第24章 犯罪級の幸福だああ!!
「君さ……全身が、輝いてるんだよ。」
「……は?」
彼女は顔を上げ、自分の右目を指差した。そこには宝石のような赤いクリスタルが煌めいていた。
「私は《幸運の瞳》を持ってるの。宝の価値を見抜ける目よ。君の光は、今まで見たどんなものより……ずっと眩しい。」
星は固まった。心臓が「ドン」と鳴って、肋骨に真正面からぶつかった。
(まさか……何かを見抜かれたのか?)
彼の戸惑いを読み取ったかのように、彼女の声はふと柔らかくなり、呪文のように囁かれた。
「心配しないで、悪意なんてないから。ねぇ、星――このまま、私と一緒に来ない?二人だけで、この世界の果てまで。」
その声が、あまりにも近い。耳元に触れそうな距離で、かすかに震える息が聞こえた。
彼は、もう少しで頷きそうだった。ほんの、あと一歩。目が合えば、それだけで決壊していた。
だが、その瞬間――
脳裏に、何かが閃いた。
月明かりの下、不安げに佇む水靈兒の姿。古琴の前に座り、静かに励ます琴蘭姑娘。そして、いつも後ろから自分を支えてくれた師匠――
あの人たち。あの眼差し。まだ返せていない恩が、そこにあった。
(悔しい……でも……俺は、あの人たちを置いていけない。)
「……カルロ・エイヴィ、誘ってくれてありがとう。」
彼はそっと彼女から一歩離れた。まるで優しい泥濘から抜け出すように。その瞳は揺れていたが、精一杯の正気を保っていた。
「でも……俺、師匠にはまだ恩返しできてなくて……雪菲雅だって、きっと許してくれないと思う。」
カルロ・エイヴィの視線が一瞬止まり、すぐに切り替わるようにトーンが変わった。
「安心して。あなたの師匠には、私がちゃんと補償するわ。雪菲雅?あの契約、私が高額で買い取ってあげる。」
彼女は一歩近づき、その瞳は燃えるように、声は低く囁いた。
「この世界はね、お金さえあれば、どんな願いも叶うの。……どう?星。」
その声は現実味を帯びすぎていて、冗談だと思えなかった。
星はまた呑まれそうになり、顔が赤く染まり、心の中で悲鳴を上げた。
(ダメだ……この女、何者だよ……この美貌に、この圧……しかも契約まで買い取るって……どうやって断れってんだよおおお!!)
「げほっ!そ、その……少し、考える時間をください!」
彼は勢いよく立ち上がり、まるで逃げるようにその場を離れた。叫びながら。
「ゼリー食べてくる!!」
少女はその背中を見送って、ふっと笑った。右目にそっと手を添える。
それは――
賭けの街で手に入れた宝、《幸運の瞳》。
その代償は――
彼女は夜空のある一点を見上げた。
そこには、火に焼かれた蝶の羽が震えながら舞っていた。やがてその羽は炎の蝶となり、黒雲を突き破り、天へと昇っていく。
カルロ・エイヴィの瞳の奥に、異様な光が灯った。
(ようやく見つけた……この賭局を覆す存在を。)
(どんな代償を払ってでも……今度こそ、勝つ。)
***
星がゼリーを取りに戻ったところで――
後ろから、ふわりと白く柔らかな手が、そっと彼の袖を引いた。
その力は、まるで風が雲をなぞるように儚く、それでも歩みを止めさせるほどの何かがあった。
星は驚いて振り返る。
蜜瀅兒の顔がすっと近づき、笑みの奥に言葉にできない小悪魔的な何かが浮かんでいた。
彼女は人差し指を唇にあて、「しーっ」と内緒のジェスチャー。目尻は夏の夜空の星みたいにやわらかく弧を描く。
「――ちょっと、ついてきてくれる?」
それだけ言って、彼女はくるりと踵を返す。足取りはまるで水面を跳ねる妖精のように軽やかだった。
星は一瞬迷ったが、結局、その背中を追ってしまった。
湯気の漂う温泉の廊下を抜け、揺れる簾の奥へ。湿った空気に微かな山の香と温泉の熱が溶け込み、夢の中のように現実感が遠のいていく。
そこに、温石を敷いた寝台があった。
雪菲雅が、静かに横たわっていた。
銀色の長い髪が肩から流れ、白い背中がうっすらと見える。肩甲骨のラインは彫刻のように美しく、斜めに差し込む光が彼女の肌を照らし、雪がとけるような透明感を放っていた。
目元にはシルクのアイマスク。表情は穏やかで、まるで午後の夢に落ちた猫のようだった。
蜜瀅兒がそっと耳元に顔を近づけ、柔らかな声で囁く。
「雪菲雅~、日焼け止め塗ってあげるね~」
「……ん……」
雪菲雅の返事は、眠気を含んだ気怠さの中にあって、まるで何も疑っていないようだった。
だが次の瞬間――
蜜瀅兒がぱっと身を翻し、小さなアロマオイルの瓶を星の手に押し込んだ。その目はいたずらを仕掛ける子どもみたいに悪戯っぽく光る。
「お願いね~、親友くん♡」
星は固まった。
掌の中にある、ちいさな精油の瓶を見つめ、額に汗がにじむ。それは、今にも破裂しそうな甘美な災難の始まりだった。
(これは……反則だろ!?幸福が……犯罪級だあああ!!)
でも身体は言うことをきかず、彼はしゃがみこみ、精油を指にとり、そっと彼女の背に垂らす。
「……ん……冷たい……」
雪菲雅が小さく身じろぎ、ほとんど聞こえないほどの声でつぶやいた。
それは羽根が心臓を撫でるような一言で、彼の指先は一瞬、固まった。
(ダメだ……この感触……柔らかすぎて……滑らかすぎる……)
彼は深く息を吸い、筆を運ぶように丁寧に、ゆっくりとオイルを伸ばしていった。まるで、かけがえのない宝物に触れるように。
だが、彼は気づいていなかった――
その暗闇の中で、彼女が目を開けていたことに。
視界は絹の布で遮られていたが、彼の体温と、蜜瀅兒にはない触感は、確かに伝わっていた。
(この手……彼女じゃない……)
心がざわめく。口を開くべきだと、理性が彼女を引き止める。
だが、心の奥では何かが葛藤していた。
拒む気持ちと……この優しさを手放したくない気持ちが、交差する。
(知らないふり……でいいよね……これ以上、ひどくなければ……)
――そんな時に。
「雪菲雅、背中終わったよ~♡今度は仰向けね~?」
蜜瀅兒の無邪気な声が響いた。
雪菲雅の全身が固まる。
頭の中で、爆音が鳴り響いた。
(ひ……ひっくり返る!?)
星の心臓は一瞬で限界を突破し、もう少しで爆発四散しそうだった。
「い、いらないっ……本当に、わ、私……くすぐったいのダメなんだからっ……!」
彼女は慌てて起き上がり、口調には自分でも見たことのないほどの混乱が滲んでいた。
「おとなしくしててね~♪途中でやめるなんて、許しませんよ~?」
蜜瀅児は微笑みながら、そっと彼女の肩に指を添えた。その動きは柔らかく、それでいて抗えない力があった。
「わ、わたし……ほんとにダメだからぁ……」
頬が真っ赤に染まり、今にも泣き出しそうな彼女の声は、まるで甘える子猫のように弱々しかった。空気までもが、ほんのりと桃色に染まっていく。
「半分しか塗らなかったら、歳を取ったとき……背中だけツルツルになっちゃうよ?」
雪菲雅の肩がビクッと震えた。
脳裏に浮かんだのは、誰かに眉をひそめてジト目で見られる――あの「左右非対称の美的恐怖」そのものだった。
(や、やだ……もしあの人に笑われたら……社会的に死ぬ……!!)
彼女は唇をかみ、深く息を吸って、目を閉じる。まるで、何かの覚悟を静かに決めたかのように。
ゆっくりと、身を翻した。
視界はまだ闇の中だが、その姿勢はどこか気高く、背筋は凛として、どれほど窮地にあっても気品を失わぬ女王のようだった。
(うそでしょ……こんな幸福、突然すぎる……わ、わたしまだ心の準備が……)
星は魂が抜けたように硬直し、喉が詰まって声も出なかった。
震える手で、そっと彼女の腹部に触れる。
その瞬間――
雪菲雅の呼吸が止まり、唇をぎゅっと噛み、心臓は収拾のつかないほど乱れ跳ねた。
彼の指先が腰の曲線に沿って滑り、その優しい力加減は、まるで境界線を探るかのように繊細だった。
(こいつ……なんて、いやらしい手つき……)
(ま、待って、そこまで触るのは……!?)
「雪菲雅~このくらいの強さで……大丈夫?」
「ん……だ、大丈夫……かも……」
彼女の声はかすれ、風のように小さかった。
気づけば彼女は星の胸元に身を寄せ、熱い息を吐き、視線は蕩けるように絡み合っていた。
そっと彼の手を握り、そのリズムに合わせて身を委ねる。いつも冷静なその瞳は、今や霞のように濡れていた。
(ダメ♡んんっ♡……この人……ほんとにずるいっ……)
(許さない……ぜったいに、許してあげないんだから……!)
静寂の中、微かな吐息と心音だけが残る。
――その身の下を流れているのは、泉の冷たさか、それとも……汗か。
やがて。
蜜瀅児がやってきて、ぐったりと温石の上に横たわる雪菲雅を優しく支えた。
「どう?わたしのテク、なかなかでしょ?」
雪菲雅は何も言わず、ちらりと彼女に目をやった。その視線は深くて底が見えなかった。
蜜瀅児の手を借りて湯から出ようとした時、雪菲雅の足が星の前でほんの一瞬、止まる。
そして振り返り――
その瞳は静かな水面のように澄んでいたが、奥底には嵐の気配を孕んでいた。
星の心臓がドクンと跳ね、脳内で不安が駆け巡る。
(……まさか、全部バレた?それとも……嫉妬……?もしかして……前にカロと……)
言い訳しようと手を伸ばすが、咄嗟に掴めたのは酒壺だけだった。
その時、雪菲雅は足早に離れていき、振り返りざまに意味不明の視線を投げつけた。
――「せいぜい、最後の晩餐を楽しむことね、銀色のクズ野郎!!!!@0@凸」
夜風が吹き抜け、星の背筋にひやりとしたものが走った。
蜜瀅児がぽんと彼の肩を叩き、ウィンクをひとつ。
「気にしない気にしない~。あの子、ちょっと拗ねてるだけ。寝たらケロッとするよ。さ、ゼリータイム♡」
星はため息をつき、結局何も言わず、ただ静かに甘い仙酒を口にした。
深夜。
三人はほどよく酔い、星は部屋で横になり、月光が静かに降り注いでいた。
その時、扉がそっと開いた。
ひとつの細い影が、音もなく近づく。
――雪菲雅だった。
彼女は星の傍らに膝をつき、寝顔をじっと見つめる。その眼差しには、少しの寂しさと……ほんのわずかな愛しさがあった。
「……バカ。ちょっとは、追いかけてきてよね……」
小さく呟きながら、震える指先で、そっと彼の手を自分の頭の上に置いた。
その目はやわらかく、三月の桃花が風に揺れるように揺れていた。
彼女はそのまま、彼の胸元に潜り込み、頬を擦り寄せた。
まるで誰かの心を探る小さな兎が、夢の中で隠れ場所を求めているようだった。
これは、彼女にとって――
千年の人生で、初めて誰かとこんなにも近づいた夜だった。
恋なんて知らないし、「甘える」という感情も持ったことがない。
殺し屋としての彼女は、腐った愛の成れの果てを何度も見てきた。
愛し合う夫婦が疑い合い、やがてお互いに殺し屋を雇う。
優しい恋人が裏で刃を隠し、次の瞬間には相手を敵に売る。
どれだけ甘い誓いも、金や権力の前ではすぐに崩れ去る。
あまりに多くを見てきたからこそ……
「ときめき」すら、彼女の中ではただの弱さになっていた。
だからこそ、彼女は愛を恐れた。頼ることも、夢見ることも。
でも――今夜だけは。
こんな酔いと曖昧が混じる夜にだけは。
彼女は認めたのだ。
恋に落ちてしまったと。
この人の前でだけなら、わがままになってもいい、と。
彼女はそっと目を閉じ、微かに微笑んだ。
たとえ明日が痛みを連れてきても……今夜だけは、少しだけ、贅沢な夢を見ていたいと思った。
そうして、ふたりは静かに寄り添い、眠りについた――
その後の十日間、朝は雪菲雅と星が一緒にサーフィンの練習をし、
夜になると、雪菲雅は決まって星の胸に潜り込んで、夢を探した。
――そして、ついにサーフィン大会の当日がやってきた。