉学の才はない。上の学校に行く必要などなかろう』とか、祖父が口にしたからには二言はない。
カヲルは高校にも大学にも行きたかったから、良い成績がとれるように努力もしたし、朝稽古に泣かされながら必死で学校にも通った。
カヲルひとりなら挫けたかもしれないが、哲が一緒にだったおかげで、中学三年はなんとかやり通した。なまけ者を自認するカヲルとはいえ、くそがつくほど真面目で要領の悪い兄弟分を、ここで見捨てて楽になるわけにはいかないという、使命感の勝利だ。
しかし、朝稽古のあと朝食なしというのは、食べ盛りの中学男子にとってあまりにつらすぎる。なんでもいいから腹に入れないと、昼までもたずに動けなくなる。そのうえ中学の給食は、絶対的に量が足りない。
毎朝、食膳を運んでもらう時間さえ惜しくて、台所で行儀悪く立ち食いしていたふたりを、花乃子が見かねて、ふたりの分だけ台所に用意してくれるようになった。主食がパンやおにぎりなのは、時間がないとき持ち運びが可能で、歩きながらでも食べられる工夫だ。
高校がはじまれば、ふたたび朝は戦争に、台所は最前線になるだろう。
ほっこり湯気をたてる味噌汁のおかわりがとどく。
鰹節の出汁がきいたいい匂いがして、この瞬間、日本人に生まれたよろこびをかみしめる。
「ふ、あちっ」
ずずっとすすったひょうしに、熱い汁で上顎が焦げた。
「熱いから気をつけてって言おうとしたのに。カヲル、武藤を見習って、ゆっくりおあがりなさいな」
そう言われても、猫舌の哲とちがって、カヲルは熱々が好きなのだ。
花乃子が氷水のグラスをさしだす。
「大丈夫?」
「へーき。ありがと、花乃姉」
「見せてごらんなさい」
「いっ」
おもわず言葉を飲みこんだ。
じーっと視線をそらさない花乃子に、カヲルの心臓が、ばくばく暴れはじめる。
「カヲル?」
「いや、そんな大げさな……」
たいした痛みではないし、口の中をちょっと火傷したくらいすぐに治る。
(……そりゃ、ちょっとは、しみるけどっ)
とりあえず話題をそらすことを試みる。
「そ、そうだ、食べるのに一生懸命で、花乃姉に言うの忘れてたけど。このおにぎり、めちゃめちゃ美味い。今日はカリカリ梅の気分だけど、こっちのジャコのも甲乙つけがたい。もちろん他のも美味いよ。なあ、哲」
――助けろ!
思念をこめたカヲルのアイサインを受け取った哲は、こくこくと人形のようにうなずいた。
――――もう一声!!
「う、美味いです」
「あら?」
めずらしい。哲の一言に、花乃子はすこし目を見張り、ほのかに表情がやわらげた。
誠意は通じるらしい。
無理やり言わされたようだが、おにぎりが美味いのは事実なので、世事ではない。
カヲルのリクエストしたカリカリ梅のほか、ジャコ、塩昆布、カブの菜飯……どの具も飽きがこない味で、手塩の加減といい、手で持つときはしっかり崩れないのに口の中ではほろりとほどける握りぐあいといい絶品だった。
ちなみに哲はシンプルな塩昆布のおにぎりが一番好きらしく、そっちの列から攻略中だ。
「そう、口に合ったならよかったわ。たくさん作ったつもりだけど、足りるかしら?」
花乃子はちらとテーブルの大皿に目をやり、おにぎりを追加するべきか思案する風だ。
修練庭の往復で腹ペコになったふたりは、一抱えもありそうな大皿にたっぷり盛られていたおにぎりの山を全部たいらげる勢いだった。
「これでいいよ。あんまり食べ過ぎても動けなくなるから、もうちょっと食べたいなってくらいでやめとく」
「……そう……わかったわ。この量でもまだ足りないくらいなのね」
食べ盛りの食欲はあきれるばかりだ。
次からはもう一升余分に炊いておくほうがいい、ご飯ばかりでは栄養がかたよるから、もう一、二品おかずを増やすべきだろうか、急ぐときに食べやすい料理は何があるだろう――考えごとを無意識につぶやきながら、花乃子は他の女衆のほうにもどって行く。
爛漫の桜模様の帯を結んだ後ろ姿に、カヲルは大事なことを伝え忘れてたのを思い出した。
「あ、花乃姉、おれたち昼前に出かけるから、お昼はいらない。晩飯だけおねがい」
花乃子の朝食を完食したカヲルたちは、連れだって道場に向かう。
道場は母屋から見ると正門の左手にあり、勝手口から表の庭をつっきるのが近道である。
途中、庭木の手入れをしている男衆が、朝の挨拶をよこす。
「若たちは、これから道場ですかい?」
「うん。安さんも早いね。こんな時間から仕事? 」
この近在には、カヲルの祖父を『千弦台の御前さま』とか『御館さま』と呼んで、崇め奉る人々が大勢いて、男衆や女衆として屋敷に出入りしている。
炊事や洗濯、掃除といった花乃子の手伝いは通いの女衆が、庭の手入れや山仕事、ちょっとした普請などは、本職らしき男衆が来てやってくれる。見た目はごく普通のおっちゃんおばちゃんなのだが、なかなかにプロフェッショナルな、あなどりがたい人々だった。
かくゆう安さんにしても、いまでは稼業を息子にゆずったが、腕のある植木職の棟梁であるらしい。
「なあに、齢をとって朝の間のほうが楽になりました。夜が明ける前から御山で修行をしとられる若や門弟がたにくらべたら、お恥ずかしいかぎりですがね」
話しながらも休むことのない仕事の手は確かだ。
「それはそうと、若、裏の大枝垂れの様子はどうですか」
「もうそろそろかな。ちらちら咲いてる蕾もあったよ」
「不思議なものですなあ。十年くらい前には、やがて切らねばならんかと思うほど樹勢が落ちて弱ってたんですが、若が千弦台においでになってからは見ちがえるように元気になって、毎年よう咲きます」
カヲルにとっては、毎年咲いてる状態がデフォルトなので、そんなに弱っていたことのほうが信じ難い。彼がここに来てから――と言われても、特別、何かした心当たりもない。
「裏の大枝垂れは千弦台の屋敷神の依代ですから、なんにしてもようござんした」
そいういうものかと、うなずいた。
カヲルの祖父が道場主をしている古武術時源流叶道場は、その道ではひそかに有名であるらしい。
住みこみの門弟と日々修練庭に顔を見せる高弟諸氏は合わせてもせいぜい十数人、道場に通う地元の若者や子供を入れて三十人余り、経営が成り立ってるのが不思議なくらい小さな道場だが。
どういうわけか、祖父の元弟子やら、弟子入り志願やらが、入れかわり立ちかわりやってくる。
色とりどりの外見といい、かたことの日本語といい(ときどき妙に達者な日本語を話すやつもいるけど)どう見ても日本人じゃない男たちが半数を超える。
そういう祖父の弟子たちは道場に居つくわけではなく、ひょっこり現れたかと思うと、またいつのまにか消えている。何年かしてまた現れることもあれば、それっきりになることもめずらしくはない。
なかにはとうてい堅気に見えない人物がまぎれていて、いずれどこかの軍関係者か、裏世界の人間か、どんなにまともそうにしていても、何人も何十人も殺ってるような人間には、拭いきれない血生臭さがうっすらとまつわりついて、隠しきれるものではない。
かといって、そういう物騒な男たちがまるっきり悪いやつかというと、一概にそうともいいきれなかった。
子供と機嫌よく遊んでくれたり、めずらしい話やおもしろい話を聞かせてくれたり、子供の好むちょっとした土産をよこしたり、意外にやさしいところもあったりする。見た目は野獣そのものでも、中身は博士号つきのインテリだったり、子供向けのアニメを見て泣きだすほど涙もろかったり、妙な関西弁のノリツッコミでひょうげてたり、娘の写真を無理に見せておいて嫁にはやらんと吠えたり――ひょっとしてこのおっさんたちは本当はいいやつなんじゃないかと――もちろんそんなわけはない、人殺しはどこまでいっても人殺しであることにかわりない、それでも『勘違いしててごめん』とカヲルが謝りたくなるほど、彼らはあたりまえに人間らしい人間だったのだ。
逆を言えば、カヲルにとってどんなに“いいひと”だとしても、別のだれかにとっては“悪いひと”で、死ぬほど恨みを買っていることもある。
そういう裏側を知らないままでいられたらいいのだが、なるべく見ないようにしていても、なぜか見えてしまうめぐりあわせもある。
いつだったかNVで、砂漠の国で凶悪なテロリストが射殺されたと報道されたことがあった。名前は違っていたけれど、3D写真には見覚えがあった。祖父に会いに来たことがある留学生だった。最新のネットワーク技術に詳しく、パーシャルダイブの仕組みや端末を扱うちょっとしたコツを教えてくれたりした。
『この世の中に悪の組織もなければ正義の味方もいない、ただの人間がいるだけだ』と祖父は皮肉っぽく笑う。たしかに善悪を一方的に判断できるほど、この世界は単純じゃないらしい。
『この世も、この世の人間も、多面的で複雑だとわかったか。猿並みだったおまえも、すこしはましに育ってきたようだ』
祖父にとって理屈の通じない子供は猿に似た動物で、これでも誉めているつもりらしいから性質が悪い。――祖父にとって人間そのものが猿と大差ないとカヲルが知ったのは、ずっと後のことだ。
どんな事情が、武道家というには線の細い理系の大学生を凶悪なテロリストに変えたのか。彼の強く信じていた神は、最期に彼を救えたか。
埒もなく感傷に沈むカヲルに、祖父は悪役まがいの笑顔で言い放ったものだ。
『覚えておけ、カヲル、神は人を救わない。人を救うのは人だけだ』
思い出すたびイラっとくる。祖父の手のひらの上で、踊らされている子猿の気分だ。
――マジムカツク。
道場に入るなり、ぴりぴりした空気が肌に伝わってきた。
いつもの精錬された空気とはちがう、もっと荒削りで尖った指向性のある気配が混ざっている。
食べ物に砂がまじったような、ざらざらと不快な肌触り。
カヲルが気づいた違和感に、哲も気づいたらしい、空気の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。
ガードドッグがテリトリーの中で不審者の匂いをかぎとったかのようなしぐさだった。
そして、なによりも、道場に祖父の姿が見えない
かわりに、奥の見所のそばの壁際に、知らない顔をふたつ見つけた。
カヲルたちとそう変わらない年ごろで、身長はカヲルより高いが、哲ほどではない。それなりに鍛えた体つきで、なにか心得があるのだろう。長髪でやや細身のほうが、剣道か居合か、いずれ剣術屋。短髪を染めたガタイのいいほうは、空手か拳法か格闘技系とあたりをつける。
ほんの一瞬のことだったが、短髪のほうと、視線が交わった。
――嫌な予感。
可燃性のフラストレーションを溜めこみ、それを爆発させるための火種を常に探しているような、危うさ。荒んだ目をした若い獣が、獲物を見つけたとばかりに、カヲルを視線で追ってくる。
「なんかまた、変なやつがいるなあ」
執拗な視線にうんざりしながら、カヲルはつぶやいた。
2011. 7. 3. / 改稿