先代達の夜宴
弥平と是空すらも寝静まった頃。
分家邸を一階にある一際大きい居間で、机に置かれた酒をおちょこに注いで嗜む白髪混じりの壮年―――流川凰戟と、縁側で常闇の空に浮かぶ満月を眺めながら、酒瓶を煽る黒髪短髪、筋肉で図体が破壊的に盛り上がっている女性―――流川澄会は、若衆が眠りにつき静かになった分家邸の一室で、まるで我が物と言わんばかりに寝そべり、酒臭さ漂う息を豪快に吐きちらしていた。
「お前……やっぱり」
テーブルで一人、おちょこを片手に酒を嗜みながら訝しげな声音で呟くと、こちらを見返すことなく天井を眺めながら、聞き返してくる。
そこはかとなく漂う哀愁。溜息をつきながら、続く言葉を言い放った。
「佳霖の野郎が尾を引いてんじゃねぇか?」
一瞬、澄会を中心に取り巻く空気がざわつく。彼女の霊圧に反応し、空気が震えたのだ。武力統一大戦の覇者の一人である凰戟は、それを決して見逃さない。
今は酒に酔っているし、澄会は酒乱の気がある。怒り上戸で絡まれても力づくで黙らせられる自信はあるが、寝ている連中を叩き起こしてしまう可能性がある。
口に出した手前、どうやって穏便に済ませるべきか考えてから言うべきだったとわずかながら後悔していると、澄会の霊圧が下がり、空気の震えが止んだ。
「兄様も人が悪いぜェ……気にしねェようにしてたってのによォ」
勢い良く起き上がり、また酒瓶を煽る澄会。
彼女らしからぬ大人しさと覇気のない声音。満月から放たれる光によって描かれる背中の陰影が、大きく澱んでいるように見えた。
「仕方ねェさァ。この世は弱肉強食ゥ。奴だってそれは痛いほど分かってただろうしィ、俺らを裏切る前提で動いてた時点で覚悟はできてたはずさァ。だからこそ奴は死にィ、澄男が生き残ったァ」
「……」
「俺は弱肉強食の摂理にガタガタ文句つける気はねェ。弱い奴は殺られるゥ……たとえ親と子の殺し合いでもそれは変わらねェ。変わらねェけどよォ……」
「……」
「間に合うってんなら俺ァ……! 奴と分かり合いたかったぜェ……! 心の底からよォ……!」
縁側の床に数滴、雫がこぼれ落ちた。その雫は月光を目一杯含み、床に落ちて弾ける瞬間、宝石の欠片のように輝きながら霧散した。
返す言葉はない。何を言っても無粋にしかならず、ただただ聞く耳を立てることしかできない。静かにお猪口に含まれた酒を煽る。
澄会の言うとおり、この世界、特に暴閥の戦いとは、まさしく弱肉強食。戦いで勝った奴は更なる繁栄をその手にし、負けた奴は滅びるか勝者へ服従かのいずれかのみ。
大戦時代、佳霖は本家派当主の護衛として優秀な戦士だった。確かに当時から残虐な面が見え隠れこそしていたが、それでも澄会への助力は惜しまない勤勉な存在であった。
今となっては、それら全てが流川家に取り入るための演技にすぎなかったわけだが、己の野望のため、それだけの演技を誰にも心中を悟らせず、疑いの余地すら残さずやってのけたのは、まさに執念の賜物だ。
誰も信頼などせず、持つのは己の野望のみ。普通の人間や少し有能な戦士程度では心が折れてしまうはず。裏切りに関しては今でも腹に据えかねるものだが、敵ながらあっぱれと称賛を贈りたいほどである。
そして、それだけの戦士を誰よりも愛していたのはただ一人、流川澄会だ。
どんな理由や野望があったにせよ、佳霖は流川を裏切り、戦う道を選んだ。澄会だけではない、己の血を分けた実の息子たちに憎まれようとも、それら全てを織り込んだ上で戦いに身を投じたのだ。
もしもただの野心深い大悪党であれば、なんとしても生き延び再起を図ったはずだろうし、それができない佳霖ではなかったはずだ。
だが彼は澄男と戦い、そして死んだ。それすなわち佳霖が自ら命を賭して、野望を賭して、一人の勇猛果敢な戦士として戦いを挑み、その命を散らしたということ。
何の野望を抱いていたのかは知る由もない。だが最後の最後まで己の野望を貫き、野望とともに散った、まさに戦闘民族に相応しい気高い最期である。
流川の血縁者ではなかった余所者であれど、彼の心根は流川と同じ。その生き様は戦闘民族のそれであった。
裏切りを許しはしないが、彼の死を無下にすることもまた許されるものではない。少なくとも、澄会は―――。
「佳霖の奴ァ寡黙な奴だったろォ……? あんま自分語りをしねェ男だったがァ……一度だけぽそりと本音らしい言葉を放ったことがあんだよォ……」
「そういやそうだったな。俺はお前がどうしてもって言うから信じてたんだが……どんなこと言ってやがったんだ?」
涙ぐみながらも豪快に酒を飲む澄会は、満月を眺めたまま、こちらを向こうとしない。
漢は決して弱味を見せない。それを地で行くのが澄会である。鼻声混じりの声音で、続く言葉を紡いでいく。
「私は凡愚だ。可能なら、天才に生まれたかった……ってなァ」
「野郎は優秀だったがな……」
「今思えば、佳霖の奴が満足したところを俺は見たことがなかったァ。奴に殺されて生き返ったときィ、ようやくそれに気づいたんだよォ。奴が本音を漏らしたあのときにィ、俺が気づいていればァ……アイツァ……」
一度決めたことは決して後悔しない。常に前を向き、後ろは振り返らない。大戦時代、その信条を魂に刻み、地獄のような鍛錬を続け、北方の怪物―――先代花筏家当主``巫女``花筏無花と互角に渡り合った覇者、流川澄会の懺悔。
内心驚いていた。初めて見たのだ。何事があろうと決して退かなかった彼女が、思わず後ろを振り返ってしまう、その瞬間に。
「たくよぉ」
お猪口に酒を注ぎ、揚々とそれを煽る。気だるそうに言いながら、よっこらっしょとオッサン臭く、あぐらをかいていた足を組み替える。
「俺は本当、馬鹿な妹を持ったもんだぜ」
流川澄会は人を疑わない。腹芸なんてできた試しはなく、話し合いも拳で語り合う以外にできないタチである。
一度信じると決めたら、誰が何と言おうとそれを曲げず、最後の最後まで信じ抜く。たとえ敵でも明日味方になれば、それは一生の友だと裏表なく言い切る豪胆さを併せ持つ、勇猛な戦士だ。
凰戟には決してできない。感情が走るよりも圧倒的に速く頭が先に回る彼は、究極的に己の血縁者以外信じない。花筏との和平協定も澄会は無花たちと百パーセント心の友になりたいがために結ぼうとしていたが、凰戟は戦争を適切なタイミングで終わらせたいという打算があってこそであった。
花筏と流川が争い始めれば、戦いは終わらない。どちらかが滅びるまで永久に続くのだ。花筏側もそれを理解していた。だからこそ結べたのだが、本家派当主が澄会だったからこそ、今もなお摩擦なく花筏と関係が続いたと言えるだろう。
花筏の巫女も、澄会の裏表のなさに惹かれていた部分があったのだ。
しかしながら佳霖はどうだったのか、その結果が今だ。澄会の人柄をもってして、佳霖の心を完全に氷解させることは叶わなかった。
佳霖は最初から己の野望のためだけに流川に来たのだから無理もない。だが澄会からすれば、そんなことはただの言い訳でしかないだろう。
戦いこそ生き様、恋愛など知らなかったはずの澄会が、一人の男にそれだけの想いを抱くのだから、女とは不思議な生物である。
流川澄会は英雄であり、覇者である。佳霖という唯一の想い人が戦場で没しようとも、決して後退はしない。弱肉強食という武市、ひいてはこの世界において絶対にして究極の摂理に準じ、いずれ佳霖の死を割り切るだろう。多少、時間はかかるかもしれないが。
「まだまだ修行が足りねぇな。人はいずれ死ぬし、なにより俺らは戦闘民族だ。死なんて常に隣り合わせよ。べそかくなんざ、戦場に倒れた気高い戦士への侮辱だぞ」
今は亡き想い人に涙を流す妹に投げかける言葉ではないことは、分かっている。だが佳霖のことを本当に思うのならば、泣き言や懺悔は奴への侮辱に値する。
暴閥は、誰しもが戦場で戦う目的や信念を背負い、そのために己の命を賭して戦う。その有り様は千差万別だろうが、最後は勝つか負けるかで全てが決まるのだ。
佳霖は流川を裏切った。だがそれ以前に己の野望のため、自分以外の存在を敵に回してでも成したいことがあった。
負けてもなお、己の命を賭して戦い散った戦士と、その戦士が抱えていた戦う理由への意志を思うならば、泣き言を多く語ってはならない。それが生き残った同士として、せめてもの葬送なのだ。
「手厳しいなァ……兄様だって、迅風の姐さんが死んだら分かるぜェ? きっとよォ」
「バーカ、お前とは鍛え方がちげぇのよ。ここのな」
心臓の部分を左手の親指で指し示し、意地悪に笑ってみせる。澄会は悔しそうに舌打ちし、さっき開けたばかりの酒瓶を一瞬で空にする。
懐にしまってあった葉巻を取り出すと、指パッチンで火を点け、煙を勢いよく吐いた。いつもは空気を澱ませ、部屋にニオイを沈着させるはずの煙が、満月に照らされて爛々と輝く雲のように映る。
だがそのとき、澄会が飛び上がるように立ち上がり、両腕を天高く上げて叫んだ。
「見てろよ佳霖!! テメェと俺が手塩にかけて育てたガキどもが築くゥ、新時代ってヤツをよォ!! ったくゥ、馬鹿な奴だぜェ……!! 新時代を見ずに逝っちまうなんてよォ……!! 勿体ねェ……なァ……!!」
泣き言は戦場に没した戦士への侮辱。指摘したその矢先にこの始末である。
雫というよりもはやスーパーボール並みの水玉ですらあるそれが、地面で小さく飛沫をあげて弾け、庭の土を良い加減で湿らせていく。土の中に埋もれているであろう新たな生命の種子に、僅かながらの恵みとして貢献するかのように。
うおおおおおおおお!! と狼の遠吠えのような雄叫びを、酒瓶片手に満月に向かって叫び散らす澄会は、今にも分家領の周囲を朝までランニングする勢いすら感じられた。
本来なら泣くんじゃねぇと容赦なく啖呵をきるところだが、獣のように想いを叫ぶ澄会に水を差すというのは、流石に無粋に思えてならなかった。
これは通過儀礼だ。死してなお佳霖が世界のどこかにいると信じ、己の息子たちを思うその気持ちを、これが最後だと言わんばかりに全身全霊で届けている。
相手は裏切り者だ。それも自分ら家族を手酷く裏切った。己の野望のため、その全てを費やした執念深さと野望への想いの強さは流川家を欺くに足りるほどであり、そこは素直に評価に値するとしても、同族を裏切ったことは許されざる大罪であることに変わりはない。
だがそれでも味方として、一人の同士として、一人の戦友として、一人の恋人として、澄会は伝えているのだ。己の魂に刻んだ、息子への想いを。そして自分の佳霖に対しての想いを。
裏切り者の烙印を押され、息子によって誅殺された流川佳霖の墓標が、流川家の庭に建てられることはない。しかしそれでもなお、目の前の女傑は刻むだろう。墓石すらなき者の墓標に、その全ての想いを―――。
「兄様ァ!!」
縁側から盛大に前転して私室に転がり込んできた澄会は、テーブルを境に向かい合うように着地する。どこからかまた新しい酒瓶を取り出しては、勢いよく蓋を投げ捨て、煽る。
もはや飲み過ぎの域に達しているが、この程度で酔う彼女ではない。どうやら今夜は、寝させてはくれないらしい。
「今夜は飲むぞォ!! 付き合え兄様ァ!! 朝まで飲み明かしだァ!! 語り明かそうぜェ!! 俺たちのガキどもが築く新時代ってヤツが、どんなものになるのかをよォ!!」
やれやれ。肩を竦めながら、しまおうとしたお猪口を再びテーブルに戻して酒を注ぐ。
こうなると妹は止まらない。つい最近までは我慢させていたし、今夜だけは付き合ってもいいだろう。本家派、分家派関係なく、一人の兄と、その妹として―――。
その夜。一人の英雄と、その兄の談義は夜が明けるまで続いた。酔いが回り、傍迷惑にも部屋で寝こけてしまう、そのときまで。




