真っ暗な世界
視界が真っ赤に染まる。
それは私自身の血と、クラウスがヨアヒムを斬りつけたときに散ったものであった。
クラウスの反応は早かった。私の胸が短剣で刺された瞬間、レーヴァテインでマントを裂き、ヨアヒムを斬りふせたのだ。
ヨアヒムが倒れたのと同時に、大聖堂を警備していた騎士達が駆けつける。
あっという間に拘束されていた。
私はというと、大聖堂の床の上に仰向けに倒れていた。
たくさん血を吐き、もうすでに虫の息である。
これは短剣を刺されたことによる吐血ではなく、未来を変えてしまった代償だ。これまででもっとも酷いものだった。次から次へと血を吐き、自分の血で溺れそうになっていた。
「エルーシア!!」
クラウスが駆け寄り、私の上体を抱き起こす。さらに、服の袖で私の口元を拭ってくれた。
「どうして、このようなことをした!?」
「クラウス様に、生きていて、ほしかったから」
この世界は幸せに満ち溢れている。クラウスはこれからもたくさんの人に愛され、生きるべきなのだ。
血がたくさん流れた。胸を深く刺されたし、もう助からないことはわかっている。それを、クラウスもわかっているだろう。私よりも顔色が青くなっているような気がした。
「私は、こんなことなど望んでいなかった! エルーシアがいない世界など、生きている意味なんてないのに!」
「そんなこと、おっしゃらないで、くださいな」
力を振り絞り、クラウスの頬に触れる。ひんやりと冷たかった。
「クラウス様を大切に思う人々を、どうか愛してください。それから、コルヴィッツ侯爵夫人にアルウィン、養育院の子ども達、わたくしが教えた花々や、鳥、ハリネズミも……」
この世界の恩恵と輝きは、クラウスに伝えてきた。彼ならば、視野を広げ、そのすべてを愛してくれるだろう。
すぐには難しいかもしれないが、時間がきっと解決してくれる。
「エルーシア、先に逝かないでくれ……。お願いだ」
「大丈夫ですよ。生きている限り、人は、命が尽きる存在ですから」
どうか、悲しまないでほしい。そう、クラウスに気持ちを伝える。
「クラウス様……あなたの人生が、今後、光で溢れていますように」
心からお慕いしております――という言葉は呑み込んだ。
彼にとって、呪いになってしまいそうだから。
頬に触れていた私の手に、熱い涙が頬を伝っていく。クラウスは泣いていた。
「エルーシア、愛している」
「――!」
わたくしも、と心の中で返した。
その瞬間、全身の力が抜け、クラウスの頬に触れていた手が離れていく。
糸が切れた人形のように、動けなくなってしまった。
「エルーシア? エルーシア!?」
クラウスの声が、どんどん遠ざかっていった。同時に、舞台の緞帳が下りていくように、視界が暗くなっていく。
何も、見えなくなった。
◇◇◇
気がつけば、暗闇の中を歩いていた。ここはいったいどこなのか。
凍えるほどの寒さで、先ほどからカタカタと歯を鳴らしてしまう。
しばらく歩いていると、遠くに光の筋が見えてくる。そこを目指したら、この寒さから逃れられるのか。
駆け足で進もうとしたら、背後から呼びとめられる。
「――エルーシア、お待ちなさい」
聞き慣れた声がしたので振り返ると、そこには亡くなった母の姿があった。
「お母様!?」
「久しぶりですね」
「え、ええ」
母のもとに駆け寄り、抱きつこうとしたのに、避けられてしまった。
「お母様?」
「あなたが来るべき場所は、ここではありません」
「どういうことですの?」
「あなたを待っている人が、いるはずです」
「わたくしを、待っている人?」
それはいったい誰なのか。
今は、母に会えた喜びを分かち合いたいのに。
「エルーシア、あなたはまだ〝戻れます〟」
「戻れる?」
「ええ。だって、ヒンドルの盾の守護があるのですから」
「ヒンドルの、盾?」
それは以前、シルト大公の地下宝物庫に回収にいったとき、触れようとしたら消えてしまったのだが。
いったいどこにあるというのか。
「そのときはクラウスも一緒にいて」
口にした瞬間、違和感を覚える。〝クラウス〟とはいったい誰なのか?
「エルーシア、胸に手を当てて、彼について、思い出すのです。あなたの、世界でもっとも大切な男性を」
「わたくしの、大切な――?」
母に言われたとおり、胸に手を当ててみる。すると、記憶が一気に流れ込んできた。
クラウス・フォン・リューレ・ディングフェルダー。
それは私が心から愛する男性。
思い出した、と思った瞬間、胸が光り輝く。
魔法陣が浮かび上がり、そこからヒンドルの盾が出てきた。
「エルーシア、ヒンドルの盾は、ずっとあなたと共にあったのですよ」
「そう、だったのですね。なぜ、ヒンドルの盾はわたくしと共に在ったのですか?」
「それは、盾の意思でしょう」
私の中にあるのだったら、もっと早く存在感を示してほしかった。ヒンドルの盾が消失し、私がどれだけ焦ったことか。
「それはそうと、とても暖かい」
ヒンドルの盾の近くにいると、体がポカポカとしてくる。先ほどまで凍えていたのが嘘のようだ。
「エルーシア、ヒンドルの盾の能力を、覚えていますか?」
「いかなる攻撃も、防ぐこと?」
「ええ。しかしながら、あなたはシルト大公家の爵位の継承をしていないので、能力が発揮されなかったようです」
正式なヒンドルの盾の持ち主だったら、クラウスを守れていたというわけだ。なんとも歯がゆい話である。
「しかしながら、もうひとつの能力は発揮されるようです」
「もうひとつの能力というのは――あ!!」
すっかり忘れていたのだが、ヒンドルの盾の能力は攻撃を防ぐだけではない。
「癒やしの力!?」
「ええ、そう。それは、愛をもって発動される能力なのです」
今際のとき、クラウスと私は初めて、言葉で愛を確かめ合った。そのおかげで、癒やしの能力を使うことができるらしい。
「エルーシア、ヒンドルの盾を手に取るのです。そして、愛すべき者が待つ世界へ戻るのですよ」
ここで初めて、母が言った〝戻れる〟の意味を理解した。
「お母様、ありがとう」
母は微笑み、姿を消した。頬に涙が伝っていく。
ここで泣いている場合ではない。私はヒンドルの盾を手に取る。
すると、眩い光に包まれた。
「――エルーシア!! エルーシア!!」
クラウスの声で覚醒する。どくん、と体に熱いものが巡っていった。
「あ……クラウス様」
「エルーシア!!」
クラウスが私の手を取った瞬間、ヒンドルの盾が浮かび上がった。
胸に刺さっていた短剣が抜け落ち、傷がみるみるうちに塞がっていく。
「はっ、はっ、はっ――」
奇跡が起きた。私の胸に受けた傷は、完全に癒えたようだ。
ヒンドルの盾は再び消えてなくなる。
「何が、起きているのか?」
「クラウス様!!」
私は勢いよく起き上がり、クラウスに抱きついた。




