『かい』と書くしかない(7/8)
「室町時代『母』は『ハハ』という発音ではなかった……」
「ええ」
「『はひふへほ』は『ハヒフヘホ』ではなかった?」
「そうです」
「『ha hi fu he ho』という発音自体が日本になかったから、『ハイ(hai)』と、聞こえても『はい』と書けなかった……」
そういうことか。茫然とする。
「『かい』と書くしかなかった……」
◇
「正解です。カブラギさん。あなたなかなか優秀な生徒だ。『ハヒフヘホ』という発音自体がなかった。だから『かきくけこ』で代用したのです。中国で『はひふへほ』に当たる単語が日本で軒並み『かきくけこ』になるのはそのためです」
日本の音読みで「昏・忽・欣・訓・海・火」は中国中古音だと『ハ行』になる。
そして『万葉仮名』には一つも『ハ行の音』として「昏・忽・欣・訓・海・火」の字が採用されていない。中国中古音ではすでに『ha hi fu he ho』と発音していたにも関わらず、万葉集では別の漢字が当てられている。
『ハヒフヘホ』という発音が存在しないなら、『ハヒフヘホ』と聞こえる漢字は使うことができない。
「そうなると気になりますね?『はひふへほ』は本当はなんと、発音したのか?」
◇
きっ気になる〜。
紫陽は頭の後ろで両手を組んだ。ややそり気味の姿勢になった。考えてはみたけどお手上げであった。
「これがね。意外なところからわかるんですよ。正解はポルトガル人が教えてくれます」
「はい?」
ポルトガル??? 何で急に『ポルトガル』が出てきた?
「戦国時代のキリシタン宣教師。ルイス・フロイスです」
◇
ルイス・フロイス! なるほど! そう来るか!
1532年生まれ。ポルトガルのカトリック宣教師。
イエズス会士として戦国時代日本にやってきた。織田信長や豊臣秀吉に謁見。
宣教のために日本語を学び、『日本史』を記した。
「ルイス・フロイスは『豊臣秀吉』のことをこう書いていました」
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Faxiba Chicugendono
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「昔の人は何度も名前が変わりますからね。豊臣秀吉はこのころ『羽柴秀吉』だった。つまり漢字で書くとこうです」
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羽柴筑前殿
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「ハシバチクゼンドノ……」
茫然とする。
「ファシバ チクジェンドノ……」
突然『答え』が頭に降ってきた。
「昔の日本に『ハヒフヘホ』という発音はなかった。『羽柴秀吉』は『ファシバフィデヨシ……』」
「そうなります」
紫陽は勢いよく立ち上がった。
「コオロギさん。なぞなぞの意味がわかりましたよ!!」
◇
紫陽は体積を発見したアルキメデスの気分だった。裸のまま浴槽から立ち上がり『エウレーカ! エウレーカ!』と叫びたいくらいだった。そのまま街へ走り出たかった。見つけたぞ! 見つけたぞ!!
「はひふへほは室町時代『ファ フィ フ フェ フォ』だったんだ。『ハハ』なら合わない唇が『ファファ』なら2度合わさります!」
オトはニッコリした。紫陽の前で大きく3回手を叩いた「ご名答!」
嬉しい!! 推理小説の謎を解いたみたい!
オトは身を屈めると、紫陽の方に近づき声をひそめた。
「ところがカブラギさん。これさらに800年ほど遡った奈良時代の人なら違うことを言うんですよ」
「……え?」
「しかも答えは『唇』であっているのです」
『ハ』でもなく『ファ』でもなく唇が2度合う?