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0話 はじまりの記憶

 



 ああ、これはいつもの夢だ――彼はまどろみのうちに思う。




 ちっとも思い通りに動かない不自由な体で、見えないはずの目で、彼は空を見上げる。




 夜明け前だろうか。

 澄んだ濃紺の空に星がきらめき、青白い円盤のような小さな月と、それよりも少し大きな細く弧を描く金色の月がのぞいている。

 二つの月――彼が失くした記憶のなかの、ここではないどこかの記憶だ。

 風は止み、怖ろしいほど静かだった。

 けれど彼の頭上だけ切り取られたように冴えた夜空のまわりには、嵐の雲が渦を巻き、鈍色の雲の間を紫電の光が竜のように走り、凶兆とされるマゼンタの光焔がはるか空の果てまでたなびいていた。

 冷えた大気に、かすかにオゾンと鉄錆びの臭いがまざる。


 彼は生まれたばかりの赤ん坊の、身動きならない小さな体で、白くやわらかな胸に抱かれている。

 いい匂いのする腕と、あたたかな鼓動の記憶が押し寄せて、彼を泣きたい気分にさせた。

 彼をきつく抱きしめているのは、彼をこの世に産み落とした女――蒼くきらめく黒髪に宝石のような菫の瞳の、女神のような女だった。

 青ざめた顔色、ひどく憔悴した様子にも、女の美しさが損なわれることはない。

 体のどこかに傷を負っているのか、錆びた鉄を思わせる血の匂いが、うっすらと彼女にまつわりついていた。


 母と思しき女が、彼に語りかける。

「□□□、□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□」

 その言葉は、彼が聞き覚えのあるどの外国語の響きともちがって、彼にはまったく理解できなかった。

 ただ与えられた慈しみと笑顔にふくまれた悲しみが、なにも知らない彼をさえ悲しくさせた。

「□□□□□□□、□□□□□□□」

 耳慣れない美しい音のつらなりを、別れの言葉のように聞く。


 女は菫の瞳に涙を浮かべ、小さな赤ん坊をもう一度抱きしめる。

 生まれたばかりの息子は、見えぬはずの目で、じっと彼女を見つめていた。

 見透かす賢者のまなざしに、ここにいない男の面影を見つけて、ふとほほ笑んだひょうしに、こらえていた涙がこぼれおちた。

 怒るだろうか、悲しむだろうか、最後までわがままな女だと笑うだろうか。

 赤ん坊をおくるみごと小さな揺籃の中に横たえる。


 女と離れ難かったのか、火がついたように泣きはじめる赤ん坊の声が高く響く。

 けれど、その声をかき消すように、女の喉から不可思議な声がほとばしった。

 それは、さながら妙音鳥。

 透き通る甘い声に、小鳥のさえずるような高い声が重なり、さらに音叉のように空気を震わす低音が重なる。

 三つの言葉で三様の(ことわり)を同時に語る。光の言葉、闇の言葉、そしてもうひとつ――はじめに在りし言葉が、あるべき世界に変容をうながす。

 何種類もの力が撚り合わされ、編み上げられ、何処かの何かを満たしていく。

 満ちて溢れる。

 奔流に押し流され、のみこまれる。




 彼の意識は、いつものように、そこでとぎれた。






2011. 7. 3. / 改稿



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