メルヘンチックな悪夢
少し時間を遡る。
魔法罠ゾーンをなんとか踏破した弥平だったが、彼が隠れる木陰の先に、七体の未確認生物が円陣を囲い、なにやら話し込んでいる。
それは、己の人生には全く相対経験のない異形達の円卓だった。
体色は黄緑色。太陽光に照らされ、何故か異様な輝きを放つそれは、一般に両生類といわれる生物の一端。つまりは蛙である。
左目を黒い眼帯で封じ、平坦な顔から飛び出して、ぎょろぎょろと無造作に流転する目玉。異常に細長い四肢。爪が無く、指先はどれも丸く、ヒレまで付いている手足―――。
身体と心の奥底からぼこぼこと泡を立て、不快感が沸騰する。
この世に小学生と同じ背丈の蛙がいたという事実は、背中が痒くなる現実である。何をどう間違えたら、あんな生物が世に生まれるのか。
七体の中で、体色、形相、容貌。全てにおいて気持ち悪い。まさに異形という単語の意味を、忠実に守っている存在。あまりに醜悪な姿をしているから、すぐに目に入り、脳裏に焼きついて離れない。
次に、横の蛙と同じく二頭身体で、何故かエプロンを身につけている下半身素っ裸の男。
年齢は五十代程だろうか。晩年に程近く、その姿は泥酔して下半身の衣服をどこかに置いてきた深夜帰りの中年。醸し出される雰囲気は、第一印象とは裏腹にファンシーさが滲み出る矛盾が垣間見える。何故、と問われれば真っ白なエプロンを着ているから、としか言いようがない。
その隣に座る青白い長髪の少年は、小学校低学年くらいの男の子なのは理解できたが、彼も下半身素っ裸なのは、どうしてなのか。
季節は未だ春。極度の暑がりなのか定かではないが、下半身を無装備状態で涼むには、まだ早すぎるはずである。
更に隣にいる二体に至っては、幼児向けの店に行けば販売されていそうな小熊のぬいぐるみと象のぬいぐるみであった。
小熊には翼が生えている事、象には金冠が載っている事、ぬいぐるみの割に両者顔つきが歪んでいる事を除けば、特に遜色のないぬいぐるみ。
どれもこれも容姿が支離滅裂。鏡の中の世界に迷い込んだ女の子の気持ちが、今なら分かるような気がする。
事態を真面目に精査しようと頭を捻らせていたが、たった一人の存在に目を向けるや否や、大きく固唾を呑んだ。
象のぬいぐるみの隣に座る紳士。あのメンツの中で青白い髪の姫らしき少女と同様、人間と同じ姿をしているはずなのに、彼が人間以外の何かにしか思えない。
第一印象は常闇。執事服も黒いが、人物像そのものが黒く塗り潰されていて、底が見えない。性格、気質、思想、人生背景。それらが全く読み取れないのだ。
どこか不確定で、どこか不安定で、どこか曖昧で。人の姿をしているはずなのに、異形の宴の中で、外見だけでなく心までも``異形``に見える。
眠たそうな瞼とどんな黒よりも黒い瞳。水晶体に閉じ込められた闇の蛇に、二度と出てこれない闇へ引きずり込まれる恐怖が、脳裏を幾度となく掠める。
だがまだ驚くべき事がある。人間ではない彼等の言語が、何故か理解できる事だ。
蛙にせよ、ぬいぐるみにせよ、中年にせよ、少年にせよ。皆、何を話しているか理解できる。母国語で話しているかのようである。
首を左右に振り、手の甲の皮膚を強くつねる。夢でも見ているのだろうか。
ここは森の中。幻覚を見せる類の罠に知らぬ間にかかり、メルヘンチックな幻を見せられているのならば、まだ理解の範疇である。
``解除``を唱える。情景に変化なし。幻ではない。これはれっきとした、確固たる現実だ。
身体中に脂汗が滲み、執事服がべったりと身体に吸い付いて不愉快感を覚える。皮膚から湧き出る焦燥の断片を散らしながら、``隠匿``を急いで発動する。
今までで一番狂っている。知らなかったんだ、と見苦しい言い訳が通るなら今すぐにでも叫びたい。
いずれ来る本家派の護衛に胸を躍らせ、戦いにおける修行や密偵の経験、座学を惜しみなくその身に叩き込んできた。大概の想定外には揺るがない自信があったが、今、それが無残にも崩れ去った。何なのかよく分からない。正体不明。未確認生物。だから怖い。
久しぶりに素で恐怖を感じた己に、汗だくになった手の平を眺め、苦笑いを溢した。
「……ふむふむ。そろそろギャラリーが一人増える頃ですね。その方を交えて話しましょうか。パオングさん、誘導を」
「パァオング。気配を消し、そこの木陰に身を隠して我等を傍聴する少年よ。その程度の付け焼刃な魔法で、この我は騙せぬぞ?」
二名、二人、二匹。どの単位を使えば良いか定かではないが、自分の存在を何故か察知され、本能が特別警報を打ち鳴らす。
今は``隠匿``を発動させている。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、体温、音、霊力量。``隠匿``は、自分の肉体に関する全てを誰からも感知できなくする魔法。普通なら、相手からは存在しないも同然になるはずであるし、探知系魔術ですら``隠匿``を行使している者を見つける事はできない。
探知系魔術を駆使する程度の、``普通``ならば。
右腕の震えを、左腕で抑える。
``隠匿``の弱点は何か。``魔法探知``という探知系魔法で唯一見破れる、だったはず。
つまり、あの象は``魔法探知``を行使している事になるが、その魔法ならば、自分も使っている。何故探知できない。
``魔法探知``で探知できない魔法は存在しない。たとえ同じ、``魔法探知``だったとしてもだ。
盛大に生唾を飲む。
居場所は完全に察知されている。あてずっぽうではない。
このまま逃走―――いや、何もかも察知しておいて撤退を許してくれるようなら、それこそ御伽噺。変に刺激すれば、そのまま殺害される。敵意は感じられないようだが、それすらも隠せる化物だったとしたら。だめだ、王手から逃れる策が思いつかない。
大きく深呼吸。心拍を落ち着かせる。
逃走、不能。戦闘、愚策。虚言、無意味。
意を決しよう。姿を現わして対話ができたなら重畳。宴の肴にされればそれまで。怖いほど単純にして明快な二択を選ぶだけの作業。確率は二分の一。フィフティーフィフティーなのがまた鬼門。迷う暇など元よりなし。
草木が揺れる。音が霧散する。異形達の視線が、一斉に集まる。
暫時、双方無言。凍死した空気の中、それに恩着せがましく蘇生魔法をかけたのは、丸眼鏡をかけた混沌の紳士であった。
「ささ、流川弥平さん、こちらへ」
「……ッ!? ま、待って下さい」
「なんでしょう。この私、あくのだいまおうにお答えできる愚問ならば、なんなりとお答え致しますよ」
「どう……して。私の名を……知っているんです……?」
問い質さずにはいられない衝動に、遂に身を投げる。
流川弥平。その名を知る者は人類でもごく僅かしかいない。
自分、澄男達、両親、愛弟子。他多数は数多くある偽名か、``攬災``という肩書きのみしか知らない。
流川家の情報管理は完璧だ。たとえ蟻の子一匹入る隙間も無ければ、覗き見する隙間すらない程に、防衛策は幾重にも張り巡らされている。その中には覗き見しようとしただけで、対象を直ちに殺害するトラップまで存在するくらいである。それらを全て潜り抜けて―――。
ありえない。現実離れにも程がある。更に根深い現実味があって然るべきだ。無ければ知る事すら叶わない。叶ってはならない。
「それを説明するのは時間が不足していますので要約致しますと、知らない事がないから、が答えになります」
あくのだいまおうと名乗る紳士の答えは、思索と期待をものの見事に粉砕。現実味とは程遠い、もはや理由として成立していない答えを返した。
知らない事が、ない。つまりどういう事。
全知。この世に全知の存在がいたなら、それこそ天変地異が連続的に起こっていても不思議ではないのでは。
この紳士は、この異形は、正気なのだろうか。
「私は至って正気ですよ。まあ、最初はそんなものでしょう。違和感なんてものは所詮現在にのみ作用する心理。慣れれば自ずと朽ち果てるものです」
質問は以上ですか、と口添えする。
本当なら聞きたい事が沢山あるが、あんまりにあんまりにも多すぎて、一々聞き出すのが億劫に思えてきた。これでは先に進まない。
どうせ逃げも隠れもできない摩訶不思議メルヘンの世界である。心を読まれた事はもう捨ておく。
最終手段―――父上直伝、どんな危機も乗り越えられる最強の呪文。なるようになれ、で乗り切るしかない。
以上です、と控えめに答え、象と少年の間に上品に正座する。
機嫌を損ねるような真似は極力避ける。可能な限り早急に、非現実から逃れる事を考察せよ。
「旦那、コイツが罰を与えるやつなんすか」
「いや違うだろ。明らかに萌やしだぜコイツ。ひょろひょろウンコ出してそうな身体だしさ」
「股間が膨らんでない……Mではないんだね」
右側に座る異形達が突如意味の分からない事を口に出す。やめるのだ貴様ら、と左隣に座る象が嗜め、あくのだいまおうと名乗る紳士は丸眼鏡の位置を優雅に調整する。
「では弥平さん、皆様に自己紹介を」
「い……いや守秘義務……があるので」
「今更隠し立てする必要はないかと。この場にいる者で、流川に仇為す者はおりません」
「どうしてそんな事が言えるのですか……」
「……ふむ。見方を変えましょう。この空間が貴方にとって摩訶不思議世界であるなら、現実から隔絶された仮想的空間だと思えばよろしいかと。夢の中であるなら守秘義務もまた成立しないでしょうから」
未だ訝しげな面構えが解けない。
確かに彼らは人ではなく、まるで異境の世界からやってきたような魑魅魍魎の姿形をしている。明らかに人間の世の生物ではないと言い張れる。
ならば、夢の中か御伽噺の中だけだろうと思って言ってみるのも一興か。このままずっと黙っていても、どうせ話は進まない。
だが情報管制が完全な流川家の最重要機密を知っている。その事実こそが彼の台詞の内容を、真実足らしめているとも言えなくもない。
確実を喫するなら、もっと情報を集めるべきだ。だが今は叶わない手段であるのも事実。
リスクを抱える事になろう。だがここはあくのだいまおうの台詞を信用するしかない。
「……流川分家派当主``攬災``流川弥平と申します」
遂に自身に関する概要的な情報を彼等に発信した。もう後戻りはできない。決断が正しかったと信じよう。
後で良かったと、胸を張って言える未来が来るのを願って。
「では皆さんも自己紹介を」
「ならオレからだな。オレの名は、カエルそーたいちょー!! この世で最もカッコ良い男!!」
「ボク、シャル! 趣味は○ックスとち○こ弄り。守備範囲はまあ全部だけど十代から二十代前半~。因みにバイだよ? バイだよ?」
「俺はナージ。座右の銘は一日三排泄。よろしくな萌やしウンコ」
「俺はミキ」
「我の名は我欲の神パオング!! 好きなものは我欲、そして幼女!! 幼女こそ最強にして最高にして至高なる全生物の宝!! 現世に幼女以上に誇れる宝などなし!! よろしくお願いする」
「ちょっとぉ!? 俺の自己紹介上書きするなよ!! 後何が最強にして最高にして至高なる全生物の宝だ!! それは俺のパンツだ!!」
「早く言えや、ウンコ投げっぞ」
「分かったよ……俺はミキティウス。雷釈天とか真雷霆神が二つ名としては正式。クソパンとかキモパンとかはコイツらが勝手に呼んでるだけだからな!! 趣味はパンツだ。よろしく!!」
「本当の事じゃん。なあ、オメェら」
「それな。むしろオレらからすれば雷釈天辺りの方がしっくり来ねぇわ。サバよみすぎっつーか」
「誇張しすぎなんだよねー。パンツ信者とかパンツの使徒なら分からなくもないけど」
「う、うるさいな!! 事実前者の二つ名が正式なんだよ!!」
「私はあくのだいまおう。趣味は読書。散歩。ゴミ捨て、ですかね。よろしくお願い致します」
「……え、えっと……私はヴァザーク・リ・ゼロ・エントロピー……よろしくお願いしますね弥平様」
円陣内の全員が一通り自己紹介を終え、あくのだいまおうはこほんと咳き込む。
風貌もさることながら、名前もユニークなものばかり。中には肩書きのような名前の者までいる始末。
彼らのいる世界では、この手の命名が普通なのだろうか。あまりに知っている感覚からは乖離しすぎて、違和感が拭えない。
確かに人間の世でも、和名やカタカナ名の者は不規則に混在している。
その間を分かつ境界線は存在しないが、名前にあくのだいまおうやカエル総隊長というのは、あまりに安直に思えてくる。
「さて自己紹介も終えたところで本題に。弥平さんはもう話を聞いていたので分かりますよね。罰則を与える者についてですが」
「そういや誰なんすか。もうもったいぶらないでくだせえよ旦那」
「流川本家派当主``禍焔``流川澄男さんです」
「え……? ちょ、ちょっと待って下さい」
「何ですか、弥平さん」
「どうして澄男様が……いえ何故知っているのか、ではなく。どうして彼が罰則を与える者なんです……? 無関係ではないですか」
「今のところは無関係です。しかしこれから、を考えるとどうなると思います?」
「これ……から……?」
「事の発端については、本人から説明してもらいましょうか」
あくのだいまおう達の視線がエントロピーなる少女に向けられた。上品に正座し、少々生地がやつれて土が付いているが真っ白で綺麗なドレスを着た少女は視線に気づいて顔を上げる。
青白い髪に青白い瞳。外見から十代前半程度の少女に見えたが、仕草や所作からは童話に登場する白雪姫のようにも、雪女のようにも思えた。
印象から湧き出る矛盾に、首を傾げる。
文化背景が読めない。複数の背景をちぐはぐに繋げ、似たような何かを表現しているだけで、本質的には何者でもない。例えるなら、好き勝手に切り刻んだ折り紙を、のりで適当に貼りつけて作った幼稚園児の絵を見せられているような。そんな感覚だ。
ドレスを着ている辺り、どこかの姫なのだろうか。しかし大陸に王国があるという情報はないし、かつての歴史を紐解いても王国政の国は存在しない。よく見るとティアラをしていないし、姫というよりただドレスを着ているだけの少女にも見えてくる。
少女なのか姫なのか分からない彼女エントロピーは、瞳から今にも滲み出てきそうなものを抑え、此処に至るまでの顛末をゆっくりと話し始めた。
全ては二日前に遡る。
ここ、中威区より遥か北方に``永久氷山エヴェラスタ``は、ある時から常に氷雪と猛吹雪に閉ざされた山岳地帯である。今もその地の氷雪は、融ける事なく存在している。
エヴェラスタの支配者ヴァザーク・リ・ゼロ・エスパーダ、ここの者どもがアザラシと呼ぶその男と、些細な事で口論になった。内容は外界、つまりは人里に降りるか否かという瑣末な事だったらしい。
エヴェラスタから出てしまうとほとんどの性能を封じられてしまう体質を、彼は強く憂慮していた。
彼女は外出を願ったが受け入れられず、振り切る形で飛び出してきてしまったそうな。
元々数年以上前から、エスパーダの過保護には少々厚かましさを感じており、その過保護さは、彼女の生活を強く窮屈にするものだった。彼に黙って外出するつもりだったが、バレてしまってやむ終えず、とのこと。
そのまま飛び出してきてしまった手前、やはり口論になってしまった事が心配で、ほんの少し自由を満喫してからすぐに戻るつもりだったようだ。
一連の経緯が話し終えられ、嵌っていないパズルのピースを嵌めていく。
目玉商品といわれていたのは彼女の美貌と、服を含めたその美しい容姿、そして見た目から未だ年端も行かない少女。凪上家当主とその取り巻きは競売会を開催すれば高く売れると思案した。
そしてここにいる者たちは、彼女がクライアントに買収され、肴にされる前に連れ戻そうと凪上邸を襲撃したわけだ。
つまり、その救出作戦に偶然出くわしてしまった、といったところか。
話を聞く限りでは、まだエスパーダなる人物との拗れは解消できていないようだ。陰鬱な表情を浮かべているのは、彼の身を案じての事だろう。
しかし気になる点がある。何故未だに残留しているのか、だ。
エントロピーを救出したのならば、もうここに残る必要はない。むしろ早急に彼女をエスパーダなる人物の下へ返してやるのが先決だろう。
エスパーダのこれからの行動を大雑把に予想するなら、単独でエントロピーの救出。それも関係の無い沢山の者を巻き込んだ荒々しいやり方になるはずだ
彼女の話から想像できる彼の人物像は、彼女を大変大事に思っている男性。大変大事に思っている存在が二日間も音沙汰のない状態が続けば、どのような行動に出るかなど、想像に難くない。
いや待て。あくのだいまおうは何と言ったか。
エントロピーとエスパーダの関係に拗れが生じている。彼女がいたのは中威区。エスパーダに罰則を与える者が流川澄男。つまり―――。
「エスパーダと澄男様を、戦わせるおつもりで……?」
彼の問いかけに場は騒然とした。金冠を乗せたパオングと、場の中心人物であるあくのだいまおうを除いて。
「ほう。して、その根拠は」
あくのだいまおうに問われ、改めて説明していく。
第一に出身国は武市である事。
第二に罰則を与える役目と重責を負わせる役目、同時に担えるのが澄男しかいない事。
第三に愛する者の焦がれは澪華を失った今の澄男と共通している事。
第四に罰則とは即ち共通の心理状態に陥っている澄男とエスパーダを戦わせ、エスパーダが何らかの要因で敗北すると解釈できる事。
澄男も大事な友人と母親を、つい一週間前に失って精神的に消沈している。エスパーダと心理状態が似通っている今、彼らが出会えばどういう末路を辿るか。想像するまでもない。
だからこそ第四の根拠が、あくのだいまおうが計画している真の目的と結論付けるのが妥当なのだ。
弥平の表情が歪んだ。
身内のみで対処するのならいざ知らず、澄男を巻き込むつもりか。
第一、彼は人間。対してエスパーダは異形。普通に戦えば勝ち目はない。勝算がないというのに、どうやって罰とやらを与えるというのだろう。話の流れから澄男がエスパーダに勝たなければ罰を与えた事にはならない上、エントロピーに責任を負わせる役目を果たせない。
どうやって、人間の澄男が人外のエスパーダに勝てるのだろうか。
まだだ。まだあくのだいまおうの真意が見えない。まるで灰色のフィルターで透かしているような見えにくさが、ぴりぴりとした苛々を湧き立たせる。
「澄男さんに勝算がない。そんな顔をしてますね」
「澄男様は人間ですよ?」
「エスパーダも、元は人間のようなものです」
「でも今は人外なのでは」
「ええ。でもね弥平さん。この状況で私が明らかに勝算のない人間を指名すると思いますか」
「……それは」
「その証拠というのも語弊がありますけれども、ここまでの話を聞いて、精査して、澄男様が本当に人間だと何故言えるのです?」
目を丸くした。
この紳士、何を言っている。問いかけの意味が分からない。問いかけ自体に何の意味もないではないのか。
見る限り、彼は人間だ。
出身は武市。流川本家の血が流れているという規格外こそあれど、つい一週間前まで一介の学生に扮して生活していた一人の少年。
逆に人間ではない要素が見当たらない。姿形が異形というわけでもなし、常識が分からないわけでもなし、公衆の面前で下半身裸になるわけでもなし。
ただ他の人と違う生活を送ってきた、それだけの違いしかないではないか。
「ではもう一つ付け足しましょう。貴方は最初に私を見た時、私が``人間``だと思いになられましたか」
あくのだいまおうの補足に、思わず口を噤んだ。
そういえば、思わなかった。人の形、人と同じ姿こそしているが、中身は得体の知れない魑魅魍魎だと判断した。
心を読まれているのではないかと思ってしまう洞察力。どうやって知ったのか皆目分からないような事まで全て知っている情報収集力。風貌の不気味さ。全てを手の内で転がし、意のままに操っているような絶対支配者の如き貫禄。
人間にしては似つかわしくないその行きすぎた暗黒に、人間ではない、人の形をしているだけの何かだと勝手に、本能的に判断したが、まさか。
「そう。澄男さんもまた純粋な人間ではないのです。だからエスパーダとも張り合える」
あくのだいまおうによって思索に否応なくピリオドが打たれる。何故。彼の話を聞けば聞くほど、何故だと問い質したい事が湧き出てくる。
純粋な人間ではないとは一体。エスパーダが異形ということは、澄男もまた異形。でもどこが異形なのだろうか。
確かに流川家は代々化物レベルの強者を輩出してきた名門の武闘派。それでも異形を創り出した事などない。
ただ人間として強く―――待て。思い返してみよう。
化物レベルに強い人間、見方を変えれば異形ではないのか。人間離れしている、という点では異形と共通している。
ただ基準としてあるのは、人として意思疎通はできる事。強大な暴力を振りかざすだけではなく、きちんとしたコミュニケーションが成立している。
流川家でコミュニケーションが成立しない強者はいない。だがコミュニケーションが成立している強者が人間であるなら、今、視界に広がる彼らは人間だという事になる。
容姿は人間ではない。しかし人間として会話が成立している。では、彼らの何を以って人間ではないと自分は判別したのだろう。
あくのだいまおうの言葉を吟味すると、そう単純な定義に思えなくなってきた。
「どうやら貴方の人間に関する定義が瓦解なされたようで。いや、虐めるつもりはないのですがね。そんなものなのですよ、言葉とはね」
「澄男様が、人間ではない……」
「正確には純粋な、ですがね。肉体組成的な問題で。とはいえ少し曖昧すぎました。申し訳ありません」
謝罪するあくのだいまおうだったが、それでも腑に落ちなかった。
肉体組成的にせよ、精神的にせよ、なんにせよ純粋な人間ではないという事実は衝撃以外の何ものでもない。人間と人間から生まれたはずなのに、どこでそんな異なるものが彼にあるのか。
今の自分では、知る由もない。ただ分かっているのはエスパーダという異形と戦えるほどの何かを、彼が持っているという事だけだ。
その何かとは、一体。
「それはエスパーダと彼が戦えば分かる事です。ふむ。もうそろそろ、時間ですかね」
心理を的確に読み抜いた上での台詞の後、突如暗雲が青空を覆った。鳥肌が立つ程の冷風が吹き通り、太陽光が遮られ、辺りは一瞬で薄暗くなる。
風が寒い。まるで冬に吹く寒空の風のように寒い。更に周りを見渡せば、濃霧によって真っ白な景色へと変わっている。
雨はここ数日降っていない、ずっと晴天日和が続いている。濃霧になる要素は成立しないはず。
「やべぇ、地面が!!」
「うお、凍ってやがる。チッ……睡眠の魔法が解けたか」
「みんな見て! 空から雪が!!」
シャルの一声で、全員が空を見た。
もう既に太陽も青空も見えない。あるのは濃い灰色の曇天。そして季節が春だというのに降り出した雪。吹き荒れる寒い風。まるで冬に逆戻りしたかのようだ。これは間違いなく、霊力による極めて大規模な気候操作だ。
気候を操作する。それは想像絶する大量の霊力が無ければ、成しえない人外の身技。
「この霊力……間違いない……! エスパーダ……!」
エントロピーは鬼気迫った顔色で立ち上がり、濃霧で右も左も分からないはずの方向をじっと見つめながら、胸に握り拳を強く添える。
「ふむ。弱体化はきちんと働いているようですね。まあ当然ですが」
「弱体……化? これで、ですか」
「弱体化していなければ、この時点で武市のみならず、隣国も道連れにして滅ぶかと。一生融ける事のない真の永久凍土と化したでしょう」
「パァオング。弱体化した彼奴ならば精々中威区全域を凍土にして封じる程度。貴様らが滅びる程ではない」
「いやそれでも都市機能、普通に壊滅だよね。てか最悪ここの奴ら凍死してそう」
「まあそれはそれでしゃーねぇってことで。さぁて長話も済んだし、野グソすっか」
「種族が滅ばないなら、また立て直せば良いんだよ! 粘り強さが肝心だぜ。このオレの粘液みてえにな!」
「ち○こが大きくなったり小さくなったりするのと同じ同じ。それより見てよボクのち○こ、寒くてこんなんなっちゃった」
「オレなんて寒くて死にそう」
中威区全域が凍土に。唖然とした弥平だったが、彼以外の者どもは、全く動じてはいなかった。
確かに彼らにとっては武市がどうなろうと痛くも痒くもないだろうが、あっさり中威区が凍土と化した現実を、すんなりと受け入れる事ができない。あんまりにあんまりにも現実離れしすぎていて、夢でも見ているようである。
彼らと出会ったそのときから、罠にかかって眠らされていました。とかならば、理解の範疇を超える事はなかっただろう。
頬を引っ張る。腕の皮膚を抓る。痛い。残念ながら、現実のようである。
「さて。エスパーダも来た事ですし、いよいよクライマックスですね。後は澄男さんとエスパーダの戦いを観戦しに行くとしましょうか」
「だな!! でも防寒装備欲しい」
「え、ちょっとタンマ。俺まだウンコしてねぇ、後五分待って」
「あくのだいまおうさんや。ところで俺のパンツ、返してくれませんかね」
「やべぇ、ボクのち○こが……めっちゃ小さく……嘘だミキティウス以下じゃん……」
「パァオング。エントロピィよ。行くぞ」
「はい……」
たった数分間の間に、中威区は雪国へ。景色は段々と白く、そして地面の草木はかちかちに凍りつく。降雪量も増し、冷風は舞い散る雪をも巻き込んで、もはや曇天すらも純白に没した。
想像絶する膨大な霊力。これが永久凍土の支配者の力。そのエスパーダという存在は一体、どんな輩なのだろう。
「弥平さん」
「何ですか」
おもむろに弥平へ距離を詰め、とぐろを巻いた常闇の瞳が、吸い込まんと欲する。心臓の拍動が、一瞬増すのを感じ取った。
やはり慣れない。とぐろを巻いた常闇の蛇から放たれる、暗澹な雰囲気には。
「貴方は守る立場の者。余所者たる私が、主人様を危険に晒している現況ですが、私から情報を引き出し雇う、という条件で示談にしてはいただけませんか」
「情報?」
「貴方方が追っている``敵組織``についての情報です。しかしそれだけでは不服でしょう。もし一定の信用が得られたなら、雇って頂けるかな、と」
「ちょ、旦那!? 何言ってんすか!」
「長期バイトなんざ割に合わねえぜ」
「ボクたちは自由なんだ!」
あくのだいまおうの言葉に、三匹の異形が猛抗議する。
確かに、自分は主人を守る立場。そしてあくのだいまおうは主人を危険な状態に晒している。酷く言えば澄男を利用しているわけで、かなりの重罪と言えるだろう。
澄男が勝利すると結論として真っ先に言及されたので否定こそしなかったが、当然ただで元の鞘に戻すつもりはない。
そもそも澄男や自分の素性を知っている。守秘義務上、彼らを拘束する他ないのだが、彼らの能力が非常に高いのは確かだ。
魔法罠の配置。任務遂行の手際の良さ。あくのだいまおうの緻密な作戦立案。
異形であることと、非常識な性格を除けば、彼等は優秀どころの話ではない。ただ単に新館地下二階の牢屋に拘留しておくには勿体ない力である。
またあくのだいまおうは言っていた。知らない事はない、と。つまり、今追っている敵組織の情報も、きっと有している。
ただ拘束しておくには、惜しい者達だ。
「……そうですね。ただし条件があります」
しばらく顔を少し俯かせて考え込んでいたが、すぐに顔を上げ、あくのだいまおうと視線を合わせる。
「この戦いにおける澄男様の勝利を確約していただけるのでしたら、その叡智、この弥平みつひらが信用致しましょう」
いつも通りの作り笑い地味た笑みを戻し、あくのだいまおうは悪辣に唇を歪めて微笑み、深々と一礼した。雇い主を敬うかのように。
「よろしい。不肖あくのだいまおう、自身の智を以って、彼の勝利を確約致しましょう」
暗黒の紳士は、執事服を着た少年に吹雪吹き荒れる寒空の中、高らかに宣言した。
彼らがエスパーダの下へ向かったのは``顕現``の準備ができ、ナージの排泄が終わった頃である。




