逃走、そして――
しまった! と思ったときにはもう遅い。
彼らは私をターゲットとして定めてしまった。
金目の物を渡したら、満足して消えてくれる。そう思った瞬間、隠し持っていたルビーの耳飾りは養育院に寄贈してしまったのだと思い出す。
「ねえちゃん、暇だろう? こっちに来いよ」
「いいもんを見せてやる」
ついて行ったら、酷い目に遭わされるに違いない。その場にしゃがみ込む振りをして、地面の砂を握った。
立ち上がったのと同時に、男達を目がけて投げる。
「ぐわっ!!」
「なっ!!」
怯んでいる隙に逃げる。表通りへの道は塞がれていたので、路地裏を走るしかない。
「こら、待て!!」
「クソ女が!!」
男達はあとを追いかけてくる。思いのほか、足止めにはならなかったようだ。
「はっ、はっ、はっ、はっ――!」
こういう事態になるなんて、夢にみていなかった。いつもいつでも、大きな事件しかみせてくれないのだ。
母との約束を破ってしまったせいで、こんな目に遭っている。私が悪かったとしか言いようがない。
「あっ!!」
石に躓き、転んでしまった。男達はあっという間に追いついてくる。
「手を煩わせおって!」
「許さないからな!」
最後の足掻きだとばかりに、帽子や手にしていたカゴを投げつけてやった。それも、彼らへの大きなダメージにはならない。
「貧乏貴族の惨めったらしい娘かと思えば、上玉じゃないか!」
「少し楽しんで、娼館にでも売り飛ばしてやろうか!」
なんて酷い奴らなのか。
腕を無理矢理掴まれ、ぐいぐいと乱暴に引かれる。
「離してくださいませ!」
「うるさい!」
念願の表通りに出てきたけれど、下町の人達は見て見ぬふりをしている。
きっと評判の悪い男達で、関わり合いになりたくないのだろう。
ずんずんと進む中、私の腕を引く男が道行く男性にぶつかった。
「おい、お前、どこを見ているんだ!」
「前だが?」
堂々たる正論で、こういう状況なのに笑ってしまいそうになる。
顔を上げ、相手を確認すると、悲鳴をあげそうになった。
下町の男にぶつかられたのは、クラウス・フォン・リューレ・ディングフェルダーではないか。
兄と同じ年齢なので、現在は十八歳くらいなのか。予知夢でみた彼より若いが、黒い髪に赤い目を持っているので、間違いないだろう。
突然ぶつかってきた下町の男に対し、クラウスはゴミや虫けらに送るような視線を送っていた。
ぼんやりしている場合ではない。
奇跡のような機会を逃すまいと、私は必死になって訴える。
「あの、助けてくださいませ!!」
「お前、何を言っているんだ!」
「きゃあ!」
頬を思いっきり叩かれ、口の中に血の味が広がっていく。
顔を叩くときは、口内をケガしないよう、歯を食いしばれと言うのが礼儀だというのに。
勢いあまって、地面に転がってしまう。
気の毒な娘に見えるよう、いつもより余計に痛がった。すると、クラウスは男達に注意する。
「おい、止めろ」
「家畜と同じで、こうしないと言うことを聞かないんだよ!」
「なるほど、そういうわけか」
納得したクラウスに対し、悪魔だと思ってしまう。
しかしながら、次の瞬間、クラウスは下町の男の頬を強く殴った。
「ぐはっ!」
「お、お前、何をするんだ!」
「何って、家畜は殴らないと言うことを聞かないんだろう?」
もうひとりの男も同様に殴った。
男達は仲良く倒れたが、すぐに起き上がってクラウスに殴りかかってきた。
彼はひとりで応戦し、あっという間に倒してしまった。
そして、私のほうへやってきて、高圧的な目で見下ろす。
「おい、立て」
こういうとき、手を貸してくれるものではないのか。などと思ったものの、相手はクラウスである。血も涙もない男なのだろう。
下町の男達が動かないのを確認し、立ち上がる。
「ここは危険だ。中央街のほうへ行け」
「はい」
中央街まで送ってくれるのかと思いきや、クラウスはくるりと踵を返す。
そのまま立ち去ろうとしていた。私は慌てて彼を引き留める。
「あ、あの、ありがとうございました。おかげさまで、助かりました」
「家畜の躾をしただけだ」
家畜呼ばわりは酷いとしか言いようがないものの、心がスッとしてしまう。
彼のような強さがあれば、どれだけよかったか。なんて、考えている場合ではなかった。
「あの、お名前を教えていただけますか? お礼がしたいのです!」
「別に、名乗るほどの者ではない」
名乗れよ!! という叫びは、喉から出る寸前で呑み込んだ。
ここで彼がシュヴェールト大公家のクラウスだと名乗らなければ、関係が築けない。
どうにかして、名前を聞き出さなければ。
「お願いいたします、どうかお名前だけでも、お聞かせください!」
「……ラウ」
「ラ、ラウ?」
それは、クラウスの愛称なのか。
きちんと名乗らないなんて、酷いとしか言いようがない。
「お前は?」
そっちがそのつもりならば、こっちもお返ししてやる。
全名なんて教えてやるものか! と思い、愛称を名乗った。
「わたくしは、エルですわ」
「エル?」
スカートを摘まみ、会釈する。
「ラウ様、またどこかで、お会いできたら嬉しく思います。そのさいには、恩返しをさせてくださいませ」
クラウスの反応を確認もせずに、回れ右をする。
ずんずんと大股で、下町をあとにした。
帰宅後、私は頭を抱え込み、盛大に落ち込んでいた。
クラウスと確かな縁を結ぶつもりが、いつの間にかけんか腰になっていた。
互いに愛称しか名乗っていないのに、別れてしまったのだ。
すがりついてでも、あの場で結婚してほしいと訴えたらよかった。
私はどうしてこう、上手く立ち回れないのか。
だからこそ、予知夢でみた私は、ウベルやイヤコーベとジルケに利用されてしまったのだろう。
夢でみた未来なんて、絶対に迎えたくない。
なんとしてでも、クラウスと結婚しなければと強く思った。




