プロローグ:朝礼
人の存在理由、なんてものを考えたことがある人間は、一定数いると思う。私もその一人だ。
何故この現実世界に人として生まれ落ち、何故固有の名前を親からつけられ、生涯出会う全ての者にその名で呼ばれる存在として生きているのか。自分という存在が生きているのは何故なのか。そもそも``私``という存在は何なのか。
いくら考えたところで、答えなど出ないのは分かっている。強いて答えを出すのなら、存在理由に意味などないのだ。
ただその環境に生まれ落ち、その環境に適した存在として他人に意味づけられ、その環境に生きるべくして生きている。ただそれだけの事でしかない。それ以上の意味はなく誰もが意味を持たない存在理由の中で、千差万別の人生を送っているのである。
だからこそ今、身包みを一切身につけず泥だらけの裸体を野外に晒し、父とされる人物に頭を垂れ、まるで道端に落ちているゴミのように頭を踏みつけられて土下座させられている私、水守御玲と呼ばれる人間の存在理由もまた、おそらく意味などないのだろう。
「水守家次期当主、水守御玲。お前に問う」
顔も髪も、そして瞳も、全てがやつれ気味の中年男が、私の頭を無造作に足で押さえつけながら、ぼそりと呟く。
荘厳ではあるが、そこはかとなく軽薄さが滲む声音。聞き慣れた父の声だ。初めて聞く者ならば凛々しいと感じるのだろうが、十三年間聞いてきた私からすれば、声音をわざと凛々しくみせて、醜い内面を取り繕うとしている意志が透けて見える。凛々しさの合間に垣間見える声音の希薄さが、その証拠だ。
演技臭い声音で外面だけでも綺麗に見せている父だが、実の娘だからこそ、実父水守璃厳の本性を知っている。取り繕う外面からは想像もつかないほどに、醜く歪んだ人間なのだ。未だ齢十に満たぬ女児の私を、全裸かつ野外での生活を強い、身体が壊れるほどの虐待的修行を平気で行う、そんな人間。
「私のような下賤の者に答えられることであれば、その全てにお答えするのが、私の責務でこざいます。ご主人さま」
私は無機質に、暗記していた定型文を淡々と読み下すような口調と声音で答えた。そしてそのまま、更に言葉を続ける。無機質に、淡々と。
「なんなりと、この下賤の者たる私に申しつけくださいませ」
ふむ、と璃厳は呟く。
満足などしているわけでもないのに、満足気の雰囲気を言葉から発しているのが丸分かりの呟き。しかし不快感などこみ上げはしない。そんなことは今更だからだ。
この男の前でどれだけ物事を``完璧``にしようとも、この男が満足することなど決してない。何故ならその``完璧``などというものは、この男にとって``できて当たり前``なことでしかないからだ。
頭を足で押さえつけられているからどのような表情をしているのか定かではないが、見なくても大概予想はつく。声音だけは取り繕えても、醜い内面が噴き出した顔まではどうにもならない。
髪色、髪質、瞳の色から肌の色まで、全てがやつれたその男は、希薄さが滲む偽りの凛々しさを抱きながら、その問いとやらを口にした。
「お前は``人``か? それとも``犬``か?」
このとき、今の時刻を即座に把握した。
物心ついた頃から、このやりとりは通例行事になっている。朝の五時になると強制的に土下座させられ、二時間程度頭を足で押さえつけられたのち、朝の七時になると決まって父はこの問いを投げかけるのである。毎日、毎日。決まった時間、決まった態勢で、もはや日常習慣と言わんが如く。
このやりとりは、私と父の間で一日の始まりを意味する。父曰く、この会話を一日の始めに行うことで、己が如何なる存在かを常に自覚できるとのことだ。
私も、その論理に異論はない。一日の始め、朝一番に自分が何者かを常に確認する機会を、ご主人さまからいただけるのだ。これ以上の至福はない。
だからこそ、父の問いに対しての答えはただ一通りのみ。これもまた定型文であり、これ以外の文章を紡ぐことは絶対にありえず、父も私もそれを重々理解しているのだが、それでも己が何者であるかを再確認する習慣を反故にすることはできない。
「``犬``です。どのようなことがあろうとも、決して隷属の意志を忘れない、忠実なる``犬``でございます。ご主人さま」
地面に埋もれた顔から力の限り唇を動かし、二時間もの口呼吸でじゃりじゃりと舌の上で踊る泥を味わいながら、十年以上答えてきたその問いに、いつもどおり、何の脚色も婉曲表現もつけず、脳味噌に強烈に焼きついたその一文を、淡々と読み上げたのだった。




