第21章 休暇!? 同室だって!?
【現実世界・琴蘭姑娘サイド】
——ここはもう、「街」とは呼べない。
空は裂かれた布のように軋み、雷鳴と風刃が渦巻いて交錯する。灰色の煙が黒竜のように天を這い、すべての空を飲み込んでいた。かつて夢のように輝いていた水晶の街並みは、いまや瓦礫と焼け焦げた灰に埋もれている。
砕けた石畳には血の跡が乾き、深く刻まれた剣傷がまるで墓碑のように、この地に燃え盛った戦火と絶望を物語っていた。今にも崩れ落ちそうな翠緑の結界が、かろうじてこの浄土都市を支えている。
戦場の中央で、三つの気配が潮のように絡み合う。
玄郎、泉――
そして、風の中に静かに立つ一人の女。
崩れた石垣の上に、彼女は静かに立っていた。紫の衣が風に舞い、朝靄の中に咲いた幽蘭のよう。だがその美しさの奥には、息を呑むような威圧感が秘められていた。
――琴蘭。
一人、一輪の花、一音の琴。
その柔らかな外見の裏に、絶対無敵の力を秘めた女。
「サイコロ——投げる。」
玄郎が囁き、扇子を一振り。指先の骰子が宙へ舞い、瞬間、漆黒の雷が渦を巻く。すべてを呑み込む星核のような黒雷が、空気の重さを一気に限界まで引き上げた。
泉の長槍もまた、雷鳴の如き勢いで繰り出される。風を切り雲を裂き、左右からの挟撃が逃げ場を完全に封じる。
殺意が交錯し、空間が唸りを上げる。
――だがその瞬間、世界は静止した。
「……チン。」
かすかな琴の音が響いた。まるで朝露が世界に一滴落ちるように。だがその音は、夜を切り裂く星の光のように、魂を直撃した。
雷球が砕け、槍の気が霧散する。
玄郎と泉は同時に呻き声をあげ、体を弾かれたように後退。瓦礫の上に膝をつき、唇から血が溢れ落ちた。驚愕に目を見開き、琴蘭の指先がまだ弦から離れていないのを見て、言葉を失う。
「……たった一音で……俺たちの連携を崩した……?」
玄郎が低く笑い、だがその目は鋭く引き締まっていた。手の扇子を強く握りしめ、もはや先ほどの余裕はなかった。
「鳳姚女帝、百花仙と並び称される天才……噂は本物だったか。」
彼は目を細め、冷たい光を放つ。
「――だが、ずっと手加減されてるのは……敬意とは言えないだろ?」
足元から再び雷光が立ち昇り、気配が再度爆発する。
「本気で来るか?」
琴蘭は柔らかく微笑み、琴の弦に指を滑らせた。
ブウゥン――
大地から万の蔓が立ち上がる。黄金の花粉が朝靄のように舞い、芳香を放ちながらも、猛毒と麻痺の力を秘めていた。泉の長槍が震え、膝から崩れ落ちる。意識が深い深い奈落に引きずり込まれていく。
「この香り……なんなの……っ」
歯を食いしばって支えるが、琴蘭の影にすら触れることができない。
「くそっ……全く届かない……!」
琴蘭はただ静かに彼らを見つめていた。目には春の小川のような柔らかさ。
「……ふたりとも、実力は悪くないわね。」
静かに呟いた。
この戦いに、勝敗は無かった。
目的は——時間を稼ぐこと。
「……あちらも、そろそろ準備が整った頃かしら。」
その言葉と共に、大気の気配がすっと静まる。
琴蘭はくるりと背を向け、星の海へと続く幻の門へ歩み出す。衣が風に舞い、姿は霧と風の境へと溶けていった。
「待て——!」
泉が弾かれたように立ち上がるも、その先にはまったく別の世界が広がっていた。
黒い霧がうねり、氷の壁に赤黒い血脈が蛇のように蠢く。空気は氷窖のように冷たく、大地は裂け、底知れぬ深淵が口を開けていた。
泉は足を止め、その異様な世界を見つめて息を呑む。
「……ここは……なにが……?」
震える声で呟いた。
「浄土の下が……こんなにも……穢れてるなんて……」
そこへ、玄郎が歩み寄ってきた。顔にはこれまでにない深い陰り。
彼は深淵を見つめたまま、沈黙した。
「……封印が、破られるかもしれない。」
泉は驚きの眼差しを向ける。
「封印?……何を知ってるの?」
玄郎は目を閉じ、記憶の底に沈んだ言葉を低く呟く。
「……禁忌とされた、ある伝承を聞いたことがある。」
彼は瞼を閉じたまま、千年前の記憶を語り始めた。
「生命の母樹が最も枯れ、浄土が腐敗に飲まれた時……黒い気が蔓延し、夢蝶たちは信念の違いから三つに分裂した。」
「——懲戒、癒し、見守りの三派に。」
「水の浄土はかつて、最も繁栄し、人々の意志と平等を尊ぶ国だった。居場所を失った者たちを守るために存在していた。」
「だが……なぜか、一夜にして滅びた。そして夢蝶同士の内戦が始まり……」
しばしの沈黙の後、玄郎は目を閉じたまま、静かに続ける。
「噂では、水の浄土の地下に、何かが封印されているという。」
「ある者はそれを『古の邪神』と呼び。」
「ある者は『穢れた戦士』と言い。」
そして——
「……ある者はそれを、『囚われし神』だと。」
その言葉に、泉の指が微かに震える。
「……神が……囚われてる……?」
自分が育った浄土——あの穏やかで、美しかった場所。その地下に、そんな重く深い秘密が眠っているなんて。
二人は言葉を失い、ただ深淵を見つめた。
黒い霧が揺れ、底なしの闇が心臓のように脈打っている。
答えは、おそらくその闇の奥にあるのだろう。
互いに一瞬目を交わし——
そして、無言のまま、歩き出した。
千年前の遺跡へと。
深海に埋もれた、真実の眠る場所へと。
――――
一方その頃、星たちの旅路の先には──
まったく異なる風景が、そっと幕を開けようとしていた。
潮風が頬を撫で、陽光は水面にきらめく。
小型の仙舟が波を割り、瑞気をまとって駆けていく。
「ま、待ってってば、カロ・エイヴィ! 速すぎて、私、飛んでっちゃうぅぅぅぅぅぅぅう――!!」
船縁にしがみつく星の顔は真っ青。
紙のように震える体は、今にも甲板から吹き飛ばされそうだった。
「はははっ! 潮風が気持ちいいな、最高だ~っ!」
カロ・エイヴィは片手にワイングラスを持ちながら、船首で颯爽と立っている。
隣には、金髪をなびかせた蜜瀅児が、にこにこと笑みを浮かべていた。
「ねえねえ、星くん見て~! カモメが私たちと競争してるよ~っ!」
陽光を浴びた彼女の髪が輝き、波の音すら笑っているようだった。
「み、見ないよ! 見たら次の瞬間、おばあちゃんに会っちゃいそうだから!!」
「怖がりすぎ~。スノーフィアを見てごらんよ、あの落ち着きっぷり~」
船尾のベンチに、スノーフィアが静かに腰掛けている。
目を閉じ、桃色の長いポニーテールが風にたなびき、スカートの裾がふわりと舞う。
まるで朝の陽に包まれた夢の中の女神のように──
その瞬間、海の音が消え、彼女と風だけが会話をしていた。
「……さすがスノーフィア。あの状況でも落ち着いて──」
「──ドンッ!」
言い終わる前に、船体が激しく揺れる。
次の瞬間、夢の女神像は──空へ、飛んでいった。
「あれ落ち着いてるんじゃなくて──完全に電源切れてただけだぁぁぁぁぁ!! スノーフィアァァァ!!」
星の叫びが響き、光が画面を真っ白に塗り潰す。
──
陽光はまぶしく、白砂は銀のようにきらめく。
仙舟はついに岸に辿り着き、海上に浮かぶ琉璃の楼閣に停泊した。
「着いたぞ~! ここが君たちの楽園さ!」
ワイングラスを高く掲げるカロは、まるで陽気な観光ガイドのようだった。
乗船した皆が下りると、目の前の景色に言葉を失う。
──これはバカンス?
違う。
神の後庭に、誤って足を踏み入れたような──そんな錯覚。
「この楼閣ぜ~んぶ君たちの貸切! 部屋も飲み物も好きに使って、思いっきり楽しんでね!」
カロの豪快な笑い声が響く。
蜜瀅児はすでに歓声を上げながら館内へ駆け込んでいた。
笑い声だけが、廊下の奥に残っている。
星は、海を見渡せる部屋を選んだ。
風がカーテンを揺らし、斜めに差し込む陽光がベッドを優しく照らす。
まるで雲に包まれたように柔らかな寝具に、波の音が耳元でささやく──夢か現か。
さあ、横になろうか──そう思った瞬間、
「……ん?」
鼻先をくすぐる、どこか懐かしい香り。
「この香り……桃の花?」
目線を落とすと、ベッドの上に見覚えのあるふわふわのウサ耳が、ぴくりと揺れた。
「……えっ?」
思考が一瞬でフリーズする。
まるで、触れてはいけない夢の領域に足を踏み入れたかのように。
白い光の中──
そこには、スノーフィアが静かに横たわっていた。
桃色の長い髪が絹のように枕へと流れ落ち、
その身を包むのは一枚の薄いシフォンだけ。
透ける布地の下には、少女の凛とした輪郭。
息づかいすら、どこか甘く、危うく、目が離せない。
「……ボーッと立ってないで何か言ったら?」
彼女は目を開けると、冷ややかな口調で言った。
けれど、抱きしめたクッションには少しだけ、照れ隠しの温もりがあった。
「……見てたこと、バレてないとでも思った? この変態ウサギ野郎。」
「ちょ、ちょっと待って!? この部屋、俺が選んだんだけど!?」
「ふん、本座がただ……遠くで寝るのが嫌だっただけ。
奴隷は主のそばに仕えるものだからな。」
語尾は威厳を持たせたつもりだったのに、
その響きは、どこか羽根のように軽く、やわらかかった。
お互い、そっぽを向いたまま。
でも、その空気には、何かが確かに芽生えつつあった。
──この数日間、気づけばいつも二人は、
自然と、同じ部屋にいたのだった。
スノーフィアはふいに身を起こし、足を組んで威厳たっぷりに言う。
「奴隷。本座は渇いた。ジュースを持ってこい。」
「は? 手も足もあるんだし自分で取りに行けば? せっかくのバカンスなんだから、俺も休ませてくれよ。」
「……今、なんて?」
彼女の目が、すっと細められる。
風が止まり、気圧が一気に落ち込んだような気配。
「もう一度言ってみなさい? 本座が言ったの。渇いたって。」
霊力は使っていない。
それなのに、まるで海底の圧力のような威圧感が押し寄せてくる。
だが星は、珍しく引かなかった。
むしろその目に、決意を湛えて言い返す。
「どんなに“女王様モード”に戻っても、もう俺は動じない。
ああいうワガママなウサギなんて、興味ないからな。フン。」
空気が、凍った。
スノーフィアの心に、何かが鋭く突き刺さる。
初めてだった。
彼が、そんな風に言葉を返してきたのは。
(わたし……強くなったはずなのに……
どうして……遠くなった気がするの?)
唇をかみしめ、視線を落としながら、悔しそうに思う。
(あの無力な小ウサギに戻らなきゃ、もう優しくしてくれないの?──そんなの、冗談じゃない)
「……そっち向いて。」
「は?」
ベッドの端にあった水着を手に取ると、
彼女はぎこちない手つきでそれを胸元に持ち上げた。
ちらりと星を盗み見て、すぐに視線を逸らす。
(えっ……これって……
まさか、本当に……着せてってこと!?)