養育院へ
久々にやってきた城下町は、以前見たときと変わらぬ賑わいを見せていた。
今は社交期なので、貴族のご令嬢やお付きの使用人の姿が目立っている。
書店の前を通り過ぎると、私が楽しみにしていた物語の新刊が並んでいた。
以前であれば、侍女が発売日に並んで買ってきてくれたのに……。
今は読む暇すらない。
フィルバッハのお店は中央通りにあって、今日も行列ができていた。
ガラス張りのショーウィンドウには、以前、私に贈ってくれたドレスに似たものが飾られている。
彼が私にくれるのは、いつも試作品なのだ。なんでも、私をモデルにして作っているらしい。
レースの手袋は売り切れの札がかけられている。
繊細なボビンレースの手袋は大変美しい。人気なのも頷ける。
貴族令嬢が身に着けるレースの手袋は、実家の裕福さを象徴するようなものである。
手袋を外してするような仕事はしなくてもいい、大切に磨き上げた宝石のような娘だと主張するのだ。
私の手は、水仕事で荒れている。爪はボロボロだし、指の節々はぱっくり割れている。
こんな手でレースの手袋を装着したら、繊細なレースが引っかかって、破れてしまうだろう。
昔のような、きれいな手には戻れない。悲しくなって、フィルバッハのお店の前から足早に去った。
養育院までは長い長い道のりであったが、屋敷にいてこき使われるよりはマシだった。
お金を貯めて、街でひとり暮らしをするという夢が、平和に叶えばよかったのに……と思ってしまう。
胸が苦しくなって、しばし休む。ただの運動不足ではないのは自分自身でもよくわかっていた。
予知夢でみた未来を変えたら、吐血や目眩に襲われる。イヤコーベとジルケがやってきてから、何度も予知夢に反した行動を取っているので、私の体は酷く蝕まれているのだろう。
きっと、長くは生きられないのかもしれない。
そうだとしても、予知夢でみた結末を迎えるよりかは、いいのかもしれない。
苦しみと引き換えに選んだのは、自分の意思で変えた未来だから。
一時間ほど歩くと、下町の通りに出てきた。下町を歩く方法は、母から習っていた。
中央街に比べて治安が悪いので、薄暗い路地裏には絶対に近付かないこと。さらに、物取りに遭ってしまった場合は、金目の物は素直に渡す。抵抗すると、危害を与えられるかもしれないので、大人しくしていたほうがよい。最後に、絶対にひとりで行ってはいけない。供を付けるように、と噛んで含めるように言われていたのだ。
金目の物は、一昨年の誕生日に父から貰ったルビーの耳飾りを、ドレスの裾に縫い付けてある。
供は屋敷に信頼できる者がいないので、連れてこなかった。内心、母にごめんなさいと謝罪する。
下町で一番賑わっている商店街を通り抜け、養育院に辿り着いた。
やってきたのは、母が亡くなって以来。
ここにクラウスがいる。彼と出会って、結婚を申し込んで、死の運命を回避するのだ。
門を通り抜けると、外で遊んでいた子ども達が嬉しそうに駆けてきた。
「エル様だー!」
「エル様!」
私を知る子らに囲まれてしまう。以前見たときは幼かったのに、しばらく見ない間に大きくなっていた。
エルと呼ばれているのは、幼かった子ども達がエルーシアと発音できなかったので、母が言う愛称を真似てしまったのだ。
「ねえ、エル様、どうしてずっと来なかったの?」
「一緒に遊びたかったのに」
母が亡くなって一年はイヤコーベとジルケの予知夢に悩まされていただけでなく、未来を変えようとあれこれ行動を起こしていたので、ほとんどの日を寝台の上で過ごしていたのだ。
そんな事情を、打ち明けられるわけがない。
「お前達、エルーシア様に我が儘を言うのではありませんよ。忙しい御方なのです」
子ども達をたしなめるのは、顔見知りのシスターだった。
年頃は四十代半ばくらいか。柔和な微笑みを絶やさない、優しい女性である。
「エルーシア様、お久しぶりです」
「シスターカミラ、ご無沙汰しております」
子ども達にはビスケットを手渡す。責任感のある一番年上の子に託した。
「みなさん、エルーシア様に感謝するのですよ」
「エル様、ありがとう!」
「ありがとう!」
院長先生に挨拶を……と思ったのだが、病に伏せっているらしい。
「下町では病気が流行っておりまして」
「そうでしたの!?」
新聞なんて私の手元に届かない。パン屋のおじさんに頼んで数日分、買ってきてもらっているものの、毎日読んでいるわけではなかった。そのため市井で何が起こっているのか、すべて把握できていないのだ。
「先週は、ひとり子どもが亡くなってしまって……。養子にと決まっていた子でしたのに」
「まあ!」
私が送った寄付金は建物の修繕費にしようと思っていたようだが、子ども達の多くが病気になってしまい、薬代に消えてしまったという。
「あの、よろしかったらこちらを――!」
しゃがみ込んで、スカートからルビーの耳飾りを引き抜く。
「売ったら、薬代の足しになるはずです」
「こんな高そうな耳飾り……受け取れません」
「いいえ、これで子ども達の命が助かるのならば、安いものです」
遠慮するシスターカミラの手に、ルビーの耳飾りを託す。
一度返されてしまったものの、今度は修道服のポケットの中に詰め込んだ。
「また、寄付金を集めて贈りますので」
「どうか無理はなさらずに」
子ども達が着る服も、何度も洗濯して着回しているのでボロボロだ。
食事も足りていないのか、やせ細っている子も多い。
もっともっと、寄付金が必要なのだろう。
その後、子ども達と遊び、昼食を作る手伝いを行う。
お昼を食べて行かないかと誘われたが、私のせいで子ども達の取り分がなくなったら困る。そのため、丁重にお断りをした。
大勢の子ども達に見送られながら、養育院をあとにする。
とぼとぼと帰り道を歩いていたら、お腹がぐーっと鳴った。
まともに朝食も食べていないので、体が飢えていると訴えているのだろう。
どこかでパンか何かを買って食べよう。
なんて考えている中で、ハッと我に返る。
クラウスについて、すっかり忘れていた。久しぶりの訪問だったので、それどころではなかったのだ。
養育院にクラウスの姿はなかった。訪問する時間が早かったのか。
本人がいなくても、情報収集くらいはできたのに。
本来の目的をすっかり忘れていたのだ。思わず、頭を抱え込む。
「ひぃん、ひぃん!」
「――んん?」
路地裏のほうから子どもの泣き声が聞こえる。もしや、親とはぐれてしまったのだろうか。
一歩、薄暗い通りに足を踏み込んだら、猫がぴょこんと跳ねた。
子どもではなく、猫の鳴き声だったようだ。
ホッとしたのもつかの間のこと。
「おい、ねえちゃん、そんなところで何をしているんだ?」
振り返った先にいたのは、ふたり組の若い男。
ニヤニヤしながら、私を見ていた。