ひらがなしかない小説(2/8)
「漢字はもともと日本にはありませんでした。日本には『言語』はあっても『文字』はなかったからです」
「あっ。そっ。そ〜〜でしたねぇ!」
紫陽は『もちろんわかってましたとも』みたいに取り繕った。『漢字』ってあまりに毎日使うから『最初から日本語』という感覚しかないのである。
紫陽にとって『漢字』は生まれてから一度も『外国語』だったことはない。日本人なら誰でもそうだろう。
オトはノートに何やら書き付けた。
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春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
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「万葉集。持統天皇です」
「あ!わかります。『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すちょう 天の香具山』ですね」
「それは『百人一首』の方です。万葉集では『はるすぎて なつきたるらし しろたえの ころもほしたり あまのかぐやま』と読むんですよ」
「へえ〜」
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春過ぎて 夏来るらし 白袴の 衣乾したり 天の香具山
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「カブラギさん。万葉集って今の表記とずいぶん違いますね?」
だって『万葉仮名』だもの〜〜〜〜っ。知ってますぅ。これでも私大学じゃ『首席』だったんですぅ。
「この当時日本には『文字』がなかったからです。中国語から『音』だけ借りて元々あった日本語(和語)に漢字を当てはめたわけですね」
「元の中国語を『真名』。音だけ借りた『万葉仮名』を『仮名』と言いました」
「あ!だから『仮』という字がつくんですね」
「そうです。このことはね。当時の和語の発音を知るうえでとても重要でした。古音中国語は研究の結果、発音がわかっているんです」
「なるほど。万葉仮名を古代の中国語に当てはめれば、逆に日本語の発音もわかる……ということなんですね」
「そうなります」
「ですがあくまでもこれは『借りた』『音』です。やがて漢字が徐々に崩れて……」
「日本の音だけを表す『平仮名』になった!」
「正解です」
◇
「漢字はあくまでも『中国語』。日本語を書くときは『ひらがな』を使っていました。具体的には公文書を書くときは『中国語』……つまり全て漢字で書き、小説や随筆、手紙はひらがな……『日本語』で書いていたわけです」
「いやあ……でもあの『源氏物語』が全部ひらがなだったなんて信じられないナア……。なんていっても文字数が……」
4000ページ以上の膨大な物語を前に四苦八苦した日々を思い出した。
「紫式部自身が書いた『源氏物語原本』は残っていません。しかし僕は総ひらがなだったと確信しています」
「なぜですか?」
「紫式部が『一という字すら書けない』よう偽装してたからです」
「あ!」
◇
紫式部。西暦970年から978年の間に生まれたと推定される女性小説家である。
『源氏物語』の作者とされる。職業は『女房』。一条天皇の妃、中宮彰子のお世話係であった。
大変賢い少女で漢文を読みこなしたが、父はそれを嘆いた。
「残念だ。お前が男に生まれてこなかったのが私の運の悪さだよ」
当時は女性に漢文を読む才能は求められてなかった。
実際女性社会では悪目立ちし、紫式部は処世術のために『一という字すら読めない』ようにふるまう。
「今でいうと『英語をスラスラ話す東大女子』みたいなものですかねえ」
「他の女性からすると彼女の才能に嫉妬したから……とも言えるでしょうね」
「だから彰子に聴かせるために書いた『源氏物語』は当然ひらがな書きだった。
「なるほど」
「多少の漢字は入っていたかもしれませんが……。ところがね。この『ひらがな書き』を問題視した人がいました」
「へえ! 誰ですか?」
「藤原定家です」
「えっ!」