氷雪の姫、発つ
転移の魔法で寒空の中に転移し、エスパーダと澄男なる存在が戦っている地点付近で身を隠す。
転移する前と比べ、霊力の波動は著しい。エスパーダの霊力と澄男という名の存在の霊力。その二つが幾度も幾度も衝突し合っているのが肌に伝わってくる。
薄碧色の瞳が、僅かに揺れた。
ヒトの道を外れて約三億、未だ一人の男を愛する術が身につかない。
未だヒトであった遥か昔から、エヴェラスタとともに生き、エヴェラスタの自然を護ってきた。
魔生物の保全に関しては慣れているのに、一人の男とともに暮らしていると途端に距離感が掴みづらくなってしまう。魔生物は元より、自然は愛好するだけで距離感を気にする必要がないから気楽だと思ってしまう自分が恨めしい。
エスパーダは愛好心に惚れたと言っていたけれど、ただ弱い自分を小動物に写し、何者にも寛容な自然に依存していただけにすぎない。
死ぬ間際、小動物を守ろうと身を挺したのが、最初で最期の勇気だった。
エスパーダが想っているような女じゃない。ただの弱虫で、陰気で、強大で寛容な概念に縋るしかない、ただの女の子―――。
少女は悲しげな表情で頭を上げる。
彼が近づいている今、おそらく地上に住まう人間達は困っているだろう。
かつて自らが未だヒトであった時代。その時は``住処を荒らされる側``だった。エスパーダの本当の人生が始まった境とも言えるけれど、まさか三億年後に``荒らす側``になると、想像もできなかっただろう。
しかし今、それが現実。エスパーダは短気だけれど、私利私欲の為に生物を殺めたりはしない。だが自ら殺めたりせずとも、不本意ながら殺めてしまっているかもしれない。傷つけているかもしれない。
いくら外の景色の変わりなさに飽きたとはいえ、やはり彼の言い分を少しは聞いておくべきだった。
激情のまま、ついて来ないで、と過保護気味の彼を突き放してしまったから、馬鹿真面目に従って敢えて追いかけて来なかったのだろう。
どうして。どうして彼はここまで不器用なのだろうか―――いや、どちらも人里遠く離れた永久凍土に住まう身。互いに接し方や距離感の掴み方が下手なのは分かっている。
やはり彼の不器用さを理解しているなら、彼を労わってあげるべきだった。人の世に足を踏み入れず、異種族存亡の脅威にならずに済んだかもしれないのに。
今回の騒動は全て自分が原因。早くここから出て彼に謝ってあげたい。そして住処を荒らした事をここの人々に謝りたい。
自分たちだって住処を荒らされれば怒るように、異種族たるヒトであっても同じ事。
彼の霊力波を感じるのにも関わらず、未だここに来ないところを見るに、ヒトの誰かに足止めをくらっているのだろう。誰だかは分からないけど、足止めしているその誰かには率先して感謝と謝罪をせねば。
足止めしてくれているからこそ、彼がこれ以上ヒトの住処を広範囲に渡って荒らさずに済んでいるのだから。
でも。一人の男を愛する、一人の女として自分の心中に正直になるのなら。
不器用でもいい。不慣れでもいい。一度だけでも良いから、貴方から歩み寄り、もっと心を通わせて欲しかった―――。
「エスパーダ様と澄男様、似た者同士……なんですかね」
「え……?」
脳内で言葉を流転させる中で、右隣に居た少年、確か名を流川弥平と言ったか。先程までの焦りは消え去り、既に落ち着いて状況を見据えている。
エスパーダと澄男が似た者同士。
澄男という人物は知らない。実際に眼で見た事はないし、名前も初めて聞く存在。しかし霊力の禍々しさを除けば、感情の起伏が高まった時に発する攻撃的な霊力の波動は、まさしくエスパーダそのもの。禍々しささえなければ、見分けがつかなかったかもしれない。
冷たく攻撃的な波動と、熱く攻撃的な波動。冷たくて熱く、熱くて冷たい。
相反する二つの力が同等にぶつかり合い、痛みとしてひしひし触覚を撫でてくる様は、彼らが似た者同士である表れなのかのかもしれない。
「でもどうして……澄男さんはエスパーダと……? 偶然なのでしょうか」
「何があって遭ったか、詳しくは私も分かりかねますが……そうですね。予想ですが、最初はただの憂さ晴らしだったのかもしれません」
「憂さ……晴らし?」
「彼も``失っている``んです。大事な人を。それもつい一週間前に」
弥平は一週間前のあらましを話し始める。
一週間前まで普通の学生に扮して生活していた事。突然謎の敵が自分達を襲った事。そして彼のガールフレンドが殺害されたと暫定された事。
境遇が、ほとんど同じ。
未だエヴェラスタが緑溢れる土地だった頃、傾国寸前のヴァルヴァリオン法国から来た竜人に村を焼き払われた際、一度死んだ。再び目覚めた頃には既に五万年の時が経過していたらしいけれど、その間、エスパーダがどんな想いで生活していたかなんて想像すると胸に痛みが走る。
自分は彼が手にした未曾有の力で蘇った。しかしその澄男という者は失った直後。
死んでいたから想像でしか彼の心情を察せられないけれど、彼が異国で脅威の存在になってでも出向いたのは、やはり同じ気持ちを抱いているからなのだろうか。
失った苦しみ。傍にいないという虚しさ。強奪者への憎悪―――。
言葉の流転が速くなる、まるでパズルのピースがリズミカルに嵌って行くようで、青白い瞳孔が淡く輝映する。
エスパーダがエヴェラスタをヴァルヴァリオンから保護するため、凍土にして封じると言った時、当初違和感が否めなかった。でも今なら分かる。
エヴェラスタを包み込む凍土こそが、彼の気持ちそのもの。五万年という時の流れ、彼の人生譚の踏襲なんだ。
当時はただヴァルヴァリオンという諸悪の根源から故郷を守る為だと思っていたし、彼からも聞いていた。でも同時に刻んでいたのだ。失った苦しみ、虚しさ。強奪者への憎悪、自分の非力さを物語る``象徴``として。
それこそが、あの``永久氷山エヴェラスタ``が物語る、裏の正体―――。
白碧色の瞳孔は激しく揺れ、一筋の雫が零れ落ちた。零れ落ちた水滴は周りの吹雪ですぐに見えなくなり、頬を伝う軌跡は容赦無く吹き付ける冷風で虚しく氷結する。
どうして気付いてやれなかったんだろう。
五万年間もの間、どんな気持ちで過ごしていたか気にならなかったわけじゃない。過去の汚泥を掘り返すまいと気を遣ってきたつもりだった。
だがその気遣いが今回の災厄を生んだ。
エスパーダから語ってくれれば良かったじゃないか、とも言えるけれど、逆にエスパーダの立場なら、好き好んで語りたいかというと答えは否。真摯に聞かせて欲しいと懇願されない限りは、自ら語る気にはなれないだろう。
彼は不器用だけど大変紳士的な側面もある。あの変態四人組からは馬鹿にされているけれど、そんな不器用なところも、紳士的な側面も大好きだからこそ彼の想い、わざと過去を語らなかった行動には不満はない。
あるとすれば蘇生させられた身でありながら、彼の内面を一切察せず、彼の作り出した白銀の情景を、``ただ変化のない退屈な景色``だと言った自分自身にある。
凍りついた涙の軌跡を袖で拭い、勢い良く立ち上がる。
あの二人の戦いを止められるのは自分だけだ。
昔、自分を助けてもらったのは誰か。彼の途方もない心情を察せられなかったのは誰か。
自分、ヴァザーク・リ・ゼロ・エントロピー。
エスパーダには恩義がある。蘇生してもらったという恩義がある。もうあの頃からほぼ三億の月日が過ぎたけれど、汚泥と恩義に報いるなら、今だ。
二人の戦いを霊力の波動で観戦する中で、エントロピーは雪原に足を踏み出す。彼女の薄青色は曇天を一掃し得る輝きを放っていた。先程までの揺らぎが嘘のように、彼女の真意に迷いは感じられない。一人の女として、一人の領主として、やるべき事を決意した表情。
荒れ狂う猛吹雪の中を、やつれたドレスの裾を結んで歩き始めた刹那。
「え……!?」
暴虐の寒空を振り払い、一際輝くバーミリオン。
空から顔の表面にかけて水滴が飛び散る。思わず異常な熱を感じ、条件反射が唸るが、灰色の空から降り注ぐ雪は突如、高温の雨に変貌した。
一つ一つの雨粒が熱い。おそらく融水、空からの降雪が融けて雨になっているのだろう。
しかし、おかしい。エスパーダは氷属性系に特化している。一応、全属性は使えるが、彼が火属性系の魔法を使ったところは見た事がない。装備や魔法構成も氷属性系に特化しているし、火属性系を使えば、むしろ弱体化してしまうはず。
なら誰が使っている。パオングか。いや、なら背後から霊力を感じるはず。
あくのだいまおう。今のあの方にそれだけの霊力があると思えない。
変態達。どれも物理系特化。
弥平。彼は人間。
となると残されたのは、流川澄男ただ一人。
霊力が熱を持っている、それだけなら火属性系の広範囲魔法といえる。だがこの紅い霊力は、あんまりにあんまりにも禍々しい。
本能が接近するなと叫んでいる。行けばみすみす死ぬようなものだと警鐘を鳴らしている。
朱色の魔法陣は空高く舞う。意味不明な文字列が羅列され、禍々しい霊力が舞踊を魅せる。吹雪は魔法陣の熱で次々と消滅していき、冷風の竜巻は魔法陣によって否応なく焼き払われていく。
目の前に描かれる熾烈な情景に絶句する。それは圧倒的な自然破壊であった。
降り注ぐ雪は死に、気温が発狂する。大気の熱運動が加速しているのを肌で感じ、魔法陣から放たれる威圧が、エントロピーを一歩下げる。
鬼気迫る霊力。この熱さは間違いなく霊力による熱運動の加速によって引き起こされたもの。エスパーダが改変した気候に更に上書きをかけるなんて、人間が行使しているとは思えない。
人間の澄男が、どうやって操っているのかは定かではない、が。問題はそれだけじゃなかった。
あの赤く輝く魔法陣。そして放たれる禍々しい怨嗟。
魔法陣には術式の他に、高度な術者であれば魔法陣から放たれる霊力に感情さえ映す事もできてしまう。霊力に刷り込まれた禍々しさの正体は、まさしく純然なまでに濃い``怨嗟``であった。
虚脱、憤怒、憎悪、悲哀、怨念。何に対してか、それすらも分からないほどの膨大な怨嗟が刷り込まれている。とても齢二十に満たない者が抱く感情じゃない。
ただ端的に言い表すなら、破壊に対する絶大な執着。滅びに対する渇望。平穏に対する悪意。
あまりに邪悪で、あまりに熱く、凍土の支配を塗り替えてやろうと魔法陣は燃え盛る。もはや空が燃えているようで、眼も開けてられない。
「な、何ですかあれは!?」
「竜位魔法ですか。お懐かしや」
「パァオング!! 我も見るのは初めてであるが、これは中々圧巻である」
「それってアレだろ、主人公に出会うたびに悪態ついてくる金髪の……」
「それ別のドラゴだから。主人公に出会う度に悪態をついてしまうバグ魔法がかかってて血筋の割に物語内での扱いに恵まれてない方の奴だから」
「それ以前に昨日見た映画のキャラじゃん……」
「そだっけ」
「忘れんなよ……」
「あっ……! エントロピーさん、危険です。ここから離れては……!」
焦燥を隠せないままエントロピーを呼び止める弥平みつひらに対し、あくのだいまおう達は尚も平静だった。
苛烈に膨張する魔法陣。その流転は時間に比例して加速し、更に加速する。もはや魔法は炸裂寸前。魔法陣から放たれる光度は既に瞼で防げる度合いを超えていた。
思わず痛覚が走り、腕で眼を覆い隠す。全ての者が熾烈な先行を前に硬直する中で、薄碧の髪を靡かせる少女は物陰から飛び出した。
もはや風景など見えない。体が熱い。服が燃えそう。眼が痛い。しかし走る事をやめない。
紅の帳に掻き消され、もはや姿を観る事すらできなくなる。似た者同士の死闘、その最中にいる自身の半身エスパーダを止める為に―――。




