竜位魔法
「く……そが……!」
突然気温が急速に下がっていくのを肌で感じ、炎を纏って適応しようとするが、あまりの急降下に苦虫を噛んだ。
身体から何かが抜けていくのを感じる。霊力だ。あのデカブツが周りの霊力を吸収してやがるんだ。
空から雨が降ってくる。その雨は身体に当たる度、槍のように肉体を蝕んでいく。
理科の授業で習ったか。空気も物凄く冷やすと水になったり塊になったりするとかなんとか。この雨はただの雨じゃない。当たる度に皮膚を焼いては湯気となって霧散してる。
それにどんどん息苦しくなってきた。
精一杯呼吸しているのに酸素が肺に来ている気がしない。むしろ呼吸する度に、肺や喉が焼けただれる痛みが走る。冷たいというより、もはや熱い。痛くて熱い。身体の節々の感覚がまた弱くなってきた。頭も混濁している。意識が―――。
凝縮した大気は雨となって降り注いでいたが、次第に雨も疎らに。
霊力もろとも、領域内の物質までも吸収し、領域内を完全な真空状態にしようとしているエスパーダを前にして、遂に倒れた。
身体から五感が消える。鱗から溶岩を彷彿とさせる紅い脈拍が弱まる。
霊力のお陰でなんとか生き延びられているが、あのデカブツに吸われている以上はいずれなくなってしまう。そうなれば確実に死だ。
ここで死ぬのか。本当、今日は何がしたかったのだろう。
ただの悪夢に翻弄され、部屋やリビングで暴れて、挙句専属のメイドに八つ当たりして。直接的にせよ間接的にせよ、十寺と無関係の存在にも喧嘩を売って結局このザマ。
正直今日ほど、何がしたかったのか皆目分からなかった日はない。何やったって拭えないこの暗黒をどうにか拭い去ろうとしたんだろうが、客観的に見れば全て空回りしていて実に嗤える姿。特にあの十寺なら、上から俺を見据え、声高らかに嗤い転げてるだろう。想像するだけで歯軋りが止まらない。
クソ身勝手だし自ら屑ってことを露見することになるが、正直クッソ腹立つから敢えて言わせてもらう。カスを見下すのは好きだが、カスに見下されるのは好きじゃない。たとえ想像でも腹が立つ。
舐められたら終い。クソババアから再三言われてきた事だが、俺もそれに賛成だ。舐められたら、舐めた分だけ倍に、倍に、倍にして舐め返す。たとえ人間としても英雄としても失格しようが関係ない。
三月十六日。全てが壊れたあの日から``復讐``のために生きると、そう誓ったように―――。
カチカチに凍って標本のようになった手を、ばきばきと鳴らして強く握り締める。
正直色々やりたい放題してるせいか、解放されたみたいで心地いい。
結局なんだかんだ言ってただ単に母親の背を追いかけているだけの模倣でしかなかったワケだし、二番煎じにならなくていいと思うと最高に気分が良い。
もう母親もいない、英雄ですらない、ただの無法者。自分らしく、なんざ毛程も分かったモンじゃないが、だったら無法者らしく、そして悪者らしく―――相手を踏み台にしてやる。
目の前のデカブツに恨みもないし、怒りもない。そもそも名前も顔も知らないただの他人だが、デカブツと戦う確固たるワケなんぞ語る必要もない。
``気に入らねえ``。ただ、それだけでいい―――。
「何ィ……!?」
眼前の現実を理解するまでに数秒を要した。
相手は竜人化しているとはいえ人間、それも齢二十に満たぬただの少年。仮に本物の竜人であったとしても、有象無象の惰弱に他ならない。だが目の前のそれは、あらゆる生物が是非も無く生命活動を放棄する完全な真空世界において、尚も生命の営みを強く主張している。
もはや空気など無い。
完全なる極低温、氷点下の極限。それ即ち絶対零度。如何なる熱機関が決して辿り着くこと叶わぬ零点運動の世界であるのに。
「何故……貴様は生きている……!?」
全てが静止し、零点運動と言う超微小な気配を除いて、その全てが死滅した情景にただ一人。溶岩を彷彿とさせる赤黒い鱗を拍動させる少年、流川澄男は立ち上がったのだ。
「しらねぇよ。気合だ気合」
物性的に虚無の空間で脈打つ鱗は、まさに噴火直後の火山から夥しく流れるマグマ。極低温すら瓦解させる強大な熱源そのもの。
「馬鹿な。気合、だと……? そんな出鱈目が」
「出鱈目だろうがなんだろうが俺は生きてる。それが現実なんだよ」
一歩を踏み出す、エスパーダが下がる。同時、苦虫を噛み締めたような表情で、彼は自分の足を睨んだ。
完全真空の停止世界において、究極の極低温にすら屈さず輝く紅。一秒間に一回の割合で、皮膚が脈動している。中心に描かれる無数の溝に真っ赤な溶岩が流れる様は、まるで大動脈から放たれる血液。
胸元から無数の動脈を通って流れる膨大な血液らしきものは鱗の隅々まで行き渡り、中心部から絶えず放たれる動作を、ひたすらに繰り返している。
「貴様……それをどこで……!?」
思わず詰問を吐露してしまうほどに狼狽を隠せない。
アレを知っている。知らないわけがないというべきか。俗世において全く馴染みのないはずのものであるが、大概の異形ならば、もはや常識程度のもの。
―――``霊力炉心``―――
世界の最果てから来る者ども、``竜``の心臓を模して編み出せるとされる霊力生成の永久機関にして、ヒューマノリア大陸における叡智の一端。かつてより積み重ねられてきた魔法技術、その先を超えた``霊力操作``の体術によって初めて生み出される、古代の神器である。
だがありえぬ。人間には霊力炉心を創れる程の魔法文明は未だなく、仮に存在したとしても惰弱な種では制御もままならないはず。
霊力炉心が生み出す霊力は膨大だ。人間程度の生物ならば、即座に熱分解してしまう程だというのに何故。
分からない。この少年は、この男は、一体。
「貴様は一体何者なのだ……人間、なのか」
零絶蔽域を掻き消すばかりか、曇天すらも覆い尽くすほどの広大で赤熱した魔法陣が姿を現わす。赤色の魔法陣は意味不明な羅列文字を回転させ、幾重にも連なって雪原と化した大地を包囲していく。
途方にくれた。眼前に横たわる紅の帳に。零絶蔽域を貫通するばかりでなく、全てを覆い尽くす破壊の前奏に。
幾重にも連なる魔法陣は、遂に暗雲を貫く。
白黒と赤の融合。紅蓮の天雷が咆哮し、氷雪に覆われた大地を舗装された道路ごと消滅させていく。
大地が揺れ、強張り、そして叫喚。大地震にすら匹敵する震動。魔法陣による破壊が勢いを増すと同時、脈動する甲殻はより赤く、尚も紅く、空に描かれる紅霞すら凌駕するほどの輝光に満ち溢れた。
「これは……!?」
知っている。この身業の正体も。伝聞でしか聞いた事のない遥か昔の歴史であり、己が生まれる前、はたまた生殺与奪の世が始まるよりも前。未だヴァルヴァリオンが大陸の覇権を握っていた全盛期の頃。
元ヴァルヴァリオン人ならば知らぬ者がいない、全盛期に一度だけ舞い降りた大災厄。
それは世界の果てより突如として来襲した暗黒竜が、全てを根絶やしにせんと数多の竜人族を絶滅させる為に放ったとされる天災の具象であった。
圧倒的な破壊にして、一方的な淘汰。広大な地が業火に呑まれ、数多の生命が空へ、地へと還る生態系の崩壊を、絵画のように踏襲した遠き過去の禍難。
世界の最果てに住まうとされる伝説の種族、``竜``にのみ行使が許された未曾有の業―――。
「竜位魔法……だと……!?」
解読不能の文字列。狂乱する天災。幾重にも連なる魔法陣から滲み出る``竜``の高慢にして偉大な気質。
思考は止まった。歴史書以外で実際に垣間見るのは、三億年の時を経て初めての事だ。
高慢にして偉大、尊大にして自己中心。強者を是とし、弱者を非とする覇権蛮族の身業を、高々百年も生きていない少年が平然と行使している事実こそ、己の全動作を閑静させるに足りる絶大な衝撃だった。
「おいどうした。俺を玉砕するんじゃなかったのか騎士さんよォ」
震えてるぜェ、と悪辣に唇を吊り上げる。年相応の少年の微笑ではない。
紅蓮の灼眼が赤黒く燃え盛り、竜を彷彿とさせる鱗の赤熱は、遂に赤色巨星となって紅雷を張り巡らす。
「レーゼツヘーイキとか言ったか。相殺も火で焼き尽くす事もできねぇんなら構わねぇ。だったら``ぶっ壊せば``いいだけだ」
絶対零度の世界をぶっ壊す。いつもなら世迷言だと一掃していた。
だが目の前に忌まわしい災厄を見せられて、彼の胸元で轟然と喚き散らす霊力炉心を見せられて、世迷言とは到底言えない。
文字通り``破壊``するつもりなのだ。全物質が消滅し、完全に真空状態と化している、この空間を。
「俺はテメェに恨みはねぇ。顔も知らねぇし名前も知らねぇし何しにここ来て何で俺と戦う羽目になったかは、正直どうでもいい」
超位の身業を行使する怪物は一歩一歩、紅蓮の剛雷で抉り取られた大地を進む。紅を描く心拍は上空に浮かぶ魔法陣に呼応し、更に、更に、更にその輝きを増していく。
「でもよォ。テメェは大切なモンを護りに来たんだよなァ。だったら何でソイツん下へ行ってやらねぇんだよ。待ってんだろ? ソイツはテメェを待ってんだろ?」
「……分かってい」
「黙れ!! 分かってる? そんなこたぁどうでもいい分かってなかったらテメェは生きてる価値すらねぇただのクズだ」
「……っ」
「でももっと気にいらねぇのは分かってるとか吐き散らかしてる割に半身だかなんだかを結局ほったらかしにしてる今なんだよ」
「そんな事は」
「あるよなァ。じゃあ何で俺とこんな無意味に戯れてんの? 要はテメェも八つ当たりがしてぇんだろ今の俺みてぇに」
思わず押し黙った。
半身を手放した。だからこそ恥で、屈辱で堪らず、終いにはエントロピーが淫らにされている妄想が膨らみ、人里の者どもが恨めしく感じた。まだ彼女が生きている事を霊力で察していながらも、ぶくぶくに膨らんだ被害妄想が先行して尚更会いたくなくなったのだ。
羅刹凍皇と呼ばれたエヴェラスタの王が、唯一忌避する現実とはエントロピーの死を再び見舞う事。エントロピーがエントロピーでなくなる``瞬間``を見舞う事が、なによりも恐ろしく、三億年前の無念が如実に想起されて恨めしい。
だからここを氷雪で埋めた。一千万年の乱世から故郷を護るため、エヴェラスタを永久凍土として封じたように。
眼に見える者全てを凍らせてしまえば、あの時の無念を帳消しにして、あの日決めた大義を忘れないで済むのだから。
「テメェは騎士失格だ。護るべき主君が生きてる事を知りながら、やるべきをやらなかった。やらずに逃げた。だから俺はテメェが気に入らねぇ。今ここでぶっ壊したいくらいに」
「……若輩の貴様に分かるまいよ。半身をもがれたときの虚しさと、生存が分かっても別物になっているかもしれぬという見えない恐怖など……!」
「……ああ分かんないね。分かりたくもねぇわそんな甘ったるい感情なんざ!!」
「甘ったるいだと……!?」
「ああ何度でも言ってやらぁ。テメェは甘い。甘すぎて反吐が出る!! こっちは何もかも失ってるってのにさァ!!」
「……何……?」
「アアそうだよ失ったんだよ全部!! 何もかも全部手から滑り落ちるみてぇに一夜にして全部ぶっ壊れた!! 護る暇もなく背に控えさせる余裕もなく俺の目の前でぐっちゃぐちゃに!!」
怒号に反応して災厄の天輪が唸りを上げる。遂にエスパーダの身体を、内部からぐつぐつと煮詰め始めた。
少年は反論する隙も与えず暴露し続ける。体の中にあるどろどろとした汚物を吐きだすかの如く。
「テメェに分かるか!? 目の前にただの別物が転がってて尚もソレが弄ばれてた時の俺の気持ちが!! ソレを目の前にして手も足も出ず相手にされるがままだった無力な俺の気持ちが!!」
「……」
「大事なモンってのはいつ失うかわからねえ、気が付いたら手の内からすっぽ抜ける事が普通にあんだ!! テメェの半身はどうなんだ!? まだ生きてんだろ? まだ別物になってねぇんだろ!? だったら……だったらよォ……!!」
魔法陣の輝きが一層強まり、業火の如き雷は、更にその凶暴性を露にする。
もはや光度は網膜を焼き尽くす勢いで爆増。景色を認識する事さえも叶わない。鮮血のような剛雷と、魔法陣の輝きと共に、紅蓮の超新星に呑まれていく。あまりの光度に思わず瞼を閉じるが、眼前に迫る竜人の少年に、意識が鳴動する。
相間見えるは破壊欲。
相対するは半竜の災害。
世界の最果てにある秘術すら扱う禍災は、紅炎を吹き荒らしながら世界を照らす恒星の敵意を、エスパーダの網膜に激しく輝映する。
そして―――。
「とっととソイツんトコに、行ってやれやぁ!! このぉ……! ろくでなしのヘタレ糞野郎がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」




