1話 最後の一日①
こちら世界の現代は、ちょっとだけ未来設定。
深い眠りの淵から一気に浮上し、浅瀬でうっすらと目を開く。
開けても闇はそこにある。
「あれ……?」
ぱちぱちと目をしばたかせれば、頬に水滴がこぼれ落ちた。
「なにこれ、なんでおれ泣いてんの?」
暗がりの中で、カヲルは一瞬、自分の場所を見失う。
(なんか――……へんな夢を見ていた気がする)
「おれの部屋だよな?」
暗がりに目が慣れてきたのか、よく見れば、見慣れた天井を見上げていた。
縁側の障子に庭の常夜灯の影が射してぼんやりと光って見える。
祖父の家の離れの、広さだけが取り柄の古ぼけた和室だった。
押入れの襖の不細工な修繕の跡、身に覚えのある床柱の向傷、探せばもっと見つかるはずだ。枯れた飴色の八畳間のあちらこちらに、カヲルのやんちゃの跡が残っている。
長押にかかった真新しい学生服は、家から一番近い公立高校のものだ。もうあと何日かすれば入学式だ。
ありふれた、身になじんだ、いつものカヲルの部屋だった。
なのに、なんだろう。
あいまいな、喪失感とでも言えばいいのか――カヲル自身にも正体がつかめない。針でついた穴のようにちっぽけな、けど決して埋まらないなにかの、懐かしいような、せつないような、ほんのりとあたたかな余韻が胸に残っていた。
思い出せそうで思い出せない感触が、ひどくもどかしい。
夢は夢なのだから、思い出せないものはしかたないと、ため息をひとつ。
うつらうつらと目を閉じれば、しんと静かな朝の気配。
日が昇るまでにはまだたっぷり余裕があると、日課の朝稽古で慣らされた体内時計が告げている。
祖父の家は、二一世紀も半ばになった今ではめったに見かけることもない、まるで時代劇にでも出てきそうな純和風の木造平屋造りだ。カヲルの部屋のある離れも、夏は涼しいが冬の寒さはハンパじゃない。
そろそろ桜が咲く季節とはいえ、明け方にはずいぶんと冷えこんでくる。
ふとんの中のぬくぬくは離れがたい慕わしさで、思わずすりよれば、ぴったりとくっついていたぬくぬくがわずかに身じろいだ。
くすくすと耳をくすぐるような忍び笑いとともに、まろやかな声がする。
「おはよう、カヲル」
驚きのあまり見開いたカヲルの目に、夜目にも白く輝く美貌が映る。
「花乃姉……」
――ぬくぬくの正体は、花乃子だったのか。
夢うつつから引きもどされて茫然自失のカヲルのかたわらで、かすかな衣擦れの音をさせて花乃子が身を起こす。そのまま離れていくのかと思いきや。
「眠そうね。まだ少し時間はあるけど」
日本人形のように長い黒絹の髪がはらはらとこぼれ落ちて、カヲルの上に帳の影をつくった。
白縮緬に紅絹の裏が透けてはんなり桜色にみえる襦袢の、寝乱れてゆるんだ合わせから、かたちのよい白い胸の谷間が見えて、カヲルはあわてて目をそらした。
「もうすこし眠る?」
「ん、……起きる」
ぽそぽそとつぶやく。
ぬくぬくは手放しがたいが、この状況はものすごく、いろいろとまずい。
まずいのだが……。
(やばい、手放せない。なんというぬくぬくの罠……)
いろいろあきらめたカヲルだった。
花乃子を説明するのはむずかしい。
世間的にはカヲルの祖父の養女であって、血のつながりはない。しかし、実の母子か姉弟のように、子供のころから一緒に暮らしてきた。たぶん他の子よりも手のかかる子供だったカヲルを、なにくれとなく世話をして、育ててくれたのは花乃子だ。
要約すればそうなるのだが、ただ上っ面をなでているだけで、まったく的を外しているような――花乃子をあらわすのにしっくりくる言葉がカヲルのなかで見つからないのだ。
こんなふうにひとつふとんで花乃子に添い寝してもらうのは何年ぶりだろう。中学に入って離れに移ってからはさすがにない。子供のころ以来だからと指折り数えて、あらためて一緒に過ごした時間の長さを思う。
十代の少女のようにも二十代の大人の女のようにも見える花乃子だが、実際いくつなのかカヲルは知らない。以前たずねてみたとき『女に齢を聞くものではないわ』とはぐらかされて、それっきりだ。
なんでもかんでも素直に聞けた子供のころはよかった。
今となっては、怖くて聞けないことがいっぱいある。
しどけない長襦袢姿の花乃子が同衾しているわけなどは、その最たるものだった。
カヲルは無造作に押しつけられているもっちりやわやわなふくらみから気をそらしつつ、思考能力のいちじるしく低下している脳味噌を叱咤激励して、昨夜の記憶をたどってみた。
じじい――祖父と飲み比べになったのまでは、完璧に覚えている。
未成年に酒を飲ませるなという世の常識を、祖父に期待しても無駄だ。
とことん飲んで己の限界を知ればおのずと適量も知れるとか、一理あるけどめちゃくちゃな理屈で、法律も常識も斬って捨てるのが、祖父という男だ。
うわばみの祖父がもちだした、一升入りの大杯がきっかけだった。カヲルは生まれつきアルコールに強い体質もあって、酒席で乱れたことなどないのだが、昨夜は祖父にだけは負けたくない一心で、けっこう限界までがんばった気がする。
くだんの大杯に上等の酒を惜しげなく注ぎ、水のごとく飲み干す祖父に対抗して、杯を重ねること十余遍。さかずきのなかにたつさざなみ、酒精の芳香――最後のほうの記憶はあいまいで、勝負がついた気がしない。タイムリミットで引き分けたか、ありったけ飲みつくしてノーコンテストになったか――とにかく負けはしなかった、というあたりまで思い出して、とりあえず、カオルは満足した。
(……で、結局、寝たのはいつだ?)
こっそり確認してみたところ、ちゃんと服を着ていた。
昨日着ていた部屋着をそのまま、長袖Tシャツとパーカーにスウェットパンツ。
これでマッパだったりしたら、人間として立ち直れないところだった。
(――酔ったあげく見境なく襲うとか、最低。どんなケダモノだよ。その上、何も覚えてないとか、もし万一やらかしてたら死罪だろ)
昨日、花乃子が着ていた枝垂れ桜の友禅と鴛鴦のつづれ帯は、枕元にきちんとたたんでおいてある。
心の底から、よかった。
彼が脱がせたのなら、こんなにきれいに脱がせられるわけがない。どんな惨状になっていたやら――ともかく、状況証拠によって無実が証明できそうだとわかり、カヲルはぐったり脱力して目を閉じた。
「カヲル、眠ってはだめよ、起きるんでしょう?」
「ん、……起きる、もうちょっとだけ待って」
「くすくす……おねぼうさん」
優しい声が、記憶のどこを刺激したのか、脈絡なく思い出した。
梅の花に千年
藤の花に千年
桜の花に千年
此の花に止まれ。
子守唄か、それとも、わらべ唄か。
歌っていたのは花乃子だった気もするし、ちがったような気もする。
花乃子と最初に会ったのは、思えば今ぐらいの季節ではなかったか。庭の桜が咲いたとか咲かないとか、そんな話をした記憶がある。
祖父の所に来る前だから、十年ほどになるはずだが、花乃子の見た目はあまり、というより全然変わってない。
(……やめよう。ここはあんまり深く考えちゃいけないところだ)
意識しないように、危ういあたりに迷いこみそそうな思考を止める。
花乃子が何者だろうと、彼にとって大事な家族なのは変わらない。
子供のころからずっと一緒にいて、彼の恰好悪いところも情けないところも全部知られている。子供のころは風呂まで一緒に入った仲だ。いまなら絶対に無理だ。
案外、いまでも花乃子は気にしないかもしれないが、カヲルのほうが無理だ。男として、うれしくなくはないけれど、それだけに困ることもある。微妙なお年頃である。
同じふとんで平気でくっついて寝ていることからもわかるように、花乃子はそういう事情をぜんぜん気にしてくれない。そのぶんまで、カヲルが気にしなければならない気にもなる。
小さいころの事故のせいで、カヲルは事故以前の記憶を――両親の記憶もふくめて、きれいさっぱりなくしてしまった。だからもし本当の母親が生きていたら、花乃子のようだったかもと思ってしまう。さすがに高校生にもなるコブつきというのは彼女に申しわけないから、やはり最適なのは姉だろうか。
花乃子は強いけど女の人だから守ってやらなくてはと、子供心に健気に決心したりもしたが、本当は守られていたのは彼のほうだとわかっている。
だからだろうか、花乃子はそういう欲望や衝動の対象にしてはいけないと、理性の歯止めがかかる。
――とはいえ、ふわりと涼しげな花の匂いがして、やわらかなくちびるが、ちう、と吸いついてくれば、若い男のうすっぺらな理性など不渡り確実な空手形のようなものだ。
(うわああああああ)
「カヲル、目が覚めた?」
「……覚めました」
「ちゃんと目が覚めるように、もう一回する?」
ぶんぶんぶんとカヲルは全力で首を横にふった。
今のでもう、すっかり完全に眠気なんかふっ飛んでしまった。
おはようのキスを平気で花乃子にしてた子供のころの自分を、グッジョブとほめてやるべきか、余計なことをとののしるべきか。
それでも花乃子に向かって、おはようのキスはもういらない、とは言えない。
へたれというなかれ。
日本人のくせに、おはようのキスを習慣にしてたというカヲルの両親も、けっこう謎な人たちだ。覚えてないから、真偽のほどはわからないが。
「よく眠れた?」
「ぐっすりだよ」
深酒の影響もまったくなく、頭も体もすっきり軽い。
「花乃姉のおかげかな」
「そう? ならいいけど」
カヲルだって、そろそろ親ばなれというか、花乃子ばなれしないといけないんじゃないかと思わないこともない。
しかし、これがなかなか難しい。
「どんなにぐっすり寝てても、人の気配がしたら絶対にわかる自信があるんだけどなあ。花乃姉だけはわかんない。かえって安心して熟睡するみたい」
「ふふふ、ちっちゃなカヲルが眠れないって泣くたびに、一緒に寝てたものね」
事故の影響もあっただろう。毎晩のように夜中に怖い夢を見て飛び起きていた。寝しょんべんたれては、泣きべそをかきながら花乃子の寝間にもぐりこんでいたとか、いまとなっては誰にも言えない黒歴史である。
できることなら、花乃子のみならず、カヲル自身の記憶からも抹消してしまいたいくらいだった。
「ちぇ、ガキのころから進歩ないみたいで、悔しいんですけど」
「そんなことないわ。あんなにちっちゃかったカヲルが、もうすぐ高校生ですもの。背もこんなに伸びて……」
「三か月で二センチ伸びたよ。もうちょい伸ばしたい」
「男の子の成長期はこれからですもの、カヲルはもっと大きくなるでしょうね」
花乃子は目を細めてカヲルを見る。
春の陽射しのようなまなざしに、水が温むように暖かなものが胸に満ちる。
カヲルも、一応、他を見る努力はしてみた。
NVや、それ系の3DVDは、完璧な美貌と理想的なプロポーションをもつハイブリッド・アイドル全盛の時代で、理想の異性が必ず見つかるとまで言われている。
女性の美に対する熱意はいつの時代も変わらないが、それにしても、この三十年ばかりの美容加工技術の進歩はすさまじいものがある。健康志向とダイエット食品の進歩で肥満はほぼ完全に駆逐され、医療技術の進化によって美容整形がタブー視されることもなくなった。一昔前の芸能界やスポーツ界に限らず、今では一般でも営業や販売など人目につく業種では、男女を問わず整形してない人間のほうがめずらしい。
おかげで世の中にはちょっと“かわいい”もしくはちょっと“きれい”な女の子があふれている。
カヲルとて、ナンパにつきあわされたこともあれば、告られたこともないわけではない。
一生懸命きれいになろうと努力してる女の子たちをかわいいな、とは思う。
それでも、もう一歩踏み出せないのは、どうしたって比べてしまうからだ。
母親を知らない彼にとって、一番身近な異性は花乃子だから、彼女がすべての基準になるのはやむを得ないというか、むしろ当然。
花乃子は“かわいい”わけじゃない“きれい”でさえ足りない、ひとえに麗しいのである。
家にいるときは好んで和服ばかり着ているため、体つきよりしぐさの美しさに目を引かれがちだが、たまに洋服を着た花乃子は、彼女だけ別の生きものであるかのように、特別に見える。
できるなら、誰にも見せたくないと思うほどに。
見たことのある人間にしかわからない衝撃だ。
「カヲル、ゆうべのこと、ちゃんと覚えてる?」
「覚えてますよ」
だいたいは、と答えかけて、口をつぐむ。
天啓のように、はた、と気づいた。
「えっと……花乃姉、もしかして、怒ってる?」
「わたしが怒るようなこと、した覚えがあるのかしら」
カオルは、背に冷たい汗を感じた。
頭の中で、昨日の記憶を高速巻き戻し中である。
花乃子は、昨日は台所にいた。ほかの女衆たちと一緒に、酒だ肴だと盛り上がる三、四十人がところの酔っぱらいをもてなすために、忙しく立ち働いていたはずだ。
宴席に現れたのは、男たちがバカをやりつくした終わりのほうで、彼女はまったく飲んでなかった。
祖父との飲みくらべは勝負がつかず、酒宴がお開きになったとき、花乃子が母屋で休むようにすすめても、カヲルは自分の部屋に帰ると言い張った。
まだ自力歩行可能な状態だったせいで、止めても止まらなかった。
酔ってないと言い張るやつほど酔っている。彼も例外ではなかった。酒量が酒量だ。日本酒に換算で一斗は軽く入っていた。
花乃子は心配して離れの部屋まで送って来てくれたのだろう。
酔ったカヲルは子供にもどったようで、一緒にいてとか歌を歌ってとか彼女に甘えて、他愛なく無邪気なばかりだった。
しかし、細かく思い出したおのれの所業はカヲルは青ざめさせた。
(うおう、何やってんだ、おれ……だけど、セクハラとか、そういう変なことはしてないよね? 本気で、してないよね?)
焦りすぎてテンパったカヲルは、短絡的に思いついた解決策にとびついた。
(もう謝れ。なんでもいいから、謝ってしまえ)
「ごめん、花乃姉。昨夜はたいへん、ご迷惑をかけて、すみませんでしたっ」
「……」
花乃子のまなざしは、いっそう冷たい。
(なぜだ、謝ったのに)
残念ながら、謝る部分がちがうことに、カヲルはまったく気づかない。
「もう、いいわ」
花乃子はひとつため息をつき、気持ちを切り替えた。
夜が明ける前に母家にもどって、見苦しくないよう身支度をしなければ。昨日と同じ着物で、人前に出るわけにはいかなかった。
くるりとカヲルに背を向けて、慣れた手順で身じまいを始める。長襦袢の着くずれをなおし衿を袷わせ――きぬずれの音をさせながら、するすると身につける手順は、毎日のことで慣れたものだ。
どう結ぼうかと帯を手にして、じっとこちらを見ているカヲルに気づく。
「武藤と修練庭に行くのでしょう? 遅れてしまうわ。急ぎなさいな」
花乃子の声で我に返ったカヲルは、女性の着替えを凝視していたことに思い至る。
決してやましい気持ちではない。花乃子の流麗な手際と、美しく装うため工程が魔法のようで、つい目を奪われてしまっただけだ。しかし、ここで下手に謝ったり言い訳したりしたら、とりかえしのつかないことになりそうな予感がする。
赤くなったり青くなったりしつつ、無理やり声を出す。
「うん……そうだった。哲のやつ弱いくせに無理して飲んでさ、二日酔いとかなってないか心配だ。見てくるよ」
武藤哲は道場の住みこみ門弟で、カヲルの同級生でもある。昨日の飲み会では一番最初に撃沈されていた。
「じゃあ、おれは行ってくるね」
日が昇ってから、のこのこ現れたりしたら、師匠である祖父に何を言われるかわからない。
今日に限っては、少しばかり遅刻してもそれほど目立ちはしないだろうが。
「朝ごはん用意しておくわ。何か食べたいものはある?」
「今日はごはんと味噌汁の気分かな、かりかり梅のおにぎりが食べたい」
「作っておくわ。怪我だけはしないように、気をつけて」
稽古着に着替えて、部屋を出ていくカヲルを呼び止める。
「カヲル……」
「なに?」
「もし……――いいえ、なんでもないわ」
いってらっしゃい、と送り出す花乃子をふりかえることなく、カヲルはもう回り廊下を駆け出していた。
だから、ひとり残された花乃子の言葉を聞いたものはいなかった。
「約束したわね、カヲル。待つことは苦ではないの。でも、忘れられたままは苦しい。わたしは、いつまで待てばいいのかしら」
カヲルの部屋を出た花乃子は、離れの廻り縁の硝子戸の向こうの、芽吹きを待つ庭に目をやった。
木々の梢をゆらす風に耳をすませば、彼女の望む声が聞こえる。
封じられた身とはいえ、愛しい子供を追うことは易しい。この千弦台の屋敷の内ならば、彼女の目となり耳となるものは多かった。
今また、闇のにじむころに姿を顕す、この影の者のように。
「此の花の姫の御前に」
ひそかな影の声に、ひとつうなずいて、口上を許す。
「添伏の儀、首尾ようすごされました由、祝着に存じ上げる」
神でも魔でもなく理の支配するこの界において、影のような者たちさえまれで、ましてや彼女のような存在は、本来ならばありえない。
「首尾ようとはよく言うものよ。仔細は存じおろうに」
添伏の夜に、枕を並べてなにごともなくでは、共寝の約定が満たされたか微妙なところだ。
彼女の望むとおりに、位替えが叶うかどうか。
「若君が拒まれたなら、御躬に何事もなくあらせられるはずもなし。かようのことは形こそが大事」
一夜をすごしたという形があれば既成事実は後々どうとでも、などとカヲルが聞いたら顔色を変えそうなことを、影はさらりと言ってのけた。
「なに、若君が姫さまを傷つけられようはずもなし。御位を移すことが叶いましょう」
どちらにしても、時間は限られている。
「もどかしいこと」
ふ、と彼女はつめていた息を吐く。
愛しくてならない子供は、今ごろは自在に御山を駆けていることだろう。
カヲルが帰ってくるまでに、朝餉のしたくをしておかなければと、花乃子と呼ばれる人間の娘にたちもどる。
無力な人間としての暮らしなど、ただの契約にすぎなかったはずなのに、あの子の側に在るうちに、ささやかな日々がかけがえなく大切に思えていた。
失うことを恐れるほどに――。
2011. 7. 3. / 改稿