【最終話】16万年前の隣人(8/8)
『ハ』でも『ファ』でもなく唇が2度合う?
「ではこれを読んでみてください」
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波
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「『なみ』です」
「訓読みだとそうですね。先ほど僕は『万葉仮名』でことごとく『ha hi fu he ho』の中国古音が使われなかったと言いました。「はひふへほ」には別の字が当てられていたと。『波』がその一つです。今だと『波』の音読みはこのようになります」
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波及
熱波
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「は」きゅう
ねっ「ぱ」
「うーん。もし奈良時代にどちらかの発音を使っていたとなると答えは1つですね」
『ハ』は除外される。
「ええ。中国古音ではこれを『パ(pa)』と読みました」
ついに答えが出た。
◇
ハッとなる。
紺と白のバイカラーワンピースが大きくオトへ向かって傾いた。顔が輝く。
「パパ! パパだったのですね!? え?『母』なのに『パパ』だったのですか!? 『パパ』ってその……『father』の愛称ですよね? え? お母さんがお父さん!?」
「ふふっ。不思議でしょう。奈良時代はお母さんのことを『パパ』と呼んでたんです」
「ええ~~~~~! ぐうぜ〜〜〜〜〜ん」
「偶然ではありません。必然です」
「は?」
◇
「ところでね。カブラギさん。僕の息子を見てください」
オトはいそいそとスマホのロックを解除した。画面に親子3人の立ち姿が現れた。なんで急に『息子自慢タイム』になった? 『必然』の説明してくれ。まあ付き合いますが。
ラクダみたいなパッチリした目の男の子がランドセルをしょって立っている。『入学式』の看板と散り際の桜が見えた。少年の両脇には男女が1人づつ立って肩に手を添える。男の方は知っている。オトだ。
紫陽めっちゃ笑顔になる。まさに『リトル於菟』って感じの子だ。
「わ〜! 可愛い! おめでとうございます!」
「ありがとうございます。今年小学生になりました。さて。この子が赤ん坊のときの動画がこれです」
写真フォルダをタップする。『太郎』と書いてあった。
オトは『興梠於菟』という難読漢字のため色々苦労したらしい。子供は読み間違いのない名前にしたのだろう。
興梠太郎、潔い名前だ。
赤ん坊の動画が出てきた。『太郎くん』である。このときは生後2ヶ月だそうだ。
紺色の星がいっぱいに散りばめられたロンパース姿で、目を輝かせて手足をばたばたさせていた。何かを言っている。
音は聞き取れなかった。強いて言えば『クルッピドゥププゥ』みたいな。意味のある言葉ではないだろう。とにかくどの言語でもない『何か』を盛んに発声している。
「そしてこれが7か月目です」
ハイハイした赤ん坊が猛スピードで絨毯の上を這う。テーブルの足にぶつかるのではないかとハラハラする。母親が赤ん坊のお尻を追った。
「パッパッパ! パッパッパッパッパ!」と盛んに言っているではないか。
「わあ! 言葉がはっきりしてきましたね。ニンゲンの発音て感じ!」
「『喃語』というんですよ。次がお粥を食べているところです」
口の周りにベタベタと食べかすをすりつけながら「まんまんま まんまんま」と言う。テーブルを右手でパシャパシャ叩く。お粥が跳ねまくってるが大丈夫か。女性の声がして「そうよ。まんまよ」と答えていた。包み込むような声色だった。サジを持った細くて白い手のみが映る。
「次が1歳2か月です」
オトに抱っこされた男の子が「パパ! パパ!」と呼びながらほっぺをペチペチ叩いていた。少し大きめのズボンにトリコロールのサスペンダー。ずっしりとした重量感とイキイキとした表情がそこにはあった。
「わあ~! ついに『パパ』って言えたわけですね」
順番に見ると発達の具合がはっきりわかる。
オトが蕩けそうな顔になった。この人こんな顔するんだ。初めて見た。
「ええ。うちの子賢いでしょう? 将来はノーベル賞作家になるんじゃないかと思っているんですよ」
親バカや! まだ小学校1年やないかい。
毎東新聞の敏腕文芸記者も子供の前では形無しのようだ。
「そういえばアニメの『サザエさん』に『イクラちゃん』てでてきますね。1歳くらいの子です。彼はなんと喋りますか?」
「『バブー』ですかね?」
「人間が最初にできるようになる子音がパ行、マ行、バ行、なんです」
その瞬間、紫陽はこれが『息子自慢タイム』ではなかったことに気づいた。オトは自分の子供を通して人間がどのように『発音』を獲得するかを見せてくれたのだ。
「パパ(父)……ママ(母)……バーバ(おばあさん)………全部人間が最初にできるようになる発音……」
「『マ』『バ』『パ』を『両唇音』と言います。音を作るときに両方の唇を閉じる音です。唇を閉じるだけでいいので、簡単に発音できる。唇を閉じる必要すらない音が『母音』。『アイウエオ』です。まずは母音が言えるようになり、次に子音が言えるようになる。
江戸時代の後期には『お母さん』を『ハハ(haha)』と発音しましたが、その前は『ファファ(fafa)』だったしさらにその前は『パパ(papa)』だった。戦国時代まで両唇音の名残がありました。
だから『はゝには二たひあひたれともちちには一ともあはす』のなぞなぞの答えは『唇』なんです」
◇
◇
◇
◇
紫陽は背中をパイプ椅子の背もたれに押しつけた。
思わず「ふーっ」と息を吐き出した。
奈良時代から1300年を旅してきたような感慨があった。
パパ→ファファ→ハハ
を解明するためにたくさんの人の研究があり、その全てにそれぞれの人生があったわけだ。遠い国学者たちと握手がしたい。タイムマシンに乗れなくとも過去への旅はできる。
◇
「さらにこれは世界中に見られる傾向です」
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幼児が父や母をなんと呼ぶか。
父
英語 dad daddy papa
中国語 baba
フランス語 papa
ドイツ語 papa
母
英語 mom mamna momma
中国語 mama
フランス語 maman
ドイツ語 mutter
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「カブラギさん。僕たち日本語話者が語源をたどるとき、途中で行き詰ってしまいます。最も古い発音の資料は西暦712年の『古事記』です。結局のところ、山はなぜヤマなのか、海はなぜウミなのか、果てもなく過去に遡ろうとすれば最後はわからなくなってしまう。でも『父や母』の起源はわかります」
「はい」
「人類の母方の祖先をたどると、16万年前のアフリカ大陸の女性にいきつくと言われています。『ミトコンドリアイブ』です。ミトコンドリアの型は母親からしか遺伝しないから、そう言われているわけですね。
16万年前の人々と僕たちは理解しあえないでしょう。200年違わない紫式部と藤原定家ですらハイコンテクストの壁がありました。綴りは奈良時代から変わらなくても、発音はどんどん変わっていきました。1000年経てば『なぞなぞ』の答えすらわからなくなってしまいます。
ましてや16万年も違ったらすべてが違う。食べる物も、着るものも、住むところも、宗教も、文明も、言葉も、生き方も何もかもが違ってどんな人たちだったのか想像すらできません」
「そうですね」
「でも彼らは僕たちの隣人なんです。仲間が死ねば悲しみ、飢えないよう木の実を拾ったり魚を獲ったりした。子供の幸せも祈ったことでしょう。台風や雷に神を見て恐れもした。宗教が生まれたのは畏怖の念からでしょう」
嬉しい、楽しい、怖い、腹が立つ、悲しい、幸せ。
感情は16万年前からずっと同じ。
「生まれたての赤ん坊を胸に抱いたとき。その存外に重い、温かな命を前にして16万年の隔たりなんて意味はありません。『可愛い』『愛しい』『守りたい』と言う気持ちが自然に湧き上がってきたでしょう。赤ちゃんが話せる言葉を自分たちの呼び名にしたんです。言葉がいつからあるのかはわかりません。でも『ママ』や『パパ』は赤ちゃんを主体にして生まれた言葉です」
オトは目をつぶった。水をたらふく飲んだラクダみたいな顔になった。満ち足りた、幸せな表情だ。そしてこの長い雑談を残り一言で終えた。
「人類が初めて言葉を発したその日から、人は人を愛してきたんです」
(終)
【参考文献】
釘貫亨『日本語の発音はどう変わってきたか』 中央公論新社
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【第2話】ひらがなしかない小説
■漢字はいつからあるか
https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-66/
【第4話】江戸時代のハイコンテクスト
■とがなくてしす
https://rafu.com/ja/2016/04/いろは歌2・その謎/
【第6話】室町時代のなぞなぞ
■500年の時を越えた、知恵くらべ!【室町時代のなぞなぞ】
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/62405/
昔の人は「はは(母)」をどう発音したか?
■https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=281
【第7話】『かい』と書くしかない
なぜ古代日本語の発音がわかる?昔の言語の発音を知る方法を解説!
■https://www.youtube.com/watch?v=3byZJsevtSY
戦国武将はどんな言葉を使っていた?戦国時代の発音を再現する方法を解説!
■https://www.youtube.com/watch?v=ZLEW5HnPn3Q
【第8話】16万年前の隣人
■ハ行の音は「h」じゃなかった!?ハ行の歴史を辿ってみよう!
https://www.youtube.com/watch?v=sU44QurEZ8M
■奈良時代にはお母さんをパパと呼んでいた!?
https://nihongonosensei.net/?p=32064
■バブリング(喃語について)
https://bilingualscience.com/english/2022121901/
■言語発達段階 あいうえお ぱ ば ま や
https://parc.medi-care.co.jp/blog/115
■両唇音 最初の一言―なぜ母親は「ママ」、父親は「パパ」なのか―
https://yab.yomiuri.co.jp/adv/chuo/research/20100218.html
■子音の出し方
https://canada-school.com/english/plosive-sound/