表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

コンシリエイターの嘆息 ~足利将軍家短編 4代義持~

作者: 沖家室

前作の足利義満に続く4代将軍義持を主人公に据えた今作。

父や弟の義教のような派手さはないものの、20年にわたって天下を治め、実力のある将軍だった義持。

だが、結果的に後の幕府や将軍家の衰微を招いてしまったと筆者は考えます。

崩壊の序章は常に水面下の見えない場所で始まっている。

歴史を眺めると、ついそんな風に思えてなりません。

「前よりは少し顔色が良くなってきたかの。間もなく床上げもできようぞ。」

「ありがたきお言葉。しかしながら、それがしは、もはや生きる望みも枯れ果てました。」

「そちはまだ19ではないか。春秋に富む身で、なんということを申すのじゃ。早く良くなり、また将軍として立派につとめておくれ。」

「それがしの将軍など名ばかりにござる。例え病が癒えても、それがしができることなど何一つありますまい。」

「・・・。」


(余の後継ぎは義量しかおらぬ。何よりも大事と思い、今日まで可愛がってきた。それが一体どうしたことじゃ。なぜ、息子はあのような態度に出る。なぜ、もう生きる望みがなくなったと申すのか。)


 愛息の病床を見舞い、力づけるつもりだった。だが、現実は息子の拒絶にあい、もう生きる希望がなくなったと言われるしまつである。寂しさ漂う後ろ姿は、前の征夷大将軍足利義持、いまは出家して道詮と号する天下第一の権力者のものとはとても思えない。


(大酒飲みのあやつを心配し、起請文を書かせてまで酒をやめさせた。まだ年若いのを危惧し、これから少しずつ政の実際を教えていこうと思うておった。すべて息子可愛さにやったこと。何も間違ったことはしておらぬはず。なぜ、あやつはあのようになってしまったのか。)


 誰よりも愛情を注ぎ、その将来のために心を砕いてきたというのに、息子の心は頑なに自分を拒み、一向に通い合うものが感じられない。道詮は会うたびにやつれ、遠くに行ってしまうような態度の息子に困惑しきっていた。


(思えば、父上と最期に問答したとき、父上も寂しそうなお顔をされていた。政について余の存念を問われ、堂々と論陣を張ったのを昨日のことのように思い出す。余が父上と違う意見を申し上げたとき、何かを諦めたような表情をされていた。あるいは、父上も余と心が通わぬことを嘆いておられたのかもしれぬ。)


 道詮は、20年近く前の父・足利義満との出来事を思い出し、淡い後悔に襲われたが、もはやどうしようもないことであった。父はその後すぐになくなり、もはやこの世で対話することはできない。道詮から漏れるのはため息ばかりであった。


 第5代将軍足利義量がなくなったのは、それからまもなくの応永32年2月27日であった。まだ若い義量には子がおらず、道詮には他に後継ぎにできる男子がいなかった。

 候補となるのは道詮の弟たちだが、最晩年の父が道詮よりも可愛がり、道詮にとって後継者争いのライバルとなっていた異母弟の義嗣はすでに亡かった。むしろ、義嗣に脅威を感じ続けていた道詮自身が執拗に機会を狙い、7年前の応永25年に関東で起こった上杉禅秀の乱に無理やり関連付けて葬り去っていたのだ。

 他の四人の弟たちはすでに仏門に入っており、誰を引っ張り出すにしても困難が予想される。今の幕府は表向き平穏であるが、誰を担ぐかをめぐって権力闘争の火種にもなりうる。

 まだ40歳の道詮自身に男子が生まれる可能性も大いにあり、性急にことを運ぶ必要も感じなかった。


 道詮は愛息を失った悲しみをこらえ、幕政に邁進した。天下は彼を将軍とみなしたし、山積する問題は彼を放っておいてはくれなかったのだ。

 だが、今まで通り政務に精励する道詮であったが、どこか今までの彼とは何かが違うようであった。


 これまでの道詮は、将軍を武家社会の調停者と考え、そのように振る舞ってきた。

 公家社会を強い影響下におき、天皇家にまで支配の手を広げようとした父義満に反感を持ち、なるべく朝廷や公家の問題に深く首を突っ込むことを避けてきた。天皇家や公家が嫌がった明への朝貢を打ち切り、父が対外的に名乗っていた「日本国王」の称号を捨てた。

 守護大名を挑発して反乱を起こさせ、次々に弱体化させていった父の手法は受け継がず、辛抱強く利害の調整をこころみた。父が創始した直属軍の奉公衆の強化は受け継いだが、武力の発動は道詮にとって最後の手段であった。実際、将軍位のライバルとなりうる異母弟義嗣や又従兄弟の鎌倉公方持氏には強硬な態度で臨んだが、父に比べて武力を振りかざす機会はあまりなかった。

 道詮の政治は広く天下に受け入れられた。わがままで何をするかわからない義満に、みなが恐れとともに嫌悪感を抱いていたのだ。道詮は決して温和な人間ではなかったが、その統治は穏健かつ公正で安心感があると評価されたのだ。


 だが、綻びは目に見えないところに介在していた。守護大名の相続争いに起因する政争は一向になくならなかった。有力大名家の家督争いは、いつでも将軍にすら容易に治められぬ大乱につながる恐れがあった。朝廷もいまや幕府の後ろ盾を必要とし、将軍が傍観者の立場でいることは許されなかった。そして、現在の表面的な平穏が、道詮の存在があって初めて成り立つことを誰よりも熟知しているのが、他ならぬ道詮であった。

 父の義満は室町幕府の構造上の問題をいち早く見抜き、早い段階で道詮のような政治姿勢を捨てていた。天下の安定のためには、将軍権力の強化を何よりも優先せねばならぬ。そして、潜在的に将軍を脅かす勢力を弱め、相対的にも唯一無二のものとしなければならぬ。そのため、義満は将軍をも脅かしかねない数ヶ国を領する大名家は機を見て叩き、弱体化させた。公家や天皇家、寺社には積極策をとり、将軍の影響下において無力化しようとした。そして、義満はある程度それに成功していた。

 嫡男義量が長い病床に伏し、遂には先立ってしまったことで、道詮がようやく己の政策の行き詰まりと父の先見の明に気がついたのだ。


 応永34年9月21日、播磨・備前・美作3ヶ国の守護を兼ね、侍所別当を務めた重臣赤松義則が死亡した。嫡男の赤松満祐が後を継ぎ、幕府に父が任じられていた守護職すべてに補任してくれるよう願い出た。正統な後継者による相続であり、従来の道詮の政治姿勢であれば、一にも二にもなく認められるはずであった。

 だが、補任を認める沙汰は一向になく、満祐は三度も願い出た。それでも、幕府からの回答はなく、世間では道詮が寵臣で赤松一族の持貞に家督を継がせようとしていると噂した。


 実際、道詮は迷っていた。満祐よりも持貞の方が気心が知れており、御しやすい。なおかつ赤松の知行国を一括相続させなければ、その力を削ぐことができる。だが、これこそが父義満が取っていた政策の焼き直しであり、従来の己の政策からは大幅に外れることになりかねない。

 考えあぐねた道詮は、10月半ばのある日、密かに青蓮院を訪ねた。ここには門跡として同母弟の義円がおり、側近にすら相談しかねる難事について問うてみたいと考えたのだ。


「お久しゅうございます、兄上。」

「そちも息災のようじゃな。天台開闢以来の俊才との評判、余の耳にも達しておるぞ。」

「それはもったいなきお言葉。ありがとうございまする。して、本日わざわざこなたまでお越しになったのは、如何なる理由でございましょうか。」

「実は・・・そちに俗事ながら政について問いたくてな。」

「赤松のことでございましょうか。」

「さすがは天下にその聡明を謳われる義円よの。そのとおり、赤松の跡目について、いささか迷っておる。」

「嫡男にそのまま継がせるか、それとも一族に分け与えるかでございますな。」

「うむ。そちはどう思う?」

「それがしは分割相続させるが上策と心得まする。亡き父上は各地の大名家が複数の国の守護を兼ね、将軍をも脅かす力を持つことを憂え、機を見てはこれを弱めて参られました。将軍家の安泰のためには、これを機に赤松の弱体化を図るべきでございます。」

「しかし、満祐は嫡男であるし、侍所別当としての実績もあり、これまで目立った過失もない。これを廃する名分が立たぬのではないか?」

「確かに名分はございませぬ。しかし、名分にのみこだわっておっては、天下の仕置はままなりませぬ。この際、備前・美作は安堵する代わりに播磨をいったん料所(幕府直轄地)とし、満祐が兄上に忠誠を誓ったならば改めて守護に任ずるようにされてはいかがか。満祐がこれを受け入れれば忠実な臣となりましょうし、不平を鳴らせばそれを口実に討ち果たし、3ヶ国を赤松一族に分割相続させればようございましょう。いずれにしても、将軍の権威を天下に見せつけることになりまする。」

「ふむ。考えてみよう。」


 義円の献策を胸にしまい、道詮はさらに熟慮することにした。かつての道詮であれば、このような献策は聞き流していたかもしれない。だが、己の行き詰まりに苦悶する道詮には魅了的な案に思われた。


 10月26日、赤松満祐はようやく訪れた将軍からの使者を満面の笑みで迎えていた。やっと父の後を継いで、赤松家の当主となれるのだ。お礼言上をどのようにすべきか、将軍家への忠節をどのようにあらわすべきか、様々なことが頭の中を駆け巡る。

 だが、平伏する満祐の顔は、使者が御教書を読みすすめるに従って、真っ青に変わっていった。


「しばらく。しばらくお待ちくださいませ。今一度御沙汰を拝聴いたしたく存じまする。」


 無礼な振る舞いにむっとしつつ、使者はもう一度御教書を読み上げる。間違いなかった。備前・美作は安堵するが、播磨は一旦幕府直轄とし、いずれ改めて沙汰を行うであろうという。しかも、幕府から代官として播磨へ派遣されるのは、道詮の側近とは言え分家筋の赤松持貞であるという。


「このような御沙汰、到底納得いたしかねまする。何卒ご再考をお願いいたしまする。」

「公方様の御沙汰ぞ。そのような我儘が通るとお思いか。」


 さっさと退出していく使者に対し、礼をとることも忘れ、満祐は呆然と見送った。やがて、驚きはふつふつと湧いてきた怒りに押し流され、満祐は大声で呼ばわった。


「誰かある!」

「ここに。」

「酒じゃ、酒を持て。それに、この屋敷中の者をすべて呼び集めよ!」

「心得ました。今宵は祝宴でございまするな。」

「たわけ!あと、屋敷中の宝物すべてこの大広間に集めよ。早く行け!」

「ははっ。」


 あまりの満祐の剣幕に、近習は弾かれたように飛び出していく。

 その夜行われた酒宴では、満祐自身の口から今回の幕府の沙汰が一同に知らされ、満座が憤慨で満ちた。満祐は家臣たちの気持ちを確認すると、集めた宝物を皆に分け与え、その夜のうちに屋敷のめぼしいものを車に詰め込み、火を放って立ち退いた。京の夜を焦がす突然の火事に周囲が混乱する中、赤松一行は本拠の播磨へ向かって落ちていった。


 翌日、顛末を聞いた道詮は激怒した。将軍の御教書に反発したばかりか、お膝元の京で火事を起こした上に逃亡を図ったのである。将軍をないがしろにする暴挙に満祐の所領の没収が決定され、道詮は播磨を正式に赤松持貞に与え、備前を赤松満弘に、美作を赤松貞村にそれぞれ与える旨の内示を下した。さらに、丹後・若狭・三河・山城の4ヶ国の守護を兼ねる一色義貫と備後守護の山名時煕らに満祐討伐を命じた。


 しかし、旧領回復のチャンスとみた山名は従ったが、一色義貫は理由をつけて命令に従おうとしなかった。

 義貫にとって、満祐は討伐されるべき理由の見当たらない人物だった。嫡男が父の後を継げなかったばかりか、それに不満を示したらすべての領地を没収された上に命を狙われることになったのである。今までの道詮の対応とあまりにも異なる強引な手法に、赤松の次は自分が攻撃されるのではないかと恐れたのである。また、同様の理由から細川氏なども満祐討伐に消極的な姿勢を隠さなかった。

 このため、赤松満祐の討伐は遅々として進まず、その間一色氏や細川氏らは満祐の赦免を求めて運動し、12月に至って事態の打開の不可能を悟った道詮は満祐の謝罪を条件に赦免と播磨・備前・美作3国の守護補任を承認せざるをえなかった。


 こうして、将軍権力の強化と有力大名の弱体化へと舵を切った道詮だったが、たちまち壁にぶち当たってしまったのだ。そして、ねらいとは反対に将軍権威の低下と大名の発言力の増加という結果だけが残った。


 それだけではなかった。かつて満祐の祖父則祐は道詮の父義満が元服する際の烏帽子親を務め、2人は義理の親子として親密な関係にあった。その縁もあって赤松氏は外様ながら侍所別当に就任できる家格に引き上げられ、将軍家への忠誠心も強かった。しかし、今回の一件は満祐をはじめ赤松氏に将軍家への不信を植え付けた。これがやがて道詮死後のさらなる悲劇へとつながっていくことになるのである。


 明けて応永35年、道詮は表向きいつもどおりの正月を過ごしていた。新年を祝ぎ、つとめて平然とした様子を見せていたが、心は暗く沈んでいた。やはり昨年のつまずきは道詮の心を蝕み、鬱々としたものを晴らせずにいたのだ。仕切り直しの必要を感じていたが、すぐにその方策も思いつかず、心から正月を祝う気分になれなかったに違いない。

 とは言え、道詮は20年間将軍として政務をとってきた練達の政治家であり、人並み以上の忍耐力を備えた人物であった。時間さえあれば、また将軍の権威を取り戻すことは十分に可能であったろう。だが、無情にも天は彼にこれ以上の寿命を与えなかった。


 1月7日、道詮は浴室でかゆみを覚え、己の尻を掻いた。小さく痛みが走り、できものが破れて出血したことに気づいたが、特に気にも留めなかった。しかし、傷口から細菌が入ったのだろう、夜半には傷口が腫れ始め、発熱までしはじめた。傷口は日を追うごとに腫れ上がり、遂には座ることもできずに寝たきりの状態となった。やがて傷口は腐り始め、道詮は己の死期を悟った。


(余は間もなく死ぬことになろう。後継ぎを決めねばならないが、今から余が決定したとして、死後に履行されるかはわからない。あるいは、かえって要らぬ災いの種となるやも知れぬ。)


 道詮は己の健康を過信し、後継者を確定しなかったことをわずかに悔いたが、もはやどうにもならぬことであった。こうなったならば、自分の死後に新将軍を支えるべき有力大名たちの評議に委ねるのが、最も混乱の少ない方法であろう。己の死を冷徹に見つめながら、道詮は死後の将軍家を憂いていた。


(余は父上に反発し、父上とは違う将軍を目指した。だが、結局は将軍の権威を損ね、大名どもの力を増す結果にしかならなんだ。将軍家は今後どうなっていくのか。)


 後継者指名を道詮が拒んだことにより、重臣や道詮の側近が協議して選んだ次代将軍の選出方法は、なんとくじ引きであった。石清水八幡宮でくじを引き、道詮の4人の弟の中から将軍を決定するという。


(神意により将軍を決定するか。それもまた天命であろう。もはや何もいうことはない。)


 末期の酒を無理やり喉に流し込みながら、道詮は先立った義量の顔を思い浮かべた。いったい自分の何が間違っていたのか。ため息とともに再度飲み込んだ酒は、ひどく苦かった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ