第32章 狐と兎──絶頂の死闘!?
どれほどの時が流れたのだろうか。
木漏れ日が葉の隙間から差し込み、草原の上で星はぼんやりと目を覚ました。
四方は湖に囲まれ、その水面は鏡のように静まり返り、幻想的な星屑と青金の入り混じる都市の輪郭を映していた。
涼風が頬を撫で、水のさざ波が耳元でささやく。
「……ここは……水の浄土の中心か?」
呟きながら目を擦り、視線を川の先へ向けると──
その先、川の果てに一人の少女の後ろ姿が、まるで夕焼けのように輝いていた。
あれは、シュエフェイヤ(雪菲雅)。
辺りには誰の姿もない。他の選手たちは、水雷によってすでに全滅していた。
シンの鼻先がツンと熱くなり、涙が溢れかける。低く呟いた。
「行けよ……リィイン姉ちゃんに、ちゃんと会ってこいよ……オレは……ここまでしか、力になれないけどさ。」
だが、感傷に浸る暇はなかった──
「やっっっっっと、見つけたわよおおおお!!!!」
氷刃のような鋭い声が、感動の余韻を一瞬で打ち砕く。
シンは振り返った。
そこには、銀髪を乱し、ボロボロの衣をまとった女が水面を踏みしめながら現れた。まるで霧の中に立つ冥府の使者のように、その殺気は空気すら凍らせる。
狐仙ヤ(雅)──その人だった。
彼女の面影はかつての優雅な姿を完全に失い、まるで地獄の底から這い上がってきた怨霊のようだった。
「ま、待て待てっ……そんな恨み買うようなこと、オレしたっけ……?」
「シュッ!」
氷光が閃く。シンが慌てて頭を下げると、髪の毛が一房、ふわりと落ちた。
「ちょ、ちょっと……今のマジで剃られかけた……!?」
「その小鹿を渡せば、苦しまない死に方を考えてあげるわ。」
「ムリ!アイツは無実だ!」
震えながらも、小鹿を背に庇うシン。その目には強い決意が宿っていた。
狐仙ヤは冷笑を浮かべ、手を振り下ろす──
その瞬間、シンは咄嗟に荷袋から赤い丹薬を掴み、確認もせずに投げつけた!
「待って、それは――!!」遠くからカルロ・アイヴィが叫ぶが、遅かった。
──ドォン!!
赤い閃光が爆ぜ、白煙が立ち上る。
「また煙幕?チッ、そんな子供騙しが通じると思ってるの?」
口元を覆いながら顔をしかめる狐仙ヤ。だが──
ふと、足元からひんやりとした感触が這い上がってくる。視線を下に向けると──
「きゃああああああああああああ!!!!!!」
煙の中から尾を振り乱し、雪のように透き通った肌を懸命に隠す狐仙ヤの姿が現れた。その冷ややかな威厳は一瞬にして崩れ去り、今や小さな女の子のように涙目で震えている。
シンの目が血走り、瞳孔が針のように収縮した。
「な、なにこのご褒美映像……!?」
次の瞬間。
空気が一変する。
湖面が一気に凍結し、冷気が都市全体を包み込む。観客席からは悲鳴が上がった。
「な、なんでこんなに寒くなったの!?」
カルロ・アイヴィが頭を抱えて呟く。「あぁ……あの爆弾、どうして紛れ込ませたんだ……」
狐仙ヤが再び現れる。霜色の長衣を纏い、全身から放たれる霊圧がまるで天から舞い降りた神のようだ。
背後には、八枚の氷の翼。
完全なる覚醒。
「……見たでしょう?」
「見てない見てない誓って見てないっ!オレ、目悪いし、あの白い腹巻なんか全然見えてないって!!」
一歩一歩、彼女が近づく。刀の先が地を引き、まるで幽鬼の囁きのように言葉が流れ込んでくる。
(殺す殺す殺す殺す殺す殺す……)
(もうだめだ……今度こそほんとに死ぬ……)
(女神さま!オレまだ死にたくないっ!まだ人生楽しんでないんだぞ!!)
(なにか……なにか手はないのか!?)
ピンッ、と閃いた。
シンは喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
「女王さまああああ!!助けてくれええええ!!!!」
次の瞬間。
──ズドォン!!!
天が割れる。
赤い光柱が雲を貫き、凍った大地を焼き砕く。轟音と共に火炎が龍のように唸りを上げる。
そして、彼女が降臨した。
炎を纏い、赤髪をなびかせ、瞳に烈火を宿すその姿──
シュエフェイヤ、現る。
吹雪の中心に立ち、焔の鎧がその身を守る。圧倒的な威圧感が嵐のように広がり、狐仙ヤですら一歩退いた。
狐仙ヤの目が細められる。「……あんた、誰?」
シュエフェイヤは答えず、ただシンを一瞥する。
その視線はこう言っていた──
『……お前、また何かやらかしたな?』
言い訳しようとするシンだが、狐仙ヤの殺気に一瞬で口を噤み、死んだふり。
シュエフェイヤは淡々と告げる。
「彼は、我の者だ。手を出すな。」
「……ふぅん、そう……?」
一瞬の沈黙。
そして──
「じゃあ、お前も一緒に死ね。」
「シュッ!」
風雪が走る。
狐仙ヤが抜刀と同時に宙を飛び、銀の閃光が空を裂く!
空気が瞬時に凍りつき、暴風雪が天から降り注ぐ。刃が旋回し、まるで龍巻きのように湖を呑み込んだ。
「氷の剣舞・第二式――氷息断流。」
囁くような声が、骨まで凍らせる。
──ドォン!!!
地を裂く氷刃、氷面は砕け散り、雪嵐がすべてを飲み込む。
その相手は、シュエフェイヤ。
紅蓮の戦装束に身を包み、赤き炎が彼女の周囲に花のように舞う。
「炎の剣舞・第七式――炎の華!」
紅い花弁のような炎を掴み、身体をひねって華麗に投げ放つ!
──ドォォォン!!!
炎が咲き乱れ、火の蓮が雪を焼き尽くす!
天を駆け上がる火柱が吹雪を逆流させ、爆音が雲を破る!
火と氷が正面衝突する。雷鳴のような爆裂音が天地を震わせ、視界が歪むほどの衝撃波が広がる。
観客席から歓声と悲鳴が入り混じる。
「な、なんだよこれ……まるで神同士の戦いじゃねぇか……!」
爆音の中、炎の影が走る。
シュエフェイヤが舞い戻る。炎の蝶のように軽やかに舞い──
「炎の剣舞・第四式――焔刃乱舞!」
無数の火刃が降り注ぎ、氷の嵐を裂き刻む!
──だが、狐仙ヤは理解していた。
その瞳は、氷の湖底のように静かで、だが、そこには死の殺意が潜む。
「第三式――葬雪。」
圧が変わる。氷界の主のごとく、彼女の霊圧が天地を凍らせる。
三日月が天を割り、氷刃が天より降り注ぎ、地を覆い尽くす氷の檻が出現する。
「その速さ……通用しないわよ。」
声は静かに、だが確実に心を凍らせる。
だが──
火の光、逆巻く!
「——第一式、百花繚乱。」
その小さく呟かれた技名が落ちた瞬間、
シュエフィアの身体が旋回し、火の蝶のごとく舞い踊る!
炎が彼女のしなやかな身のこなしと共に流れ、
無数の焔の花が爆ぜ咲いた。
まるで地獄の花雨のように、空に咲き乱れ、氷の柱を次々と引き裂き、粉砕していく!
その光景に、狐仙雅は初めて顔を強張らせた。
(強い……!スピードも、攻撃も、私を凌いでいる……!)
(この力……瓊華仙姉さまと肩を並べるほど!? 彼女はいったい何者……!?)
咄嗟に身を引き、白銀の衣が霜月の蘭のように翻る。
しかし、次の瞬間——
——炎光が、突き刺さる!
心臓までの距離、わずか……
零点五寸!!!
「……遅すぎ。」
耳元に囁く声が、まるで炎まで嘲笑っているかのようだった。
狐仙雅は瞳を見開き、防御の構えを取るも——遅かった。
「ぶっ……!」
鮮血が、雪に朱を描くように空へ舞う!
彼女が目を落とすと、氷の鎧が砕け、炎の短剣が胸の寸前で止まっていた。
致命傷まで、あと一歩もなかった。
顔を上げると、そこには蒼白な顔のシュエフィアが——
「……っ!」
彼女は鮮血を激しく咳きこみ、火光が揺らぎ、よろめきながら後退した。
(……気配が弱っている!?)
狐仙雅の瞳が一瞬で氷霜のように冷たくなり、殺意が一点に凝縮される。
「あなたは……もう終わりよ。」
その一言と共に、冷気が刃のように奔った。
彼女は刀を抜き、気圧で空間が凝結する。
白しか存在しない世界の中——
「氷の剣舞——第一式。」
その声は波打たず、まるで神の裁き。
「吹雪一閃・終焉!!!!」
——時間が止まった。
刃が見える前に、空間が砕けた!
シュエフィアの瞳が大きく見開かれたその瞬間、彼女は見た——
目の前の景色が、万の氷鏡に砕け散る光景を。
「シュエフィアーーーーーッ!!」
遥か彼方で、星の絶叫が天を震わせる!
ドオオォォン————!!
極光のような刀閃が流星のごとく天を貫き、
彗星の如き衝撃がキノコ雲を巻き起こし、天地を覆す!
空間はガラスのように割れ、裂け目が天を走る!
——炎は、消えた。
シュエフィアの姿も、あの一閃の光の中に消えた。
狐仙雅はゆっくりと地に降り立ち、白の衣を翻し、髪が宙に舞う。
その刀は地を垂れ、雪と血に染まっていた。
まるで全てを燃やし尽くした女武神。
彼女はただひとり、廃墟と吹雪の中に佇み、
長い髪と砕けた氷片が風に舞っていた。
静かに——彼女は天を見上げる。
その一刀で炎は鎮まり、シュエフィアは光の中に消えていった。
狐仙雅はゆっくりと目を閉じる。
霜雪の中、彼女の瞳に、ようやくひとすじの勝利の光が差した。
「……勝ったわ。」
その声はかすかに震え、まるで遅れて届いた嵐が、凍った心を貫くようだった。
彼女は足元に目を落とす。そこには、焼き尽くされた紅の断刃が転がっていた。
しばし沈黙し、衣の袖をひらりと払う。
その刃に、静かなる白雪が覆いかぶさる。
まるで、強敵への最後の静謐な布を掛けるように——
彼女は振り返らなかった。
ただ、ゆっくりと背を向けて歩き出す。
その足取りは、まるで燃え尽きた焔への惜別のように、静かで……儚かった。
だが——
彼女は足を止める。
目の前に、魂を失ったように膝をつく少年の姿。
その腕の中、未だに倒れた小鹿を守るように抱えていた。
「もう……お前を守れる者はいない。おとなしく死ね。」
狐仙雅は無言で近づき、刀を振り上げる。
全てを終わらせるつもりだった。
雪は静まり、風も止んでいた。
刀が振り上げられ——
だが、想像していた血飛沫は現れなかった。
星の行動に、彼女は目を見開く。
彼は、ためらいなく、その身でかばったのだ。
あのか細い命を、守るために。
狐仙雅の手の中で、刃が微かに震える。
それは寒さのせいではない。感情だった。
「……まるで、私が悪者みたいじゃないの。」
小さく嘆息を吐き、声が霜のように白く揺れる。
「……あとで、水の神様に頼んで蘇生でもしてもらおうか。」
長い沈黙の後、彼女はつぶやく。
刀をくるりと反転させ、柄を逆手に持ち替える。
……まあ、せめて一発は殴らせてよ。
「パコッ!」
反射的に、柄で星の頭を殴った。
だがその瞬間、何か「幻影」のようなものを叩いた感触——
「……え?」
彼女は愕然とした。
星の輪郭がゆらりと歪み、
風の中の雪片のように、ふっと掻き消えた。
「そんな……あり得ない!!」
狐仙雅の瞳が一瞬で細まり、情緒が爆発したかのように雪風が荒れ狂う。
ふいに、何かに気づいたように顔が崩れ——
そして、天に向かって怒号を放つ!
「お姉ぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!またアンタの仕業でしょーーーーーー!?」
雪霧が舞い、天地がその怒りに震える。
彼女は怒りで飛び跳ね、雪原を思いきり踏み鳴らし、隣の氷の樹から葉が全て落ちた。
雪が降る中、彼女は自分で作った氷柱を蹴り飛ばし——
「いったああああああ!!」
痛みに足を抱えて跳ね回る狐仙雅。
……その姿に応じたのは、遥か彼方の雲の層。
ひとすじ、冷たく吹きすぎる嘲笑のような風だけだった——。