プロローグ:十年前の約束
僕は強くなりたかった。
物心つく頃から、僕は兄さんの背だけを追いかけて生きてきた。それは未来永劫変わる事はないと、心の底から信じていた。あの``約束``をするまでは―――。
「もう無理だよ母さん……」
「久三男ォ!! お前男だろォ!! 腹筋ただの五十回しかできてねぇじゃねぇかァ!! 話にならんぞそんなんじゃァ!!」
「そんなこと言ったって……これ以上お腹持ち上がんないもん……」
「たく俺がテメェんときゃあ五百回は軽くこなしてたぞォ!!」
「それは母さんがただ怪物なだけじゃないかなぁ!! 一応、僕まだ五歳だからね!?」
僕の母さん、流川澄会の前で、なめくじみたいに床にへばりついて動こうとしない僕、流川久三男は今日も終わりの見えないロードワークに苦しめられていた。
畳の匂いが心地良い。母さんの怒鳴り声がほんの少し小さく聞こえるくらいに、極限まで痛みつけられた僕の身体が、心なしか癒されていくのを感じる。
これを、大地の力、なんて言うんだろうか。
「御託はいいィ!! それにお前、最近魔生物狩りのノルマ、全然達してねぇぞォ!! 昨日なんて一体すら狩れてねぇじゃねぇかどういうことだァ!!」
母さんの怒鳴り声が、残酷にも僕を現実に引き戻す。現実に引き戻されたという絶望と、母さんの恫喝のダブルパンチが、僕のガラスメンタルを容易く砕いた。
「そんなの無理だよぉ……魔生物なんて怖くておしっこちびっちゃう」
「何がおしっこちびっちゃう、だァ!! 男なら小便垂らしながらでも向かい撃つのが男ってもんだろうがァ!!」
「母さん文法おかしいよ!! なんかカッコいいこと言ってるように感じるけど、男って単語二回連続で言ってて、かえってわけわかんない内容になってる!!」
「なんでテメェはそうワケの分からん口答えすんだァ!! テメェの兄貴を見習えェ!! 黙々と腹筋千回してんぞォ!!」
そういわれて、床にへばりついた顔を、兄さんの方に向き直す。
僕の隣には一〇二一、一〇二二と呟きながら、ひたすら上体起こしを続ける兄さんがいた。シャツは汗でびしょぬれ、顎や顔から滴る汗が、道場の床に滴る。
兄さんは、本当に戦いに関しての才能がものすごく秀でていた。
魔生物も一日にものすごい数を狩ってきたり、僕じゃ到底真似できないような基礎体力作りのメニューを速攻でこなしたり、それだけじゃ物足りないのか、余った時間は、母さんとずっと模擬戦をこなしたり。武器の扱いの呑み込みも速くて、あの母さんですら唸らせたほど。
本当にすごい。僕なんか、魔生物狩りとか、模擬戦とか、それ以前に基礎体力すら、まともにできた試しがない。
兄さんは既に上体起こしを千回こなしている中で、僕はたったの五十回。流川家じゃ、五歳の頃には上体起こし程度、少なくとも百回以上はできないと基礎体力が全くなってない奴扱いされる。
つまり、その程度のことも速攻でこなせない無能ということと同じなんだ。
「久三男ォ!! 何してるゥ!!」
「ご、ごめん母さんッ」
「早く流川の平均基礎体力をつけろォ!! 基礎体力がなってねぇと、武器もロクに扱えないんだからなァ!!」
武器、か。
既に悲鳴をあげ始めている腹筋に、お灸をすえる勢いで上体起こしを再開しながら、ふと考え事に頭を巡らせた。
本当は僕も兄さんと同じ、``剣``を持ちたかった。
でも敵を目の前にして戦うのがどうしても怖い上、剣術のセンスが全然なくて、遠くから敵を狙い撃てる``弓``に妥協した。
それが第一の理由だけれど、本命としての理由は、もう一つあった。
兄さんが剣で敵と接戦するなら、僕は遠くから、敵を目前にして戦う兄さんを支援する。そういう意味合いでも、僕はあえて弓を持つことに決めたんだ。
前衛でなくても、弓が使えれば戦場には立てる。だからこそ戦場を群雄割拠するであろう兄さんの後ろで細々と戦果を挙げて、兄さんの、延いては流川の戦いに貢献する。そう信じていたからこその、一大決心だった。
でもそれは、基礎体力という名の壁の前に、儚く粉々に砕け散った。
スタミナの怪物である兄さんは、一日中魔生物と死闘を繰り広げてもケロッとしているくらいの体力と気力を持ち合わせているが、僕は精々頑張っても三、四時間が限界だった。
三、四時間で体力切れを起こす人が、一日中魔生物と殺し合いができる人を支援する。全くもって現実的とは言えない。
兄さんとのスタミナもとい肉体能力の差を埋めるため、大気中もしくは龍脈を流れる霊力を吸収し、肉体能力の限界を突破する``天地龍功``という技を習得しようとも考えた。
でもそれを使いこなすには、少なくとも流川の平均基礎体力がないと身体が限界突破に耐えられないという厳然たる現実が、容赦なく僕の前に立ち塞がった。
結局、基礎体力は最後の最後まで、僕の理想を阻む最大最強の壁として立ち塞っているわけだ。今の僕はもう、武器を持つことを半ば諦めていたりする。
では何故修行を続けるのか。
もしかしたら武器を持てるようになるかもしれない。などという曖昧で非現実的な希望に縋っているからなんだろう。そんな淡い希望を胸に、終わりの見えない基礎体力作りをひたすら続けているのだ。いつか、兄さんとともに武器を携え、戦場に立てることを願って―――。
でも僕の純粋な想いとは裏腹に、現実は尚も非情だ。それから更に時が経ち、僕は道場に通わなくなった。
終わらないロードワークに、遂に嫌気がさした。というのもあるけれど、それ以上に僕が道場を通うのをやめる事にした、確固たる理由があった。
それは、出口の見えない基礎体力作りを続けていたある日の事。
「できたッ。ついに完成した!!」
白いボディの小型ドローンを手に持って、二階の私室から飛び出す。
実を言うと、僕は兄さんみたいに強くなりたかったという想いと同じくらい、``研究``が好きだった。本を読んだり、論文を書いたり、色んな素材から道具や武具、装置を作ったり。研究、開発は僕にとって最大のオアシスであり、最高の趣味だった。
母さんはプラス自主練を何かしろと言っていたけれど、メニューを終えても余裕があるときは、その時間を全て趣味に費やしていたくらいに、僕は研究が好きだった。
ダメなのはわかっていた。ただ単に現実から逃げているのも分かっていた。でも僕の中に際限なく湧き上がる``好き``という感情を、僕は抑えることができなかったんだ。
自分の研究をもっと良いものにするため、僕は余った時間を久々おじさんの所に通っていた。
久々おじさんっていうのは、僕より一世代前、ラボターミナルという、建物そのものが研究室みたいな所を一人で管理していた人のこと。当時の僕はまだ見習いみたいなもので、久々おじさんの手伝いをする代わりに、ラボターミナルの設備を借りて自分なりの研究・開発を行っていた。
そこには色んな実験装置や、論文や、書籍が沢山詰まってて、最新型のコンピュータから最新型の実験器具など。ラボターミナルにあるもの全てが時代の最先端をいくものばかりで、僕にとっては今も昔も、宝物庫以外の何物でもない場所だ。
久々おじさんは、僕に色々な事を教えてくれた。それだけじゃない。最先端の実験器具や装置で、実験や開発もさせてくれた。まだ見習いでしかない、こんな僕に。
そのとき、思ったんだ。将来、僕が久々おじさんぐらいか、おじさん以上の研究者になったら、ラボターミナルに所属して、前線で戦う兄さんを支援しようって。
僕が道場に通うのをやめた真の理由は、兄さんを影ながら支援する新たな目標を立てたからだった。
今日はようやく完成した戦闘用ドローンの試作機を兄さんに見せる日。サプライズの意味を込めて、今日まで隠れて作っていた。まだ試作機だけど、いずれは高集束型エーテルキャノンを装備できる最強の小型ドローンにする予定のもの。
これなら兄さんも、母さんも、僕の力をきっと認めてくれる―――。
屋敷の中を走った。いつものように、修行している兄さんがいる道場へ。僕は勢いよく、道場の引き戸をこじ開けた。
「兄さん見て! ついに完成したんだ! 僕が作った戦闘用ドローンの試作機!!」
僕が声をかけても、黙々と数を数え続けながら、スクワットをする兄さん。それでも僕の語りは止まらない。
「このドローンはね、前の砲門から八センチ高集束型エーテルキャノンを搭載できる優れものでね」
「久三男」
「あ、でも今は試作機だから高初速ミニガンなんだけど、これも銃身の冷却機構を強化して更に連射性能を強化すれば……」
「久三男!!」
あまりに鬼気迫る低い声音に、僕は一瞬だけ、身体を震わせる。兄さんはスクワットを中断し、髪の毛や顔にへばりついた汗を、汗まみれの手で拭った。
「お前……最近道場にこねぇと思ってたが、そんなもん作ってやがったのか」
「そ、そうだよ……? 僕が作った戦闘用ドローン試作……」
「ンな事どーでもいい!!」
素早い身のこなしで、身体を翻し、僕に迫る。
その顔は、僕が見たことのないくらい鬼の形相で歪んでいた。僕は思わず後ずさるが、その前に兄さんに肩をがっちりと掴まれ、退路を断たれてしまう。
「テメェ、隠れて修行してんのかと思えば、そんなオモチャ作ってやがったのか!! 流川本家に生まれたもんとしての自覚はねぇのか!!」
「お、オモチャじゃない……これは戦闘用ドローンで……」
「なぁにがどろーんだボケ!! それで何が殺せる? 何が倒せる? 何が壊せる? 言ってみろ!!」
「え、えっと……人、とか建物、とか……でもこれ試作機だからさ……」
「人ってなんだ? どんな奴だ? 誰を殺れる?」
「今のミニガン装備なら多分……精々下位の任務請負人とか日雇いの傭兵とかを肉片にできるくらい……?」
「……建物ってのは?」
「普通の家とか、自家用車とか」
「ンだよそれ……ただのガラクタじゃねぇか!!」
がしゃん、と僕の隣で音がした。気がつくと僕の手の上に乗っていたドローンは手元にない。顔を強張らせながら、おそるおそる音がした方にゆっくりと振り向く。
ただ単にガラスが割れた、ただそれだけのことだと本能的に妄想する。きっとそうだそうに違いない絶対兄さんがそんな酷いことするわけがないんだ。
でも僕の視界に映ったのは、見るも無惨に破壊された、試作ドローンの姿だった。
「兄さん……」
「何だ」
「なんてことすんぐべあッ!!」
感情に任せ兄さんに掴みかかろうとしたのも一瞬。右頬に凄まじい鈍痛を感じたと思いきや、視界は暗転。背中に今まで感じたことがない痛みを感じ、僕は何が何だか分からないまま、どこかへと沈んだ。
あまりに突然、右頬を中心に頭をかき回されるような感覚と視界の暗転が襲ったため、視力と思考が中々安定しない。朦朧とする意識の中、立ち上がろうと必死に足腰に力を入れる。
僕が兄さんに顔面を殴られ、そのまま道場を囲う木製の壁に叩きつけられて地面に沈んだことを悟ったとき、僕の前でうんこ座りをし、僕が起き上がるの待つ兄さんの顔が写った。
まるで鬼神のような形相をした、兄さんの顔が。
僕が意識を回復したのを確認すると、兄さんは僕の髪の毛を鷲掴み、ものすごい力で引っ張り上げる。髪の毛が全て抜かれてしまうんじゃないかってくらいの恐怖と痛みで、また視界がぼやけて見えなくなる。
「なんだテメェそのザマは。ただ顔面こづいただけだぞ」
「い、痛い痛いごめん兄さん謝る、謝るから放して」
「はぁ? 謝って済むんなら英雄なんざ要らねぇんだよ雑魚が」
兄さんの声音は尚も低かった。
兄さんとは軽い小競り合い程度の喧嘩は絶えなかったけど、今回は違う。これは本気だ。こんな兄さん、見たことない。
「いいか久三男。俺たちは流川本家派当主候補なんだ。当主候補は当主候補らしく、本家の当主に相応しい強さを身につけなきゃなんねぇ」
激情のまま怒鳴り散らしたときとは裏腹に、兄さんは静かに語りかけてくる。僕は瞼に涙を滲ませながら、兄さんの手を振りほどこうと動く。
「お前も母さんの実力を知らねぇワケじゃねぇだろ? 本家の当主はアレぐれぇかそれ以上じゃねぇとダメなんだ」
「でも……それは兄さんの方が……」
「お前はどうなんだ。どろーん、だっけか。そのよく分からんオモチャ作って、テメェはそれでいいってのか」
「だって……僕は兄さんみたいに……強くないし」
引っ張られる頭皮の痛さを噛み締めながら、隠していた本心をつまびらかにした。
僕も理想を言うなら本家派当主候補として、兄さんとともに日々研鑽に励みたかった。でも現実はそうさせてくれなかった。
終わらないロードワーク。開いていく兄さんとの実力差。武器の扱うセンスのなさ。そしてなにより、僕のやりたい事が戦いの中にないこと。
僕は研究とか、開発とか、製造とか、醸造の方が好きなんだ。元々手先は器用で、身体全体を使う戦いよりも、器用な手先でチマチマした作業をする方が向いているってのもあるけれど、それ以上に``好き``なんだ。
この``好き``は僕の力じゃどうしようもない。兄さんが、戦いが``好き``なように、僕は研究が``好き``なんだ。その``好き``って感情は、兄さんのも僕のも同じはずだ。違いなんてない。
なのに、なのにどうして―――。
「どうして兄さんは、わかってくれないんだ!!」
今にも引き裂かれそうな頭皮から発する痛みを吹き飛ばす勢いで、叫ぶ。予想だにしてなかったのか、兄さんの形相に、僅かながら綻びが生じる。
「別に裏方でいいじゃんか!! わざわざ前線で戦えなくたって、裏方で前線の兄さんや母さんを支援する役でいいじゃんか!! 僕はその為に頑張ってるのに、どうして認めてくれないんだよ!!」
「裏方だぁ? それってつまり、敵を目前にして戦うのが怖いから、裏でコソコソやってる方が楽って事じゃねぇか」
「違う!! 違う違う違う!! 僕は兄さんの力になりたいだけなんだ!! そのために僕も自分なりに修行を……」
「何の修行をしてるってんだ。オモチャ作る修行ってか? 高々そこらの石ころみてぇな奴らしか殺れねぇようなオモチャが、何の役に立つ。寝言は寝てほざきやがれ」
「オモチャじゃない!! これは戦闘用ドローンの試作機だ!! 今は確かに弱いけど……実戦起用する機体はもっと強いんだ!!」
兄さんは盛大に溜息をついた。額に流れ出る汗を、荒っぽく拭い去る。
「じゃあ聞くけどよ。そのオモチャ作んのに、一体どれだけの時間かけた? 俺に分かるように言ってみろ」
「え……? えっと……設計図書くところから強化の目星までつけて、実際に設計し始めたのは……」
「俺に分かるようにつったろ。御託はいいから質問だけに答えやがれ」
「丸一日くらい」
「丸一日もありゃあ、魔生物五百体は殺れんぞ。テメェがそれ一個作ってる間に」
「そうだけど、だからこれは試作機だって……」
「あぁもうじゃあ実戦機はソレよりも強いんだろ? 装甲とか、武装とかも前面強化したり設計見直したりとか、よぉ分からんが色々すんだろ?」
「そうだね……高集束型エーテルキャノンはまだ机上の空論の段階だし、そこからの開発になるから……」
「うん。ならそのオモチャよりも倍の時間がかかるってワケだ。倍ってことは単純にテメェが開発だのしてる間に俺は魔生物千体ブチのめせるってことだ違うか」
僕は口を噤む。
確かに機体を作っている間、僕は机と椅子からは動けない。戦場に立つこともできないし、支援もすることも、もちろんできない。一方、兄さんは底なしのスタミナでずっと動き続けられるから、その間はずっと敵を倒し続けることができる。
つまり、兄さんが言いたいことはただ一つ。裏方の僕と前線の兄さんでは、こなせる仕事量に差があると言いたいのだ。
確かに兄さんの理論なら、倒せる敵の数は兄さんの方が多い。それは反論する余地がない。でも僕が問題視してるのは、そこじゃないんだ。
「……戦いは殺した数じゃない」
渾身の力を振り絞った。髪の毛を鷲掴んでいる兄さんの腕を、両手を使って全力で握り返す。
「いくら殺せるだけの力があっても、敵に対処できるだけの札があれば、兄さんは戦死する」
「はぁ?」
「要は情報だ。兄さんの論理は、ただ多くの敵を殺せる単純殺傷性能しか保証されてない。戦いは力だけじゃない、情報も大切だって言いたいんだよ」
「それで? そのオモチャがじょーほーと何の関係があるのか。じょーほーなんぞあてにしてたらそこで足が止まるだろうがよ」
「どうして兄さんは力しか見れないんだ。力だけじゃ勝てない戦いもあるって言ってるのに!」
「ハッ、そんなもんあるワケねぇだろ。力こそ全てだ。じょーほーもクソも、敵側に俺を殺せるだけの奴がいたとしても、俺がそれ以上の力で何もかも先に潰して捻じ伏せればいいただそれだけの簡単なことだろうが」
左右に首を振り続ける。
索敵、兵站の確保、進路、退路の保持、侵略作戦立案。攻め滅ぼすべき敵に関する情報の収集。そういうのをひっくるめて、``戦争``なんじゃないのか。確かに前線戦力も大事だけれど、ただ力でものを言わせて殺すなんて、ただの野蛮な殺し合いじゃないか。相手が意思疎通できないモンスターである魔生物だからこそ、通用する論理でしかない。
実際の戦争は、陰謀や、策略や、人情や、人間が持つ薄汚い色んなものが、グチャグチャに混じった混沌の世界。そこには必ずしも煌びやかなものがあるわけじゃなく、見たくもないような、目も背けたくなるような現実が広がっている。
兄さんはきっとRPGや漫画の世界の中で起きてるバトル物と勘違いしてるんだろう。
意志を持たない魔生物を、経験値稼ぎがてら淡々と狩りにいく狩猟場なんかと、同じなわけないんだ―――。
―――って言っても兄さんを説得できないのは分かっている。僕も兄さんと同じように、実際の戦いにでたことがないからだ。
今の兄さんを説得するには、僕が兄さんより先に前線に立って、迫りくる異変を解決して、実力を証明しない限り不可能。
いずれ兄さんも現実を知ることになるだろう。力だけじゃ何もできないことを思い知らされる。
でもそれでうちひしがれる兄さんは見たくない。僕にとって兄さんは、唯一無二の憧れの兄貴分なんだから。
「どうした久三男。いつものワケ分からん御託は言わねぇのかよ」
今の僕では、兄さんを説得できない。正論を言ったって、兄さんは受け入れない。兄さんはプライドが高い。自分より弱い人間の言葉には決して耳を傾けない人間だ。
本来こんなことを言うのは、僕らしくない。
痛いのは嫌だし、怖いのも嫌だし、物騒なのも嫌だ。できるならずっと好きな事を好きなだけ突き詰めていたい。自分の部屋の中で、静かに生きていたい。でも僕は``弟``だ。
流川澄男の``弟``。流川本家派当主候補の一人。兄さんから``愚弟``と呼ばれてからかわれる、ただ一人の血縁。
だからこそ、僕がやらなきゃならないんだ。頑なになった兄さんを説得するという役回りを。
大きく息を吸い、そして吐くと、心の底から沸き立つ恐怖に耐えながら、身体中全ての勇気を振り絞って、大いなる第一歩を踏みしめた。
「兄さん。もし兄さんが戦いに負けたら、僕は兄さんを殺す」
は、と兄さんは眉をひそめる。唐突に何言ってんだコイツって顔をして。
「もし兄さんが戦いに負けて何かを失うことがあれば、僕は僕のやり方で、兄さんを殺す。これは僕からの、宣戦布告だ」
また、殴られた。身体は布切れのように吹き飛び、また道場の畳に沈む。僕は身体を震わせながら身を起こし、口に流れてくる血を、唾液とともに外へ吐き出した。
間髪入れず、視界は暗転する。
顔面から伝わる猛烈な鈍痛と、何かに押さえつけられてる圧力で、僕は言葉を一言も発することもできない状態になった。僕の顔を押さえつけているのは、兄さんの筋肉隆々とした右脚だった。
「久三男。テメェの兄として一つだけ教えといてやる」
兄さんの右足から放たれる圧力は強くなる。
おそらくこれでもまだ本気じゃない。もし兄さんが本気だったなら、僕の頭蓋は影も形もなくなっていたはずだからだ。兄さんの脚を振り解こうと両手で掴むが、まるで深く刺さった鉄の杭のごとく、兄さんの脚はピクリとも動かない。
そんな僕を無視し、兄さんは目に見えなくとも分かる殺気を放ちながら、荘厳に言葉を奏でた。
「減らず口ってのはな、死んじまったら叩けねぇんだぜ」
僕の頭蓋は、凄まじい圧力から解放された。僕は同時に両手を兄さんの脚から話すが、そのとき。
「げぅ!?」
腹に鈍痛と吐き気がこみ上げる。内臓がぐにゅりと動く気持ち悪さを感じ、思わず身を丸めて蹲った。
そんな僕に目もくれず、兄さんが道場を去る足音が聞こえる。道場の引き戸が開けられ、そして閉められたとき、僕はただ一人残された道場で、堅く誓った。
やっぱり僕にそんなことできやしないなんて思っているんだね。分かっていたさ。兄さんのリアクションは、僕の想定範囲を超えていない。
だったら僕は、僕のやり方で僕の言う``正しさ``を証明してみせる。
戦いは力だけじゃない、前衛を支える後衛の重要性を。後ろに控えている奴でも、兄さんのような前衛向けを殺し得るという現実を。
その為にも、もっともっと強くなって、今よりももっとすごい兵器や武具、道具を開発できるようにならなくては。
そう堅く決意したんだ―――。
あれから、十年の時が流れた。
僕は兄さんと距離をおくため、兄さんと隣にあった二階の部屋から、地下一階の空き部屋に私室を移し、研究や趣味に没頭した。僕は兄さんみたいに根詰める気はなかったので、ゲームやアニメを見ながら、研究開発に励んだ。
誰にも見られないように、地下一階をリフォームしたのも、記憶に新しい。
【エーテガルダ、リフトオフまで後六十秒】
十年前、今の自分を形成する要因となった出来事を反芻していると、ネヴァー・ハウスの無機質なアナウンスで我に帰る。
兄さんが僕の宣言を覚えているかどうかは定かじゃない。多分、兄さんのことだから覚えていないだろう。でもそんなことは関係ない。
兄さんは結局、戦いに負けた。木萩澪華という無垢な人間を守るという責務を果たせなかった。
それは英雄の血筋の者として、あってはならないことだ。あのときの宣言の下、兄殺しを実行する。そのための刺客も、戦力も、作戦も、すべて揃った。
「待っててね兄さん。今、僕の作った``オモチャ``が、そっちに行くから」
力が強いだけの人間だったことを哀れにも証明してしまった惨めな兄を、今こそこの世から抹消してやる。




