異邦人ルマン
1930年ポーランド 怪盗ルマン――その名は、噂だけが先に歩いていた。
確かな目撃証言はなく、盗まれたとされる品も特定されていない。
被害者は皆、同じことを口にする。
「確かに、何かを奪われた気がする」と。
マーヤーズ・キリスは、新聞を畳み、静かに椅子にもたれた。
これまで数多くの未解決事件を終わらせてきたが、ここまで輪郭の掴めない相手は初めてだった。
「ナンシウスルマン、か……」
調査を進める中で、一つだけ共通点が浮かび上がった。
事件の前後、必ずイタリア――特にヴェネチアに関係する人物や情報が絡んでいる。
偶然にしては、重なりすぎている。
キリスは、古い電話機に手を伸ばした。
呼び出した相手は、ソ連にいる旧友だった。
「護衛を頼みたい。短い旅になるが、面倒な仕事だ」
受話器の向こうで、低く笑う声がした。
「面倒な仕事ほど、君は楽しそうだな」
数日後、キリスはドルコフ・マトロキーと合流し、南へ向かう列車に乗り込んだ。
車窓の外では、国境がゆっくりと後ろへ流れていく。
ヨーロッパ全体が、どこか不穏な空気を孕んでいた。
新聞には連日、ドイツと日本、そして欧米諸国との対立が報じられている。
「時代がきな臭いな」
ドルコフが新聞を畳みながら言った。
「こういう時代には、怪物が現れる」
キリスは静かに答えた。
やがて列車は水の都へと近づく。
運河と石の街――ヴェネチア。
怪盗ルマンの影が、最も濃く落ちる場所だった。
キリスは胸の奥で、言い知れぬ予感を感じていた。
この街で、事件は大きく動く。
そして、自分自身もまた、何かを失うことになる――そんな予感を。




