第11章 瓊華仙の別れ?!
琴蘭姑娘はしゃがみ込み、少女の頭を優しく撫でた。微笑みはまるで冷たい世界に差し込む一筋の陽光のように、あたたかかった。
「うん、お花は咲くよ。誰かが大切に育ててくれたらね。」
子どもたちは薬草の包みを抱えて走っていった。その笑い声は朝露のように、朝の風に乗って跳ね回っていた。
水霊児は小さくつぶやいた。
「……姑姑は、いつもそうだよね。」
星は呆然とその光景を見つめていた。胸の奥から、込み上げてくる温かな感情。その瞬間、彼の心はこの世界と、目には見えない何かで繋がったような気がした。
――温もりは、流れるもの。
「夢蝶が飛ぶように。触れられた葉は、春を忘れない。」
夜が更け、三人は星塵客棧へと戻った。
琴蘭姑娘は静かに本棚の前へと進み、『記憶の書』をそっと棚に戻した。その動作は優雅で、どこか寂しげだった。棚に並ぶ書はすべて、語られぬ過去の物語を静かに綴っているようだった。
彼女はそっと目を伏せ、唇を引き結ぶ。その横顔には、言いようのない空虚さが漂っていた。
星は息を呑み、つぶやくように言った。
「これ……全部、あなたが書いたの?」
彼は想像もできなかった。ひとりの人間が、命のすべての感情、医術、記憶を、まるで花のように丁寧に残しているなんて。
琴蘭姑娘は微笑みながらうなずき、一冊を手に取って彼に差し出す。
「これは仙薬の研究について書かれてるの。きっと……君の身体にも役立つと思う。」
星は本を受け取り、彼女の指先にふれた瞬間、胸の奥がざわめいた。思い出すのは、師匠の言葉。
「記憶は薄れても、感情は消えない。それは、永遠の痛みのようなものだ。」
星はページをめくりながら、まるで異世界の秘密に触れているような気がしていた。心臓が高鳴り、言葉にできない震えと疑念が交錯する。
やがて、ためらいながら口を開いた。
「これは……仙薬だけじゃないよね? あなたの、感情や記憶まで全部……?」
琴蘭姑娘は目を伏せ、複雑な表情を浮かべながら、そっと答えた。
「この本は、仙薬のことだけじゃない。私の考え、想い、言葉にできなかった心……すべてが込められてる。」
星は静かにうなずいた。
「そうか……『記憶の書』って、ただの学術記録じゃないんだね。感情の、居場所なんだ。」
琴蘭姑娘の瞳は次第に深くなっていく。まるで湖面にさざ波が広がるように、静かに語り出す。
「これを記すのは、誰かに覚えてほしいからじゃないの。」
彼女の指が書のページをなぞり、その声は微かに震えていた。
「時々ね、自分でさえ忘れてしまいそうになるの。もし書き留めなければ、笑顔も、願いも……まるで、最初からなかったように思ってしまう。」
彼女は星を見つめ、ふわりと笑った。それは夜風に揺れる蝋燭のように、か弱く、けれど確かに輝いていた。
「記憶は薄れていく。でも、魂に刻まれた感情は、夢の中の風のように、醒めたあとも胸の奥で痛み続けるの。」
「この本はね、誰かのために書いたのかもしれないし……遠く離れてしまった、かつての自分のためかもしれない。」
書の光に映し出されたのは、ぼんやりとした懐かしい影。それは、時空を越えて自分自身と向き合う姿だった。
言葉が終わると、静まり返った空気の中に、語られなかった後悔がそっと書の中へと落ちていく。それは、長い時の流れの中で誰にも気づかれないまま、ささやきとなって残った。
星はしばらく黙っていたが、やがて静かに尋ねた。
「……琴蘭姑娘、あなた……大丈夫?」
その瞬間、湖面の微かな光も、揺れたように見えた。
琴蘭姑娘は穏やかに微笑み、窓辺へと歩き出す。忘憂湖を静かに見つめるその姿は、夕暮れの中で風に溶け込んでいくようだった。
「星。」
彼女はふと振り返り、柔らかくも深い声で問いかけた。
「あなたはどう思う? 記憶は……残すべきだと思う? それとも、忘れるべき?」
星は目を伏せ、小さく答えた。
「わからない……でも、忘れる方が楽かもしれない。」
琴蘭姑娘はその言葉に静かに耳を傾け、ほのかに微笑んだ。その微笑みは、朝に咲く水仙のように静かだった。
透き通る羽は朝露を集めたように淡い光を放つ。それは誇りでも、力の象徴でもない。見る者の心を震わせる、静かで優しい美しさだった。
羽ばたき一つ一つが、まるで記憶が空気中を流れるような感覚を残していく。
その光は、まぶしくはない。ただ、心の奥に触れる。
――まるで、傷つき壊れた魂を繋ぎ直し、他者のためにそっと架けた小さな橋のように。
その瞬間、星は息を呑んだ。
闇の中を彷徨う無数の魂が、彼女のそばを通るたび、微かな光をまとってゆくのが見えた。
「この翼は、命への誓い。……そして、私自身への誓い。」
「私は七翼の夢蝶になりたい。“彼女”のように、この記憶と花で紡がれた楽園を、守りたいの。」
琴蘭姑娘は手を差し伸べた。その微笑みは、夜明けの最初の光のように暖かく、そして、言葉にできない決意を秘めていた。
「星、一緒に来てくれる?」
「私と一緒に、この命の庭を守ってほしい。……ひとつひとつの笑顔を、大切にしまって、忘れないように。」
星は彼女の瞳を見つめた。その中には言葉では言い表せない想いが詰まっていて、けれど一言も語らなかった。
彼の記憶はすでに曖昧だった。それでも、あの時どれほど孤独で、無力だったかは覚えている。
心の痛みに触れるたび、何度も諦めそうになった。だが今、目の前にいる彼女は、闇の中に差し込む一筋の光だった。
手を伸ばそうとして、途中で止まる。心の中に渦巻く感情は、とても言葉にはできなかった。
過去の傷、今の迷い、未来の選択。すべてが、絡み合ってひとつの結び目になる。
琴蘭姑娘は、急かさなかった。ただ、静かに待っていてくれた。
やがて彼女は、そっと星を抱きしめた。翼が、彼を優しく包み込む。
「星、この世界を見ておいで。」
「笑って、思い出を抱えて。君は旅の通りすがりなんかじゃない。この大地の、すべての物語の証人なんだから。」
「いつか……自分の答えが見つかったとき、私の招待は、いつでも開いているよ。」
星は目を閉じ、その温もりに身を任せた。
――これはただの誘いじゃない。優しくて、深くて……魂を救う招待だった。
その瞬間、星の魂の奥底で、かつての記憶が一枚の白い羽となって、静かに舞い降りた。
枯れかけていた命の花が、再び、そっと光りはじめた――。
「星——っ!」
かすかな足音が、ほのかに揺れる光の影を駆け抜けた。星は一瞬呆けたように目を見開き、琴蘭おばさまの腕の中からそっと身を起こした。
扉の向こうには、どこか懐かしい小さな姿が、満面の笑みを浮かべて駆けてくる。眉と瞳には、まるで月光が宿っているかのように輝いていた。
水霊児は息を切らしながらも、切迫した声で、けれどどこか儚げな緊張を滲ませて言った。
「星、姑姑……忘憂の夜が始まっちゃうよ、急いで!」
そう言って、彼女は軽く手を引き、星を扉の外へ連れていこうとした。
「待って、霊児。」
星は振り返り、琴蘭おばさまを見つめた。その目にはまだ、消えぬ温もりが残っていた。まるで千の言葉を呑み込み、一瞬の視線に託すかのように。
彼は掌をわずかに動かし、金色の光が脈打つ《気韻の蓮》を生み出す。それは天から舞い降りた一滴の光のように、神々しくも優しく揺れていた。
そっとそれを琴蘭おばさまへ差し出し、言葉はなくとも、その想いは深く——
「あなたの願いが、すべて叶いますように。あなたの祈りが、いつか現実となりますように。」
琴蘭おばさまの瞳が揺れた。星のようにきらめき、炎のように燃え広がり、ただ一度の笑みで、世界の色を塗り替える。
その瞬間、心の琴線が唐突に弾かれ、万の矢が魂の奥底へ放たれたようだった。
天地の万象はすべて色褪せ、彼女の美しさだけが、唯一無二の風景として、この世に刻まれる。
二人の背はやがて夜の帳の中へと消えていき、室内には静寂だけが残された。
「……彼らと、別れたくはないのですか?」
柔らかく、静かな水のような声が、本棚の彼方から響く。
琴蘭おばさまが振り返ると、霞の中に佇む一人の剣仙がいた。微かな光の下、銀白の鶴模様の長衣を纏った瓊華仙。その姿は、まるで夜の風のように儚く、美しかった。
琴蘭おばさまは袖口をそっと整えた。その所作は月下の湖水が水草を撫でるように繊細で、静かに歩み寄っていく。
彼女は瓊華仙の前に立ち、微笑みを浮かべた。瞳の奥にかすかな光が揺れていたが、声にはしなかった。
ただ、そっと手を伸ばし、瓊華仙の肩にかかった乱れた髪を整えた。
それは、まるで最後の触れ合いのように、あまりにも優しかった。
瓊華仙は伏し目がちに、低く呟く。
「もういい……一度歩き出せば、戻れぬ道もある。」
その声は塵のように軽やかでありながら、俗世との縁を断ち切る覚悟が宿っていた。
琴蘭おばさまは眉をわずかに動かした。湖に風が吹いたときのように、細やかな波紋が広がる。
そして、静かに問いかけた。
「だから、あなたは彼らを、私に託すのですか?」
瓊華仙は何も答えず、ただ遠くを見つめた。
その先では、水霊児と星が肩を並べて駆けていく。その姿は、夜空に流れるふたつの流星のように、儚くも輝いていた。
彼女の眼差しはどこか柔らかく、しかし名残惜しそうで——やがて、そっと瞼を閉じる。
「……ええ、お願いするわ。」
その声はかすかに掠れていて、まるで何百年も胸に秘めていた誓いのようだった。
瓊華仙は手を軽く振ると、ゆっくりと踵を返し、深い闇の中へと姿を消す。銀白の衣が風に揺れ、やがて静かに、見えなくなった。
図書館の中で、ひとつの灯りがふっと消える。それはまるで、一匹の夢蝶が、そっと散ったようだった。
琴蘭おばさまは紫の瓢箪を握りしめた。それは、果たされぬ約束の残響であり、未知なる運命への導きであった。
その手に力を込めるたびに、過去との別れが、そして言葉にならない願いが、彼女の中で静かに息をする。
「……ごめんなさい、親愛なる友よ。」
彼女の囁きは、湖面を渡る夜風のように静かだった。
そして彼女は、果てしない闇を見つめた。瞳の奥に宿る決意は、誰にも気づかれぬほど微かで、けれど確かだった。
「今回は……約束を、守れそうにありません。」
消えかけた灯が、ふたたびかすかに明るくなる。まるで誰かの覚悟が、夜の中で密かに花開いたかのように。
そして、無音の空間にふいに琴の音が響く。
優しく、けれど決して揺るがぬ決意を秘めた音色だった。
みんなが応援してくれるなら、それだけで嬉しいよ。
日本語から翻訳するのは初めてなので、誤訳があったらご容赦ください。本文は下記URLにあります。
p-https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=24666038