婚約者と親友に裏切られたので、大声で叫んでみました
わたしは自分の目を疑った。
目の前には熱く口付けを交わす男女。一人は婚約者であり、この国の第一王子であるシリウス殿下。そして、もう一人はわたしの唯一無二の親友である伯爵令嬢スピカだ。
二人の身体は『これでもか』ってくらいピタリとくっつき、何度も顔を見合わせては唇を重ねる。昨日今日の関係じゃないことは明白だった。
「二人とも、何してるの?」
声を震わせながら、わたしは尋ねた。心臓の辺りがザワザワと騒ぎ、喉の辺りが熱くて堪らない。湧き上がってくる何かを必死に抑えながら、わたしは姿勢を正した。
「ポラリス」
居たのか、とでも言いたげな声音で、殿下は言った。いつもと同じ、穏やかで優し気な表情。焦ったり動揺している様子すら見受けられない。
「何をって……ご覧のとおりですわ」
そう言ってスピカは殿下をギュッと抱き締め直した。花のような笑みを浮かべ、首を傾げるその様は、どこか妖艶で、わたしの知っているスピカではない。
「どう、して……?」
スピカは心根の優しい、自慢の友人だった。美人であることを鼻に掛けず、誰にでも分け隔てなく接する彼女は、王太子の婚約者であるが故に、同年代の女友達が中々できなかったわたしにとって、初めてできた友人だった。
そんな彼女を殿下へと引き合わせたのはわたしだ。けれど、スピカが殿下とどうこうなるなんて想像したことも無かった。ただ大事な友人として、紹介しただけだったのに――――。
「だってわたくし、殿下を愛していますもの」
スピカはそう言って目を細めた。心臓が変な音を立てて鳴り響くし、開いた口が塞がらなかった。瞳には涙が浮かび上がり、鈍器で殴られてるみたいに頭が痛くて堪らない。けれど、スピカはクスクス笑いながら、わたしを見上げた。
「ご存じなかったの? わたくしがポラリスと仲良くなったのは全て、殿下のためでしたのに。あなたに近づけば、殿下との接点ができる。そうすれば必ず、殿下はわたくしを愛してくださると、その自信がありましたの」
容赦なく突きつけられる現実に、立っていられるのが不思議なぐらいだった。
殿下はスピカの頭を撫でながら、いつも通りの表情でわたしのことを見つめている。何故わたしが動揺しているのか、涙を流しているのかも分からない様子だ。
「元を辿ればあなたが悪いんですのよ? このわたくしを差し置いて、殿下の婚約者になるんですもの。そりゃぁ、あなたは殿下の従姉妹、公爵令嬢でいらっしゃいますし、出会うのが遅かったわたくしにも否があるのかもしれません。それでも、特別美人なわけでも、取り柄があるわけでもないあなたに負けるだなんて、わたくしのプライドが許せませんわ」
何を言われているのか、全く理解ができなかった。
(スピカがわたしのことをそんな風に思っていたなんて)
信じていた。大好きだった。けれど、友達だと思っていたのは、わたしだけだった。そのことが何よりも悲しくて、苦しい。
気づいたら、足が勝手に走り出していた。
(何で? どうして? いつから?)
狭い王都を必死で走り抜けながら、わたしの頭の中はぐちゃぐちゃだった。
脳裏に浮かんでは消えるスピカとシリウス殿下の顔。まるでわたしの存在や人生そのものを否定されたみたいな感覚だった。スピカがわたしに向けてくれた笑顔の下に、あんな感情を隠していただなんて、とてもじゃないけど受け入れられない。
(殿下も殿下だ)
殿下とわたしは完全な政略結婚だ。
広大な帝国の中にある小さな弱小国。皇帝の気まぐれで、いつ滅ぼされるとも分からない王国だ。他国の姫を迎えて警戒されるわけにはいかない。
だから、王族の血統を確かなものとすること、貴族たちにも王家を特別な存在と認識させるために、王族の血が流れるわたしが選ばれた。
互いに『恋』が何なのかも知らないうちに婚約を結んだし、殿下がわたしに対して愛情を抱けなくても仕方がないのかもしれない。けれど、謝罪も言い訳すらも一言も貰えなかった。つまり、彼にとって、わたしなんてその程度の存在なのだ。
それにしても、いくら言い寄ったのがスピカの方だとしても、婚約者の親友に手を出すとはどういう了見だ。
(ホント、最低)
殿下の婚約者として、妃教育や勉学に励んで来たわたしの数年間は何だったのだろう。身分の高い令嬢方からは嫉妬され、逆に低い令嬢たちからは近寄りがたいと避けられ、孤独を味わっていたわたしの人生は。
「何だったのよ……!」
王都のはずれにある小高い丘の上で、わたしは声を張り上げた。涙がポロポロと流れ落ち、喉が焼けるように痛い。ギュッと握りしめた手のひらは爪が食い込んで痛いし、何よりも心が痛くて堪らなかった。
夕陽がわたしを慰めるみたいに輝いて、何だかそれが無性に腹立たしくて、わたしは大きく首を横に振った。
「殿下のバカーーーー! 最低っ! あんぽんたーーん‼」
誰もいないことを良いことに、わたしは言いたい放題想いを口にする。
「スピカのバカーーーー! 友達だと思ってたのに!」
本当はこんな言葉じゃ全然足りなかった。止め処なく流れ落ちる涙が、わたしの気持ちを表している。子どものときでさえ、声を上げて泣いた覚えなんてない。それでも、声を上げなきゃ、泣かなきゃとても、やりきれない。
どのぐらい経ったのだろう。気づけば太陽が沈み、夕闇が広がっていた。空には一番星がキラキラと輝いている。わたしはそっと涙を拭った。
(そろそろ帰らないと)
父や母がわたしを心配しているかもしれない。殿下はきっと、わたし達の間に何があったのか、わたしがどういう状況にいるのか、話したりはしないだろう。ズキズキ痛む胸を押さえながら、わたしはゆっくりと立ち上がった。
殿下に愛する人ができた以上、わたしの婚約は破棄されるだろう。けれど、すんなりと、というわけにはいかない。わたしたちの結婚には政が絡んでいるのだし、口頭で『さようなら』が成立するわけじゃないからだ。
(まぁ、血統がどうのこうのっていう馬鹿らしい理由で結ばれた婚約だし、別にわたしじゃなきゃダメってことはないんだろうけど)
スピカだって当然、王妃として殿下の隣に立つことを望んでいるのだろう。そうでなければ、『わたくしを差し置いて』云々と、あそこまで辛辣な発言はしなかったはずだ。
これから待ち受けるゴタゴタを想像すると吐き気がする。正直言って、スピカにも殿下にも、二度と関わり合いたくなかった。
ため息を吐きつつ踵を返す。けれどその瞬間、わたしは思わず背筋が凍った。
「……あぁ、終わった?」
少し離れた場所にある、大きな木の幹に、一人の男性が寄りかかっている。
「バベル……様」
それはわたし達のクラスメイト、バベル様だった。バベル様は不敵な笑みを浮かべつつ、わたしのことを見つめている。身体から一気に血の気が引いた。
「……御機嫌よう」
「うん。機嫌は悪くないよ」
なんとか絞り出すことのできた淑女の挨拶に、バベル様がそんな風に応える。
他国から留学に来ている彼のことを、わたしはあまりよく知らない。爵位なんかもうちの国とは違っているし、これまで会話を交わしたことも無いから、彼がどういう人なのか、ちっとも知らなかった。
「では、わたしはこれで――――」
「ねぇ、あんなもんで良いの?」
「へ?」
心臓がバクバクと鳴り響く。彼がいつからここにいたのか、とか。わたしの暴言を聞いていたのか、とか。事実から目を背けようとしたわたしに、容赦ない追い打ちが掛かる。
「どうせならクソ野郎! とか、テメェに王者の資格はねぇ! とか、もっと色々叫んどきゃ良いじゃん。泣いてばっかで気分晴れなかったんじゃねぇの?」
バベル様はそう言ってニカッと笑った。きっと、わたしが来た時には既にバベル様がいたのだろう。羞恥心や罪悪感が一気に襲いかかった。
「申し訳ございません。一応確認したつもりだったのですが、まさか人がいるとは……」
「別に謝る必要なんてねぇよ。誰だって叫びたくなる時ぐらいあるし、あんたも人間なんだなぁって思ったぐらいだ」
どうやらバベル様は本当に気にしていないらしい。顔を真っ赤に染めたわたしを余所に、小首を傾げて笑っている。
「あの……わたしを不敬罪に問わなくてもよろしいのですか?」
いくら従兄弟で婚約者とはいえ、わたしが殿下に向かって放った言葉は明らかに行き過ぎている。というか死刑ものの暴言だ。叫んだ時は正直、もうどうなっても良いというか、自暴自棄みたいになっていたわけだけれど。
「ん? 不敬? 不敬って……あぁ、あのシリウスとかいう馬鹿男に対してってこと? そんなの問うわけないじゃん。明らかにあっちの方が悪いんだし、敬えなくて当然じゃね?」
俺は絶対無理、って付け加えつつ、バベル様はコクコク頷いた。ほっとため息を吐きつつ、わたしは改めてバベル様を見つめる。
「バベル様は事情をご存じなのですか?」
「んーー? これだろうなーーってのは何となく。ポラリス、さっき叫んでたし」
バベル様はそう言ってポリポリと頭を掻いた。もしかしたら、知らなかったのはわたしだけなのかもしれない。そう思うと、身体がずどーーんと重く感じた。
「……っ! 失礼いたします」
これ以上恥を晒したくはない。そう思って、わたしはバベル様の横をすり抜ける。
けれど、バベル様はそっとわたしの後に続いた。背中にピンと緊張が走った。
「あの……」
「帰るんだろ? 送ってやるよ。この国も決して治安がいいとは言えねぇし。そんな明らかに『落ち込んでます』って顔した人間一人にしてたら危ねぇから」
そう言ってバベル様はそっとわたしに手を差し伸べた。物言いは乱暴なくせに、彼の仕草や物腰はすごく上品だった。
とはいえ、わたしはまだ公的には『王太子の婚約者』だ。彼と二人でいる所を誰かに見られるわけにはいかない。
「お申し出は大変ありがたいのですが……」
「分かった分かった。少し離れた所を歩くから心配するなって」
バベル様にはわたしの懸念事項が分かったらしい。小さく笑いつつ、すぐに距離を取ってくれた。
その日以降、ただのクラスメイトだった彼は、わたしにとって少しだけ近しい人になった。とはいえ、あれ以来会話をすることも無く、目が合えば会釈するし、微笑み合うぐらいのやり取りを交わしている。
肝心のシリウス殿下とスピカはというと。
「殿下!」
わたしにバレたことで開き直ったのか、二人は人目も憚らずにイチャイチャするようになった。見ていて気持ちのいいものでは無いはずだけど、国のナンバー2にモノ申せる同級生なんていやしない。
「それ、止めろよ」
けれど、勇者っていうのは存在するもので。
殿下に声を掛けたのは他でもない、バベル様だった。
「あなた、誰に物を申しているの?」
応えたのはスピカだった。顔を紅く染め、腹立たしそうに唇をわななかせている。見ている人間の方の肝が冷えた。
「そんなの、おまえと、そこの尊~~い身分の殿下に決まってるだろ? でもさ、学校内で身分とか正直どうでも良いわけ。ここ、私室でもなんでもない、公共の場なの。略奪令嬢の勝ち誇った笑顔なんて見ていて良い気しねぇし、弁えろよ」
誰もが言葉を失っていた。ピンと張り詰めた空気の中、一同の視線が三人に集まる。一応は当事者であるわたしも、チラチラと気づかわし気な視線が投げかけられた。
「彼の言う通りだね」
沈黙を破ったのは殿下だった。意外や意外、バベル様の主張を認めたことで、周囲はほっと安堵のため息を吐く。スピカだけが唖然とした表情を浮かべていた。
「殿下! でも……」
「スピカとは学校以外でも会えるのだし、良いだろう?」
殿下に縋りつきながら、スピカはわたしを鋭く睨んだ。眉間に皺を寄せ、顔を真っ赤にした彼女の表情には焦りの色が見える。
スピカに余裕のないその理由――――わたしと殿下の婚約破棄は、未だ成立していなかった。
殿下の浮気現場を目撃してからもう一ヶ月。わたしはいつ王宮に呼び出されるのだろうと、内心ビクビクしていた。
けれど、両親にいつもと違った様子はないし、そういう話が出てくる予兆すらない。
第一、殿下はスピカがいない所では、まるで何事も無かったかのようにわたしに話し掛けてくる。あまりのデリカシーの無さに、わたしはずっとだんまりを決め込んでいるのだけど、彼には感情やモラルというものが欠落しているのではなかろうかと、本気で疑うレベルだ。
「大丈夫か?」
その時、わたしは唐突に現実に引き戻された。声を掛けてきたのはバベル様で、何やら気まずそうな、申し訳なさそうな表情をしている。
「はい、平気です」
「そうか」
きっと、先程のスピカたちとのやり取りを気にしてくれているのだろうと察しがついて、わたしは小さく笑う。
少しずつ、少しずつだけれど、あの日の傷は癒えてきている。『なんで?』って思いが完全に消えるわけでもないけど、仕方が無いって思えるようになってきた。過去は変えられるわけじゃないし。きっと、考えれば考えるほどに疲弊して、二重三重に傷ついて、前に進めないだけだから。
そんなことがあったその日の夜、わたしは王宮へと呼び出しを受けた。
けれど、わたしを呼び出したのは陛下ではない。シリウス殿下だ。
「――――わたしと二人きりになって、よろしいのですか?」
王宮のサロンに通されたわたしは、殿下にそう尋ねる。侍女はお茶を淹れてくれたあと、一人残らず下がってしまった。
正直言って、『わたしの方がよろしくない』のだけど、婚約破棄を進めるためには、避けては通れない道なのかもしれない。ゴクリと唾を呑みつつ、わたしは殿下を見つめた。
「悪いことなど何もないだろう? 君は僕の婚約者なのだし」
「……は?」
優雅に紅茶を啜りながら、殿下はそんなことを言った。わたしは開いた口が塞がらないまま、何度か首を傾げる。
(いや、まぁ、まだ婚約破棄は成立していないけど)
大きく息を吸い込んで、唇を引き結んでから、わたしは殿下に向き直る。殿下は相変わらず、澄ました表情でお茶を飲んでいた。
「それで、君を呼び出したのは他でもない。僕以外の男と情けを交わすのは止めてほしい」
「…………は?」
思わずドスの利いた声が漏れ出た。
(なにそれ)
全く身に覚えがないうえ、そんなこと、この男にだけは言われたくない。身体の中心がモヤモヤと熱くなるのを感じていた。
「何度も言うが、君は僕の婚約者だ。君の行動は全て、僕の評価につながる。そのぐらい、ポラリスは弁えていると思ったけど」
「――――――お待ちください。誰が、誰の、婚約者ですって?」
「ポラリス以外いないだろう? もう何年も前に結んだ婚約だっていうのに」
全身が衝撃で凍り付くようだった。殿下は――――この男は、未だにわたしを『婚約者』と捉えているというのか。なんの弁明も謝罪もせず。一度に親友と婚約者を失ったわたしをほったらかしにしておいて、今頃何を言っているのだろう。
「殿下にはスピカがいるでしょう? 彼女と結婚するものだと思っておりましたが」
「スピカのことは愛しているけど、彼女は王妃の器じゃないよ。何年も妃教育を受けてきた君とは、知識も心構えも全然違う。それに、彼女には国民じゃなくて僕のことを愛してほしいから」
「はぁ⁉」
今度こそ我慢ができなかった。わたしは思わず立ち上がり、殿下のことを睨みつける。
「じゃぁ、何ですか? スピカにはあなたの愛人として、わたしにはあなたを支える『表の顔』として側に居ろと。そうして一生を終えろと、そう仰るのですか?」
「有体に言えばそうなるかな」
わたしの憤りを、殿下はサラリと肯定した。
(何よそれ!)
殿下とスピカの関係を初めて知った時よりも、激しい怒りが身体を焼く。目がちかちかと明滅し、心臓の辺りが痛くて堪らない。わたしは何度も深呼吸を繰り返しながら、眉間に深く皺を刻んだ。
「わたしはあなたの道具じゃありません!」
腹立たしくて悔しくて、涙がポロポロと零れ落ちる。正直もう、どうなっても良かった。この人を見なくて済むなら、それで良いと思えるほどに、わたしは腹が立っていた。
「あなたの妃になるぐらいなら、犬の餌にでもなった方がマシだわ」
わたしの叫び声に、侍女たちが集まってくる。事態が事態だけに「誰か、陛下を」って声がチラリと聞こた。
「わたしはね! あなたがスピカを妃にすると言うならそれで良かった。こんな婚約、きっぱり破棄して、殿下やスピカのことなんて綺麗さっぱり忘れて生きて行くんだって! そう、思っていたんです! それなのに、どうして! どうしてあなたは、そんなに酷いことが言えるんですかっ!」
さすがの殿下も、怒りが顔に表れていた。眉間に深く皺を寄せ、氷のように冷たい瞳をした殿下を、わたしは負けじと睨み返す。
「いくらポラリスでも、不敬が過ぎる。僕は君とは違って王族で、次期国王だよ? そんな口、利いて良いと思ってるの?」
「王族だろうが、次期国王だろうが、クソなものはクソよ! あんたみたいな人間に治められる国民が気の毒で堪らないわ! 今まで気づかなかったのが不思議なぐらいだけど、あなたに王の資質なんて一ミリだって存在しない!」
わたしの言葉に殿下は目を大きく見開く。激高した殿下が、大きく腕を振り被った。
(打たれる)
来る衝撃に備え、わたしは歯を喰いしばり、目を瞑る。けれど、痛みはいつまで経っても訪れなかった。代わりに、殿下の呻き声が聞こえて、わたしはそっと目を開ける。見ればそこには、バベル様がいた。殿下の腕をねじ伏せ、冷たい視線で見下ろしている。
「なっ……何をする! 無礼な!」
「無礼? 無礼なのはどちらだ? なぁ、エドワード」
「はっ! 申し訳ございません」
バベル様に跪き、頭を垂れているのは、シリウス殿下の父親。この国の国王様だ。
(なに? 一体、どういうこと?)
あり得ない事態に、わたしも周囲の人間も戸惑うことしかできない。殿下も目を丸くして、父親を凝視していた。
「陛下、一体何を! そいつは俺の同級生で……」
「無礼者!」
次の瞬間、シリウス殿下は、国王様に張り倒されていた。あまりの出来事に背筋が凍る。バベル様だけが、威風堂々とした佇まいで、事態を見ていた。
「この方……このお方はっ! このリゼリア帝国の皇太子、バベル殿下なのだぞ!」
「……皇太子、だぁ⁉」
思わぬ事実の露見に、わたしとシリウス殿下が顔を見合わせる。
(うそ! そんな、まさか)
バベル様が留学してきたその時、彼が皇太子だなんて情報は絶対に無かった。わが国でいう公爵や侯爵あたりの令息で、気楽に接してほしいと、そういう話だったというのに――――。
「そんな馬鹿な話、信じられるか!」
「馬鹿はおまえだ! 殿下がいらっしゃった当時、あれほど『誰に対しても横柄な態度を取るな』と言い含めておいたのに! 殿下が身分を明かされないのを良いことに、好き放題し、ご不興を買うとは!」
「……俺に対して横柄な態度を取ったことが問題なのではない」
バベル様はそう言って、わたしを庇うように前に立った。
「人を人とも思わない……その舐め腐った態度が気に喰わないと言っているのだ。おまえのような人間が治める国が帝国に属しているとは嘆かわしい。この国を『王国』として残す意味があるとは、俺には思えん」
「でっ、殿下! どうか……どうかそれだけは! こちらの愚息からは王位継承権を剝奪いたします! 私の責任の下、必ずや、帝国の名に相応しい王国へと変えて見せますので…………」
「当然だ。二度目はないぞ」
そう言ってバベル様は、わたしの手を取り歩き出した。魂の抜け落ちたような顔をしたシリウス殿下が、わたしたちのことを呆然と見送る様子がチラリと見えた。
星空の下、わたしたちは王宮の庭園を歩いていた。バベル様の手のひらは大きくて温かい。こんな風に男性に触れるのは初めてで、心臓がドキドキと高鳴った。
「どうして身分を偽っていらっしゃったのですか?」
沈黙がもどかしくて、わたしはバベル様に問いかける。バベル様はクルリと振り返ると、小さく笑った。
「この国なら俺の顔を知る人間はいない。人を身分で判断する馬鹿は嫌いだ。だけど、帝都では皆が俺に媚びへつらうし、俺自身、自分の能力や適性を色眼鏡を掛けた状態でしか見られなくなってた。俺という人間を見極める――――それがこの国に来た理由だ」
きっとバベル様は今、『皇太子』としてここに立っているのだろう。これまでとはオーラが違うし、言葉の一つ一つが重い。
「そしたら、クラスメイトにはめちゃくちゃな王太子がいるし、好きな子はそんな奴に馬鹿に騙されてるしで、色々困った」
けれど次の瞬間、バベル様はこれまでみたいな人懐っこい笑みを浮かべながら、そんなことを言った。何とも思わせぶりなセリフに胸が大きく跳ねる。
(勘違いなんて、させないでほしい)
恋愛沙汰で痛い目を見たばかりのわたしだ。誰かを信じることも、恋することも、どうしたって慎重になってしまう。
ましてや相手はこの広大な帝国の皇太子だ。シリウス殿下なんかとは格が違う。こんな弱小王国の公爵の娘など、釣り合うわけがなかった。
「気づかなかった?」
「え?」
「俺がポラリスを好きってこと」
ど直球な告白に、わたしは大きく息を呑んだ。顔が燃えるように熱くて、心臓がバクバクと鳴り響く。恥ずかしくて、繋がれた手を離したくて、けれどバベル様は逃がすまいとばかりに手に力を込める。心臓の音が更にうるさくなった。
「……気づくわけ、ありません」
「そうだな。ポラリスはちゃんと、シリウスだけを見てたもんな」
バベル様の言葉に、じわっと涙が浮かび上がった。
わたしのシリウス殿下への想いが恋だったのかは分からない。けれど、わたしは妃として、本気で彼を支えようと思っていた。そのために努力を惜しまなかったし、盲目的に彼を信頼していた。
「そうやって人の良いところを見たり、真っ直ぐに信じられるところ、ポラリスの良いところだと思う。だからこそ、裏切られて傷ついたんだろうけど、俺はポラリスにはこのままでいてほしい」
その時、バベル様は本気で、わたしのことを想ってくれていたんだって分かった。傷ついた心が癒されていく。目に滲んだ涙を、バベル様がそっと拭ってくれた。
「あの……今はまだ、わたしはバベル様のお気持ちに応えることができません」
「うん。分かってる」
王位継承権を剥奪されるシリウス殿下と、わたしはもう一度向き合う必要がある。今日のことを思えば少し怖いけれど、彼との関係をきちんと清算しなければならない。
(スピカはこれからも殿下の側に居続けるのかな?)
その辺は、わたしにはよく分からない。けれど、動機はどうあれ、スピカはわたしにとって大事な友人だった。そんな彼女が友情よりも愛情を取ったのだ。これからもそれを貫いて欲しいなんて、身勝手なことを思う。
「少しずつで良い。俺のことを知って欲しい」
「……はい」
「ポラリスが信じるに足るだけの男になると誓う。俺について来て欲しい」
思わず「はい」と答えたくなる、そんな魅力がバベル様にはあった。きっともう、わたしはバベル様に惹かれ始めている。胸のあたりに広がる甘さを噛み殺しながら、わたしはバベル様を見上げる。すると彼は、頬に触れるだけの口付けをした。
「なっ……!」
思わず叫びだしそうになったわたしを、バベル様が優しく見つめている。それが何だかとても嬉しくて、わたしは声を上げて笑ったのだった。