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(1) 陰

善人には福が訪れる――いわゆる勧善懲悪という物語を、わたしはわりと好んでいる。


事実か否かは別としても、「善行を積めばきっと報われる」という信念は社会を維持する上で強力な足かせとなる。


たとえば、すぐ背後にいる誰かが自分の背中に刃を突き立てたりしないだろうという信頼。


今夜飲む酒に毒など入っていないだろうという期待。


世の中の全員が詐欺師で、今この瞬間にも自分の金を盗んでいるのではと疑わないからこそ、人は安心して社会という輪の中に溶け込む。


だからこそ、我々は今の社会を維持することができる。そして、人々は「悪」にならないよう努力するのだ。


けれど、本当に人の心に欲望がないかといえば、誰の胸にも少なからずは存在するもの。


欲望はたいてい嘘を呼び、嘘は富を呼び、手にした権力というのは想像以上に甘美だ。


その甘味を知る者は限られているがゆえに、彼らは大衆の耳に甘言を囁く。


「善く生きれば福がある、悪事を働くなど馬鹿馬鹿しい」と。



そうして多くの人々を“善人”としてつないだ社会の中で、大きな富を握るのは、



結果的に偽りにまみれた者たちばかり。










「ねえ、お兄さん。ちょっと杖を貸してくれない?」



場末の古びた酒場。常連同士が集まる気安い場所で、慌ただしく杖を借りようとする理由など、おおよそ察しがつく。



「何百年も生きてるようなとんがり耳に惑わされて、人生棒に振るのはごめんなんだが」



とんがった耳といえば、エルフ族の最も一般的な特徴。 フェルニュに声をかけてきた、可愛らしい少女のような見かけのエルフも、実際は普通の人間の少女より二百年は長く生きているのだろうと想像できる。


だが彼はそう言いつつも、テーブルの上に自分の杖をどんと置いた。



「お兄さんはいいとして、一人につき金貨二枚ね」



「男のくせに細かいと魅力ないわよ?」



エルフの少女が金貨でいっぱいの袋をテーブルに置き、杖をひょいと持ち上げる。中にはざっと見ても金貨が五十枚は入りそうな量で、彼は苦笑せざるを得なかった。



「その気でハメるつもりなら、もっと若い奴を選べばよかったのに」



周囲に少なくとも二十人以上は取り囲んでいるのだろうか。 フェルニュは金貨を一枚だけ取り出し、店主に投げる。 店が半壊する程度なら、それで十分弁償できる。



「だってお兄さん、おいしそうなんだもん」



ポケットから予備のワンドを取り出して握る。 金を受け取ってしまったからには、こちらも彼女に協力せざるを得ない。 もしこの場で彼女が死ねば、杖は戻ってこないし、金貨も相手に奪われるのがオチだからだ。



「杖が目当てだったんでしょ?」



あるいは戦力が欲しかっただけかもしれない。



「どこで手に入れたの?」



彼女はフェルニュの杖にそっと魔力を流し込みながら尋ねた。 当然といえば当然だ。金で買えるような代物ではない、上質な一品なのだから。



「ロード・レアさ」



「はったりでしょ」



「信じるも信じないもご自由に」



取るに足らない会話の合間に、場にはピリついた緊張が漂う。

勘のいい客や店主はとうの昔に逃げ去っており、静寂の中に数十の気配だけがぎらついていた。



「くそ、もう金貨二枚多くふっかけておけばよかったわ」



こっちも二十枚は上乗せしてもよかったが。 フェルニュは面倒くさそうにエルフの少女を睨みつけた。



「でへっ」



申し訳なさそうに、でもどこか挑発するようにウインクする彼女の後ろ姿を最後に――



――ドカァァァンッ!!!




激しい爆音が酒場を吹き飛ばし、戦いの火蓋が切って落とされた。








ここは誰かにとっては生活の糧であり、思い出の場所でもあるだろう。

ある者にとっては生きる支えであったかもしれない。

だが今、すべては崩れ去り、そこに残るのは砕けた瓦礫と木片だけ。



「ぷははっ!! お兄さんがいなきゃ死んでたわ、ほんと! あんた、戦いめっちゃ強いのね!」



何がそんなにおかしいのか、少女は破片まみれの板に背を預け、フェルニュの太ももをやたらと叩きまくる。



「いちいち“お兄さん”って呼ぶなよ。年は俺の倍以上くってるくせに」



つい先ほどまで壮絶な殺し合いが繰り広げられたとは思えぬほど穏やかな二人。しかし辺りには、上下にごろごろ転がる四十を超える死体が散乱していた。



「もしあんたが“取るに足らないへなちょこ”だったら、そのままスッと後ろから殺して金だけいただいてたのにね~」



なんて物騒な冗談を、目に涙まで浮かべて大笑いしながら口にするエルフ。



「さすがとんがり耳の連中は性格が悪い。計画がダメならせめて残金くらい払えや」



彼女に向かって手を差し出し、金を催促するフェルニュ。

お互い、すぐにでも相手の首を狙うかもしれない関係なのに、こうやって交わされる軽口や気の抜けた仕草は、危険な世界だからこその奇妙な“黙契”なのかもしれない。



「残念だけど、今は持ち合わせがないの。名前を教えてくれたら、いずれ払うわ」



「はあ… 目の前で金貨三十枚は踏み倒されるってわけか。いいだろう、名前なら表と裏、どっちで教えてほしい?」



こうした場面では、互いの性格や立場を探り、縁を続けるかどうかを決めるのが通例。ある程度打ち解けたと感じたら、彼らは“名前”を交換する。


裏の世界でのみ通じる偽名と、表の光の下で生きる本名。


どちらを明かすにせよ、“名前”を辿れば“縁”は繋がる。



「表の方を聞いても、あんたは知らないでしょ?」



女性の言葉にフェルニュは鼻で笑った。この裏社会にも、それなりに名の通った人物がいないわけではない。


たとえば名を挙げれば皆が知るような“世紀の犯罪者ジェフリー”とか、この裏世界の片隅をがっちり支配している大株主で大富豪、ババ・ヤガの“ネス”など。

どちらもこの界隈に足を踏み入れたなら知らぬ者はいない逸話の持ち主だ。



「フェルニュ・J・ジャスター――ジェフリー、だ」



彼がひどく傲慢な顔つきで名乗りを上げると、少女はあからさまに呆れたように大げさな笑みを浮かべ、その口元がわずかに震えた。



「はぁ? じゃあ私はネスってことにしとくわ」



そういう名前を口にすると、ほぼ例外なく同じ反応をされる。

大抵はただのなりすましなのだ。

もちろん、二人ともわかっている。

目の前の相手が単なる無名の裏稼業人でないことぐらいは。



「金貨を払う気がないなら、とっとと杖返して消えろ。詐欺師が」



運が悪いにもほどがある、と言いたげにフェルニュが顔をしかめる。



「フェルニュ・ジャスターだって? じゃあ私も ‘めろーん’ だわ、べーっ」



ネス(と名乗った女)は、片方のまぶたをぐっと引っ張って挑発するようにベーッと舌を出した。



「あんな大物の名を騙るなんて、ちびっ子には荷が重いんだよ、リコネス」



「凶悪犯の名を騙るより、まだマシじゃない? 若造のお兄さん?」



互いに悪態をつき合った後、やっと現実に引き戻されたのか、二人は小さく息を吐き、静かな視線を交わす。


オンラインでしか知らなかった者同士が、オフラインで顔を合わせてみると、予想と違う部分ばかり。それは裏の世界ではよくある話だった。



リコネスが放り投げた杖は、まるで戻るべき場所を知っているかのようにフェルニュの手にしっくり収まる。



「相変わらず金は踏み倒すのな、魔女ばばあ。今度はそっちが借りを作ったんだぜ?」



「おかげで助かったもの。ネスは恩を忘れないわよ」



その台詞に、フェルニュはぶるっと身体を震わせ、気味が悪いとでも言わんばかりに耳を塞いだ。



「うへぇ…そのしゃべり方、慣れねえな。筆致はめちゃくちゃ古風くせに」



一見したところ、この二人は旧知の仲らしい。

裏社会に足を踏み入れたばかりの頃から、あちこちで大暴れしては世界を掻き回す“狂人”フェルニュ。

そして、そんな彼の行動を面白がってひそかに支援してきた古参の“魔女ばばあ”ネス――どうやら互いにその正体を知ってはいたものの、初対面がこんな形になろうとは予想外だったのだろう。



「これくらいのギャップがあった方が可愛いでしょ? それともセクシーなお姉さんの方が好み?」



ネスは妖艶なポーズを決めてウインクするが、フェルニュは嘔吐でもしそうな顔をしてわざと大げさに嫌悪感を示す。 あたかも実の姉が勝負下着を見せつけてくる場面を目の当たりにした弟のようだ。



「姉さんとか言うな。どうせ年をくってしなびた魔女だろうが。どのみち俺には故郷の親を思い出させるくらいだ」



「そんなつもりで薬を煎じて送ってきたの? あたしはてっきり……飲んだら身体が熱くなって、すっごく力が湧いてきたから……」



ネスはフェルニュをじっと見つめながら顔を赤らめる。


まさか変な効能を期待したのか、フェルニュは思わず眉をひそめた。



「おいおい、このエロフめ」



「ぷははっ! いやだってさ、実際あたし、あれを長老にもあげたし?」



面白がっているのか、ネスは底抜けに明るい笑い声を上げる。



フェルニュはそんな彼女を軽く殴る真似をしながらも、途中で腕を降ろしてしまう。



「はあ、もういい。どうでもいいさ」



「何よ? あたしに飲んでほしかったんじゃないの?」



ネスは再びフェルニュの膝にごろんと横になり、からかうように問いかける。



「いろいろ世話になったからな」



淡々と答えながら、その声の奥底にはどこか気恥ずかしさがにじむ。



「ふぅん、やらしいわね」



ネスはにやりと笑い、指先で彼の太ももをぷにっとつつく。



「だから煎じて送ったんだって、変態エロフ女が!」



「はいはい。わかりましたってば〜」



表向きは怒鳴るように声をあげ、ネスを押しのけるようにするフェルニュ。

しかし、いつも人を警戒していたはずの彼が、ここまで自然体でいるのは気のせいではないだろう。



二人の間にただよう、得も言われぬ安堵感。


それは、荒んだ裏の世界を生き抜く者同士が、短い束の間に交わす“語らい”のようでもあった。

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