天災竜王
流川澄男のみならず、そのほとんどの者たちが感知しえない魂の深奥。
何者もよせつけない虚ろな常闇の中、時の流れも世情の流れも無視して、肉体なき``それ``はぐるぐるととぐろを巻いていた。遥か昔、肉体があった頃を懐古するかのように。
「逝ッタカ……佳霖」
``それ``の声音は、酷く冷たい。無様に死んだ生命体などただの砂塵とでも言わんばかりに、その言葉は無関心に満ちていた。
「ダガ、新タナル触媒ヲ得タ今……我ガ大願ノ成就ハ必然」
肉体なき己。魂のみの我が身。己の存在そのものに想いを馳せ、肉体を持っていた頃の己の姿を憂いた。
肉体を持っていたはるかなる太古の昔。目につくもの全てを力の限り破壊し、殺し、食い尽くしていた日々は、数十、いや数百億など霞むほどの膨大な時が流れようとも、色あせることなどない。
魂を三つに分断され、存在が三分の一に低下していたとはいえ、劣等種たる竜人族ごときに封印されるとは間抜けな話ではあったが、生きてさえいれば再起などいくらでも図れるものだ。
どいつもこいつも甘いもの。封印などせず滅していれば、この哀れで無知で蒙昧で、他者の力を借りねば何も成せない無能な小僧が、全てを狂わされることなどなかったものを。
関わりがなければ今頃井の中の蛙として、何も知らぬまま気楽に気長に、死ぬまで鳴き続けられただろうに、世界とは残酷なものだ。
だが、その残酷さこそが、愛おしい。
世界とは常に残酷なものだが、だからこそ美しく、この世に存在する、遍く全ての魂を俯瞰し、そして愛しているのだ。
それを知らぬのは生きとし生ける者のみであり、運命を嘆くのもまた、その世界で生きとし生ける者のみなのだ。
全くつまらぬ話である。世界の真理を解そうとせず、その思いを理解しようともしない。それを理解すれば、己という存在が、この世界においてどれだけ矮小であるか。知ることもできるだろうに。
竜とは尊大にして孤高なる種族であるが、だからこそ内心では己自身が誰よりも矮小であることを知っている。どれだけ強く、繁栄しようとも、食い殺されればそれまでなのだと、かつて誰しもが自覚していた。
生殺与奪が跋扈していた、竜族一強の時代。今となってはもはや、竜族の世でも古の時代として語られるのみであるが、その時代を生きる竜どもは、常に己の力を疑心し、己に害する者全てを確実に殺め、血にし肉にし骨にしていた。
だが他種族が生まれ、世界が多様性を持ち始めた現代。竜族はあろうことか、他種族に寄り添うなどという愚行に出た。そしてさらには、生存競争の手を自ら緩めたのだ。
誰しもが争いに疲れ、癒しを求め始めた。それも、己より遥かに矮小で劣悪で、我らが竜族からこぼれ落ちた劣等因子の権化―――人類に。
許せなかった。その現実が。竜族が生存競争を弱め、己の内に宿る矮小さから眼を背ける、その現実が。
竜族から強大さ、勇猛さを抜いたら何が残る。ただ図体が大きいだけの蜥蜴でしかないではないか。
まさに愚鈍にして愚劣。世界への背信以外のなにものでもない。こんなことがあってはならないのだ。
この世界の真理は生殺与奪と弱肉強食。強き者は孤高に力を奮い、弱き者は強者にされるがまま蹂躙され血となり肉となる混沌の世。それがこの世界の実体なのだ。
なのに、あろうことか、共存している。いつから竜族は、これほど向上心のない劣等種族に堕ちたのか。
力を求めぬ竜など竜にあらず。ただの蜥蜴、無様に踏み潰されその生命の息吹を容易く消してしまう劣等種。
そのような世界の真理に背する者など、竜だろうとなんだろうと存在してはならない。存在する意味も価値もなければ、その必要性もないのだ。
「アノ忌々シキ``黄金竜``ガ、我ノ断片ヲコノ世界ニバラ撒キサエシナケレバ、今頃……カツテノ竜人ドモト戦ッタトキモソウダ……長イ時間ヲカケ錬成シ、ヤットノコトデ受肉デキタ第二ノ肉体ダッタトイウノニ……」
``それ``―――天災竜王ゼヴルエーレこと、元``殲界竜``ゼヴルガルアは霊圧を解放する。
虚ろな常闇が激しく呻いた。だが、それを感知する者は誰もいない。ただただ空虚に、その怒りは闇を凪ぐのみである。
「嗚呼、嗚呼……!! 今スグニデモ破壊シタイ……!! 我ガ前ニ立チ塞リシ、愚カナルソノ全テヲ……!!」
誰にも聞こえないことは、痛いほど分かっている。
何を言っても今の自分はただの精神体にすぎない。精密に編みこんだ霊力で己の存在を保護し、輪廻の輪に乗るのを拒み続ける哀れな身の上でしかないのだ。
それもこんな間抜けで無能な小僧の肉体を借りねばならないという始末。これを屈辱と言わず、なんと言おう。辱め以外の言葉で形容しようがない。
「ダガマアイイ。遅カレ早カレ、コノ肉体ハ我ノ物トナル……小僧ノ肉体ニ完全ナ受肉サエ達スレバ、現世ヘノ復活トイウ大願ハ成サレルノダカラ……」
魂のみで笑う。復活するそのときを想像しながら、笑う。
焦る必要などどこにもない。澄男が我が力を使えばいいだけの話である。使いたくないなどと偉そうに豪語していたが、それができるほど世界というのは生優しい存在ではない。
確かに流川家という存在は強大だ。人類でも最上位の者どもが徒党を組んだところで、敵いはしないほどに強い。
だが、所詮は井の中の蛙だ。辺鄙な大陸のヒエラルキーにおいて、生態系上位に位置している程度の存在でしかない。
この大陸の北端に生息する``魔人``の存在すら感じることができず、最果ての竜族の存在すらまともに知らない以上、取るに足らない羽虫の中に一際大きい羽虫がいる、所詮その程度の差でしかないのだ。まだあの青髪のメイドの方が、世界の道理というものを理解している。
上には上がいるのだ。流川家本家派当主として相応の実力こそあるが、その実力の大半を支えているのも、小僧が我が魂を宿すことで、その加護を受けているにすぎない。その事にも気づいていないのだから、底なしに間抜けな羽虫である。
そんな奴だからこそ、竜位魔法を使わず、己の理想を突き通すなど夢想も甚だしいのだ。
理想とは己で行使できる全ての力を使い、力づくで実現するもの。己の中に宿る``身勝手``で、己の周囲を包括する、その全ての道理を捻じ伏せることで、初めて大成するもの。
強大な力。全てを跳ね除ける身勝手な利己心。それらなくして実現できるはずもない。本来、理想など叶わぬものゆえに。
「ダガ奴モアノ佳霖ノ子……我ガ予想ヲ超エルヤモシレヌ。ダガソレデモイイ……ドウ転ガロウト我ガ大願ノ成就ハ必定ナノダ。タトエドレダケノ時間ガスギヨウト、ドレダケノ恥辱ニ塗レヨウト構ワヌ……我ガ生涯、ソノ全テヲ賭シテデモ、成スベキ大義ノタメナラバ……!!」
際限ない、虚ろなる暗黒の中で、ゼヴルエーレは呻いた。竜であった頃のように、天地轟かす咆哮を放つ。
その咆哮すら現世に届くことは決してない。ただただ澄男の魂の深奥に掻き消え、彼の一部になるだけだ。
しかしそれでも構わない。彼の力が増すこと。それすなわち、己の大願、そして大義の成就。その全てに近づく布石となるのだから―――。
「全テハ、大義ヲ成サンガタメニ……!!」
全ての者、魂の宿主すらも寝静まった深夜。太古の邪竜もまた、肉体を得、栄えある己の姿を現世に顕現させるその日を願い、あるはずのないその目を閉じたのだった。




