2話 最後の一日②
カヲルの朝は早い。
夜明け前に起床――ちょっとしたハプニングもあったのだが、誤差の範囲に入れておく。
まだ暗い中、稽古着に着がえて、修練庭に向かう。
カヲルの部屋がある離れから、日ごとに春の気配に満ちてくる奥の庭づたいに、敷地の裏を抜ける。
途中、鬼門にあたる艮には、小さな屋敷神の祠が祭ってあって、その脇に、ほつほつと蕾のほころびかけた、大きな枝垂れ桜がある。
数百年を経た桜の古木は、毎年季節がめぐってくるたび、重たげなほどの花衣をまとう。添え木で支えられた薄墨の幹から、無数の蕾をつけた花枝が地上に吹きこぼれるようだ。
今年も、あと何日かしたら見ごろだろう。
カヲルが花見をしたいなどと言いだせば、またぞろ飲むための口実にされかねない。
にぎやかなのは嫌いじゃないが、昨日の大騒ぎでしばらくは満腹だった。
昨日の酒宴は、祖父を交えた無礼講のせいもあって、異様な盛り上がりだった。
カヲルと仲がよかった中学の同級生はみんな高校が決まり、まとめて合格祝いと入学祝いをやろうと言い出したのは、遊びに来ていた本家の末娘、比奈だった。
一学年上の従姉の比奈は、都心のお嬢さま女子高に通っているが、一年前、手荒く祝われたことを忘れてなかったらしい。
「十五といえば戦国の世なら元服して初陣する年だ。未成年などと甘えたことをぬかすな。一人前の男なら常在戦場、楽しむときにはおおいに楽しみ、飲めるときにはおおいに飲んで、歓を尽くせ」
その場にたまたま居合わせた祖父の一声で、にぎやかな――にぎやかすぎる酒盛りに相成った。
常在戦場とは、 破目をはずす口実につかうような言葉だったろうかと、疑問に思ったのはカヲルだけ。片目に傷を飾る祖父の言葉には、妙な説得力があり、誰ひとり明日の日のことを気にとめる者はない。
カヲルたちの祝いはただに口実で、祖父が飲みたかっただけなんじゃないかと、カヲルは後からふりかえる。
カヲルの同級生と、比奈に釣られた道場の若い(といってもカヲルよりずっと年上だが)門弟たちに、任意参加の師範や客分、どこから集まってきたのか祖父と親交のあるひと癖もふた癖もある面々――結構な地位にあるVIPから正体不明の怪しい人物まで、祖父の身辺は身内のカヲルにもよくわからない。最終的には三、四十人ばかり集まったんじゃなかろうか。
飲んでもなぜかあっという間に最適化されてしまうカヲルはともかく、未成年の飲酒初心者たちは、その道の先輩諸氏にかわいがられて、早々に潰れて転がされた。
あとはもう野となれ山となれ……。
VIPな年長組は、深夜にもかかわらず車を呼んで帰ったようだが、若輩者はことごとく撃沈されて死屍累々。母屋の空き座敷に枕を並べることになった。
けろりと斗酒を空けた自分のことは棚に上げ、母家に雑魚寝した連中が無事に今朝を迎えられたか、カヲルは心配だった。
(二日酔いで朝稽古とか、みんな、地獄を見なきゃいいけどな――南無南無)
ふたたびの馬鹿騒ぎで、屋敷神の桜を騒がすのは気がすすまない。
かといって、ひとりぼっちで花見も寂しい。
昨夜の埋めあわせに花乃子を誘ったらどうだろう。頭のなかでシュミレーションしてみると、そう悪くない考えのように思われる。
(……花乃子とふたりで、枝垂れ桜と飲むなら、大吟醸だな。じじいの秘蔵品がまだあったはず、それを拝借して――)
楽しげな計画をたてながら、祠に軽く一拍手して通り抜ける。
屋敷の裏手の石垣の向こうは竹林で、まばらな青竹の間の細道を道なりに行くと、山に入る道の口に出る。そこに標ばかりの門があり、雨ざらしの門柱に“回峰修練庭”と闊達なくずし字の墨痕があった。
その門の横に、ひときわめだつ稽古着姿の長身を見つけた。
「よう、早いな、哲」
「カヲル……」
カヲルが声をかけると寄ってくる。
背に勢いよく振られるしっぽの幻覚が見えるようだ。
哲は道場に住みこみの門弟のなかでは一番若い。カヲルと同じ中学の同級で、この春から通う高校も同じだ。子供のころから共に鬼畜な師匠のしごきに耐え、ときに悪さもしてきた仲である。
カヲルの友人というよりは、兄弟のような関係だ。
「ちっ。また伸びやがったな。おまえはタケノコかっ」
哲の身長は伸びも伸びたり目測で一九〇近い。一七〇しかないカヲルは、近づけば上から見下ろされる。小学校のころはふたりとも似たような背丈だっただけに、カヲルとしては不本意でならない。
(毎日同じものを食ってて、なんでここまで差がつくかなっ。く……くやしくなんかないやい。おれだって今年になって三センチ伸びたし、これからだって伸びるしっ!)
「え?」
「いい。こっちのことだから。気にすんな」
哲はデフォルトの仏頂面にわずかな困惑を浮かべて、じーっとカヲルを見る。
なめしたような浅黒い肌、鋭い切れ長の目。生粋の日本人にはないエキゾチックな哲の顔立ちは、パーツそのものはたいへん整っているのに、全体的にちぐはぐな印象だ。
大型犬の仔犬が成長途中に、妙にアンバランスで不格好に見えることがあるが、哲も似たようなもので、これで成長しきれば危険な男前になるかもしれない。
(……ってべつに、なってくれなくていいんだけどさ)
カヲルの身辺には、花乃子を筆頭に、どういうわけか美容加工いらずの美男美女率が異常に高い。これで哲までイケメン化した日には、世間がますます狭くなりそうな予感がする。
そういうカヲル本人は、日本人の平均値を測ったかのようなフツメンである。特に欠点もないかわりに、これといった特徴もない、自他ともに認める平凡な容姿。目立たないのが取り柄だが、本格的に武道をやっている連中に混ざれば、ひどく柔弱に見えるらしく、逆に悪目立ちしてしまうこともある。
カヲルの希望としては、もうちょっと押しの利く外見がよかった。親からもらった顔をわざわざ加工する気はないが、せめて身長や肉付きくらいは、もうすこしなんとかならないかと思っている。
「それより、二日酔いは大丈夫だったのか?」
昨日、最初に潰れたのは哲だった。
「平気だ」
「なんともないならよかったよ。母屋で寝てたみんな、どうしてる?」
「比奈だけ。静かだった」
哲のしゃべり方は独特だ。
幼少時の劣悪な環境による言語障害――道場に来たときは、カヲル以外の人間とは口を利かない子供だった。圧倒的に言葉が足りなかった昔にくらべれば、これでもずいぶんましになったほうだ。
哲の足りない言葉を、カヲルは慣れと経験で解読する。
(お泊り組のなかで、比奈だけが二日酔いになって、おかげで静かだったと?)
比奈ついて率直な意見を述べるなら、見てくれだけ上等だが、つっこみがわりに拳をふるい、逆らえば蹴りが飛んでくる武闘派のオジョウサマである。むろん、口が達者なことはいうまでもない。
「へえ……意外」
いつも口の減らない比奈が大人しくしていたとは、今日の天気予報は雪か槍か、それとも隕石か。
「そういうめずらしいものは、おれも見てみたかった」
比奈の様子がよっぽどおかしかったのだろう、哲もそんな顔だ。仏頂面の変化は、カヲルにしかわからないレベルだったが。
「家から迎えが来て、帰った」
「そりゃ残念」
来島本家の箱入り娘が、酒を食らって朝帰りでは、さぞかし外聞もわるかろう。お家大事の家人の某が、あわてて引き取りに来たとみえる。
「二日酔いの記念撮影してやろうとおもったのに」
「亮介がしてた」
「グッジョブ、亮! あとで見せろってメールしよ」
来島本家の当主は一族の中で厳然とした権力を握っているが、千弦台の道場主であるカヲルの祖父とは不可侵をとおしてきた間柄だと聞いている。
(じじいの家の内輪についても、お気に入りの孫娘のことだけは見過ごせないってか。比奈も気の毒に……)
「なあ、哲。比奈のやつ、なにか言ってたか?」
「なにも」
「昼から出て来れそうだったか?」
「わからない」
「だよな」
比奈が二日酔いのバッドコンディションで、本家のご当主の説教フルコースを味わってるかと思えば、カヲルだって同情してやる気になる。
「VR携帯(バーチャルフォン)で連絡入れとくか」
中学のときの仲のよかった同級生四人に、比奈も混ざって、今日の昼から遊びに行く約束をしていた。一番楽しみにしてた比奈が、外出禁止の刑をくらったりしたら、あとが怖い。
理不尽なとばっちりがカヲルに廻ってきそうな予感がする。
「さて、行くか」
カヲルは両手を組んで伸びをひとつ、その場で軽く跳躍して哲を見る。
哲はすでに準備を終えていた。
「カヲル、すこし急ごう」
「すこしだけな」
簡単なやり取りを交わしつつ、ふたりは山道に入る。
もちろん街灯などはなく真っ暗だが、カヲルも哲もよく知った道だ。そのうち明るくなるから問題はない。
修練庭と呼ばれているこの辺りの山は、すべてカヲルの祖父の私有地で、道場関係者以外は立ち入らない。それほど標高が高いわけでもないが、起伏に富んだ嶮しい地形で、奥に行けば手つかずの原生林が昔のまま残っている。そういう植生が人里のすぐそばに残っているのは希少な事例だとかで、何年か前にはどっかの大学の偉い学者の先生がわざわざ調査に来たほどだ。
下山から上山の頂上さがりにある錬武堂まで、天気さえ良ければ一時間ばかり、大昔の忍者か野生の猿かという速さで上がって降りてくる。
本人たちは特別のこととも思っていない。
苦行には違いないが、毎日やっていれば、嫌でも慣れる。
高校がはじまれば、新しい環境に慣れるまで、また違ってくるかもしれないが。昨年の夏休みとくらべたら、この春休みは天国だった。
昨年の夏は熱かった。とりわけカヲルのまわりは筆舌に尽くしがたかった。
上山の尾根を越えて奥御岳の百雨の滝まで、ほとんど獣道の、岩登りありの、沢歩きありの、道なき道を行く超ハードなマラソンもどきを、ほぼ毎日やらされていた。
自然のままの山野を跋渉して基礎となる足腰をつくるという名目のもと、早朝から体力ゲージを削られてくたびれ果てたところを、さらに道場で念入りにしごくのが、ドSな師匠の指導方針だった。
最初から最後までつきあってたら軽く死ぬ。さすがにそれは勘弁なので、カヲルとしては適当にショートカットしたかったのだが、くそのつくほど真面目な相方のおかげでさぼりもならず、何度も死ぬ思いをした。
『若』だの『若先生』だのと偉そうに呼ばれている手前、まるまるさぼるわけにもいかないから、哲に引きずられるように、だましだまし流儀の習得に励んでいるが、つくづく自分は修練に向いてないと思う。
修練に向いてるダイハードな人間として、一番に思いつくのは、相方の哲だ。
一切手を抜くことなく、鬼畜な師匠のしごきにも文句ひとつ言わず、武の道一筋に、流儀の修練に明け暮れている。
先人の曰く、『千日をもって鍛とし、万日をもって錬とす』というが――ただただ愚直に積み上げた年単位の修練の蓄積は、けしてあなどれるものではないと、哲を間近で見てきたカヲルは知っている。
ひたすら一途に倦まず弛まずやりぬく才能は、ときに万人が希求する天賦の才をもしのぐのだ。
(どうも哲のやつは、おれのことを妙にかいかぶっている気がするんだよな。……ひよこが卵から孵ってはじめて見た動くものを親だと思ってついていく――すりこみ、だっけか、そんな感じ)
自分はそんなにいいものではない、とカヲルは思う。すこしだけ物覚えがよくて器用かもしれないが、それだけだ。
たまたま道場主の孫という立場で、いやおうなく若先生などと呼ばれ身ではあるが。自分の立場と実力を一緒にはできない。若者の陥りがちな、その種のうぬぼれとは無縁のカヲルは、しごく恬淡としていた。
カヲルの望みは穏やかに生きること、基本的に他人と争うのは嫌いだし、楽に生きたいなまけ者だ。好きな子のひざ枕で縁側で昼寝するような生き方が理想だった。爺くさいと笑うなかれ、しあわせというのは退屈な日常だとカヲルは思う。それを失うまで誰も気づかないだけで――カヲルは一度全部失って気づかされた。
テツのように恵まれた体格もなければ、自分を苛めて磨きぬくような才能もない。流儀を極めたいわけではないから、才能はいらない。もてあますぐらいなら、いっそないほうがいい。
(なんでおれなんか目標にするかな。おれはそんないいものじゃないし。哲のほうが絶対、才能あるよ?)
艱難辛苦につっこんでいくのは哲にまかせると言いつつ、いざとなれば哲を見捨てることもできず巻き込まれるのはいつものこと、身内に甘い自分の体質にカヲルは気づいていなかった。
修練には各々別の道がある、と師である祖父は言う。
カヲルにはカヲルの、哲には哲の道があるということだ。
他の流派ではどうか知らないが、祖父の流儀では、修練はひとりでするものという。
ここでいう修練というのは、道場での稽古ではなく、山入りのことだ。
稽古を軽んじるわけではないが、流儀の本質は修練にある。
山に入るとき、道を知らなければ迷う。
当然、道を知らない初心には先達が道を教える。
カヲルも初心のうちは、訳もわからないまま、師匠に連れまわされたものだ。
やがて、そのうちに道を覚えて初心を脱すれば、各々ひとりで修練に入る。ということになるはずであるが、カヲルも哲も初心を抜けたいまでも、ふたり一緒に修練庭に入っている。
カヲルには迷いがある。
流儀を極めんとする哲が、自分と修練していていいのかどうか。
師匠であるじじいが何も言わないのに、カヲルがぐだぐだと考えることではないのかもしれないが……。自分と哲に別の道があるならば、いまこうして同じ場所にいることは二直線が交わるような僥倖で、やがていつか道を別かつときがくるのかもしれない。
祖父のことだから何か意味があるのか、そのへんテキトーなのか。
おおかた、テキトーのほうだろう。
流儀の教えに例外をつくってもいいのかとつっこみたくなるが、祖父の存在自体、例外中の例外のようなものだ。
日の出前の暗い山の中を、木々の間を縫うように上り、折り返し地点の錬武堂にたどりつく。
錬武堂の石段には朝もやがかかっていた。
下の道場を一回り小さくしたような建物で、寝泊まりできるようになっていて、簡単な煮炊きの設備もあり、山籠もりする門弟が使うこともある。いまも、数人の門弟の姿があった。彼らはこれから一日、錬武堂に籠るか、さらに奥に上がるのだろう。
見知った顔が声をかけてくるのに、あいさつと軽口を返す。
こういうとき、口をきくのはもっぱらカヲルで、哲は黙って会釈するだけだ、
カヲルもそんなに口のたつほうではないが、哲と一緒だと必然的に口の役がふられる。不公平をさけるために、手足の役は哲に任せることにしている。
錬武堂の脇には屋根つきの井戸があって、管の先から石造りの水槽へと豊かな湧水が常に流れ落ちている。上の水槽は炊事に、中の水槽はゆすぎ水に、下の水槽は洗い水にと使いわけるのが本来だ。
カヲルは管から直接、水を手に受けた。真冬よりも冷たく感じる。口に含めば甘い。
ついでに顔も洗わせてもらう。火照った体に、水の冷たさが気持ちよくしみた。
控えめに髪の滴をふりはらうカヲルの隣で、頭から水を被った哲が、盛大に水滴を跳ね飛ばしてるのが、やはり大型犬の子犬を連想させる。
一息入れたふたりは、下りにかかった。
そのころには、だいぶ空も明けてきている。
冬の間は、上りも下りも真っ暗だったのだが、確実に、日の出の時刻は早くなっていた。
太陽と競うように足を早める。
修練庭で夜が明けていくのを、カヲルは気に入っていた。
木々の枝の間に見える空は、気がつくといつのまにか色を変えている。
暗かった辺りが、見る間に澄んで色を薄めていく。
東の地平に太陽が近づくにつれて、枝から枝に鳥の声が響きだす。
今日の最初の陽が射すと、朝靄に沈んでいた木立は朱色と金色に照り映える。
ふいに木立が途切れて、視界が開ける。眼下に山間の小さな町を見晴らかすことができた。カヲルが八つの齢から七年暮らした町が、箱庭にように見えた。
胸の奥のがざわつく。
かたちにならない予感のようなもの――。
「カヲル?」
急に足を止めた彼を、少し先をゆく哲が、不思議そうに振り返る。
「なんでもない、行こう」
きつい勾配の斜面は上りよりも下りがむずかしい。
気を散じている場合ではなかった。
湧きたつ山の気を吸いこむ。
濃い土の匂い、水ぐんだ大気の甘さ。吐く息は白い。
自分の心臓の拍動と、流れる血の音を聞く。
すぐ前を行く哲のかすかな足音、規則正しい呼吸の音を感じ取る。澄んだ冷たい空気のなかで、ほんのわずかな体温を感じさせる生きものの気配だ。
目の前に流れる景色――見るともなしに全体を見る。
雑多な音をひろい集めて、選り分ける。
息を吸って、吐く。
、身体を動かすことのみに集中する。
あれこれ考える必要もないので、頭から追い出す。
感情もいらない。
いらないものをそぎ落とし、単純に、おのれのみを研ぎ澄ましていく。
その過程は、とても合理的で無駄がない。
一方で、本能的――原始的でもあり、生きものとして正しく、強く、速い。
道場に帰り着くまで、カヲルの体感では、あっという間だった。
2011. 7. 3. / 改稿