組んず解れつ
「はっ……!?」
悪夢から跳ね起きるかのように、私は現実に目覚めた。
見渡す限り雑草と木々しかない獣道をとぼとぼとあてもなく歩く私は、もはや役に立たなくなった霊子ボードをメイド服のポケットのしまいこみ、とにかく拓けた場所を目指していた。
無論、根拠はない。女の勘、というわけでもない。拓けた場所なら何かあるのではないか、などという至極安直で、至極安易な考えに基づいた行動である。おそらくだが、地図情報に誤りがあったのが原因だろう。
当てもなく歩き続ける以外に特にやることもなかったせいか、未だ自分が当主候補であった頃の水守家を追憶していたらしい。十歳くらいの自分の記憶を脳内再生して、意識が飛んでいたようだ。
「頭が痛い……悪夢にでもうなされて、勢い良く跳ね起きすぎた気分だわ……」
頭を手で押さえ、大きく溜息をつく。同時に、それが悪夢ではない現実に、更なる落胆を覚えた。
私が流川本家に出奔する以前―――つまり未だ当主候補だった時代。その全ての記憶がただの悪夢だったなら、どれだけ幸せだっただろうか。
私は元から頑強だったわけではない。最初はそこらの人間と大差ない存在にすぎず、今のような耐寒能力と肉体性能を得られたのは、実父である水守璃厳が指揮する修行によって得たものだ。
暴閥界において、水守家は努力と研鑽の象徴として見られてきた。人類世界最強と謳われる流川本家の直系にあたり、常に世の最先端をゆく流川家に負けじとかぶりついていく様から、いつしかそうみられるようになっていった。
努力と研鑽の象徴。水守家の実態を知らない外野からすれば、さぞかし高潔な暴閥に見えるだろう。実のところ暴閥界における評価は、流川家、花筏家、笹舟家、白鳥家に次いで高い水準をずっと保っていた。
だが実際の水守家は、決して周りが想っているような、清く正しい暴閥ではない。
水守璃厳を師匠とし、弟子―――自らが産んだ当主候補達に修行という名の凄惨な虐待を強いることで、人智を超えた肉体と、頑強な精神を獲得するというのが、現水守家の実態だ。
水守璃厳は``普通の人間であれば過負荷によって死を迎えるような過酷な環境を生き抜くことこそが、強者への道である``とのたまい、平然と様々な虐待や理不尽を、私や私の兄弟姉妹たち、つまりは当主候補たちに強いた。
その一つとして、冷え切った然水氷園の中、全裸の状態で生活させられるという修行だ。
この修行の間は一切屋敷に近づくことが許されず、近づこうとすれば璃厳が容赦なく棘のついた鞭で叩きのめし、煮えたぎった釜に放り込んで茹で、死にかけたら回復魔法をほんの少しかけたあと半分凍りついた沼地に打ち捨てるという、極寒と灼熱の両方を身体に刻み込ませるきつい仕置きが科せられた。
この修行に期限はなく、さらに剣術、体術、魔術の修行、基礎体力作り、座学など、戦いや生活に必要な訓練も同時に行われた。衣服や装備も当然自己調達だ。
なお、この極寒耐久だけで半分以上の兄弟姉妹が死んだことは、深く考えるまでもない。死体はもれなく魔生物の餌としてそこらの森の奥に打ち捨てられるか、訓練の的として再利用されるか、最悪生き残った者たちに食糧として食われるか、いずれかの運命を辿った。
他にも、痛覚耐久訓練―――一日中、璃厳に棘付きの鞭で叩かれ続ける、身体に太い針を刺しては抜き、刺しては抜きを繰り返される、指先や足先の爪を剥がされる、杭で打ち抜かれるなど、敵勢力が行うと想定される熾烈な拷問に耐える訓練。
灼熱耐久訓練―――釜茹で、火属性系魔法攻撃、焼け石歩行など、あらゆる熱さの中でも生き抜き戦闘を続行できるようにする訓練。
瀕死復活訓練―――致命傷を受けても冷静に判断可能な理性と思考を維持し、可能な限り生き残って速やかに戦場に復帰できるよう行動する訓練。
など挙げればキリがないが、回復魔法で回復してもらっては訓練、回復しては訓練、この繰り返しを永遠とし続け、最終的に生き残った一人が、次期当主に選定される。
そして、その最終的に生き残った一人というのが、この私だった。
私以外にも当主候補は五十人以上いたが、度重なる過酷な訓練と生存競争で全員が死に絶え、私だけが残った。当主候補で騒がしかった邸内が、当主就任を言い渡される頃には閑散としていたのが、今でも脳裏に焼きついている。
そういえば、五十人以上いた当主候補のうち、生き残るためとはいえ、何人か私が殺したのもいた。
食べ物も水も満足に与えられない、全てが自給自足、しかし周囲は見渡す限りの永久凍土。
雑草一本すら生えない、野生動物もいない。いるとすれば当時の私ではとても勝ち目がなく、仮に勝てたところで鉱物しか取れないような原生魔生物のみが跋扈する不毛の地において、唯一の動物性たんぱく質を摂取するには、何を思い、何を考えたのか。同じ当主候補であるはずの``人間``だった。
人間を食う。その言葉を聞いた者ならば、ほとんどが忌避するであろう誰しもが無意識に禁忌とする行為。
だが、草も木もない、野生動物もいない、一面氷と雪、相手にするだけ危険な魔生物のみの永久凍土において、最も効率的に腹を満たすには、生き抜くために同じく悪戦苦闘する人肉しかなかったのだ。
無論、私以外の人間も、その現実に気づいてはいた。
狩らなければ狩られる。だからこそ狩られる前に狩る。意志同じくして生まれた兄弟姉妹同士での壮絶な共食いの中、私もまた璃厳に修行という名の虐待を強いられる傍ら、血の繋がった者たちを容赦なく食らう食人鬼として、過酷な氷雪世界を生き抜いてきたのである。
今思い返せば恐ろしい。人間を食らうなどと、当時の私は何故平気でできていたのか。
考えるべくもない。そうでもしなければ餓死、もしくは同士に狩られる。ただそれだけのこと。今は澄男の家で普通の食事を作り、普通の食事にありつける。だからこそ昔が変に感じられるのだ。
大きな溜息を吐きながら、空を仰いだ。雨が降りそうで降らない、天気の踏ん切りがつきそうにないような、淀んだ曇り空を。
今更考えるのもむなしいが、食人という禁忌を犯し、璃厳の理不尽な虐待に耐え忍んでまでようやく今の肩書きを得たわけだが、人間を捨てるような所業をおこなってまで得た肩書きに、一体どれだけの価値があるのだろう。
裏鏡水月には``家格でしか己を誇示できない無能``と呼ばれ、澄男からは``メイドはメイドらしくしていろ``と罵られ。
十数年間、人間を捨てるぐらいのことをやって生き抜いてきたというのに、現実は極めて残酷だ。努力が報われた試しがない。
なら何故私は生きている。何故私は戦う。何故私は人間をやめてまで虐待に耐えてきた。
辛いなら、意味が見出せないなら、死ねばよかったじゃないか。同志達に狩られればよかったじゃないか。楽になる道は、今までいくらでもあったはずだ。
分からない。何か理由があったはずなのに、思い出せない。私が今日まで生きてきた理由。確かにあったはずなのに。それだけが頼みの綱で、それだけをたぐって生きてきたのに。
生きるのに必死で忘れてしまったのか、それとも今日死ににいくと決意したことで記憶の奥底に封じられてしまったのか。
まあ、どっちでもいい。どうせ今日死ぬのだ。今まで何故生きてきたかなんて考えたところで無駄なこと。
主人に仕え、主人のために死ぬ。考えるのも、悩みあぐねるのも、何もかも、もう疲れた―――。
「よう。迷ってるみてぇじゃねぇか」
眼前から突然の声音。私は反射的に身構えた。
背中に担いでいた槍を右手に持ち、いつでも間合いに入れる体勢に切り替える。だが違和感があった。身構えると同時に身体がほんの一瞬硬直したのである。おそらくそれは、いま目の前に起きた状況が理解できなかったからだろう。
「何故あなたが……」
眼前に飄々と現れたのは、私が最もよく知る人物。己の主人、流川澄男だった。
今頃道場で、成果がほとんど望めぬ素振りをしているはずなのに、何故か彼はここにいる。おそらく転移の魔法で追いかけてきたんだろうが、問題は何故私を追いかけてきたのか。そこが全くとして分からなかった。
「お前のその霊子ボードな。悪いが偽情報だぜ」
「弥平さまですね」
「そ。アイツ、お前がこうすることを見越してたみてぇでな」
気怠く肩を竦めた。
天才はこれだから厄介だ。余計なことをしてくれる。どうして``天才``という存在は、いつもいつも余計なことをしてしまえるのか。凡人だったなら、まだ対処しやすかったのに。
「まあンなこたぁどうでもいいとしてだ」
ため息をつきながら顔を上げる。
ここ三ヶ月で彼の切り返し方は大体把握している。どうでもいい、から切り返される話題というのは、大体良からぬ話題しかない。正直聞きたくなかった。どうでもいい、から始まる話。彼が言わんとすることは、大体察しがついている。
「グダグダすんのもアレだから単刀直入に言う。そろそろマジで腹カチ割って話そうや」
やっぱり、またそれか。あからさまに項垂れた。
一ヶ月前、カオティック・ヴァズの一件のときも、そんなことを言ってきた。彼が気に食わないと思っている点は把握している。だがそれでも私が頑なに拒む理由は、馬鹿正直に自分の想いを伝える意味が、全くと言っていいほど感じられないからだ。
私はメイドで、彼は主人。純然な主従関係しか存在しないというのに、腹を割って話したところでどうなろう。立場に差がある以上、主人の主張が強くなるのは明白ではないか。その時点で、もはや腹を割って話すという行為自体に意味がない。
主人の気分は良くなるのかもしれない。でもそれはあくまで命じた側の利益でしかない。結局は立場の差でなにもかも捻じ曲げられる。
今以上に関係を拗れさせるしかないその行為に、未だ固執しているのか。我が主人は。
「……もうさ、隠したってしゃあねぇのよね。そっちに言いたいことあんのはバレバレだしさ」
澄男は眉間にしわをよせた。
澄男に言いたいこと。``言いたいこと``って、なんなんだろう。
今まで、個人を殺して生きてきた。無論、その生き様の過程でたくさん言いたいことはあったと思う。でも、個人を殺しに殺してきた今では、もう何が言いたくて、何を伝えたいのか、考えても分からなくなっている。
色々なものがぐちゃぐちゃに混ざり合っていて、掴みようがないように。
だから言いたいことを言え、と言われても、特に言うことがない、というのが本音なんだ。前もそう言ったはずなのに、どうして彼には伝わらないのだろう。
「なぁ。もうだんまりはやめようや。なんなら俺から言ったっていいんだぜ」
まだ言うか。いい加減しつこい。
私は決めた。この状況を打開する手立て。澄男の命令に従うわけでもなく、況してや独り言のように怨嗟を呟くわけでもない。
この場合において一切の無駄を省ける究極の打開策は、ただ一つ。彼は道の真ん中を居座っている。道は人一人か二人が通れるかぐらいのギリギリの幅だが、両隣は畑もしくは荒地だ。道幅が足りなくても歩くことは造作もない。
私が下した判断は、簡単にして明瞭。私でなくとも、誰にでもできる簡単な行動である。
無視、であった。
「おいこら」
自分では妙案だと思ったのだが、というかこれ以外に打開策がなかったのだが、現実はやはり悪辣だ。
澄男が私の左腕を掴んでくる。振りほどこうにも、彼の腕力はあまりに強い。ぴったりとはりついていて、振りほどける気がしなかった。
「なにシカトかましてやがる」
これだけ態度に出しているのに、まだ私と対話を望むか。諦めの悪い。どうせまともな人間関係も構築したことがないのだろう。
しつこい男は嫌われる、という言葉を知らないようである。
何度も言うが、話す事など何もありはしない。本音を話し合えば事態が好転するわけでもなし、お互い分かり合えるわけでもなし。むしろただでさえ深い溝がさらに深くなるだけだ。
私にとっても、澄男にとっても、なんのメリットもないというのに、この男は一体何を考え、何を思って、私から本音を聞き出そうとしているのだろう。
いやむしろ、何も考えていないのかもしれない。
喧嘩っ早く、後先も考えずに行動している人間であることが、ここ三ヶ月ともに暮らして痛いほどわかった。今まで彼が理性的に物事を解決した前例はない。ならば今回も同じ事。
「言っとくが、テメェが吐くまで俺は離さねぇぞ」
唐突に面倒なことを言ってきた。腕を握る力が強くなる。ものすごい握力だ。今にも腕をへし折られそうなほどの力。いい加減痛い上に、血の巡りが悪くなっているのか、指の一本一本がぴりぴりと痺れてきているのが如実に伝わってくる。
「気にいらねぇんだよ。俺の命令に絶対服従する態度を見せといて、肝心の命令は無視。どーでもいい、わざわざ聞かなくてもいいような命令は聞くとかいう気の回せなさ」
「申し訳ございません。此度の失態を深く反省し次こそはその失態を払拭すべく」
「ほら。言ってる尻からそれだもんな。誰もンなペラッペラなの求めてねぇんだよ、心の底から言ってねぇのが雰囲気からしてバレバレだし」
「……」
「お前、ぶっちゃけ俺のこと嫌いだろ? 別に構わねぇし勝手に嫌ってもらって大いに結構だけど、だったら嫌いって言えよ。嫌いなのにメイドぶってんの、正直気持ち悪りぃんだけど」
「……」
「……いい加減その手通用しねぇの理解しろや、それともお前なんでもかんでも黙秘すりゃ全部まかり通ると思ってる馬鹿女なの? 都合の悪りぃことは黙ってりゃいいやみたいな、そんなクソ精神持ちなの?」
うるさい。
「他で通じても俺には通じねぇぞ。第一、黙ってりゃ何の問題も起こらないとか思ってる時点で無能だと思わねぇの? 要はそれ以外に問題解決する手段が思いつかないお頭の悪い奴ってことだろ?」
黙れ。
「お頭の悪りぃのがさ、要領良くなんかしようとしてもただただダセェだけだぞ。だってそんな能もねぇのにやろうとしてんだもんできるワケねぇしただただ失敗してこうやって面倒なことになるだけ」
黙れ。黙れ。
「そんなの脳筋な俺でも分かるわ。だから明らかにできねぇ、向いてねぇことは弥平に任せてる。俺は俺なりに賢いやり方を模索してる」
黙れ、黙れ、黙れ。
「でもテメェはどうなの? できねぇのにできねぇことを無理矢理やろうとしてちぐはぐになってるよねそこだよそういうところが察しが悪いというか物分りが悪いというか……」
黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ―――。
「黙れ!!」
気つけば、大声でそう叫んでいた。
息が荒い。何故かものすごく過呼吸気味で、身体の中に酸素が行き渡っていないような違和感が駆け巡る。
その原因が何なのか、熟考せずとも分かった。身体の奥底、心の奥底から湧いてくる常闇。それが私を急速に飲み込んでいっているのが臓腑全体で感じられる。
身体も己の意志に反し、小刻みに震える。理性でなんとか抑えようと試みるものの、その試行もむなしく身体は震え続けた。
「……あんたに何が分かるってのよ」
理性とは正反対に感情が溢れ出す。ドス黒く、粘っこく、今にも自分の全てを吞み込もうとうごめく感情が。
生まれてからずっと堅く堅く閉ざしてきた蓋を、粉々にされたような感覚。無理矢理こじ開けられたことで封じていた様々なものが溢れ出てくる。再び閉めようにも出てくるものの勢いが凄まじく、もはや閉ざすことも叶わない。
「いいわよね、あんたや弥平みたいな天才は。自然とやりたいようにやってれば、色んなことが身につくんだから」
罵詈雑言の数々に応えるかのように、唇は勝手に言葉を奏でていく。
「私には何もない。特技もないし得意分野も何も。なのに、なのにどうして」
澄男は黙ったまま、私を見つめていた。罵詈雑言を呪詛のように吐きちらす私を。
彼は真顔だったが、その顔は一体何を思い、何を考えているのか。今の私にはわからない。感情に支配された私に、それを察する余地があるはずもなく。
「どうしてどいつもこいつも、私にないものを求めるの? 私が持ってないものを作らせようとするの? 私が水守家の当主だから……?」
全身が泡立った。肉という肉が、血という血が沸騰するかのような熱さ。
自然と両手の拳は爪が肉に食い込むほど強く握っていた、不思議と痛覚はない。痛みを感じるよりも早く、自分の脳、身体、臓腑が、沸騰する速度が圧倒的に速いからだ。
「だったら水守家当主なんかやめる!! 私はなりたくてなったわけじゃない!! 何が本家派当主の護衛よ!! やってらんないわ!!」
自分が出せる可能な限りの大声で叫んだ。いや、叫んだというより怒鳴ったという方が正しいだろう。
ついに本人の前で、守護するべき主人の前で、言ってしまった。言ってはいけないことを、吐いてしまった。
明らかな反逆の意思表明に他ならないその言葉を放って尚、沸き立つ感情は留まるところを知らない。理性をことごとく呑み込み、更なる怨嗟を吐き散らかせる。
「やりたくてやってんじゃないのよこっちは!! 昔っからやれやれと命令されて、嫌だから断りたかったけど相手は流川や父……どうしようもなくて、やるしかなかった!!」
澄男はずっと真顔だった。何故か不思議と反論してこない。いつもなら罵詈雑言で返されてもおかしくないはずなのに、彼は真顔で私の呪詛をずっと聞いていた。
「あんたに分かる……? ずっと家の中で好きなように生きてたあんたに……? 十年以上もの間、人間をやめさせられるようなことを強要されてきた、私の気持ちが……?」
呪詛に一区切りつける。無論これでも全然言い足りないけれど、さっきから黙っている本家派当主様が、何を思っているのか気になったからだ。
一ヶ月前から本音を話せだのサシで話せだの言ってきたのだから、私から問いかけたってバチは当たらないはず。
まあ、一方的に暴行されても構わないけれど。その程度の理不尽は父親に強いられた``修行``で慣れた。自分より力の強い男に、意識が消し飛ぶまで殴られ蹴られることくらい―――。
「ワカンねぇよ」
さっきまで口を開かずただただ黙って私の怨嗟を聞いていた澄男は、ぼそりと一言だけ言い放った。
予想していたのとは全く異なる言動。私が期待していたのは罵詈雑言、からの熾烈な暴行。しかし彼はただ一言、分からない、だけ。癖っ毛の強い短髪を掻き毟って。
「ワカンねぇけど、だったらなんで言わなかったんだよ辛いって。そんなんやりたくねぇよって。せめて自分の親くらいには……」
と言ったところで、ハッと目を見開いた。そしてすぐに目を逸らし、手で唇を隠す。私は自嘲気味に、鼻で笑った。
「そうよ……私に親なんかいやしない。父がいるけど、あんたもなんとなーくで気づいてるんじゃないの? アレが私の血の繋がった、唯一の親なのよ」
私が唯一持つ実の父親、水守璃厳。十数年以上もの間、私に修行と称して様々な虐待を行ってきた水守家の現総帥。
かつて大戦時代は本家派元当主の流川澄会の懐刀として動いていた英雄の一人だが、私はアレを英雄だと思ったことは、一度たりともない。
私にとって実の父親は、血の繋がった実の娘すら水守家の当主にするためなら、ありとあらゆる非道を行う、私の人生史上最悪の男。私の人生は、彼によってほとんど黒く塗りつぶされてきたと言っても、過言ではないほどに。
一ヶ月前のヴァルヴァリオン大遠征の際、澄男と顔合わせしたとき彼は全力で総帥としての自分を演じていた。でも内心、こんなガキに礼をするなんぞ片腹痛い、という本音が、私には手に取るように読み取れた。
実際、澄男が呼んでいると父に伝えたとき、彼は言葉にこそ出さなかったが、表情はとても億劫そうにしていたから。
「やめられるものなら今すぐやめたいわね。本家派側近も、私のクソみたいな人生も、あんたのくっだらない復讐に加担するのも!!」
遂に当主の前で言ってはならない言葉を投げやりに吐いた。それも大声で、どんな難聴でも聞こえてしまうほどの大声で。
初めて会った頃から、おそらく心の底で思っていた最後の本音。本当は誰にも言う予定などなかった最後の本音。それをあろうことか、張本人の前で言ってしまった。
口からこぼれ落ちた言葉はもうなかったことにはできやしない。目の前で立ち尽くす主人をよそに、身を翻す。
「……ではもう行きます。これ以上、主人の手を煩わせるわけには参り」
「待てや」
また被せ気味に台詞を吐く主人に、拳を強く握りしめる。
「悪りぃがこれは俺の復讐だ。テメェが勝手に幕引きすんのは許さねぇ」
背後から言葉面だけは格好いいことを言ってくる。俺の復讐だとか、誰の復讐だとか、そんなものはどうでもいい。早くこんな奴隷人生に幕を引きたいだけなのに、それすら許さないのか。吐き散らしたあの本音たちは何だったのか。
私は深く肩を竦めた。
「テメェの事情は分かった。でもとりあえず今は帰れ。勝手な真似すんな」
それはこっちの台詞だ。今まで勝手な真似しかしてこなかったようなのが、よくもまあさらっとそんなことが言える。
結局自分の方が、身分が上ってことを意識してんじゃない。
私はあんたの``犬``で、あんたは私の飼い主。犬が飼い主の意思を無視して脱走しようとしているから、鎖で繋ぎ止めていたいってことじゃない。
ほんと、なにもかもクソだわ。
淡い期待も、淡い希望も、全部裏切っていく。この男も、どうせあの父親と同じドブの底で生きているような存在。
分かっている、そんなことは。でも少し期待したっていいじゃない。少し希望を抱いたっていいじゃない。水守璃厳とかいうクソ野郎とは違う、私を一人の``人間``として見てくれる人かもしれないって。
でもどうしても、どう足掻いても、私は``人間``になれないのね―――。
刹那、私の中で、何かが弾けた。なにが弾けたのか。それは自分にもよく分からない。有り体に言うなら、堪忍袋の尾かもしれない。
でも堪忍袋などという安直な袋の尾が切れたにしては、生々しくも大きな破裂音のような気がした。
遂に弾けたのだ、溜まりに溜まった鬱憤の更に底、最後の本音よりも更に底、私の中に宿る闇黒が、今、解き放たれたのである。核兵器が空中で爆発四散し、全てを焼き尽くし破壊し尽くす爆轟と熱線、そして生物を死に至らせ遺伝子にも深い傷跡を残す莫大な放射線のように。
気づけば、主人を殴っていた。明確に、確実に、矢で的のど真ん中を射抜くように、主人の左頬に打撃を加えていたのである。
力加減など一切なしの右ストレート。父親の理不尽な虐待に数十年もの間耐え抜いたことで培われた肉体能力なら、主人ぐらいの少年をバレーボールのように殴り飛ばすのは容易かった。
何度も地面をバウンドした後、ようやく動きを止めた主人だったが、砂埃と泥で服はドロドロになっている。
もしも主人でなければ、顔面の骨は粉々に砕け、全身の骨も幾らか折れていただろうが、主人はやはりただの少年にあらず。何事もなかったように、むくりと立ち上がる。
槍を装備した。今の私の顔は、十分な殺意に彩られていることだろう。槍を手に持った瞬間から、主人を見る目は敵を狩る目へと変わっている。
これでもかと殺意を浴びせて尚、主人の顔色に特段変化はない。槍にかける握力が、自然と強みを増す。
「……押し通るってか」
思わず唖然とした。目の前の男は、腰に携えた片手剣と技能球、そして口にくわえていた煙草を、血反吐とともに手放したのだ。
なにを考えている。こっちは完全に敵意をさらけ出しているというのに、武器や道具を放棄するなんて。
技能球がなければいざというときに撤退もできなくなるし、武器がなければ打撃しか扱えなくなる。いくら強いとはいえ、最上位暴閥の一人にして、水守家当主``凍刹``水守御玲を素手でやりあえると思っているのか。
「舐められたものね……!!」
周囲に霜が降り始める。感情の起伏に呼応し、霊力が漏れ出し始めたからだろう。地面や雑草は真っ白に、側溝に流れる水は一瞬で凍りつく。メイド服も凍り始めた。
冷たさが心地良いと同時に、目の前に踏ん反り返る男への感情が、冷たく心地いい冷風を更に凍えさせる。
「それで勝てると?」
「いけんじゃね? つか丁度いい。テメェとは前から手合わせしてみたかったんだよ」
「……これを……手合わせ……だと?」
「御託はいい。かかってこいよ、遊んでやっからさァ!!」
「ぬかせぇ!!」
殺意を散りばめた咆哮とともに、元主人、流川澄男に肉薄した。
常人ならば決して見切れない踏み切り。津波のような砂埃が立ち、元主人ともども何もかもが砂に塗れる。
見えなくても聞こえなくてもいい。既に槍は、殺意をもって振られているのだから。
「水守流槍術・襲凍旋風!!」
泥を含んだ砂埃は、泥に含まれた水分とともに、全て上空で凍りつく。空中で静止した砂埃は一瞬津波を描き、自重で粉々に砕けた後、地面へ落ちる。
目の前には元主人の下半身だけが残っていた。肉の一つ一つ、骨の節々、血の一滴まで全て凍りついたそれは、虚しくぽそりと音を立て倒れた。
空かさず上を向く。勢いで天高く吹き飛ばされた上半身。それを見逃すほど間抜けではない。
蹴り砕く勢いで地を蹴る。手加減なしの本気の疾走。一足一足踏むたびに、空気中の水分、地中の水分、草木の水分。その全てが氷となり、霜となり、空中へと降り注ぐ。
しかしながらそれらが空中で形成され地面に落ちるよりも速く、私は走っていた。そして一瞬立ち止まると思わせて、足をバネのように曲げると、地面に数多の蜘蛛の巣を形成し、一瞬のうちに空へと飛び上がった。
霊力で脚力を強化することもできるが、今は少しでも霊力が惜しい。素の肉体能力で飛び上がるしかないが、既に軽く五十メートル以上は飛び上がっている。小さくなっていく地上の建築物を一瞥し空かさず槍を構え、未だ自由落下中の上半身に狙いを定める。
「水守流槍術・氷槍凍擲!!」
装備している武器は槍。自分と距離が離れている相手に攻撃するには、ただシンプルに槍を投げ、刺し貫けばいいだけである。
槍の切っ先より展開される氷膜が槍全体を覆い隠した瞬間、元主人の上半身が視界より消え去った。
私の動体視力による認識ではその認識が正しいが、実際は消え去ったのではない。槍に刺し貫かれ、地面に叩きつけられただけなのだ。その証拠に真下の地面は、一瞬で凍土と化していた。
そのまま落下し、地面に蜘蛛の巣を描いて着地。氷の山ができた場所へゆっくりと歩んでいく。周囲の木々を巻き添えに、氷雪の大地へと変貌した白銀の世界へ吹き飛んだ元主人の上半身は皆無だった。
ただ地面に突き刺さった我が愛槍が、悠然と佇むのみ。細胞組織一つ一つが凍結し、地面に衝突した瞬間に粉砕されてしまったのだろう。まるでざくろが砕けるが如く。
だが予断ならない。相手は元主人。原子爆弾の百倍以上の爆発に晒されても生きているような、本物の化物だ。
上半身は消し飛んだが、まだ下半身が氷漬けのまま残っている。本来なら気に留める必要もないが、念のために下半身も粉々に―――。
「いっっっっってぇー」
背後から男の声音。すばやく振り向く。同時、くそ、と口を滑らせる。悪い予感はすぐさま的中するから嫌になる。念のために下半身も消しておこうと思った矢先にこの始末だ。ふざけるな、と言いたい。
元主人たる流川澄男は、やはりというべきか。氷に封じられた下半身から上半身を復元し、既に八割ほど肉体の修復を終えていたのだ。
後は右肩と右腕のみ。まるで木の枝が高速で生えてくるかのように、右肩からにょきにょきにょき、と触手のようなものが夥しく蠢く。
それらが右腕を作り終える、そのときまで。
「本当に不死なのね……」
身体を真っ二つに両断し、上半身を肉片にして尚、骨の髄まで冷凍された下半身から復活する元主人。二つに分断したプラナリアが、二匹のプラナリアになってでも生き延びるように、驚異の再生能力を見せつけてくる。
相手は不死を形容する再生能力を有している以上、自分の力では確実に倒せない。体内から出力できる霊力にも限りはある。今のような出力で攻撃し続けるのは、どう考えても不可能だ。
不死身の流川本家派当主。蜥蜴の尻尾のように身体を即時回復させる力。何もかもが恨めしい。自分には無い能力を見せつけられるのが、ただただ恨めしい。私にもそんな力があったなら、もっと有用に、最大限活用できるよう、使い方を考えていたというのに―――。
いや、待て。物は考えようではないだろうか。思考に一筋の光明がさしこむ。
相手は死なない。でもそれは、あくまで物理的な話だ。元主人だって、肉体こそ化物でも、``中身``は私たち人間と大差ない。そうでなければ、復讐などと辛気臭い行いをしようとは考えないだろう。
ならば勝機があるじゃないか。相手は``不死``であって``無敵``じゃない。殺す方法なんて、別に物理的な方法に限る必要などないのだ。
どうせ戦っても勝てない。どれだけ傷つけても、相手は無尽蔵に復活する再生能力を持った化け物。この戦い自体が自分にとって極めて不毛であることは、戦う前から火を見るより明らか。それでも反逆し、牙を剥く価値はある。
相手が不死だからこそ、死なない肉体を持つからこそできる、そんな戦い方を試すだけの価値が。
唇を歪める。氷柱から上半身を貫いたはずの槍を無理やり引き抜くと、右腕を修復し終えた彼に向かって、すかさず槍をぶん投げた。
「ごばぁ!!」
渾身の槍投げ。数値に換算するのもおこがましい速度に達する槍は、容易く彼の胸のど真ん中を貫く。
おそらく槍は胸から入って様々なものを貫き通し背中から切っ先が飛び出ているはずだ。人間の身体一つ串刺しにすることなど容易である。
だがそれが狙い。刺し貫いても、どうせ再生してしまうというのなら―――。
再び強く地を蹴る。槍とともに倒れる元主人に豪速で近づいた私は、持ち手部分を素早く握りしめると空中で槍を猛回転させる。
洗濯機で脱水される衣服のように、びちゃびちゃと何かしらの水分が、遠心力で周囲に飛び散る。仄かに周りの木々や雑草は赤みを帯び始め、そして自分の周りが真っ赤に染まったと同時、槍に串刺しにされたまま、洗濯された衣服のように脱水された元主人を、無造作に地面へ叩きつけた。
脱水されたばかりの服はしわだらけでぐちゃぐちゃだから、しわを伸ばしてから干すように。
「良かった……」
槍の切っ先から滴る赤い汁。無数の血肉がこびりつき、青と銀色が基調の槍は、既に見る影もない。私は槍を地面に手放した。
元主人のところまで歩いていくと、胸にぽっかりと穴を空け、口周りが血反吐で塗りたくられた元主人が、ボロ雑巾のように寝転がっていた。
咳き込む度に口から血が溢れ出てきている。胸から胸を貫通させられ、臓腑の大部分を失っても尚、彼は何故だか生きていた。
普通ならば多臓器不全、大量出血でほぼ即死は免れない致命傷、というよりもはや死因を特定するのも馬鹿馬鹿しい惨殺死体と化しているにもかかわらず、未だ虫の息で生き長らえている様は、改めて見ると尋常ではない不死性だ。
目を細める。槍で貫いた穴がもう塞がってきている。それも目に見える速度で、ビデオテープを再生しながら巻き戻すように。
元主人に空かさず近寄った。元主人の肋骨を、胸に空いた穴ぼこからがっしりわし掴む。
「ぐあっ……!?」
元主人は反射的に私の両腕を掴んだ。既に血で汚れた手。ぱっと見赤いペンキに手を突っ込んだような様相だが、よく見ると点々と小さく血肉がこびりついていた。
「澄男さま……私、あなたが不死者で、本当に良かったと思っています」
めりめりめり、と紙を破くような音とともに、肋骨を力任せに剥がしていく。血と肉がこびりついた骨が露わとなり、それらに隠れていた臓腑が顔を出す。
「こうやって、苦痛を与え続けることができるんですから……」
乱雑に肺を鷲掴む。
自分の握力をもってすれば人間の臓腑など握り潰すことは容易い。赤子の手を捻るくらいに簡単なことだ。でも、それだけではつまらない。
徐々に、徐々に握力を強めていく。彼の顔に目をやった。奥底から際限なく湧き上がる暗黒の感情に連なって、時折姿を見せるもう一つの感情。血反吐を吐きながら悶え苦しむ元主人の無様な顔を見る度に、何故だか湧き上がる謎の高揚感は、何者よりも優越しているという錯覚を、私に植えつけていく。
理性では、それが所詮錯覚だということは理解していた。どれだけ傷物にしようと元主人は元主人、私はそれの専属メイド。立場の差に変わりはない。しかし今、私はその元主人にまたがり、残虐非道を行なっている。肋骨を引き剥がし、肺を握り潰している。呼吸器を破壊され、梅干しのように顔を赤熱させている主人を見つめている。
手が勝手に、元主人を殺すために動いている。いくら臨死状態に陥ろうと、体質によって絶対に死ぬことのできない元主人を滑稽だと嗤っている。
嗚呼、愉快だ。もっと苦しめたい。
立場の差なんてどうでもいい。今は私が支配者だ。私が彼を支配しているんだ。もっと、もっと苦しんでもらうために、この優越状態を最大限に活かさなくてはならない。
臓腑を掴んでは引き剥がし、掴んでは引き剥がしていく。元主人は冷たいのが苦手だということは分かっていたので、掴んだものに猛烈な冷気を与えて。
「あんたは知らないと思うけど……私があんたと出会う前どんな生活をしてたか、教えてあげる」
元主人は眼の焦点が既に合っていないが、構う気はない。聞いているものと勝手に看做して、彼の肝臓に手をかけた。
「私はね……昔は肉も草もない永久凍土の中、たった一人孤独に自給自足する生活を、あの父親から強いられていたの。暴閥だから何人もの兄弟姉妹はいたけれど、私以外みんな死んじゃったの」
肝臓を無理矢理、糊でべっとりとくっついた紙のように引き剥がす。引きはがされた瞬間、肝臓にくっついていた動脈やら静脈やらから大量の血が噴き出し、メイド服を真っ赤に染めていく。
「食べるもののない永久凍土。肉も草もなくて、あるとしたら氷と、同じ訓練で凍土に放たれた同胞たち。その中で食糧を確保しようと思ったら、もう選択肢は一つしかないわよね」
無理矢理に引き剥がした肝臓を、手で優しく撫でた。瑞々しく張りのある新鮮な組織。肉体から引き剥がされたそれは、血流が途絶えて尚、綺麗な赤味を帯びている。
それを眺めたとき、私の腹が鳴いた。
体の奥底から湧き上がる欲望。それはかつて自身が当主候補だった頃、食糧確保もままならない極寒の地において味わい続けてきた飢餓が起因する食欲。
まるで昔の自分に戻ったようだった。ただ生きることだけに貪欲だった自分。生きるためならあらゆる手段を惜しまなかった自分。そして。
その手段として、平然と人肉を食料としていた自分―――。
「お……まえ……」
か細いが、確かな疑問を投げかける少年の声音。自我が無意識を捉えた。何十分経過していただろうか。五感が復活した刹那、既に口の中は莫大な鉄の味に支配されていた。
手元にはしっとりとした赤味の肝臓。だがそれは取り出したばかりの上体とは異なる形をしていた。部位にして医学的には左葉と言われる部分。その先端が、何者かによって齧り取られたかのような形に変形している。
口の中全体に広がる血の味。血抜きをしていないせいであろう。噛めば噛むほど口の中で鉄塊でも転がしているではないかと思わず錯覚してしまうほど、血液が夥しく滲み出てくる。
酷く懐かしい、しかし好きでもなければ嫌いでもないその味を噛み締めながら、肉片であるそれを平然と飲み込んだ。
そのとき、ようやく自我の認識速度が現実の惨状に追いつき、メイドの服の袖で下顎を拭う。べっとりと血液が染み込んでいくのが、肌からも眼からも分かった。
外部から摂取した栄養分を貯蔵する器官である肝臓は、一般人にはあまり知られていないが、霊力も蓄える機能も持つ。
霊力は基本、時間経過でゆっくりと自然回復するが、非常手段として生物の肝臓を食すことで霊力回復を図ることができる。暴閥の中では常識レベルの知識であるが、``生物の肝臓``とは一般に、野生動物の肝臓を指す。
とはいえ霊力回復の効率は、お世辞にも良いと言えたものではない。霊力回復薬には遠く及ばないため、余程切羽詰った非常事態でもない限り、戦いに身をやつす者であっても回復手段の選択肢に入れる者は、大戦時代の終わった現代となってはほとんどいない。
だが、人間の肝臓となると話は違ってくる。
人間の肝臓は、生まれつきの霊的資質によるものの、野生動物の数倍から数十倍以上の霊力を貯蓄できる。当然、魔法や魔術に才ある者の肝臓ならば、霊力の含蓄性能は、常人はおろか戦士系の人間の比ではない。
かつて私が当主候補だったとき、一番懸念したのは単純な食料確保ではなく、霊力の回復手段だった。
当然、父親からは何の施しもない。霊力回復薬などという贅沢なものは支給されず、その回復手段も自力でどうにかしなければならなかった。
時間経過で回復するとはいえ、霊力関係に何の素養もない私の回復速度など常人と変わらない。戦い慣れているから計画的に効率よく回復できるように動けるという程度だ。
だからこそ当時の私は、食糧確保を名目に血の繋がった兄弟姉妹―――その中でも霊力の扱いに長けた者を重点的に狩り、その肝臓を冷凍保存して兵站を確保していた。
今回、元主人の肝臓を真っ先に手に取ったのは、苛酷な環境を生き抜くために染みついた習慣。本能。身体から湧き上がる食欲が霊力回復を最優先した結果、私の肉体、そして精神は、自然と肝臓を真っ先に食すように学習してしまっているのだ。
もう隠す必要はない。守るべき主人に牙を剥いた時点で、勘当は避けられないのだ。だったら最期にせめて、私の汚い部分を全て見せ、目の前の男を絶望させてやろう。
世界には、こういう人間いるのだ、と。人を食料と割り切れる人間もいるのだ、と―――。
唇が思わず醜く歪むほどの愉悦。私に抗いようのない高揚感、そして幸福感が横たわる。食欲の赴くまま、餌を貪り食らう獰猛な肉食獣の如く、手に持ったままの肝臓に被りついた。
人間であることを忘れ、ただただひたすら欲望に身を任せる。周りの風景が見慣れた凍土に感じられた。夜間になると吹き荒れる吹雪の中で、既に息絶えた死体は瞬間的に冷凍され、新鮮さを維持したまま捌いていく。
焼いて食うのが一番旨いが、面倒なときは生で食べることもあった。今日は生で食べよう。刺身気分が味わえる。実際に刺身を食べたことなんてないけれど。
肝臓が食い終わってもまだなお、食欲は収まらない。霊力補給はし終えた。後はもう、食って食って食いまくって、明日に備えるのみ。
腹を割った生物に馬乗りになって、がむしゃらに目についた臓物を口に頬張った。何の臓器だったかなんてもはやどうでもいい。腹さえ満たせれば明日は生きられる。問題はそこだ。明日生きられるか。ただそれだけが重要で、それ以外は些事。胃袋が満たされるそのときまで、食べて、食べて、食べ続ける。
次から次へと、臓器を引き剥がしては冷やして身を引き締め、食らう。メイド服が血でずぶぬれになろうと、顔の半分が血で塗り潰されようと。
水分の塊と言ってもいいそれらは冷気によって瞬間冷凍される。引き剥がし、冷凍する度に目の前の肉塊は大声で叫び散らした。今回は活きがいい。惨殺死体に等しい身でありながら、いまだ命の灯火が消えていない。
体の中身を生きたまま瞬間冷凍され、引き剥がされる。どんな感覚かなど想像もできないが、想像絶する痛みなのは確かだろう。
少なくとも目の前の肉塊が``不死``でなければ味えない。``不死``だからこそ、目の前の獲物は格別の価値がある。
食っても食っても減らない、食べれば食べるほど愉悦感を満たせる。そんな肉なんて、この世に存在するどんな人肉よりも素晴らしい。
何故なら、この死体一匹ある限り、腹を満たすことには困らない。それはつまり、私はずっと生きていられるというまぎれもない証拠―――。
「ほんとに……いいの……かよ……」
意識が唐突に戻された。吹き荒れる吹雪が舞う夜だと思われたその景色は、ただひたすらに広がる、白銀に彩られた広大な森林だった。
認識が元に戻る。自分が馬乗りになっているのは、狩った兄弟姉妹などではなく、元主人であることに。
もはや死んでもおかしくないはずの血だまりの中に浸かっている元主人が、苦痛の叫びに混じり、ぼそりと掠れた声を口にした。
中身を貪る手を止め、私は哀れな姿に成り果てた元主人を見下げる。
「お前……自分の親父の……ごほっ……言いなり……だったん……だろ?」
「だったら……何ィ……?」
「俺は……テメェの親父の……ことなんざ……しらねぇ……けどさ……今の……テメェ……は……」
唇を歪め、にたりと笑いを溢す。
普通の生物ならば死んでもおかしくない、絶命してしまって絶対に味わえない痛みに苛まれているはずの彼が、まるで隙を突いてやったぞとでも言わんばかりの笑み。
体の奥底、細胞の一つ一つに至るまで支配する高揚感とともに、僅かな不快感がよぎった。
尚も身体は修復を続けている。私が手を止めている間にある程度再生したせいか、顔の血色が若干良くなった元主人は、血反吐だらけになった口周りをかすかに動かしながら、言葉を紡いだ。
「そのクソ親父と……同じに……見えるぜ……?」
刹那、その紡がれた言葉に反応するかのごとく、私の背筋に電撃のようなものが走った。さっきまで支配していた恍惚な高揚感と快楽が、一気に引いていく。
私が、あの父と、同じ。
修行をつけると言いながら、実は自分より弱い者を虐めて自己陶酔に没していた、あの父と同じだと。
そんなはずはない。私は被害者。長い間、璃厳にいたぶられ辱めを受けてきた被害者。私とアイツが同じなわけない。アイツはいつだろうと加害者で、本質的に絶対異なる、相容れない存在であるはずなんだ。
「自分の手……身体……見てみろよ」
朦朧とした意識の中、血でうがいでもしているかのような声音でか細くそんなことを言ってくる。私の狼狽が顔に出ていたのか、心なしか元主人の顔が、より勝ち誇っているように思えた。
ただの目の錯覚なのかもしれない。だが死にぞこないの肉塊と化して尚、生気の光を失わない紅い瞳の輝きが、私にありもしない錯覚を覚えさせる。
「血で……汚れてるぜ……?」
手や身体が血で汚れてるからどうした、と言おうとしたのと同じタイミングだった。
元主人よりも幾分か小さい自分の手。指の隙間から爪の間まで、至る所に元主人の血や肉がべったりとこびりついていた。
今更多量の血で慄くほど柔じゃない。そんなもの、後々水道で洗ってしまえばいいだけのことであって、大した問題になりはしない。
でも、なんでこんな記憶が呼び覚まされたのだろう。
幼少の頃、私を虐め、そんな自分に陶酔しきっていた父の手。父の手はいつも同胞たちの返り血で濡れていた。私の顔を殴ったときも、私の身体を何十時間にわたって殴ったり刀で切り刻んだときも、私を磔にして、鞭で何十時間も叩き続けたときも、父の手は、私を含めた同胞たちの血で汚れていた。
たとえ血の繋がった娘の血で、いくら汚れようと、その汚れを誉れとすら思っていた父の手と、私の手。元主人を痛みつけるのに快楽を感じていた私と璃厳の間に違いは、果たしてあるのか。
私は父親が嫌いで嫌いでしかたなかった。憎んでいた。いつの間にか、自分の存在、肩書きですら憎悪の対象としか思えないほどに。そして今、時を超えてその憎しみを主人であった流川澄男という男にぶつけている。
もしかしたら、やっていることは璃厳と変わりないのではないか。
憎しみを消化するために、自分の力のなさを強者のせいにするために、立場の差を利用して痛めつける。相手を苦痛と憎悪、嫉妬心といった、禍々しい感情で支配する。
今の自分の姿は、自分が忌み嫌っていた父親そのものではないか―――。
「ああ……ああああああああ……」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い――――。
背筋から湧き出す悪寒。寒さなんて感じたのはいつぶりだろうか。あまりに久しくて記憶に残っていないが、寒さに気持ち悪さが混じっているのは、初めてであろう。
途端に頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。こみ上げる悪寒は更に増す。視界が暗くなってきた。耳鳴りが酷い。元主人から後ずさり、耳を塞いで蹲った。
「どうして……どうしてこうなったの……」
何故だか考えたところで、答えは出てくるわけもなく。思考回路がショートした今の脳味噌ではまともな答えなど元より出ない。今の自分と父親が同じだったという事実に対する悪寒が、全ての理性を瓦解させ、私からまともな精神を奪い去っていく。
「私は……今の自分が嫌で……! 何もかもが嫌で……! 違う自分になりたくて……! それで……!」
どうしてこうなったのか。いつからこうなったのか。考えたところでもはや分からない。気がつけば今に至っていた。元主人に指摘されるまで、気づきもしなかった。
今の自分が嫌で嫌で仕方なくて、全く別の自分になろうとして。結果、その全く別の自分が、この世で一番嫌いな人間である父親と化した。
凄まじくも甚だしい自己矛盾。自分も父親も嫌いだから、全く別の存在になろうとしたはずなのに。
「ほんと、皮肉なもんだなあ……お前」
胸部をズタズタにされたはずの元主人が、腕で血反吐をぬぐいながら身を起こす。
身体の中にあったほとんど臓腑はほとんど掻き出したのに、もう傷が塞がりつつある。本来ならとっくに息絶えているはずの損傷を受けながら、尚も治せる再生能力は、もう自分の語彙力で表現できる言葉が思いつかない。
「他人に嫌いな奴と同じことやってりゃあ、世話ねぇよな」
「黙れぇ……!」
「自分は奴隷として扱われてきたー、とか言っておきながら俺を虫ケラみてぇに。いやー……なんというか。ここまで矛盾も甚だしいと笑いも出てこねぇというか」
「黙れぇ!! だったらどうしたら良かったって言うのよ!! 元々の原因はあんたの存在にあるのよ!?」
「あぁん? んなもん知るかよ、逆恨みも程々にしやがれ」
元主人の眼力が一気に増した。ルビーのように紅い瞳が、太陽の光と相乗して一層紅く輝く。私は思わず、その眼力に後ずさる。
「元々の原因って、ンなもんテメェの父親に決まってんだろ。なんで俺なんだよワケワカンねぇっての」
「でも元々流川家なんて存在するから私は!!」
「うるせぇ黙れ!! 要はテメェ、人として生きたいってハナシだろ? だったらなんで人間として生きてぇって言わねぇ!!」
ぐ、と吐き出そうとした言葉が、無理矢理喉の奥へ押し込まれる。
それで人間として返り咲けるのなら、とっくに言っているし行動にも移せていた。でも私は暴閥の当主。暴閥の名を捨ててしまえば、一体どうやって生きていけばいいのか。
花筏のように山籠りに慣れているわけでもない、元主人たち流川のように魔生物と共存できる力もない。だからといって人間社会での立場もないから生活もできない。
暴閥での立場を捨てれば、路上で野垂れ死ぬのが関の山というもの。そんな未来が目に見えて分かっているのに、人間らしく生きたいなどと希望的観測も甚だしいこと、言えるわけがない。言ったところで、言った自分がむなしくなるだけだ。
「正直テメェわっけわかんねぇよ!! そもそもそんなに人生がクソすぎたってんなら、共食いとかそんなんする前に自殺でもなんでもすりゃあ良かったじゃねぇか!! なんで今死のうと思ったんだよ、生きたかったから今まで生き長らえてたんじゃねぇのか!!」
さっきまで不思議なほど物静かだった元主人が、唐突に烈火の如く感情を高ぶらせる。頭髪を逆立てるほどの気迫にやや気圧されるが、そこは意地で耐え忍ぶ。
今にも殴りかかりそうな勢いだが、何故か殴ろうとはしない元主人。何に耐えているのか。私を殴り飛ばさない理由などないはずの元主人は、荒々しく深呼吸して、濁りのない紅眼で私を射抜いた。
「主人として今度こそ命令する。これは絶対だ」
彼の眼に、一点の曇りはない。一切の不純物も寄せつけないほどの純粋な紅色は、あらゆる不純を焼き尽くす業火に思えた。不純物で腐り果てた私の心、否、存在を、まさしく焼き尽くすような。
「血の繋がった奴らを食ってまで、なんでテメェは生きていたかった? 答えろ。死ぬにせよ生きるにせよ、これだけには答えてもらう」
彼のことだ。他にも色々言いたいことがあっただろう。ウダウダ口走るのが面倒になったのかは定かじゃないが、彼が言いたい事を柄にもなく一言にまとめたのが、身体から滲み出る闘気から分かった。
反抗心が削られていく。身体から、精神から、力が抜けていく感覚。物理的に彼を退かせることができず、言葉で捻じ伏せるだけの精神力もない。煉獄の炎とも言える彼の眼力が、私という存在を強く、強く拘束する。
「……なかったのよ」
相手に聞こえるか聞こえないかの瀬戸際。逃れられないという意志表示。鉄火の意志の前に、私は白旗を掲げ、膝を折ることを決意した。
「勇気がなかった……水守家当主``凍刹``……その名を捨てて生きる勇気が……」
水守家当主``凍刹``。
自分がこの世界に生まれ落ちてから今まで、呪詛のように付きまとってきた二つ名。父親にありとあらゆる人間としての何かを殺され、その肩書きだけを背負って今までを生きてきた。
父親と命令に従い、流川に反目する中小勢力を影で根絶やしにし、それ以外の時間は父親の道楽に付き合わされ―――。
私が私でいられるのが許されたのは、まさしく水守家当主``凍刹``という肩書きがあってこその生だった。元主人の言うとおり、とっとと捨てておけば選択肢は沢山あっただろう。武市の住人として、暴閥とは無縁の、無名の何者かとして生きる道もあっただろう。
だがそれを選ばなかったのは、他ならぬ私自身が、十数年もの間抱いてきた肩書きを捨てて生きるのが怖かったからだ。
肩書きこそが、私の存在を唯一証明してくれていた全て。それ以外を尽く璃厳に奪い去られた私に残された、最後の希望。
私は無意識に縋っていたんだ、肩書きという名の存在意義に。
「……ホントに、それだけか?」
勘ぐるように、私の顔を伺う。全てを吐き出したつもりだったのだが、元主人の顔は、どこか不満げだった。
「おかしいだろ。それこそ共食いとか馬鹿馬鹿しい真似するくらいなら、死んだ方がマシってならねぇ? 肩書きを捨てて生きてく勇気がないからってんなら、その時点で生きる意味ないじゃんってハナシになる」
俯いたまま顔を上げようとしない私に、元主人の面倒くさげな声音が響く。
ならば、どう釈明すればいいのか。
彼は私に言いたいことを集約して、唯一つの問いかけにまとめた。だからこそ私も長ったらしく語らず、彼にも理解できるように簡潔にまとめて暴露したつもりだった。
本当にそれだけなのか。その問いに答えるのなら、それだけだと答えるしかない。しかないはずなのだが―――。
自分の胸に手を添える。心中にだらりと横たわる違和感。今まで感じたことがなかったそれは、目の前の男が発した一言で、明確に姿を現す。
人肉を食す。人間同士が暗黙の下で禁忌と定める行為をおこなってまで生きようと、生き長らえようと思った理由。
長生きしていれば良い事の一つや二つ、あると思ったから。
否。そんな楽観的な考えで人生を歩もうと思ったことは一度たりともない。むしろあるのかどうかも分からない、一つや二つの数少ない幸福のためだけに生きる意味などそれこそ皆無。死んだ方がマシだ。
水守家当主になりたかったから。
否。元から当主の座に興味はなかった。肩書きは薄汚く汚れ醜く歪んだ自分を肯定するための、ただのハリボテにすぎない。それは今も昔も、既に自覚している事実だ。
なら何故、私はこんなクソを絵に描いたような人生をわざわざ歩もうと思ったのか。当主になる必要などない、彼の言うとおり自殺すれば全ては丸く収まったはずだろうに、何故。
ゆっくり顔を上げる。元主人は頭髪を無造作に掻きむしりながら、雲一つとない晴天を仰いだ。
「もういいめんどくせぇ。だったら俺が、テメェを``人間``にしてやるよ」
唐突に吐き出された宣言。からかっているのか。彼の顔色を伺う。翳りのない眼力。間違いなく、本気で言っている。冗談半分だとか、その場のノリで言ったとかではないことが、眼力から伝わってくる。
だからこそなのか、黒くて粘っこい感情が、精神を蝕むように際限なく湧き出してくる。
「あんたに……何ができるっていうの……?」
もうヤケだった。反論する余力もないが、禍根の赴くまま、最後の足掻きを口から吐きだす。
「さぁな。大したことなんざするつもりはねぇ。要は奴隷と同等の扱いされてきて嫌気がさしたから、人間として扱われたいってハナシだろ? 俺は別に奴隷として扱う気は最初からなかったし、お前はお前でやりたいことやりゃあいいじゃん」
「……無責任な……!! あなた、私との立場の差を分かって言ってるの!?」
「そりゃメイドと主人ってカンケーだけどさ、ンなもんただの形だけのモンだろうが。俺は前々からそんなのかったりぃしいらねぇからやめろって言ってたけど?」
「わけがわからない……前には私にメイドならメイドらしくやってろって言ったくせに……!!」
「あんときは色々イラついてたから……分かるだろ、イラついてるとこう……心にない発言の一つや二つしちまうときがよ。あんな感じだ」
「そんなの言い訳にしか聞こえないわ。人間にしてやると宣言する人間の台詞じゃないわね」
「じゃあテメェはどうなりてぇんだ!! ワケがわからねぇのはテメェだぞさっきから!! テメェは一体何がしたい、何になりたい? 奴隷か? そこらの石ころか? 違うんだろ!? いい加減素直になれや、ワケわからん柵を盾にすんじゃなくて、自分に素直に、全部ブチまけちまえって言ってんだよ!!」
「そんなことして何になるっていうの!! ただ拗れるだけ!! あなたが弥平さまみたいに一割の情報から九割の物事を理解できる有能なら話は違ったかもしれないけど、力だけが自慢のあなたに何が分かるの? 何ができるの? 佳霖への復讐だって、弥平さまがいなければ場を騒がす以外に何もできなかったくせに!!」
「俺は一人だったとしてもやり切るさ!! たとえお前らがいなかったとしても、世界中駆けずり回って絶対にな!!」
どれだけ怒鳴っても、どれだけ掻き消そうと上書きしても、決して掻き消すことのできない真っ直ぐな台詞たちの暴力に、ついに言葉が詰まってしまう。
彼の暴力的な台詞の数々に依然として説得力はない。復讐を一人でやり切るなどと言っているが、今までの行程は弥平がいたがこそであり、あくのだいまおうなる存在からヴァルヴァリオンという情報を聞きだすことも、裏鏡と出会うことも叶わなかったはずだ。
やっていたことといえば自宅の道場で無意味に素振りをしていたことと、事が起こる度に喧嘩していたことぐらい。本当に復讐する気があるのかってくらい自分の感情の赴くまま動いていた彼に、どんな言葉をどんな剣幕で浴びせられようと心に響くことはない。
だが何故だろうか。そんな彼に絆されつつある自分がいる。期待しようとしている自分がいる。
計画性皆無で、ちゃらんぽらんを絵に描いたような箱入り少年に期待したって、悪い意味で裏切られる結末が待っているのは分かっている。期待した分だけ、今より絶望することも容易に想像できる。
本来ならば期待などせず、さっさと絶交するのが妥当なのに、流川澄男―――彼の凜と紅く輝く瞳を見ていると、鉄の鎖が溶鉱炉の真っ赤な炎の中で焼かれ、どろどろに溶かされていくかのように、自分の中にある鎖が融かされていくのを感じる。
彼の瞳は血よりも紅く、業火のように熱い。その輝きは父親への憎悪で屈折こそしている、しかし憎しみに堕ちて尚、一片の翳りがなかった。
その点、私はどうだろう。
鏡で自分の顔は何度も見てきたが、肉体改造の影響で青くなった瞳は、どこか薄暗い。自分の瞳は、本当は何色なのか。澄んだ青なのか、透明感のある純度の高い青なのか。
私は自分の、本当の瞳の色、その輝きを知らない。彼の言葉に何一つ説得力はなくとも、紅き瞳の輝きから発せられる熱が、心も体も凍りついた私をゆっくり融かしてくれる。
脳味噌を穿り返すように、記憶を読み漁った。もう二度と開けまいと思っていた記憶の戸棚。もう死ぬのだから振り返る必要もないのに、そんな合理的思考を無視して戸棚を無造作に開けまくる。
自分がこの世界を、人生を生きている意義。生きようと決意した理由。それを探るために。自分の本当の瞳の色を、知りたくて―――。
―――``あなたの眼……とても……綺麗ね……``―――
少しでも気を抜けば聞き逃してしまいそうなほど小さな声が、ふと脳内によぎった。
小さすぎて、もはや透き通っているという表現が似合う声音。ほんの僅かな雑音で、ほんの僅かな意識で、容易く掻き消えてしまうであろうそれは、忌々しい記憶しか存在しないはずの戸棚の奥の奥に、静かに眠っていた。
妙に胸にすとんと落ちて嵌っているその声音は、確かに脳裏に焼きついていて、離れようとはしない。声の主も、主の素性も分かる必要もないのか。重要なのは、誰が発したかというよりも、その内容なのか。
『意味が分からないわ。どうせこれじゃ助からない。早く殺して』
また別の声が脳内を呼応する。これは聞きなれている声だ。ただどこか幼い。聞き慣れているそれを、十年くらい若く補正したかのような。
記憶の戸棚を更に探る。戸棚の奥の方へ封印していたエピソード。封印が解かれた断片を元に、私は周囲の警戒も、元主人の存在さえも忘れて、少しずつ、少しずつ掘り起こしていく。
―――``どうして……? あなたの人生……これから……なのに……?``―――
吹き荒れる吹雪。それは水守家の敷地である然水氷園において、稀に起きる大規模なブリザード。気温は氷点下五十度を軽く下回り、あらゆる動植物が命の営みを止めてしまう大自然の冷凍庫。
身体の半分が雪と氷で埋もれ、白銀の地面を朱色に染めた私は、目の前に立つ純白の人影を注視した。
傷口を容赦なく抉る雪と弱りきった身体を躊躇なくいたぶる風が、意識をごりごりと削り取る。辛うじて人だと思えるそれは、ゆっくりとその場でしゃがみこみ、雪に埋まりつつある私に手を差し伸べた。
『何の真似……?』
敵意を露にする、幼き頃の私。たとえ裂けた腹から大量の血を流しながらも、得体の知れない何かに対する警戒心と、威嚇は絶やさない。もはや習慣として身体に染みついているのだ。死の間際でも、戦う意志は潰えない。
淡い緑色の魔法陣と光が身体全体を包み込む。差し伸べられた手から放たれるそれは、身体をやさしく包み込む布団のように暖かく、雪や風で奪われ尽くしていた体力をじわじわと回復させていく。
気がつけば身を起こせる程度までに身体は軽くなっていた。ゆっくりと身を起こす。私は目を見開いた。
『傷が……塞がってる……!?』
幼き少女の腹を容赦なく裂いていた傷。とめどなく血が流れ、命が目減りしていく感覚が色濃かったそれは、何もなかったかのように元通りになっていた。
残っているのは体外に流れ出、雪に染み込んだ血液のみ。失血死してもおかしくないほどの出血量だったはずだが、何故だか自分の血色は良くなっている。
『あなた……何者?』
予想外の出来事に、自分の警戒心が最大になる。これは世に聞く回復魔法。殺傷能力のみを求めてきた自分には、決して扱えない技術の一つだ。
ここは水守家の敷地内。回復魔法などという高等技術を扱える人間がいると思えないし、そもそも仮に彼女が水守家の当主候補だとするなら、邪魔な存在でしかない末妹の私を助ける理由はないはず。
実際、さっきまで瀕死の状態だった。あのまま息の根を止めることもできたし、なんなら吹雪の中放置しているだけで失血死もしくは凍死させるのは容易だったはずなのに。
得体の知れないその誰かは問いかけを無視し、突如私の足元に魔法陣を展開する。相手の身体に不可解な紋様が現れたと思いきや、私と彼女、二人の間に積雪と吹雪が止む。
『``霊壁``……!?』
辺りを見渡しながら、愕然と呟く。彼女が行使したのはまたしても魔法。それも高位の術者にしか扱えないとされる、魔法という系譜の中でも一種の境地。
知識だけならば分かる。彼女が使った魔法は、特定範囲に霊力のバリアを作り出す``霊壁``という無系魔法である。
当然、私は使えない。身を守る手段は攻撃。相手より速く攻撃し、自分が死ぬよりも速く相手を殺すことだけだ。
つまり、目の前に立つ得体の知れない雪女のような存在は、少なくとも自分より数段強い。魔法が使えるとなれば、相手の手数は自分の数倍、潜在霊力も更に倍あると考えてもさしつかえないだろう。
雪に埋もれていた槍を手に取り、即座に戦闘態勢に入る。
傷は塞がり、血色は回復、体力もそこそこ動ける程度には回復したが、それでも全快状態には遠い。相手は確実に実力を上回る強者、勝算はほぼ皆無。戦おうものなら、刺し違える必要があるだろう。
仮に刺し違えたとしても、相討ちにもっていける自信すら、今の自分にはないが―――。
戦闘のため思考を最適化していた最中、突然思考のホロスコープが、波のない横線を描きだす。
相手は確実に格上。全快でない今、戦っても勝算はなく、刺し違えても相討ちにできるかどうかすらも怪しい。
そんな状況で、助けてくれた相手と戦う意味があるのだろうか。
そもそも、私は何故彼女と戦わなければならないのか。彼女は私を助けた。私と親しいわけでもなく、初対面の私を助けた。助けてくれた相手を殺す意味がどこにある。
私が水守家当主候補に生まれてきてからというもの、常に``邪魔な存在を殺す、自分が生きる上で妨げになる存在を殺す``ことだけを考えてきた。そうでもしないと、周囲が雪と氷と凍てつく暴風しか吹かない永久凍土を生き抜く術はなかったから。私という生に未来はないから。
だからこそ、もう目の前の存在を殺すという心が、身体の奥深くに染みついてしまっている。もはや恩を怨としか感じられなくなってしまっているほどに。
自分以外の存在全てが敵にしか見えない。信じたくても信じられない。裏切られて裏をかかれたら殺られる。食糧にされる。だから一人、ただ一人もがき足掻き苦しみ、殺られる前に殺るしかない。
それが、戦いの才にも智謀の才にも、何の才にも恵まれなかった凡愚たる水守御玲唯一の処世術―――。
腕をだらんとしならせ、手に持っていた槍を落とした。膝をがくんと折り曲げ、雪だらけの地に這い蹲るように座り込む。
『……………………どうして私を助けたの』
助けられさえしなければ、このまま雪に埋もれ凍え死ぬことができたのに。どれだけ努力しようと、どれだけ足掻こうと評価されず、さも当たり前のようにいたぶられるだけの毎日から脱することができたのに。
まだ生きなければならないのか。この理不尽極まりない世界を。愛も情も何もない、殺るか殺られるかという究極の二択だけの世界を。
自らの意志で死ぬことすら、許されないというのか―――。
『答えてよ!!』
気がつけば、霊壁が取り囲む透明な鎌倉の中で叫んでいた。
完全なる無意識、炸裂した刹那の本能。精神の防衛本能が、やり場のなくなった感情を理不尽にぶつけた瞬間だった。
目の前にただただ立ち尽くす雪女は平静を保ったままだ。熱情に支配されつつある自分とは裏腹に、まるで際限なく吹き荒れる永久凍土に溶け込んでいるかのように、希薄な存在感を保ち続けている。
『どうして!! どうして助けたの!! このままほっといてくれれば死ねたのに!! こんなクソッタレで魅力もクソもない世界からさよならできたのに!! どうしてぇ……どうしてなのよぉ……!!』
手を雪塗れの地面につけ、降り積もった雪を握り締める。ぐぐぐ、という音が微かに鳴り、ぽたぽたと疎らに降り注ぐ水滴が、純白の大地に小さな穴をあけていく。
どうして世界は私に対して、ここまでの理不尽を課すのか。私が一体何をした。私が何の業を背負っているというのだ。
分からない。何もかも。考えるのも疲れたし、考えたくもない。何度も何度も考えて悩んで苦しんで、それでも全く答えが見つからなかった絶対解けない難問に、いつまで向き合えばいいのか。
問題から眼を背けることも許されず、回答権を途中で放棄することも許されない。世界は私に問題を解くことを要求している。強要している。それが、堪らなく悔しくて、憎くて、恨めしい。
世界そのものが憎い。憎くて憎くて堪らない。可能なら、何もかもすべて破壊してしまいたい。でもそんなことができるはずもない。私にそんな力はないからだ。
世界を破壊する力はおろか、傾ける力も、変える力すらも。ただ自分の前に立ちはだかる全ての邪魔者を殺す、それだけの習慣しか持たない私は、世界に対して全くの無力。
だから才能を持つ者も、自分より強い者も全て憎い。敵だ。私より頭がいい奴も、手際がいい奴も、努力家もみんなみんな。奴らは私を無力にする。私が無力であることを突きつける。何の権限もない、世界の一部分でしかない分際で、偉そうに。
そんな奴らがいる世界で、守るべきものもなく、突き通すべき信念もなく、ただただ家訓に従い、徹底した殺人マシンになるために、大自然の理不尽に抗うことを強要されている今の自分、そしてその人生が堪らなく―――悲しい。
暫時、沈黙が流れた。怒鳴り散らしても尚、彼女から返答はない。ただ跪いて怒り交じりに泣き崩れる私を、ぼーっと見つめているだけである。
彼女を見上げる。涙と凍傷でぐしゃぐしゃになった顔を晒し、ただただ返答を待った。
すると、ようやく雪女は真っ白な着物をはためかせ、私と同じ目線にまで跪く。優しく顎を引くと、着物の袖で顔に滲んだ涙を拭き取った。
―――``あなた……とても……綺麗な眼を……している``―――
『な、何を言って……』
―――``今は迷い……? 葛藤……? があって……くすんでいる……けれど……きっとそれが……晴れたら……あなたの眼は……とっても……美しい……青色に……彩られるわ……``
『何を言ってるの!? 頭おかしいんじゃないの!? 眼の色なんてどうだっていい!! そもそも眼が青いのは改造されたからだし、元からじゃないし、触れて欲しくない事をわざわざ……!!』
―――``どうして……? 助けた……理由……なんて……ないよ……? 目の前に……助けを求める……生き物が……いたから……助けた……それだけ……``
『そんな……ありえない。わけがわからないわ、道理に合わない』
―――``なら……どうして……``
純白の着物を着た雪女は、心身ともに弱りきっている私にぐいっと詰め寄る。
記憶の戸棚をこじ開けていくたびに、鮮明になっていく雪女の様相。架空の世界にしかないはずの長い耳。地面に届くくらい長い髪。そして、雪女のイメージを確固なものにする真っ白な和装。
氷のように冷たい手を私の両肩に添え、激情に震える私を宥めるように、優しく、優しく撫でる。まるで怯えに怯えきった小動物の警戒心を解すかのように。
そして、小さく、しかし霊壁内を浸透する確固な声音で、問いかけの続きを紡いだ。
―――``どうして……私を……殺さなかったの``
『そ、それは、あんたに敵わないと思ったからよ』
―――``ううん……だとしても……私を攻撃すれば……あなたは……死ねた``
『……っ』
―――``でも……あなたは……戦おうと……しなかった……本当は……理解してほしかった……のよね……?``
『馬鹿馬鹿しい……理解だなんて、今更』
―――``理解を……求めてないのなら……私の前で……泣いたりしない……怒ったり……怒鳴ったり……しない……ただ……理解して欲しかった……辛くて……嫌で……別の世界に……行きたくて……でも……できなくて……``
『……そんなの……ちがっ……!』
―――``弱音を……聞いてくれる……自分の弱いところ……いや……自分という……存在……? を認めてくれる……人……あなたは……求めてる``
『違うもん……そんなの……いらないもん……いらないもぉん……』
―――``ここから出て……自分の全てを……受け止めてくれる人が……欲しいのね……``
『ちがう……そんなの……いらな……うわぁぁぁぁ……!』
理性の網でせき止めていた沢山の想いが、一気に噴きだす。理性の網を破り捨て、もう何もかもをかなぐり捨てて、子供のように咽び泣きながら、雪女にその身を委ねた。
僅かな理性が打ち砕かれた今、止め処なく溢れ出る感情を止められるものは何もない。ただただそれらを涙という形にして、流して、流して、流しつくすのみ。
本来ならば空気中のあらゆる水分を霊力で凝固させられるはずが、唯一涙だけ凍らず、むしろ熱を持っているかのように、降り積もった雪をじわじわと融かしていっていた。
雪女の身体はまるで血が通っていない死体のように冷たかったが、彼女に抱かれている最中はとても暖かく、贅沢にも布団に優しく包まれているとすら思えた。
―――``人間に……なりたい……?``
雪女の透き通った声。彼女の口から放たれたそれは、昔からの念願であり、しかしながら自らの出生上、ずっと前に諦めていた希望であった。
人間になる。そんなものは夢の中だけの話だと。私は流川本家派側近、水守家当主候補なのだと。当主になれなければ明日はなく、ただの産業廃棄物として魔生物の餌になるか、他の候補者の血となり肉となるかのいずれかの道しかないと。
でも、もしも当主になった先にある未来に、人間として振舞える未来があるとするなら。
自分が当主の専属メイドとして仕え、人間として生活できる未来があるとするなら。
そんなものは夢物語だ。
分かっている、そんなことは。でも可能性としてはありえる未来。本音を言うなら破棄したくない。どうして誰かに仕えるために人であることをやめなくてはならないのか。どうして道具にならなければならないのか。
それがお前の役割だからだ。合理的に考えろ。可能性の低い未来に自分を託すなど愚の骨頂。後先考える能のない馬鹿のやることだ。第一、人か魔生物か、正体が曖昧な雪女に自分の何が分かる。瀕死のお前が今際の際に見た、ただの幻覚かもしれないというのに。
今更馬鹿もクソもない。生存を最優先し、人間を食料として食べるという禁忌まで犯したのだ。今ここで馬鹿をやったところで痛くもかゆくもない。合理的に考えろというのなら、こう考えることもできる。仮に未来の獲得に失敗したのなら、私は晴れて自由になれる、水守御玲という存在から解放される、と。
愚か。それは生き様ではない、死に様だ。そんな生に意味も価値もあるものか。ただの生存本能の放棄に他ならない。
生きとし生ける者全てが生を全うするかどうか、それは個人が勝手に決めればいいこと。私が誰の為に生きるか死ぬか、自分の為に生きるか死ぬか、意味や価値はあるのか。全て含めて、私の人生は私が決める!!
―――``答えは……出た?``
まだ、雪女の膝の上に寝ていた。いつぶりだろうか。考え事に時間を費やしたのは。
今の今まで、ただ生きる、生き延びる、それだけのことを考え、それだけのことに時間を費やし生きてきた。
ほんの僅かな隙が死へ直結する。全方位からの見えない殺気や脅威に神経を張り詰め続けてきた私にとって、人の膝の上で横になり考え事に耽る行為は、新鮮そのものであった。
おかげで、当面の生きる目的はできた。たとえその目的が、水守家の当主候補に全く相応しくない、愚かの一つ覚えだったとしても。
『ねぇ』
徐に立ち上がり、未だ姿勢良く座っている雪女を見下げる。
目的もはっきりした、でも一つだけ思うことがある。雪女が私に向かって言った、ある一言についてだ。
『私の眼……どんな感じだったの?』
そう問われ、雪女は身体全体に光る模様を浮かび上がらせ、右手に手乗りサイズの氷でできた鏡を作り上げた。その鏡に、顔を覗きこむ。
私の眼は、父親にして現当主、水守璃厳によって改造手術がなされた忌まわしい眼であり、今までこの眼を美しいなどと思ったことはなかった。戦闘による霊力の消耗を極力抑えるため、眼球から霊力吸収できる機能が埋め込まれている。
どこまでも戦闘に特化したこの身体に、美しいと評価を下した雪女。今の私なら、生きる目的を自分で考え、自分で決めることができる私なら―――別の見方ができるのではないか。
氷で作られた綺麗な鏡。人の顔を映すにはちょうどいい大きさ。何年ぶりか、久しぶりに覗き込んだ。鏡面に映った、自分の眼を。
『……これが、私の眼……こんなに青くて、澄んでいたのね』
鏡で初めて見る自分の眼。どこまでも澄み切った清い青色。瞳孔に一片の霞みもなく、曇りもない、雲一つとない晴天を思わせるほどに、端麗な彩色。
迷いのない、一直線の青。真っ直ぐな青。一言で言えば凛々しい。曲がってなどいない、ただ一つの僅かな希望のために邁進する、それを決意した愚直な青―――。
生まれてから今日まで、自分の瞳などまじまじと見たことはなかった。一日一日を生き延びるのが精一杯で、そんな細かいことで感傷に浸る余裕などなかった。
綺麗なものを綺麗だ、真っ直ぐなものを真っ直ぐだ、と素直に思えたのも、今日の、この瞬間が生まれて初めてだったかもしれない。汚いものばかり見てきて、手を常に兄弟姉妹の血で汚してきた私にとって。
―――``あなたと同じ……瞳を持つ人と……出会えると……いいね``
私と同じ瞳を持つ人。もしも出会えたなら、私は人間になれるのだろうか。今のように、綺麗なものを綺麗だと、真っ直ぐなものを真っ直ぐだと感じられるときが再びくるのだろうか。
その人は、私のことをただの都合のいい道具としてではなく、一人の人間、一人の少女として、ずっと見てくれるのだろうか。
その人は、私と同じ眼で、私と同じ志で、私と同じ道を歩んで、たとえどちらかが間違った道へ進みそうになっても引きとめる、そんな関係を築くことができるだろうか―――。
『そうだといいな……いや、そうする。私の未来は誰のものでもない。私が自分で描くものなんだから』
―――――――――――――――――
「……どした?」
澄男が私の顔を覗き込んでくる。近い。目と鼻の先に異性の顔。自覚がないのだろうか。もしこれが私でなければただの変態扱いされてもおかしくないが、それ以上に、烈火の如く燃え盛る紅い瞳が、近くて、近すぎて―――。
「なんでもありません!」
すぐさま彼から目を逸らし、なおかつ強く突き放す。痛ぇな、とイラつき気味に怪訝な表情を浮かべるが、頭を掻き毟り、すぐ面倒くさそうな顔に早変わりする。
「……んで、どうすんの」
照れくさそうに聞いてくる彼。迷いなどない。私は返すべき答えを決めた。
「戻ります。さっきも言いましたが、行く宛もないので」
技能球を懐から取り出す。澄男の流川本家邸新館の玄関を思い浮かべつつ、私の肩に澄男が手を置いてきた。
「どういう風の吹き回しだ? さっきまであんなに渋ってやがったのに」
唐突の手の平返しに困惑しているのか。それもそうだろう。彼からすれば、さっきまでの追憶を知る由もない。ずっと怒鳴り散らし拒んでいた女が、急に素直になるのだから当然の反応だ。でも。
「色々踏ん切りがついたんですよ。あなたと向き合ったときに、大事なことを思い出してね」
「あぁん? 大事なこと?」
「はい。大事なこと、です」
「なんだいそりゃ」
「黙秘させていただきます。またいつか、機会があれば話すかもしれません」
「懲りねぇ奴だな。本音ぶちまけろって流れから殺し合ったばっかだってのに」
「殺し合いには慣れてしまっているもので。どうしても聞きたいと仰るなら、もう一度殺り合いますか?」
「い、いいよ……メイドに身体貪り食われるなんざ、いくら死なないとはいえ二度とゴメンだ」
色濃い苦笑いを浮かべ、首を左右に振る。彼から殺意の類がないことを悟り、改めて本家邸へ戻る準備を始めた。
依然として期待できないし、する気もない。でも少しくらいは想像してみてもいいだろう。
私には肩書き以外に何もない。つまり失うものなんか何もないんだ。失うものが何もないなら裏切られても失わない。むしろ一度きりの人生、瞳に屈託のない真っ直ぐな熱さを宿らせる彼と一緒に暮らせば、何か得られるものがあるかもしれない。
いつか自分の青い瞳も彼のように翳りなく輝ける、そんなときが、もしかしたら―――。
このとき、初めて抜け出した。十数年間すごしてきた、合理的という名の永久凍土から。
一度だけ、生きてみるのはこれで最後。難しいことは考えない。期待を裏切られるのも、色々失うことも、もう慣れた。だったら最後に一度だけ、自分の感覚にしたがって生きてみよう。
輝きを失わない、その紅くて熱い瞳が見る先を、自分の青く翳った瞳でも見てみたい。ただ、それだけの想いを胸に―――。




