しばしの安寧、そして――
それから数日もの間、私はミミ医院で入院した。
父へはイェンシュ先生が手紙を書いてくれたらしい。父からは数日反省するように、という返信が届いた。
看護師のユーリアは看護するだけでなく、親切にしてくれた。
私がシルト大公家の娘だと知ると、ありえないと憤ってくれる。
「貴族のお嬢様の手がこんなにもボロボロで、背中に傷があるなんて……酷いです!」
彼女は私のために、ボロボロと涙を流してくれた。
その涙は、私の中にあったどす黒い感情を浄化してくれる。
「なぜ、助けを求めなかったのですか?」
「助けを、求める?」
私はクラウスと結婚する以外の、助ける術というものを思いつかなかったのだ。
「家に帰りたくないのであれば、ここにいてもいいのですよ」
「ミミ医院に?」
「ええ。一緒に、イェンシュ先生のお手伝いをしましょう」
ミミ医院の院長イェンシュ先生は、とても穏やかな人だ。まるで、物語に登場する優しいお祖父さまのよう。
「イェンシュ先生が、シルト大公に手紙を書いてくださるはずです」
「でも、いくらイェンシュ先生の言うことでも、お父さまは聞いてくださるかしら?」
「イェンシュ先生は国王陛下の侍医だった御方です。きっと、シルト大公も無視できないでしょう」
「でしたら――」
しばらく、ここにいよう。
もう、実家には戻りたくないし、父や意地悪親子の顔なんて見たくもないから。
そんなわけで、私はミミ医院でイェンシュ先生の助手をするようになった。
◇◇◇
ミミ医院に運びこまれてから、一ヶ月経った。すっかり元気になり、今は働いている。
肌触りのよい清潔な綿の白衣に袖を通し、紺色のワンピースにエプロンを合わせた姿で毎日働いている。
個人の部屋も与えられ、シーツや枕カバーは毎日取り替えてもらえるという、待遇のよさであった。三食食事が用意され、ミミ医院で働くユーリアや他の看護師と食べるのがお決まりである。
ここはそこまで大きくない病院だが、患者は毎日大勢いる。貴族と平民、分け隔てなく治療をしているようだ。
私は看護師の補助として、毎日せっせと働いていた。
実家で働いていたときよりも仕事は少ないのに、しっかり賃金が発生するのだ。
自分で働いて得たお金をというのは、なんとも尊いものである。
さらに、週に二回も休みがあるのだ。
休日は本を買って読んだり、ユーリアと一緒に街に出て喫茶店に行ったり、何もしないで一日中ゴロゴロしたりと、好き勝手に過ごした。
ただ、そろそろ現実を見ないといけないだろう。
実家から、イヤコーベの名前で荷物が届いていた。
それは、例の破れたドレスである。これを着て、社交界デビューのパーティーに参加しろ、と言いたいのだろう。
ご丁寧に、招待状まで添えられていた。
「はあ……」
王妃殿下の招待は無視できない。今回のパーティーに参加するのを最後に、貴族であることを止めよう。そう、決意する。
最近、予知夢をみないのでどうなるかわからない。
けれども私は、ミミ医院での充実した暮らしを知ってしまった。もう二度と、元の暮らしには戻れない。
社交界デビューのパーティーは、十日後だ。ひとまず、ドレスをどうにかしよう。
幸いと言うべきか、預けていたお金があるので、新しいドレスを買おう。
破れたドレスはどこかで買い取ってもらえる可能性がある。一緒に持ち出した。
まずは新しいドレスを入手しなければ、なんて思っていたのに、白いドレスはどのお店も売り切れだった。
今から注文しても、完成するのは一年後だという。
フィルバッハのお店は行列と人だかりで、近付くことすら困難である。裏口のほうも、弟子の志願者が押し寄せ、入る隙はないように思えた。
なんてことだ、と頭を抱え込んでしまう。
とぼとぼ街を歩いていたら、背後からぶつかられてしまった。
体の均衡を崩した私は、そのまま転んでしまう。
袋に入れていたドレスが飛び出し、馬車に牽かれてしまった。
「あ!!」
スカートは裂けているし、装飾のパールは引きちぎられているし、血まみれだし、馬車に牽かれて車輪の跡がくっきりついているし――最悪だとしか言いようがない。
ドレスを牽いた馬車が停まる。怒られるだろうと身構えていたら、目の前に手が差し伸べられた。
「わたくしは平気――」
顔を上げた瞬間、ギョッとする。
私に手を貸そうとしているのは、クラウスだったから。
「あ、あら、奇遇ですね」
「人を跳ねたのかと思った」
「馬車が牽いたのは、ドレスですわ」
牽かれたドレスを見たクラウスは、顔を顰める。
「馬車で牽いただけで、ああなったのか?」
「いえ、スカートの破れと装飾の破損、血はもともとの特別仕様ですわ」
クラウスは盛大なため息をつき、見るも無惨なドレスを拾い上げる。
それだけでなく、私の腕を掴んで立ち上がらせ、ぐいぐいと手を引き始めるではないか。
「あ、あの――!?」
「いいから乗れ」
背中を押され、馬車に乗る。
御者に合図を出すと、馬車は走り始めた。
いったいどこに連れて行くというのか。
腕を組み、不機嫌な様子でいるクラウスに質問できるような空気ではない。前回、彼に結婚を申し込んで断られるという別れ方をしたので、気まずくもあった。
「お前、どうして侍女も付けずに、その辺をホイホイ歩いているんだ?」
「わたくしは……」
今の状況をなんと説明していいものか。言葉が見つからない。
「ドレスも、何をどうすれば、このような状態になるのか」
「最初から最後までご説明したら、三日くらいかかってしまいそうです」
「だったら、言わなくていい」
馬車は貴族の住宅街のほうへと進んでいく。
そして、青い屋根のお屋敷の前で止まった。
「あの、こちらは?」
「母方の祖母の家だ」
訳もわからぬまま、私は馬車を下ろされる。




