追い詰められた愚弟
僕は焦っていた。
兄さんの化け物さもそうだけれど、なにより僕の中に生じた``迷い``だ。
今更なにを迷ってんの、と言われるかもしれない。いや、言われても仕方ない。僕だってなんで今更、と思っているくらいだ。でも途端に、僕は兄を殺すのに躊躇いが生じていた。
自分の中に生じた迷い。殺そうとボタンを押すと、ちらつくんだ。
いつどんなときも些細な危機から僕を助けてくれた兄。ペースでは僕が圧倒的ノロマなのに、僕と一緒の道場で何も言わず修行してくれていた兄。あまりにも戦う力がつかなくて、心折れかけた僕に、休憩がてら武術の手ほどきを軽く指南してくれた兄―――。
この世でたった一人、唯一無二の兄を殺す。
その程度、簡単だと思っていた。僕の持っている軍事力なら、ボタン一つで大国なんて一瞬で消し炭にできる。
ボタン一つで大国が一瞬。人類の大部分、つまり少なく見積もっても一億もの人間が、悲鳴をあげる暇も、恐怖に慄く暇すらもなく消滅させられるということ。たとえ相手が、生涯を共に生きてきた実の兄であろうとも、僕にとって``殺す``とは、所詮その程度の簡単なことだと思っていた。
でも、実際に前に出て兄さんと相対したとき、霊力のバリアの向こう側で奮闘する兄さんの姿をみて、ボタンを押す手元は狂い始めた。
本能なのか、僕の中に宿る兄への情がそうさせるのか。僕の意志に反し、キーボードを打つ僕の指は勝手に動く。
何故だ。何故僕は兄さんを殺そうとしない。かつて大事なものを守れなければ兄さんを殺してやると大見得切って宣言したじゃないか。今更反故になんてできない。自分で宣言しておいて、それを反故にするとか、言うだけ言って何も果たせないただの無能と同じ。口だけの凡愚だ。
兄さんも約束のことを思い出している。残された道は、ただ一つしかない。
流川久三男。何を迷っている。心臓を撃ち抜いても死なないなら、首だ。頸動脈だ。頭だ。脳味噌だ。数多の神経核が存在し、生命維持の根幹を成す脳幹を狙え。
いくらプラナリア並みの再生能力と、クマムシ並みの生命力を持つ兄さんでも、脳に致命傷を受ければ死ぬはずだ。今度は外さない。
精神を統一しろ。こんなのゲームと同じだ。音ゲーで高難度譜面をオールパーフェクトするのと同じ。レースゲームで自己ベストを更新するのと同じ。いつも通りやればいい。これはただのゲーム。兄さんの脳を撃ち抜くシューティングゲームだと思えば、少しは気が楽になる。
いつもやっていることじゃないか。簡単だ。難しくない。僕ならできる。ゲームだと思えば、あらゆるゲームをこなしてきた僕に、不可能はないんだ。
打ち出した無数の霊力弾が炸裂する。地面に着弾したんだろう。閃光と砂塵、轟音が僕の聴覚、視覚を支配する。
霊力の壁を遮光モードにして視覚の硬直を抑え、僕は霊力弾の雨へ勇猛果敢に突っ込んだ兄さんを探す。
目で探すと遅い。この戦闘用霊力カプセルにインストールされている探知系魔法で探す。
カプセルのバッテリーには余裕があるし、魔法陣はあらかじめプロファイル化してある。わざわざ記述し直す必要はない。呼び起こすだけだ。
「この場合の魔法は……``逆探``」
霊力で作られたキーボードを打つ。
捜索対象は兄さんただ一人。他はどうでもいい。兄さんの位置情報さえ先に知ることができれば、僕が先制できる。
仮に兄さんが迎撃してきたとしても、カプセルに展開されている``霊壁Lv.5``は打ち破れないし、かき消されたとしても、迎撃時の爆煙で兄さんの視界が潰れた瞬間を利用して二撃目を撃てばいい。
視界が爆煙で潰れても、探知系魔法で兄さんの位置が分かる。どう転んでも僕の勝ちだ。
いつまでも兄さんの背中ばかり見て、ただただ己の無能感に打ちひしがれるしかなかったこの僕が、化け物級の力を持ち、並み外れた破壊を受けようと不死を思わせる再生能力と、底知れない生命力を発揮して敵を恐怖と絶望に陥れる兄さんに打ち勝てる。
テンション上がってきた。僕が、この僕が、あの兄さんに勝てるんだ。
それは僕がずっと昔から夢見ていた瞬間。一生涯かかっても、絶対無理だと思っていた瞬間。
確かに一対一の、正々堂々とした戦いでは絶対無理だけれど、僕がこれまで作ってきた道具を使えば、いけるんだ。
「はは……はははははは!!」
高らかに笑った。こんなの初めてだ。心の奥底から自信が湧いてくる。並々ならない自信が。
今まで湧いてくるのは劣等感と兄への嫉妬、そしてどうしようもない己への無能感だけだった。それらが僕を裏でコソコソ工作しつつも、息抜きでアニメやゲームとかに勤しむ典型的なオタクに仕立て上げたわけだけれど、今日は違う。
今の僕は確信と自信に溢れている。こんな僕でも、今までの積み重ねを利用すれば、前衛で戦うタイプの輩にも勝てるんだ。そう思うと、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、堪らない。
【流川澄男、捕捉】
カプセルから通知音。
ホログラムモニタを見ると、兄さんはカプセルの背後に回ろうともせず、かといって左右に回ることもしない。ただただ愚直に素直に率直に、前から突っ込んでくる。
さながら戦時中、敵軍艦に航空特攻をしかける特攻隊のごとく、僕との距離を猛スピードで詰めきている。
なんのつもりなのか。ただの開き直りか。こんなの、狙撃してくださいって言ってるようなものじゃないか。兄さんの考えてることは分かってるつもりだったけれど、今回に限ってはよく分からない。いや、何も考えていないのか。
首を左右に振る。考えたってしかたない。開き直っているなら遠慮なく、頭蓋を撃ち抜いてやろうじゃないか。
照準を定め、キーボードに必要な情報を打ち込んでいく。狙うは兄さんの頭蓋。脳幹。レーザーで首を縦に両断する感じだ。ついでに身体も両断してしまうか。
この戦闘用カプセルに装備されたマナリオンレーザーは、ストリンパトロールやストリンアーミーとは比較にならない。防御系魔法``霊壁``すら、ケーキをスライスするように両断する斬れ味と、軍事用の複合装甲など一瞬で貫く貫通力を誇る。
おそらく兄さんの肌は軍事用の複合装甲なんて比較するのも烏滸がましくなるぐらい堅いんだろうけど、それを鑑みても兄さんの身体を微塵切りにしたキャベツみたいにするのは容易い。
必要な情報は入力した。あとはボタンを押すだけ。今度は迷わない。絶対的確信と自信を持つこの僕に、もはや死角なし。
「死ねぇ!! 兄さぁぁぁん!!」
慣れない雄叫びとともに放たれたるは、煌めく閃光。遮光されているにもかかわらず、それをも嘲笑う光の舞踊が、僕の網膜を焼きつける。
威力の全てを広範囲破壊ではなく、一点破壊に集束させたマナリオンレーザー光線。その貫通力に耐え切れる材質など、この世に存在しないだろう。たとえ兄さんの鱗をもってしても。
もはや絶対に、何人も覆しようのない絶対的、確信的勝利を、弾き返すことも、かき消すことも、相殺することも叶わない一撃必殺をもって、確信した。
「え!?」
確信した、その瞬間の出来事だった。
突然視界が赤くなったのだ。光源を確認するべく反射的に真上を見上げたのだが、そこには見慣れない魔法陣が展開されている。
見たことのない膨大な文字列。血のように紅く、幾重にも重なり描かれたトーラス。身体から、ありとあらゆる水分が沸騰する感覚がこみあげる。
もしや。まさか。いや、そんな。これは、まぎれもなく、兄さんの。
「竜位……魔法……!?」
リビングの会話を盗聴し、なおかつこれまでの兄さんの戦いを超小型ドローンで監視して分かった未曾有の力。
十寺との戦い。中威区におけるエスパーダとかいう人外との戦い。そして``皙仙``こと裏鏡水月との戦い。
広範囲を更地にし、人ではどうあがいてもどうしようもない力を容易に消滅させる暴力。
この目で見たのは初めてだった。ドローンのカメラを通して何度見たことはあったけれど、実際に見ると凄まじい圧力。
目の前に広がっているのはただの真っ赤な魔法陣。しかし、その魔法陣からは殺意がこもっている。意味不明な文字列は、僕がネット上で呟く呪詛のような愚痴のごとく。真っ赤な魔法陣から漂う雰囲気は、怒り、憎悪といった負の感情のごとく。
一言でいえば禍々しさの塊。怒りと憎悪を呪詛にして、それをぐちゃぐちゃに固めたようなもの。
でもおかしい。僕は感覚だとか、勘だとか、虫の知らせだとか、非科学的かつ根拠のない概念は一切信じない質だから正しいかどうかなんてわからないけれど、この魔法陣、兄さんじゃなくて、兄さんとは全く別物の、何者かが書いたかのような―――。
「うわぁ!?」
カプセルが大きく揺れたと思いきや、カプセルを覆っていた霊壁が、突然粉々になったのだ。
何が起きたのか分からない。考えるより分析するのが速いし、エラーなら、すぐにコマンドを打てば分かるはず―――。
「うぇぇ!?」
キーボードを打とうと身を翻すと、ホログラムモニタとホログラムキーボードが綺麗さっぱり消えて無くなっていた。まるで電源が落ちたかのように。
ありえない。まだバッテリーには余裕があるはずなのに。まさかこんなときにエンストしたのか。いや、搭乗前にメンテナンスはしたからエンジントラブルなんて起きないはず。じゃあどうして―――。
「つーかまーえたァ……!!」
「ぐぇ!?」
霊壁というバリアが消え去り、電源が完全に落ちたカプセルの搭乗口に、何者かが乗りかかった挙句、僕の首根っこをもぎ取る勢いで掴みかかる。
両手で首を掴むその手を握りながら、顔を上げた。
「よォ。ようやくツラァ合わせられたな、愚弟」
流川澄男。流川本家派当主``禍焔``にして、僕の実兄。
もはや推進力を失ったカプセルを持ち前の霊力で浮かし、操縦席に身を乗り出すようにしてうんこ座りをしている兄さんは、血のように真っ赤な瞳で、僕の瞳を覗き込む。
「兄……さん……どう……やって……?」
「``念崩``つってな。ありとあらゆる霊力を消滅させる技があるんよ。それ使った」
さも当然というように現実離れしたことを口走る兄さんに、僕は唖然とした。
ありとあらゆる霊力を消滅させる。そんな力場があるはずがない。
霊力場はたとえブラックホールの重力ですら歪めることができない絶対普遍の力。霊力場を打ち消すには、同等の霊力場をぶつけ合わせて相殺する以外に、方策は存在しない。これは数多の魔法科学者が、長きに渡る研究で導き出した、世界の原理の一つだ。
でもそんな理論を全て無視して消滅させる。そんなことが、本当に可能なのか。
いや、そうじゃなきゃカプセルのバリアが消えたことも、カプセルの電源が落ちたことも説明がつかない。兄さんに、このカプセルが放つ霊力場を打ち消すような魔法陣を書けるわけがないんだ。
竜位魔法って、なんでもありなのか。
「まあンなこたァどーでもいいとしてだ。テメェ、俺を殺すんだろ?」
「そう……だよ」
「んじゃあ早く殺してくれよ。殺してみせてくれよ」
「ん……んがああああ!!」
ぺち、という可愛い音が響いた。
僕の渾身の右ストレートが兄さんの左頬を直撃する。だが、兄さんの顔が面白い顔になっただけで、全く手応えはなかった。
当たり前だ。僕のカスみたいな腕力じゃ、兄さんにダメージを与えることなんてできない。精々にらめっこのネタになる程度が関の山だ。
それでも僕は殴る。殴る。殴る。殴る殴る殴る殴る。
何度も殴った。手が痛くなるくらい。手の甲から血が滲むくらい。まるでコンクリートの壁に何度も右ストレートを食らわせているかのような感覚。
腕力の限界を感じ、殴るのをやめた。同時、兄さんの深い溜息が僕の身体を掠めた。
「そんなんじゃあお前、虫も殺せねぇぞ。殴るってのはな、こうすんだよ」
「ごぇ!?」
「おら」
「がは!?」
「はい」
「ぐ!?」
「そんで、こう」
「がっ……!!」
右頬に四発。口からとめどなく血の味が染みわたる。
痛いなんてものじゃない。首から上がもげてしまいそうだ。頭もクラクラする。視界もぼやけ始めた。
兄さんの打撃一発は僕と比べ物にならないほど高い。当然、僕が死なない程度に手加減してこの威力なのだ。
「ぐぅぅえぇぇ……ぇ……!?」
僕に考えている隙なんてないらしい。突然首の締まりが急激に強くなった。反射的に両手で兄さんの左手を掴み、足をジタバタとさせる。今の僕は多分、モリに貫かれた魚のような状態になっていることだろう。
「ぐるじ……! にい……ざ……ぐる……じい……!! いき……がぁ……!」
「そりゃあな。首絞めてるからな」
苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しい。
どんどんキツくなってきている。兄さんの握力なら、僕の首の骨なんて容易くへし折れる。首の骨なんて折られたら―――死ぬ。死んじゃう。
兄さんの左手を爪で引っ掻く。たとえ爪が割れようとも、何度も、何度も。
しかし抵抗などむなしい。兄さんの握力は、弱まるところを知らない。
「おいよせよもう終わりか? 俺を殺すんだろ。こういうときどうすっか、教えたじゃねぇか。ほれ」
遠退く意識の中、兄さんは僕の顔へ額を近づける。そして自分の額を指さし、ほれ、ほれ、と言った。
そうだ。手も足も使えない状態で、なおかつ身動きが取れなくなったとき、敵を振りほどく方法を僕は教わった。それは―――。
「ぐぅ!!」
べち、というこれまた可愛い音が流れた。そう、頭突きである。
相手の頭部に衝撃を与え、怯んだところで距離を取る。そして態勢を立て直して再び間合いを詰めていく。兄さんや母さんから、小さい頃習った基本の基本だ。
でも。
「まあ、そうだろうな。我ながら実の弟と思えねぇぐれぇの、情けねぇ頭突きだ……」
兄さんからまた、深い溜息が流れた。
僕の力じゃ、これが全力の頭突きなんだけれど、兄さんにとってはハエ叩きで間違って叩かれたぐらいの感覚でしかないんだろう。
怯んですらいない兄さん。もうおでこが痛くて頭突きする力もない僕。ここまで力の差が歴然だと、打つ手がない。
「愚弟よ。頭突きってのはこうやんだ」
「がは!?」
「ほれ」
「にいさ」
「何じゃ」
「もうやめ」
「え?」
「あたま」
「うん」
「われ……」
「ん?」
「……」
「おーい」
「……」
「しょーのねぇ奴だなぁ」
「……」
「ほれ起きろ!!」
「ぐべぇ!!」
視界が突然真っ黒になったと思いきや、右頬に凄まじい痛みに見舞われ、僕は目を覚ました。
どうやら重い頭突きを食らいすぎて、意識が飛んだらしい。頭がものすごく痛い。本当に頭が割れたみたいに痛い。
額から血が流れてくるのが分かる。口の中にコロコロと転がる何かを感じた。血の味が支配する口腔内に、それを舌の上で転がす。僕はそれが何か、すぐに分かった。生えたばかりの永久歯である。
「さて……こんな狭っ苦しいカプセルん中じゃつまらんな……」
「ぐぅぅ……兄さ……なにを」
「お前を下に落とす」
「……ぇ……?」
今、なんて言った。
真下を見る。自分の家の庭の木々が一つ一つ区別つけられず、もはや緑色の苔にすら見えてくるほどの高さ。足の先から頭のてっぺんまで、氷のような冷たい何かが込み上げてくるのを感じつつ、唾を呑んだ。
「こんな高さから……落とされたら……」
「安心しろ。地面には落ちない」
「それって……どういう」
こと。と言おうとした瞬間。
人生で感じたことのない絶大な浮遊感とともに、兄さんがどんどん上へ上がっていく様を、静かに見上げた。
一瞬なにが起こったのか、この僕でもよく分からなかった。浮遊感を瞬間的に感じた折、それは下に吸い込まれるなんらかの力へと豹変するそのとき、初めて状況を理解した。
上へ上へと上がっていく兄さん。ほんの一瞬だった浮遊感。そして、あたかも地面へ吸い込まれるような感覚。
間違いなく、そしてまぎれもなく、僕は自由落下しているのだと、悟ったのだ。
「ああああああああああ!!」
死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
木々がただの点にしか見えないような高さから落ちたら、肉片すら残らない。
なんとか避けねば。でもどうやって。
僕は今、大陸の重力加速度に従って地面へ真っ逆さまに落ちている。空気抵抗と加速される速度を考えたとしても、位置エネルギーが空気抵抗力による仕事で目減りする分より、運動エネルギーに姿を変え、僕の身体を粉々にするだけの力学的仕事が圧倒的な割合を占めているのは、火を見るよりも明らかだ。空気抵抗力には期待できない。
そして今、僕はなんのアイテムを持っていない。況してや低速落下のアイテムなんて、カプセルから出る予定がなかったから持参しているわけがないのである。
どうする。考えろ。考えたってしかたないけれど考えろ。地面にあるのは``死``。その絶対的``死``を回避する、ただ一つだけの方法を。
「ヒィ……! い、いやだぁ……! ぼ、僕はまだぁ……!」
当たり前である。そんなことは考えるまでもないことだ。
思いつくはずがない。飛ぶこともできず、アイテムもなにも持っていない僕にこの死を回避する方法など、あるはずがないのである。
でも。それでも―――。
「だから言ったろ。お前は地面に落ちないってな」
突然、地面に吸い込まれる力がなくなり、僕は足場のない場所で止まった。よく見ると右腕を袖ごと鷲掴みにされている。
掴んでいるのはもちろん、兄さんだ。足の裏から霊力を噴射させ、器用に空に浮かんでいる。
「左腕、上げろ。片腕だけじゃ、つれぇだろ」
優しい声音で手を差し伸べる兄さん。確かにこの状態は辛い。右腕が早くも痛くなってきたし。
「そ、そうだね……ありがとう兄さごはぁ!?」
突然現れた腹部からの鈍痛と、臓腑という臓腑の位置がズレる猛烈な不愉快感、そして底知れぬ吐き気を同時に襲われ、視界が一瞬で歪んだ。
状況を整理しよう。僕は右腕を袖ごと兄さんに掴まれて宙吊り状態だった。宙吊り状態だとしんどいので左腕も差し出した。瞬間、一気に持ち上げられたと感じ、今に至る。
何がどうしたら、僕は腹に膝蹴りをくらわなければならないのか。困惑する僕に、兄さんは淡々と答えた。
弟を重んじる兄ような声音とは打って変わり、とても野太く、低い声音で。
「言ったはずだぜ。俺はテメェを殺さねぇ。殺さねぇが!!」
再び腹に兄さんの膝が深くめり込む。さっきもよりも深くめり込み、胃が潰れたせいか、僕は強大な吐き気に耐えきれず、吐瀉物を撒き散らす。
内臓がぐにゃぐにゃとのたうちまわる感覚が気持ち悪くて、気持ち悪くて、堪らない。
「むしろ殺してくれた方がマシ、とつい思っちまうくれぇの、トラウマを植えつけてやるってなァ!!」
全身を駆け巡る強烈な冷覚。これが、戦慄というやつなのだろうか。
見慣れているはずの兄さんの顔が、このとき、全く別人の、悪魔的な何かに思えた。悪魔なんて非科学的な存在を信じたことなかったけれど、兄さんの顔は人のそれでは既になかった。
己の気にくわない存在に対し、容赦しない。泣こうが叫ぼうが畏怖しようが関係なく、残虐非道に躊躇しない。僕は兄さんの見たことのない側面を、今ここで知ったような、そんな気がした。
「あとテメェ、さっきなんつった?」
「え?」
「左腕さしだしてきたとき」
「ありがごえぇ!!」
「俺とテメェ。今は敵同士なワケだ。なのにさ、敵にお礼言ってどうすんだよ。舐めてんだろ」
「ごめんなさぐぉぇ!!」
「だーから敵に頭下げてんじゃねぇ!! そんなだからテメェは戦う能のないカスなんだろうが!!」
「げぇ!! ……ごぷ……うぉぉ」
とめどなくこみあげてくる吐瀉物。口周りはぐちゃぐちゃ、顎を拭き取りたい衝動に駆られるも、当然兄はそれを許してくれない。
「あともうこれ言うのも飽きてきたんだけど、テメェ俺をブッ殺すのよね? だったら早く殺せってんだよきったねぇゲロばっか吐きやがって」
「うぅ……む……り……」
「は?」
「む……り……げほッ」
「何が無理だ!! テメェが最初に言いだしたんだろうが!! それとも何? 戦うための道具がなきゃ無理とかほざくつもりか? 甘ったれてんじゃねぇ!!」
「無理なものは……無理だよぅ……」
「チッ……カスが。だったらその気にさせてやるまでだ」
「……ぇ……!? 兄さん……まさか」
兄さんはまた、僕の右腕だけ掴み、宙吊りにした。
兄さんが何をしようとしているのか、僕は分かっている。だからこそ、兄さんの腕に必死にしがみつこうともがく。必死に、必死に。
「やめろ無駄だ。テメェはやっぱ、怪我の一つでもしねぇと分からねぇ」
「そ、そんな……確かにこの高さなら死ぬことはないけれど……下手したら」
「ああ、どっかの骨は折れるだろうな確実に。お前、地下に引きこもってからはロクに基礎体力作りもせず外にも出てないし」
「い、いやだぁ……!! だ、だって骨折だよ? 骨が折れるんだよ? 絶対痛いよ、いやだよ」
「いやいや、お前は俺を殺すために前に出てきたんだろ? 戦場に身を投げたんだろ? だったらその程度、どうってことねぇだろうがよ」
「どうってことなくな」
「落ちろ」
兄さんの振りほどきに、僕の握力が保つはずがない。
「ああああああ!! 落ちる、落ちるううううああああああ!!」
まんまと間抜けにも放り出され、再び地面に吸い込まれるかのような浮遊感を、再び味わう羽目となった。
どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。まずい、ほんとにまずい。地面に真っ逆さまだ。下はいくら土とはいえ、こんな速度で落っこちたら擦り傷とか打撲とかでは絶対済まない。
いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ。怖い。骨折なんてしたことないし、どれだけ痛いかなんて知らない。
そもそも僕は、怪我自体ほとんどしたことないんだ。精々兄さんや母さんに修行中、殴られて打撲を負ったくらいしかない。その打撲だって泣きたいくらい痛かったのに。骨折なんてしたらショック死するんじゃないか。
待って、待ってほんとに待って。地面が、地面が。
「地面がああああ!! ああああああああああ!! いやだああああ!!」
思考回路は完全に壊れた。どうすればいい。思いつかない。怪我を避ける方法が思いつかない。どうあがいても、何かしらの怪我はする。
そんなの落下速度を計算するまでもないくらい、自明の理だ。
「はぁ……はぁ……だ、だったら……!」
壊れた思考回路を修復せんと動く。
頭を動かせ。僕だって流川の端くれ。二千年の歴史を持つ、戦闘民族の出だ。どう転んでも怪我をしてしまうのなら、怪我を可能な限り軽減するしかない。
守るべき部位はどこか。当然、頭だ。頭に怪我を負えば死ななくても死んだも同然になってしまう。後は、骨折を見越して、折れる骨を一箇所に絞るべきだ。僕は幸い両利き。どうせ折れるのなら、腕一本だけの方がいい。いやだけど、ほんとにいやだけど、左腕、犠牲にするしかない。
空中で身を捩り、左腕を盾にして、頭部が地面に直撃しないように態勢を整える。地面が近づくたび、服が汗でしっとり濡れていくのを感じる。
呼吸がどんどん速く、そして回数が多くなっていくのを感じる。高鳴る脈拍。今にも体から、心臓だけ飛び出してどこかへ行ってしまいそうになるくらい、僕の拍動は異常なまでに高まっていた。
地面まであと少し。あ、ああ、あああ、ああああ、あああああ―――。
地面までほんの僅かになった瞬間、視界はものの見事に暗転した。
二回か三回ほど、地面を飛び跳ねただろうか。自分がスーパーボールにでもなったかのように体の至る所が説明しようのない状態になる。
全身泥だらけ土塗れになったのは考えるまでもないだろう。地面に放り出される形で、スーパーボールと化した僕の身体は、ようやく動きを止めた。
「グアアアアアアアアア!! いだいいだいだあああああああ!!」
人生初の命綱なしのバンジージャンプ。一命をもって地面に着地できた僕が最初に味わったのは、今までの人生で感じたことのない、想像絶する全身痛だった。
あまりに痛くて泣き叫ばずにはいられない。左腕のみならず、全身が一斉に悲鳴をあげていて、もう何も考えられない。
痛みを声に出して叫ぶ、ただそれだけに夢中になることで、少しでも痛みを和らげる。ただそれだけしか。
「あああほねおれだかたくだけだああああ!! いだああいだずぎてああああああああ!!」
「うるせぇなぁ……まるで駄犬」
兄さんの声。でもあまりの痛さに反応できない。痛すぎて、痛すぎて、痛すぎて、痛い。とにかく痛い。全身が、左腕が、左肩が。
体を動かそうにも、砕けた肩甲骨と左腕の骨が響いて、身動き一つとれやしない。兄さんだったらこの程度すぐに修復するんだろうけど、僕はただの人間なんだ。治癒力は人並みなのに、こんなのあんまりだ。
「やっぱ腕折れたか。肩も砕けてるっぽいし。んじゃあ……」
「うぇ……なにすンアアアアアアアアアア!! あじがああああああああ!? あじがあああああああ!!」
「うるせぇ!!」
「あじごぶ!?」
未だ全身からの悲鳴が絶えないときに、右足からこの世のものではない激痛が走った。木の幹がへし折れるかのような野太い音がしたから、確実に、考えるまでもなく、足の骨を踏み砕かれた。
ああ、死にたい。
だってそうじゃん。こんな痛みを味わう意味がどこにあるの。ないよ、こんなのただの弱い者いじめだよ、それもものすごく凄惨な部類に入るいじめだよ。
なんで僕がこんな仕打ち受けなきゃいけないんだ。確かに僕は弱い。でも弱いからって頰を殴られて気絶するくらい頭突きされて、ゲロ吐くくらいお腹蹴られて、挙句空から振り落とされて左腕と左肩砕かれて、しまいには右足を踏み砕かれる始末。
こんなの地獄だ。死んだ方がマシだ。死にたい。でも死ぬのも怖い。まだ生きていたい、死にたくない。生きていたい。死にたくない―――。
「じにだぐなあああああぐ!!」
「あぁんなんてェ? 死にたくねェ?」
頭蓋を強く地面に押し付けられる。泣き喚く声も地面に吸収され、涙で顔は泥にまみれていく。それでも兄さんは止めない。僕の頭を、ぐりぐりと容赦なく足でこねくり回しては、踏みつける。
「おいなに泣き喚いてんだテメェよォ、俺をブチ殺すんだろうがよォ? だったらとっとと殺してみさらせや、あの世に送ってみろや!!」
何度も、何度も僕の頭を無造作にこねくり回しては、力一杯踏みつける。それでも僕は涙を流し、痛い、痛いと咽びながら、ただただ土壌をしめらせるのみ。
それに呆れたのか、兄さんの、僕の頭蓋を押さえつける力が何故か目減りした。
「テメェには男としてのプライドがねぇのか!! こんなにボロ雑巾みたいな扱いされてさァ、されるがまま敵に首垂れてる今が情けねぇとは思わねぇのか!! なぁ!!」
プライド。そんなものは、とっくの昔に捨てた。そんなもので強くなれるのなら、僕は苦労なんてしなかったし、今頃兄さん並みの実力を持っていた。
「俺も泣きてえよ……唯一無二の家族で、信じられると思ってた奴に売り飛ばされてさぁ……納得いかなくてカチコミかけたらソイツはこのザマよ……」
そんなの知るか。僕は僕のやりたいようにやっただけだし、それが、まさしく僕のやり方なんだよ。
兄さんだって、今まで好き勝手やっていたくせに、僕のやり方なんてロクに認めなかったくせに、勝手に僕を信用すんなよ。虫が良すぎんだよ。舐めてんのはそっちだろ。
「テメェは無能でも少しは男だと思ってたのに、見損なったわ。テメェはもうただの出来損ないの無能だ。そこらの有象無象と大差ない、ただの凡愚」
うるさい黙れ。僕は凡愚なんかじゃない。誰も僕のことを分かろうとしないだけだ。見損なったのはこっちだクソ兄貴、僕だって、世界の誰もが分かってくれなくても、兄さんだけは僕のこと、分かってくれると思っていたのに。
「もうこれが最後だ。テメェ、もう俺を殺す気ないんだな?」
うるさい、しゃべんな、駄弁な、決めつけんな。いつもいつもいつもいつも。
「もう殺る気ねぇってんなら構わねぇぞ。テメェみたいなゴミカス、相手にする意味も価値もねぇし。永久に泥ン中で咽び泣いてろ。害悪殺人メカ作るしか能の無い出来損ないの暗愚が」
ふざけんな。
ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな。
僕の事だけを罵るのなら好きにすればいい。言葉どおりだし今更基礎体力作りだの武術の鍛錬だの、そんなクソ面倒なことを今更する気はさらさらない。前衛で戦う能がない無能扱いされること自体今更だ。正直どうとも思わない。
でもカオティック・ヴァズを害悪殺人メカ呼ばわりするのは許せない。オモチャ扱いするだけじゃ飽き足らず、害悪呼ばわりなんて。
兄さんが戦いに命を賭けているのと同じように、僕は工作に命を賭けてんだよ。工作のためなら正直アニメやゲームなんて全部捨てていいと思っているくらい、僕の全てを賭けてんだよ。
戦うための力が何もなくて、劣等感に苛まれて不貞腐れるしかなかった僕に、一筋の希望を与えてくれた``工作``。
ネヴァー・ハウスも、カオティック・ヴァズも、小さい頃兄さんに壊されたドローンも、僕の家を徘徊しているストリンパトロールやストリンアーミーやストリンタンクだって、僕が手塩をかけて育てあげた、大事な大事な、子供達なんだ。
彼ら子供達が、兄さんたち前衛で戦っている人の役に立てばいいだとか、世の中に僕の力を示そうだとか、そういう願いがないわけじゃない。
でもそれ以前に、僕は工作が``好き``なんだ。兄さんが修行や戦いが好きで、自分を鍛えてたのと同じように、僕は工作が好きなんだよ。それを馬鹿にした兄さんを、僕は、僕は―――。
「クソ兄貴ィィィィ!!」
立ち去ろうとする兄さんの背中に、怒号を飛ばす。兄さんがこっちを振り向いた。
幸い、まだ右腕は動く。こういうときのために、片腕残しておいて良かった。ホントは、もっと格好良くしたかったけれど、もう、外見なんかどうでもいい。
僕だって一時期は体内の霊力を操る訓練をしていたから分かる。もうここ数年はやってないから、できるかどうかわかんないけど、それでもいい。今は目の前の、僕の``好き``を馬鹿にしたクソ兄貴を―――。
―――``殺す``―――。
右手の人差し指から白くか細い光線が放たれた。
威力を可能な限り一点に絞り貫通力に特化した一撃。生まれつき霊力量もほとんどカスみたいな量しかなくて、ちょっと霊力を外に出すと霊力切れを起こすような奴だったから、一時期特訓して、威力を広範囲破壊ではなく、相手の急所を確実に刺し貫く方に特化したんだ。
結局、体力的なスタミナの方が持たなくてお蔵入りになったけれど、これは僕が、唯一自力で編み出した、なけなしの技なんだ。まさか兄さんに使うことになるなんて、当時の僕からしたら信じられないことだったろうけれど。
光線は着々と兄さんとの距離を詰めていく。兄さんは驚いたような顔をしたまま、固まっている。
この分だと、兄さんが避けるより、光線が兄さんの脳幹を射し貫き破壊する方が速い。
チェックメイト。勝つのはやっぱり、最後までもがいた、僕みたいな弱者なんだ。
光線が着実に兄さんに迫る。五、四、三、二、一、零―――。
「……ッ!!」
不意打ちで出した渾身の一撃、兄さんの脳幹破壊光線は、見事兄さんの脳幹を刺し貫いて破壊し―――。
なかった。見事、兄さんの首元の左隣に素通りし、鎖骨の一部と肩をかすった程度だった。
か細く笑う。視界がぼやけ、意識が遠のき始めた。
霊力切れ。多分、もうじき失神する。霊力切れでも意識を保てるだけの体力はないから、霊力切れはすなわち、戦闘不能を意味する。
「は、はは……おかしいな……シューティングゲームだったらこんなとき……絶対……外さないのに……なぁ……」
右手が、むなしく地面に落ちる。
意識が消滅していく。視界のぼやけはどんどんきつく、明暗の差もなくなっていった。抗いようのない強烈な睡魔がのしかかり、僕は己の全てを、その睡魔に委ねたのだった。




