第31話 キレそう……この狐を怒らせたなッ?!
彼の口元がわずかに吊り上がる。最後のあがきを見せようとした、その瞬間──
「……あれ? 鹿はどこ?」
三人の視線が同時に檻へ向く。
……空っぽ。鹿の毛一本残っていなかった。
「???」
観客席は先程の激戦の余韻に酔いしれていたところ。実況のカロ・アイヴィもハイテンションの真っ最中だった。
「さっきの抜刀斬り、まさに──」
突然、実況が止まる。喉に何か詰まったかのように、カロの目が見開かれる。
「カメラ、カメラ寄って! あれは──!?」
画面が切り替わる。
草むらの奥。銀白の影がひっそりとしゃがみこみ、胸に抱えているのは──プルプル震える子鹿一匹。
まるでケーキを盗み食いして見つかった泥棒のよう。
白狐の仙女・雅の眉がピクリと動き、手にした刀が冷たい霜のように低く唸った。
──誰だ、この瑞獣を狙う不届き者は?
……死にたいのか?
彼女の目に殺気が閃いたその瞬間、少年の腰に下げられた「華」の文字入りの香囊が視界に入り、雅の動きが止まる。
「……星?」
蕭楓が呟いた。信じられないという声で。
蜜瀅児は口をOの字に開けた。
「ええええ!? あのやつ、なんで最前線にもういるの!?」
カロは顎をさすりながら目を細めた。
「……もしかして、最初から逆方向に走ってたんじゃ?」
「はああ!? それズルじゃん!!」蜜瀅児が裏返った声で叫ぶ。
カロは意味深に微笑み、銀白の少年に目を向けた。
「彼にはね……ちょっとしたおもちゃを渡しておいた。面白い“サプライズ”を見せてくれるかもしれないよ。」
【密林の奥】
せせらぎが流れ、虫の声が囁き、喧騒から隔離された静謐な空間。
星は草むらにしゃがみ、腕に抱いた子鹿は蓮の葉をモグモグ。ほっぺを膨らませながら食べている。
「……俺は罠を仕掛けに来たんだけど? なんで子鹿のパパやってんの?」
さっき、隕石みたいに子鹿が自分に突っ込んできて、そのままくっついて離れない。
「俺、ミルク係じゃねえぞ?」
子鹿は潤んだ瞳でじっと彼を見つめた。
「……その目、反則だろ。」
ため息をつき、子鹿の頭をポンと撫でる。
「わーったよ。家族、探してやるから。」
──立ち上がろうとした、そのとき。
「……止まりなさい。」
その声は、朝の最初の雪が背筋に触れたかのように、冷たく心を凍らせた。
星の首がギギギと音を立てて振り返る──
白衣を翻し、水の上を歩く少女。月明かりすら彼女を避けるような威圧感。
……本来なら運命的な出会いの、はず。
だが、彼が最初に見たのは。
今にも人を真っ二つにしそうな目つきだった。
「って、雪菲雅が俺をぶった切るときの顔と同じじゃねーかああ!!」
脳が判断する前に、身体が先に動いた。
「小鹿を助けてくれて──」
BOOM!!!
最後まで言う暇もなく、煙玉を投げつけ、子鹿抱えてダッシュ!!
狐仙雅:「???」
「ゲホッゲホッ……止まりなさいッ!!」
雅は一閃で煙を吹き飛ばし、イルカに飛び乗り、波を割って猛追!
「見ろ、子鹿! 刀持ったババアが追ってくるぞぉおお!!」
星は逃亡符を発動、水面を駆けながら絶叫。
中継席は阿鼻叫喚。
「な、何が起きてる!? 狐仙雅選手が星選手を追いかけてる!? どういう展開だこれ!!」
カロの机が叩き割れた。
蜜瀅児は目をまん丸にして叫ぶ。
「なんで逃げてるの!? 待ちなさいってば!!」
星は逃げながら怒鳴る。
「逃げるに決まってんだろ!? 立ち止まったらぶった切られるじゃねーか!?」
手印を結ぶと、水中の罠が炸裂──
──ドォン!!
水が爆発し、波が龍のように咆哮を上げる。
イルカが驚いて急停止。狐仙雅の瞳に一瞬、驚愕が閃く──
ポチャ。
白衣の仙女、優雅に水没。
カロが絶叫。
「衝撃的だッ!! 狐仙雅が撃墜されたァ!? これは戦術か!? それとも悪趣味な神プレイか!!?」
画面が止まる。
白衣はずぶ濡れ。雪のような肌が透けて見え、水滴が曲線を伝って落ちる──
まるで水墨画から抜け出した仙女。
カシャ! カシャ! カシャカシャカシャカシャ!!
星の目がシャッターのように瞬き、連写百枚。
そして海に向かって深々と一礼。
「大自然の恵みに感謝……。」
狐仙雅の口元が引きつる。殺気がほぼ剣気になりかけていた。
「……貴様、覚悟はいいな?」
──強制バトルモード、続行。
星はやっと逃げ切った矢先、水面から金色の爆炎が炸裂!
「ハッハーッ! まだ逃げるのかよ!? 子鹿を渡せぇ!!」
浪Cが黄金の虎に乗って天から舞い降りる。まるで銀行強盗帰りのテンション。
星の瞳孔が縮まる。
「また一人、頭のおかしいやつが来た!!」
ドドドド!!
水弾、結界、トラップが次々炸裂。まるでテロリストの大盤振る舞い。
「フン、その程度──」
バチィィィィン!!!
顔面で結界に衝突。べちゃっと張り付き、そのまま水中へスライド。
「……やるじゃん。」
遠くから見ていた蕭楓が呆然。
「アイツ、いくつ罠仕掛けてたんだ……?」
蜜瀅児は笑いすぎて言葉にならない。
「だめ……無理……あっはははは!! あいつ完全にテロリスト転職組でしょ!!」
川はもはやモザイク状態、戦場は廃墟のよう。
狐仙雅が再び突撃、刀光が氷の煌めきを放つ。空気が一瞬で冬。
星は俊敏な動きで避け続け、余裕の笑みを浮かべた。
「なぁなぁ~妖ババア、攻撃当たらないけど大丈夫~? 笑わせに来たの~?」
「さっきのあの画……マジで神だったな~。もっかい見たいわ?」
「んん? 黙っちゃった? 照れてるぅ~?」
狐仙雅の眉がビクビク跳ねる。目に雷光。
「……氷剣舞・四式。」
海が震え、寒気が数里に満ちる。殺意が氷剣と化して空から降る。
星の顔が一変。
「ちょ、まっ──冗談通じないのおおお!?」
「狂雪ノ怒り──!!」
天地が凍り、死神の鎌のような刀が迫る。
星は跳び退き、子鹿を掲げて叫ぶ。
「待って待って!! 降参するからっ!! 白旗上げるからああ!!」
狐仙雅の目が見開き、刃が寸前で止まる。冷気が反転して体を蝕み──
「っ……!」
血を吐き、足がふらつき、水中に倒れる。
白衣が水面に浮かび、呼吸が乱れる。
「はぁ……は、ぁ……」
そのとき──
銀白の影がゆったりと近づき、心底ウザそうな、だが誠実そうな声で言う。
「ふうん、小っこいお嬢ちゃん~。刀って危ないんだよ? 次から気をつけな~?」
星は頭を振り、にやりと笑って彼女を見下ろす。
「へへっ、くれた風景──しっかり拝ませてもらったよ。」
――シュバッ!
刃が閃き、彼は間一髪で身を翻し、滑るようにかわした。そのまま後ろへ逃げ出しつつ、わざわざ「ザッコ」とでも言いたげなジェスチャーまで添えてくる。
「くっ……許せんッッ!!」
狐仙雅〈こせんが〉は怒りのあまりその場で足を踏み鳴らし、ふわふわの毛が逆立って、今にも発火しそうな勢いだ。
「このッ……このこのこのッ!! 本狐様をナメるんじゃないわよおおおお!!」
彼女は怒気のままに氷の上を踏みしめ、跳躍する。その瞬間、氷気の刃が無数に舞い上がり、触れたものすべてを氷像へと変えていく。
「死ねええええええええ!!」
星〈シン〉は泣きそうな顔で逃げながら叫んだ。
「ちょ、ちょっと!? やりすぎでしょ!? 殺す気!? うわああああああ!!」
次の瞬間――
月牙のような氷刃が宙を飛び、死神の大鎌のごとく彼の顔めがけて一直線に斬り込んできた。
星の顔色が変わり、抱えていた小鹿を抱きしめるようにして、水の中へと飛び込む──
ドン!!
間一髪、斬撃は掠めただけだった。
「ふぅ……」
しかし、次の瞬間。
表情が一変する。
「……やば。」
冷気が足元から背筋を駆け上がる。
「川が……凍ってる!? マジで逃げ場ないじゃんかあああああああ!!!」
星は氷の上でもがきながら、滑稽な動きでじたばたと足掻く。その様子は、まるで冷蔵庫にしまわれそうなアヒルだった。
「ふん、もう逃げないの?」
狐仙雅の声が上空からふわりと降ってくる。その唇には勝者の余裕が浮かび、銀色の狐尾が雪の光をすべるように舞い、彼女の姿が月のように静かに降りてくる。
観客席は息を呑み、静寂が支配する。
──そのとき、
ドゴオオオオォン!!!
万丈の滝が崩れ落ちた!
巨大な氷の層が崩壊し、百メートル級の津波が巻き上がる。山のような波頭が容赦なく押し寄せてきた!
実況・カロ:「うわあああああっ!? フィールドに巨大津波発生! このままだと、都市全体が被害を受ける可能性も──!!」
観客たちは恐慌に陥り、悲鳴が場内に響き渡る。
「……まずいわね。」
狐仙雅の表情が一転し、瞳の奥に警戒の色が浮かんだ。
三人は一瞬視線を交わす。言葉はいらなかった。空気が一変する。
「浪C、蕭楓。一時的に手を組みましょう。」
「了解!」
「しゃーねーな。じゃあ見せてやるよ、本気の“Power”ってやつを!!」
三人は並んで突撃。
刃は霜のように冴え、剣は星のように煌めき、拳は雷鳴のごとく轟く!
津波に正面からぶつかり、河面が揺れ、空気さえも震えるようだった。
そして、波の勢いがようやく緩んできた、そのとき――
「――ドカン! ドドドドドーン!!!」
水中から突如、水雷が数十発、連続で爆発し、花火のように空へ舞った!
浪Cは口を引きつらせた。
狐仙雅はもう、内心で核爆発。
「誓うわ!! 絶対にッ! 絶対に絶対にアンタを許さないからああああああ!!」
そして三人まとめて吹き飛ばされ、そのまま津波に飲まれる。
星は空中で三回半スピンしながら、小鹿をしっかりと抱きしめた。
「……終わったな。」
目の前は、ただ圧倒的な水の壁。星は目を閉じ、脳裏にいくつかの記憶がよぎった。
――クールな師匠の美脚とマッサージタイム。
――琴蘭お姉さんのやさしい笑顔と、琴の音。
――水靈兒と一緒にあちこち冒険した日々。
――それから、水が苦手なうさぎ娘のこと。
星は苦笑し、心の中で呟いた。
「まあ……悪くない人生だったかな……」
そのときだった。
ヒュン――
雪と果実の香りを伴って、甘くやさしい風が彼の頬を撫でた。
何か、ふわふわと柔らかいものが彼を包む。
六本のもふもふの狐尾が空に広がり、羽のように舞い降り、夢のような雪片となって彼と小鹿をそっと包み込む。
「ん……キミは……?」
最後に目に映ったのは――
しなやかで白い指。その親指に結ばれた、一本の赤い紐だった。
そして次の瞬間、
彼は、あたたかくて、くすぐったい夢の中へと沈んでいった。