弱法師
むかしむかし、河内国に、俊徳丸という美しい男の子がおりました。
その家の主の二番目の奥方は、その人もたいそうな美人でありましたが、大変に嫉妬深く、いつも侍女たちに申しておりました。
「あの俊徳丸という子は、顔は美しいけれど、ろくでもない子だ」
侍女たちは、その奥方が怖かったので、その通りですと申しますものですから、余計に奥方は俊徳丸に辛く当たるのでした。
そうしているうちに、最初は俊徳丸をかばっていた父、高安通俊も、だんだんと美しい奥方の言うことを、信じるようになってしまいます。
ある日のこと、通俊に呼び出された俊徳丸は、桃の実を取ってきてほしい、と言いつけられました。
「桃の実、でございますか? そういったものでしたら、誰ぞに言いつけて……」
「お前は父の命が聞けぬと申すか」
「いえ、そういうわけではありません。家来衆の仕事を私がやってしまっては、彼らの仕事がなくなります」
「殿、俊徳丸様は殿を思うお気持ちがないのではありませぬか。たとえ下々の仕事であっても、子であれば父のためを思うものでしょうに」
奥方は、ねっとりと蛇のような目で俊徳丸を見ながら言いました。
「いえ! そうではございません」
通俊に申し上げましたが、聞いてはもらえません。
「ああ、父上も私のことを信じてはくださらない」
それでも心根の優しい俊徳丸は言いつけの仕事をしようといたします。
ですが、誰一人付いてきてくれはしません。
これは体良く自分を追い出したいのだろうと考え、俊徳丸は悲しみの心のまま、家を出てしまうのでした。
それから幾ばくかの月日が流れます。
「疲れたなあ、どこかで一休みするとしよう」
ため息と一緒に俊徳丸は呟きました。
ちょうどその時、道の少し先にぽつんと明かりが点ります。
ぼんやりと点るあたたかい光は、俊徳丸の心もあたためてくれました。
少し元気を取り戻した俊徳丸は、一晩、軒を貸してもらおうと、明かりを目指して歩みを進めるのでした。
「もし。旅の者ですが、一晩、軒を貸してはいただけませぬか」
ほとほとと戸を叩き、訪います。
中からは、それは難儀なことでしょうと、人の出てくる気配がいたしました。
「俊徳丸様!」
「あなたは……」
その家にいたのは、俊徳丸の許嫁の姫でした。姫は俊徳丸が家を追い出されたことを聞いて、先回りをして待っていてくれたのです。
「俊徳丸様、もう大丈夫です。ここなら安全に暮らせますよ」
「ああ、姫。ありがとうございます。ですが、このような人里離れた杣屋に、あなたをおくわけには参りません。どうか、家にお戻りを」
「ですが……」
「私は流離の日が長くなって、もう以前の私ではありません。こんな汚い形では、あなたに相応しくないでしょう。私のことはどうぞ忘れてください」
姫は、そのまま出ていこうとする俊徳丸を押しとどめ、せめて一晩泊まってほしいとお願いするのでした。
翌朝、俊徳丸はまた旅に出ようと立ち上がりました。
ですが、どうにも様子がおかしいのです。
「俊徳丸様、もしや目がお悪いのではありませんか」
そろそろと掴まりながら歩く様子は、危なっかしくて気が気ではありません。
とっさに姫が手を差し出しますと、俊徳丸は優しくそれを押し返すのでした。
「大丈夫ですよ、まだ明かりは見えます。私のことは、どうか、おかまいくださいませぬように」
「俊徳丸様」
「さあ、姫。あなたも家へお戻りを」
俊徳丸の決意は固く、どうにも意志をひるがえしそうにありません。
では、せめてと姫は申し上げました。
「四天王寺の観音様に、病気平癒のご利益があると伺いました。そこへ向かわれてはいかがでしょうか」
「ありがとう。では、そこへ向かうことにいたしましょう」
「俊徳丸様! わたくしの気持ちは変わりません。あなた様は以前と変わらぬ、清いお心の持ち主でいらっしゃるのですから」
「いいえ。私は施しを受けながら流離う、卑しい身の上です。どうか、私のことはもうお忘れください」
泣いてすがる姫を残し、俊徳丸はまたよろよろと旅立つのでした。
一方、高安の家では、邪魔者がいなくなった途端、あの奥方がやりたい放題をするようになったのです。
それまで目を曇らされていた通俊や家来衆も、さすがにこれはおかしいと気づき始めました。
「殿? どうなされたのです」
継母はしなだれかかるように、通俊の耳元で甘く囁きます。
通俊は頭を振って、奥方の声を振り切るように言いました。
「どうもこうもない! 最近の奥の振る舞いは目に余る。まさか俊徳丸のことも讒言ではあるまいな」
「もちろんでございます。あのような子は、汚らしい盲目の乞食に堕ちて当然なのです」
「盲目の乞食? 今の俊徳丸が? それはどういう事だ!? なぜそれを知っている」
しまった、と唇を噛んだ奥方でしたが、やがて狂ったように笑い出しました。
「ああ、その通りだ。いかにも清廉なあんなやつは、見ていて虫酸が走るから追い出してやったのさ。追い出す時に、ゆっくり効いてくる毒を飲ませたから、だんだんと盲て、もうそろそろ、どこぞで野垂れ死ぬ頃合だ」
奥方は鬼女の相を顕にして、通俊に襲いかかります。
通俊も刀を抜いて鬼女に切りつけました。
ビュッと振るった刀が鬼女の片手を切り落とします。
「チッ、これまでか」
鬼女の姿は、あっという間に消え去ってしまったのでした。
後に残るは悔恨にくれる通俊です。
「……なんてことを。ああ、騙されたとはいえ、儂はなんてことをしてしまったんだ」
「通俊様。俊徳丸様は生きておられます」
泣き暮れる通俊の元に訪れたのは、許嫁の姫でした。
姫は俊徳丸に会って、四天王寺の観音様への参拝をすすめたことを、通俊に話しました。
「わたくしでは、俊徳丸様を連れ戻すことができませんでした」
「儂はあやつを家から追い出したのだぞ。許してくれるとは思えぬ」
姫と通俊は涙にくれました。
そして通俊は俊徳丸の安楽を願い、四天王寺で、貧しい人々に食べ物を振る舞う施行をすることにしたのです。
その頃、俊徳丸は四天王寺で施行が行われるを聞き、そこへ向かっておりました。
なにしろ、もう目は見えなくなっておりましたし、施しを受けなければ口にする物もありません。施行の最後の日、俊徳丸はようやく辿りついたのでした。
杖をつき、よろよろと頼りなく進む俊徳丸を、人は弱法師と呼びました。
「梅の香……」
弱法師にも梅の花びらが散りかかったようで、その香りに包まれます。
きっと美しく咲いているであろう梅花を思い、弱法師はにっこりと微笑むのでした。
「弱法師殿も日想観をなされますか」
「日想観とは……」
「沈む夕日を心に止めて、極楽浄土を思うのです」
「それは素晴らしい。私も夕日を拝ませていただきましょう」
弱法師は夕日に向かい手を合わせます。
そうしますと、海辺の絶景が瞼の裏に映し出されました。
須磨、明石、難波。
なんという美しい光景でしょう。
ふわりと足が沈む砂浜、打ち寄せる白い波。
「すべての景色、満目青山は心にあるのだ」
そう言って、心のままに弱法師は海辺を歩きます。
ですが、あちらこちらで転んでしまいました。
本当の弱法師は盲目でしたので、人や物につまづいてしまったのです。
「ああ、こんな悲しみがあるだろうか」
心とは違って、杖をつきながら歩くしかないのです。
父に捨てられ、ぼろぼろの格好で施しを受けるしかないのです。
清廉な弱法師でも、あまりの悲しみに打ちのめされてしまうのでした。
「俊徳丸!」
その様子を見た通俊は、もう居ても立ってもいられず父であることを打ち明けます。
「父上? いや、父上がここにいるはずがありません。私は捨てられたのです。それにこんな汚らしい形で、目も見えないのですから。あなたの息子などではありません」
「俊徳丸、儂が悪かった。儂は鬼女に騙されておったのだ。鬼女は退治した。どうか、家に戻ってほしい」
それを聞いた俊徳丸の目から涙がこぼれました。
もはや会うことも叶うまいと思った父の言葉が、俊徳丸の心に響いてまいります。
「父上……ああ、父上! 悲しゅうございました。苦しゅうございました。辛うございました」
「すまなかった。俊徳丸、すまなかった」
互いに手を取り肩を抱き、俊徳丸と通俊は涙を流します。
そして、二人は連れ立って高安の家へと帰っていくのでした。
それからの俊徳丸様でございますか?
その後は、許嫁の姫様のご祈祷の甲斐あって、目の具合も良くなられました。
そして、お父上の元、お二人はいつまでも仲良く暮らしたとのことです。
とっぴんぱらりのぷう。
能
弱法師(俊徳丸)の心情表現が舞台での見どころ。
ここでは日本昔話風、白雪姫バージョンでお送りしております。
これを下敷きに
・義兄との跡目争い
・父の後妻に言い寄られる+ストーカー騒動
・許嫁とロミジュリ的入水騒動
その他諸々ひっくるめて風呂敷を広げまくった『摂州合邦辻』(せっしゅうがっぽうがつじ)っていう歌舞伎がありまして。
ご興味のある方はご覧くださいまし。