滅却
どれくらいの時間が経っただろうか。
気がつけば視界はぐらぐらと振動していた。身を起こそうとするが、身体は泥のように重く、腕に力が入らない。
何故生きているのだろう。確か、身体中を槍のようなものに貫かれて。
身を起こすだけの力を振り絞れず、寝返りをうって仰向けになった流川弥平は、身体に刻まれているであろう傷跡を確認する。胸から下腹部辺りを触診するが、服が破けているだけで傷跡は塞がっていた。
塞がっている刺し傷。目一杯に血液を吸収した執事服。血に濡れた廊下の絨毯。
朦朧とした意識の中で、おぼろげだった記憶と思考能力、分析能力が息を吹き返す。
戦闘前にあらかじめ飲んでおいた緊急生命活性霊薬・特型によって、失血死を免れたのだ。服用していなければ、確実に戦死していただろう。
「空……空!」
「弥……平……?」
側近、白鳥是空の生存を確認し、胸を撫で下ろす。
今回、是空は氷属性系魔法に対する装備を一切していなかった。彼女の肉体性能を考慮すれば、特効装備を持たない彼女では、``凍結``の直撃には耐えられない。
彼女もまた、緊急生命活性霊薬・特型によって一命を取り留めていたようだった。
「立てる……?」
「無理……」
弥平は携帯鞄から、緑色の液体が入った一本の瓶を投げる。体力回復薬・甲型である。
是空はそれを受け取り、弥平も同じものを鞄から取り出すと、二人とも瓶の中に入った液体を飲み干す。
緊急生命活性霊薬・特型とは、生命活動に必要な、最低限度の体力を保持し、致命傷を速かに治癒する魔法薬。一度だけ死を免れこそすれ、体力を全快させる効能はない。ほぼほぼ最低限の体力しか回復していないため、立つこともままならないのだ。
身体中から活力が戻ってくる。体の至る所を支配していた泥のような感覚は消えてなくなり、いつもの身軽な感覚が呼び覚まされる。凝り固まった身体を解しながら、二人は立ち上がった。
「何、この揺れ……?」
「ふむ……とりあえず、澄男様の下へ戻ろう。御玲と合流せねば」
「そうね」
「言っておくが、今はオンタイムだからな」
「いいじゃない。今は誰もいないんだしっ」
「会場では切り替えるんだぞ」
「はいはい」
二人は会場へ戻るべく、廊下を走る。
走りながらも感じる、歪な揺れ。まるでビル内を大きな怪物がのたうち回っているかのような。
それに気のせいか、フロア全体が暑い。肌に突き刺すような熱気が身体中にまとわりついてくる。明らかに空気がおかしい。
会場まで辿り着くと、壁には大穴が開いていた。破片が廊下側に散らばっている辺り、会場側から突進して粉砕したのだろう。
犯人は裏鏡か、澄男か。力ずくで破壊しているあたり、澄男の可能性が濃厚だと思うが。
会場内に入ると、入り口付近は何故か濡れており、何人かの組員が水浸しで地に伏していた。
組員はおそらく擬巖の手の者であろうが、当主の``裁辣``と、その供回りはどこに行ったのか。
逃げたのか。それとも裏鏡と澄男の戦いに巻き込まれているのか。
なんにせよ祝宴会の雰囲気を利用し、それとなく雑談という名の情報収集に興じたかったが、この分だと``裁辣``への接触は不可能と見るべきだろう。
「弥平様、御玲様が!」
是空は地面にべったりと倒れていた御玲に駆け寄る。触診し、怪我の度合いを確かめる。
弥平も近くに寄り、鞄から体力回復薬・甲型を取り出す。
「どうですか」
「腕、肩甲骨、肋骨……かなり骨折しておりますね。幸い、そのまま気絶したらしく、無理に動いた形跡はないみたいですが」
「ならまだいけますねっと」
体力回復薬・甲型を御玲にぶっかけ、彼女の身体が淡く緑色に光る。御玲はうぅ、と呻き、是空に支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうございます」
是空が怪我だった箇所を再確認しながら、弥平は粗筋を知るべく、問いかける。
「澄男様と裏鏡様は」
「御二方は戦いに行かれたのではないでしょうか。私は途中で気絶してしまったので、よく覚えておりません」
「では、入り口付近のあれらは?」
「裏鏡様が擬巖家の者どもを氷漬けにしたので、その名残です」
「それはどんな魔法ですか」
「分かりません……。魔法には詳しくないもので……」
「貴女は何故怪我を」
「裏鏡様となりゆきで一騎打ちを申し込んだのですが……その……大敗しまして」
なるほど、と返す。
入り口付近が水浸しなのは、氷属性系魔法を使って生じた霜が室温で融けたものだったか。
水浸しとなっている範囲から察するに使われた魔法は、おそらく``凍域``。一定範囲にある全ての物質を瞬間凍結させる魔法だが、ならば入り口付近で事切れている擬巖家の者は、凍死してしまっているだろう。
氷属性系魔法を主として使うあたり、澄男との相性が悪そうに思えるが、裏鏡が使える魔法は、氷属性系だけではないはずだ。
いや、それよりも。
「御玲、裏鏡様と戦ったときの感触は覚えていますか」
「はい……なんと言いますか。一瞬、でした。一瞬で間合いを詰められて、気がついたら脳震盪に……」
「魔法も無詠唱で?」
「はい! 正直ほんと、なにがなんだか分からないまま倒された感覚でした」
やっぱりか、と脳裏で状況に納得する。
是空を倒したときも自爆するときも、どんな魔法を使うにせよ、彼は無詠唱だった。準備行動も一切なしに、唐突に魔法を使ってくる。
あまりに常識外れな戦い方に誰一人として対応できていないわけだが、流川側の敗因は、まさしく裏鏡の魔法の使い方にあるのだ。
「弥平様。魔法を無詠唱で発動することは可能なのですか」
「不可能ですね。魔法陣を記述するための、最低限度の準備時間は絶対に必要ですから」
なるほど、と是空も顎に手を当てる。
``魔法``の下位互換である``魔術``は無詠唱での発動が可能だが、``魔法``は原則、魔法陣を正しく記述しなければ決して発動しない。
術者が有することのできる霊力量、魔法や魔術による攻撃力を表す尺度``霊的攻能度``、術者自体の熟練度。これらの要素が複合的に絡み合い、魔法陣の記述速度や記述内容の精巧さは、大きく変化する。
例えるなら、紙に文字を書くにせよ、インクが少なければ沢山の文字が書けず、ペンの性能が低ければ、インクの出が悪く中々文字を描けない。
一定以上の文章力がなければ、文章を要領良くまとめることができず記述量が無駄に多くなるため、原稿が完成するまでの時間は余計に長くなる。といった理屈と同じことである。
魔法使いというのは、ただ思い通りの事を現実にしているだけの、まさに御伽噺に出てくるような現実離れした真似を行っていると思うかもしれない。だが実際は、コンピュータのプログラミングと大して変わらない。
専門知識と実地経験、それらをいかんなく発揮するための能力があってこそ初めて可能になる職人技。
霊力を扱うプロフェッショナル。それが彼ら``魔法使い``―――またの名を``魔導師``と呼ばれる存在の真なる姿なのだ。
「私は``凍結``で戦闘不能になったのですが、弥平様はどうでした?」
「私の時は影分身を使ってきまして、背後から斬られました」
「か、影分身!?」
「是空が拘束した裏鏡はとかく魔法を連射。もう一人の裏鏡が物理攻撃をしてくる感じでしたね」
「そんなことって……できるんですか」
「できませんよ、普通はね。その後は分身の方が``爆轟``で自爆。拘束されている方が``暴風``を使い、爆風を全て私に跳ね返してきました」
是空と御玲は顔を見合わせ、余りに飛躍している話に、唖然とした。
御玲だけの話を聞くなら、裏鏡は氷属性系の使い手だ。しかし、実際は違う。
氷属性系、無系、風属性系の魔法を、全て無詠唱で使用し、確実に息の根を止めにきている。
常識的に考えれば、不可能だ。まず人間の霊力量では、一瞬で霊力切れを起こしてしまう。
裏鏡は霊力回復の行動を一切とっていなかった。物理的には霊力の回復を行なっていないことになるのだ。
「全ての原則を無視した戦法。これら全てを一つの理論で説明するには、やはり``超能力``をおいて他にありません」
「ちょ、超能力……ですか……!?」
「御玲もご存知ですよね」
はい、と返事をする。
御伽噺のような、便利な力はこの世にないと言った。魔法も魔術も、人類にとっては``科学``の一種。原理を基にして、既に理論化された概念である。
しかし世界には、理論では説明できない未知の概念が存在する。その概念こそが、``超能力``なのだ。
超能力とは、まさしく不可能を可能にする身業。御伽噺の世界でしか体現できないような現実離れを引き起こす、まさに魔法のような力。暴閥界隈では、現実を自在に捻じ曲げることのできる``神の権限``とさえ言われているほどのもの。
魔法を使う上での原則を尽く無視した戦い。今までの全ての状況を整理し、全てを論理的に説明できるのは、超能力だけなのだ。
超能力で全てを思い通りに捻じ曲げている。そう結論づけなければ、事実と仮説が合致しない。
「裏鏡様が超能力者だとしたら、もはや私達に勝ち目は……」
「ありません。全く、と言っていいほどに」
ばっさりと、被り気味で答えた。御玲は身を震わせる。
弥平、是空の二人がかりを以ってして、手も足も出なかった。仮に御玲を足して再戦を挑んだところで、戦果は五十歩百歩だ。
それに緊急生命活性霊薬・特型の予備はない。次に彼が用いる即死必至の不意打ちを受ければ、今度こそ戦死は避けられない。
ならば、己の思い通りに全てを捻じ曲げ得る存在に、どう勝てというのか。
「待って下さい。では、澄男様は……!?」
是空の問いかけに、弥平は沈黙を以って答える。
澄男も、同じ人間だ。流川本家の出という部分を除けば、同じ人間。そう考えるなら、澄男でも勝ち目はなかっただろう。
だが、彼には未曾有の力たる竜位魔法がある。
竜位魔法が、超能力にどの程度対応できるのかは定かではないが、あの力はらば、あるいは―――。
「ぐぁ!?」
「きゃ!?」
「う!?」
思索の湖が、突然のダム崩壊により下流へ雪崩れ込んだ。ビルの揺れが無視できないくらいに酷くなり始めたのだ。
さっきはほんの僅かに地鳴りがする程度だったが、今はビル自体が倒壊してしまいそうな勢い。あまりの揺れに、自前の平衡感覚では立っていられない。
一体何が起こっている、と思案するまもなく会場の天井を、真っ赤に染まった何かが貫いた。
「弥平様、これは!?」
「一体何が起きているんですか!!」
突然の轟音。是空と御玲は地に伏し、耳を塞ぐ。
弥平達の脇を熾烈な勢いで通り過ぎた真っ赤な何か。
間違いない。あれは、澄男の竜位魔法。かつて高校の校舎を融かし壊した、あの雷である。
「是空、御玲!! 私に掴まって!!」
は、はいと大声で叫ぶ二人。揺れは更に強くなる。天井を貫通し、弥平達の間を縫うようにして這い回る雷の頻度は、目に見えて増していく。
壁や天井にヒビが入り始めた。
「いいですか皆さん!! ここから緊急脱出します!! 絶対に私から離れないで下さい!!」
「でも澄男さまが!!」
「もうまもなくここら一帯は焦土と化してしまいます!! 澄男様は大丈夫!! さぁ、行きますよ!!」
地響きを鳴らし、揺れ動く床を持ち前の体幹で耐え忍びながら、鞄から技能球を取り出す。
技能球に込められた魔法とは、毎度おなじみ``顕現``。
最上階から地上一階まで全力疾走したとしても、ビルの揺れ具合と崩壊具合から考慮して、自力での脱出はほぼ不可能。ならば残る手段は転移による撤退のみ。
どこかこのビルを見渡せる高いビルの屋上に転移し、様子を伺うしかない。
技能球内に記録した世界地図を基に、転移するべき地点をマークする。
「行きます!! ``顕現``!!」
握っていた技能球が爛々と輝いたと思いきや、弥平達の姿は展開された白い魔法陣の光によって掻き消えた。
刹那の暗転とともに視界を覆う暗黒の帳は、すぐ真っ白に。見慣れた高層ビルの屋上が、一気に視神経を刺激する。
三人が避難にしたのは、会場が設営されたビルから数百メトほど離れたビルの屋上。目を凝らせば、澄男がいるビルを一望できる場所と高さを有している。
だが転移した彼らは、天空に浮かぶ巨大な紋様に絶句した。
会場ビルの真上、いくらかの雲が漂う青空に、一際輝く紅の魔法陣。何が記述されているのか、全く意味不明な文字列。会場ビルを中心点にして、いくつものトーラスが重ねて描かれている。
幾重にも空へ連なるトーラス状の魔法陣は、真っ赤な雷撃を会場ビルに見舞い、外壁は徐々に徐々に剥がれ落ちていく。
魔法陣はもう見慣れたものであるが、空を覆いつくすほど巨大な魔法陣は生まれて初めてだ。
「弥平様……気のせいでしょうか。なんだか暑くありませんか」
是空の一言で、汗をかいていることにようやく気づく。御玲も、額に汗を滲ませていた。
確かに、まるでサウナでじっとしているときに感じる、あの蒸し暑さと同じ感覚。サウナというほどでもないが、身体は暑いという反応を十分に示している。
「弥平さま、魔法陣が……!」
御玲の一言で、魔法陣に注視する。
魔法陣の光度が上がっている。雷も更に激しくなり、ビルの外壁のみならず、周辺の建物をも破壊し始めた。
雷撃が呻く。その範囲は拡大していき、遂には三人がいる所にまで達した。弥平は二人に伏せるよう指示する。
魔法陣の光度が、もはや肉眼で見られないくらいに膨れ上がった。
もはや光源というより、恒星。間近で太陽を見ているようで、あまりの光度に目も開けられない。
「暑い……!」
とめどなく溢れ出る汗。我慢の限界に近い暑さだ。気温はおそらく三十度を超えている。
まるで電子レンジの中に放り込まれたかのよう。臓腑がぐつぐつと煮詰められているような不快感が、吐き気を誘発させる。
「ぐお……!?」
突如、地響きとともにビルが揺れた。それも無視できないくらいの、強い揺れ。更に身体にかかる重力が一気に増す。
地面にへばりついていないととてもじゃないが耐えられない。体の中身が外へ飛び出してしまいそうだ。内臓が痙攣を起こし始めている。
三人は遂に地面にへばりついて必死に耐えるが、尋常でない暑さと光度に、もう限界に達しつつあった。
地震もかなり強い。一体何が起きている。まさか地震もあの魔法陣が起こしているというのか。
「弥平さま、このまま……では……」
「暑い……! もう限界……」
二人の眼は、既に焦点が合っていない。滝のように汗をかき、顔面も蒼白している。
もう彼らは限界だ。かくいう自分も限界に近い。流石にこれほどの過酷な環境は、専用装備がないとまともに動くこともできない。
もはやサウナを通り越して、電子レンジで加熱されているかのような尋常でない熱さ。呼吸をするたびに喉が焼けるように痛み、あらゆる環境の沸騰は、容赦なく牙をむく。
会場ビルに吸い込まれる引力まで加わり、三人のいるビルの屋上にヒビが入り始めた。
恒星の重力圏に捕らわれ、もはや脱出不可能になった宇宙船にいるかのごとく。ビルそのものが、強烈な引力で中心部に引き込まれている。
やっとのことで周りを見渡す。朦朧とする意識の中で、気絶してしまいそうな己に鞭打ちながら身を起こした行いであったが。
彼が見た情景は、もはや己が知る上威区では既になかった。
崩壊するビル群。中心部で膨れ上がる恒星の重力圏に引き寄せられるかのように、巨魁の高層ビルが、幾つも見るも無惨に崩壊していく情景だった。
環境の沸騰は止まらない。更に更に加速し、もう顔をあげて状況を把握する余裕もなくなった。
会場ビルの方面はあまりの光度に、光の膜で覆われる。もはやビルの安否を確認することも不可能。
まずい。もうこれ以上は危険だ。ここはもう、人間が存在できる空間ではない。
「……やむおえません。分家邸に撤退します。装備と態勢を、一度整えましょう……! 掴まって……!」
盛んに沸騰する環境に八つ裂きにされ朦朧とする意識の中、半分気を失いかけている御玲と是空の手首を掴む。
気を張っていなければ、今にも気絶してしまう。自分達のビルもいつ崩壊するか分からない。足場と隠れ蓑がなくなれば、骨すら残らないだろう。
崩壊する都市。爆縮する空間。
会場ビルだった場所は、もはや大質量天体に掌握された。周囲の環境を捻じ曲げ、破壊と滅亡の演奏を、陽気に奏でている。
気を引き絞り、弥平は肺に残ったありったけの空気を、声帯に送り込んだ。
「``顕現``……!!」
破壊の鐘が鳴り響いたのは、彼らが転移した、次の瞬間であった。
三人がいるビルを含め、周辺のビル群、公共物問わず、物体に枠組みされるあらゆる全てのモノは、会場ビルがあった場所へ爆縮。
地上に突如現れた恒星は、己の重力圏の爆縮に耐えられなかったのか。外層が吹き飛び、まるでバルーンが破裂するかのように、その短い一生を終えた。
爆風圧が空に蔓延る全ての雲を穿つ。
住処を失ったことで狂乱するエアブラストは全方位に散らばり、周辺の存在する全てを無差別に呑み込んでいった。
上威区に奏でられた崩壊の協奏は、爆風圧の狂騒によって幕が下ろされる。
想像絶する轟音と風圧とともに、祝宴会場ビルを中心とする半径数キロメト範囲内にあった全てを亡きものにして―――。




