クラウスと会うために
その日の晩、鉄臭い湖で溺れる夢をみた。
すぐ傍には父や兄、イヤコーベとジルケ、ウベルがいたのだが、助けて、助けてと叫んでも誰も私のもとへやってこない。それどころか、溺れる様子が滑稽だとくすくす笑っていたのだ。
もうダメだ――と思った瞬間、手を差し伸べられる。
それは、返り血で全身を真っ赤に染めたクラウスであった。右手にはレーヴァテインが握られていて、空いている左手を差し出してくれたのだ。
彼に助けられても、助かったと言えるのか。
疑問でしかなかったが、藁にもすがる思いでクラウスの手を取る。
すると、彼は力強く私を引き寄せ、「もう大丈夫だから」とぶっきらぼうに言う。
思いのほか優しい声に、涙してしまった。母を亡くしてからというもの、涙なんて流していなかったのに。
そこで、私は目覚めた。
部屋まで戻ってきたのはいいものの、布団に潜る気力は残っていなかったらしい。
寒くて堅い床の上で、気を失うように眠っていたようだ。
「うう……」
震えが止まらない。それ以上に、床で寝た体のあちこちが悲鳴を上げている。さらに口周りは血がこびりついていた。周囲にも大量に血が散っており、殺害現場か、と思うくらいの酷い状況であった。
このような中でよく生きていたな、としみじみ思ってしまう。
何か悪夢をみていたような気がしたが、思い出そうとしたら頭がずきんと痛んだ。
どうせ、不幸でしかない予知夢だろう。ウベルとの結婚のように、回避しても、体に大きなダメージを負う。
知っているというのも、いいことばかりではないのかもしれない。
今日のところは起き上がって働けそうにない。昨日頑張ったので、一日くらいは休ませてくれるだろう。
なんて、思った瞬間もありました。
時間になるとヘラがやってきて、大量の仕事を押しつけてくる。
いつもの朝であった。
◇◇◇
クラウスに関する情報はすぐに届いた。
寄宿学校に通っている上に、社交場には姿を現さないようで、大変苦労して集めてきたらしい。
いつもより多めに報酬を出し、おじさんと別れる。
部屋に戻ると、すぐに報告書を開いた。
彼に対する評判は、ウベルが話していた内容とそう変わらない。何においても優秀で、普段は物静か。問題を起こすような行動は取らない、生徒の見本となるような存在であると。
ただ、社交界での彼の立ち位置は異なるようだ。なんでもシュヴェールト大公家の〝悪魔公子〟と呼ばれているらしい。
それの所以は、銀色の髪を持って生まれてくるシュヴェールト大公家の者達の中で、唯一黒髪を持って生まれてきたからだという。
さらに姦通罪、極悪の象徴とも言われている緋色の瞳を持つことから、囁かれるようになったようだ。
たしかに予知夢でみた彼は〝悪魔大公〟と恐れられ、この世の闇をかき集めたような黒い髪に、燃えるような赤い瞳を持っていた。顔色ひとつ変えずに私ごとウベルを斬る様子は、人外じみた迫力があったように思える。
死ぬ瞬間を思い出し、ゾッとしてしまった。
けれどもあれは、私が殺してほしいと懇願したから、あのような結果になったのだろう。
もしも、命乞いをしていたら、夢の結末はどうなっていたのか……。わからない。
とにかく、私はウベルと結婚しないし、イヤコーベとジルケはまだ悪事に手を染めていないのだ。
罪をなすりつけられる前にクラウスと結婚できたら、殺されるという事態にならないだろう。
報告書の最後に、クラウスが唯一通う場所について書かれていた。
それは、下町にある養育院であった。
ここは私が以前から、寄付金を贈っていたところだ。
なんでも週末になると外出許可を取って養育院を慰問しているらしい。
偶然を装い、彼に会うことができるだろう。情報としては、十分すぎるものだった。
養育院を訪ねるために、私は父へ許可をもらう。
「養育院での慈善活動は、一人前の貴婦人になるために、もっとも重要なものなのです」
「そうか。では、イヤコーベにメイドを借りて――」
「いいえ、ひとりでも大丈夫です!!」
単独で街歩きをしたことはなかったものの、養育院へは母と何度か一緒に訪れたことがある。さらに、予知夢の中で街中を何度も行き来していたのだ。誰かの付き添いなんてなくても、行き着くだろう。
「その、わたくしのことは心配いりませんので、どうかお任せください」
「わかった。気を付けて行くのだぞ」
「はい」
無事、外出許可を得られたので、ホッと胸をなで下ろした。
◇◇◇
養育院へ訪問する日の朝――早起きして厨房に立つ。
自分の部屋にいるより、厨房の火に当たっていたほうが暖かい。ありがたいと思いつつ、ビスケットを焼いた。これは養育院の子ども達へのお土産である。きっと喜んでくれるだろう。
焼き上がったビスケットは他の使用人に見つからないよう、棚の奥に隠しておく。
その後、ヘラから罵声を浴びながら、朝食の準備を行った。
一日の仕事を手早く済ませたあと、私室で着替える。
ジルケ対策のために購入しておいた中古のドレスに袖を通した。
フィルバッハの最先端のドレスを数着所持していたものの、下町で身なりをよくしていたら、悪い人達の標的になる。そのため、下町を歩くときは貧相な恰好で行ったほうがいいというのは、母の教えでもあった。
身なりを整え、くたびれたリボンがあしらわれた帽子を被る。
父が馬車を手配してくれるわけもなく、私は徒歩で下町まで向かう。
往復三時間だが、家でこき使われるよりは、ずっと楽しいだろう。