人の温もりって心地いい。
ーーーPrologue
七月上旬。梅雨があけ、猛暑日も増えてきた頃。
彼女は事務所のレコーディングルームにいた。
他の人はまだ誰も来ていない。
静まり返った無駄に広い防音室には時計の皮肉な乾いた音と
台本のページをめくる湿った音が響いている。
今日こそ絶対に勝ち取ってやる。そう思いながらもやはり不安は消えなかった。
これを勝ち取れなかったらライバル達にまた一歩引けを取ってしまう。
同期が次々に売れていく中で私は、大量のオーディションに落ち続けた。
何がダメなのか。何を直せばいいのか。何をすれば売れるのか。同期とは何が違うのか。
やはり自分はその程度だったのだろうか。そう模索しながら怒涛の様な日々を1年近く過ごした。
結局、全く答えが出ずに私は体調を崩し倒れてしまった。
1ヶ月間の入院生活では毎日のように不安が襲った。
色々な人が見舞いに来てくれたが、自分を励ます言葉は全て嫌味にしか聞こえなかった。
新人が体調を崩したら終わり。声優になりたい人なんて山のようにいる。私が受けられていたオーディションの枠だって他の新人達に取られるかもしれないのだ。そんな日々を過ごす中で私は段々と自分自信を嫌いになっていった。そんな自己嫌悪するのが日常となっていた。
入院して2週間が経った頃。味の薄い朝食をどうにかして食べ終わってどんよりと曇った空を見ていたら、ある先輩が見舞いに来た。
「怜美さん、わざわざ来てくれてありがとうございます。」
花崎怜美は凛の6歳年上の大人気声優だ。子役の頃にデビューしそこからほぼずっと声優界の第一線を歩いている。容姿も眉目端麗でモデルのようなスタイルだ。おまけに顔もクールな顔立ちで女優並みである。
私は養成所の頃からこの先輩にお世話になっていた。
「大丈夫?私、凛ちゃんが入院したって聞いて凄く心配したよ〜。」
怜美さんは見た目にそぐわない可愛らしい動作で凛の顔を覗き込んだ。
「そ、そうなんですね。ありがとうございます。」
精一杯平気な顔を作って答えた。
「そんな無理して笑わなくもいいわよ。今はものすごい不安だろうけど凛ちゃんなら絶対大丈夫だから。」
先輩は忙しいのにも関わらず、まだ新人の私のためにわざわざ私のために時間を作ってまで来てくれたのだがその時の凛には全く響かなかった。
実際に経験した事もないのに知ったふうな事を言うなと。ずっとスターの貴方にはこんな私の気持ちなんてわからないだろうと。
「そうだ。今日りんご持ってきたのよ。食べるよね?剥くね。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
怜美先輩は私の様子などお構いなしに林檎の皮を剥き始めた。
しゃりしゃりとりんごの皮をむく音が静まり返った病室に響いた。
「この時期に体調崩すのは堪えるよね。そりゃ。」
「…kるんですか。」「え?」
「怜美さんに何が分かるんですか!怜美さんみたいに最初からスターの人には分かりませんよ!」
今までどんな人に何を言われても耐えてきたが、怜美さんだからなのか気持ちが溢れてしまった。
急に私が大声を出したから怜美さんは一瞬驚いた表情をしていたが、すぐにいつもの顔に戻るとこう言った。
「うん。分かんないよ。正直、自分以外の他人のことなんかわからないし興味はないよ。」
私は予想外の言葉に驚き、言葉を詰まらせた。
「ただね、凛ちゃん。」怜美さんはこう続けた。
「私は今の凛ちゃんみたいにあと少しでみんなと同じ舞台に立てる場所にいるのに諦めちゃった人をいっぱい知ってる。凛ちゃんはその人達と一緒で本当にいいの?なんのためにここまで頑張ってきたの?」
私は気付くと涙を流していた。私は同情の言葉ではなく、慰めの言葉でもなく、この言葉が欲しかったのだと、その時に気付いた。
2週間後、私は病院を退院してすぐオーディションに復帰した。怜美さんの言葉を胸に、がむしゃらにもがいて努力した。
すると1ヶ月後。驚くことにあっさりと人気作品のキャストに抜擢された。こうして私の声優人生は幕を上げた。