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第五十九話

 三左衛門の丸太のような右腕が腰の剛刀「同田貫藤原上野介」の柄にかかるや、抜きざまに大須賀弥兵衛の首めがけ横一文字に薙ぎ払った。


「ドスッ」という骨を切り裂く鈍い音とともに大須賀弥兵衛の首は皮一枚残し後ろに折れた…と同時に塞ぎを無くした頸動脈の血流はまるで噴水の如く噴き上げ、弥兵衛の体は音を立てて仰向けに倒れた。


三左衛門は七年ぶりに人を切った、刀身の物打ち部が首に当たる直前に絶妙なる調子で引く首打ち技は七年経った今でも体が覚えていた。


三左衛門が十六歳のみぎり、初めて敵将の首を落としたことがあった、そのときは力任せの一撃では首は落とせず、無様にも何度も切り刻み 全身返り血で真っ赤に染まったころようやく首が落ち、廻りにいた兵らに嘲笑された屈辱は今も覚えている。


その苦い経験から当時 黒田官兵衛の元を訪れていた京の天寧寺の僧・善吉和尚が天真正自顕流てんしんしょうじけんりゅうの使い手と聞き平身低頭に教えを請うた。


善吉和尚は「拙僧に何を教えてもらいたいのか」と聞かれたとき、三左衛門は敵将の首が一撃で落とせなかったことを恥ずかしげに語った、和尚はこれを聞き「拙僧は仏に仕える身、何で殺生の技など教えられよう、と言ってしまえばそれまでよのぅ…ふむぅ首を落とす技は教えられぬが剣の振り方ぐらいは教えて進ぜようか」


そう言うと和尚は傍らにあった半紙を長手半分に切り、その一枚を直径六分(18mm)ほどの筒状に巻いた、次いでその筒を平たく押しつぶし 折り目に爪をたて強くしごいた。


そうして短冊状(2.8cm×33cm)になったものを剣に見立て その短冊の端を軽く握ると頭上から膝まで一気に振り下ろして見せた。


「さぁおぬしもやってみよ」そう言うと手に持った短冊を三左衛門に渡した。

三左衛門はそれを不思議そうな顔で受け取り、真剣で教えてくれればよいものを何で紙短冊でと訝しむが、それでも頷いて頭上から一気に振って見せた。


その時、紙短冊が風を切り激しく横振れしていたことに気付き、また和尚が軽く振ったにもかかわらず短冊先の速度が尋常でなかったことにも気が付いた。


「フフッ、気が付いたようじゃのぅ…この短冊が横振れもせず拙僧と同様の速さで振り下ろせるようになったら続きを教えようかの」そう言うとニヤリと笑い座敷から出て行った。


三左衛門はこの掴み所のない柔らかな折り短冊を見詰め唸った、だが暫く短冊を見詰めていて気付いた(固く折られていないからいかんのだ)そう思い、爪を立て織り目を何度も擦って真っ平らな短冊に仕立てた。


(これなら横振れもせず素直に振り下ろせるだろう)


再びその短冊を握り、頭上から気合いもろとも思い切り振り下ろした、しかし先程より横振れはさらに酷く、膝下まで振り下ろした短冊は握ったすぐ上で折れ裂けてしまった。


「くそぉっ」三左右衛門は折れた短冊をくしゃくしゃに丸めると、机上に残った半紙の半分を見つけた。


(今度こそ…)そう呟くとその半紙を丁寧に筒状に丸め再び短冊を作った。

(よし、これならいいだろう)固く折った短冊を頭上に振りかざした、そして今度はゆっくり縦に何度も往復させ手筋が真っ直ぐに振り下ろされているかを検証した。


そのとき僅かながら軌跡が蛇行していることに気付いた(これが原因か!)しかしそうは思えど何度振ってもその蛇行は修正できずに苛立った。


空振りを数百回ほども繰り返し、腕が疲れ握りの力が衰えた頃より蛇行は消えていった(そうか…握りに無駄な力が入りすぎていたのか!)


「わかった!」そう呟くと頭上から一気に振り下ろしてみた、今度は僅かに横振れしたが短冊は折れなかった。


三左衛門は嬉しくなり、以降は陽が沈んだのも気付かず何千回も短冊を振り下ろした。

腕が痺れ短冊を持ち上げるのも辛くなったとき、ようやく我に返り崩れるように座り込んだ、体からは湯気が立ち玉のような汗で床は濡れていた。


どうにか短冊の振れは消えたた、だがその速度は和尚のそれとは比べようもないほど遅い(なぜ和尚が降った短冊の端はあんなに早かったのか…)

その日は夜遅くまで飯を食うことさえ忘れ、腕を揉みながらさらに数千回も振り続けた。


翌朝起きると腕は腫れ上がり、上げることさえできなかった、それでも午前中は腕を井戸水で冷やし、午後から再び短冊振りを始めた。


それでも腕は痺れるように痛み昨日のような速度で振り下ろすことは出来ず、自然と手首だけで振り下ろしていた、その時…はたと気付いた(もし腕の振りに手首の振りを加えたら…短冊先の速さは倍になるのでは…)


三左衛門は俄に立ち上がると短冊を頭上に振り上げた、そして腕の痛さなど顧みず気合いもろとも腕を振り下ろしつつ手首の振りも加えてみた、そのとき短冊先は瞬間的ではあるが和尚が振った短冊先の速さと同速のように感じられた。


だが手首の振りを加えたことで折角おさまった短冊の振れは以前にも増して激しくなった、しかし原因は解っているため憂いは無い、あとはこの蛇行さえ修正すれば和尚と同様の振りが出来ると確信に至り喜びがこみ上げた。


翌朝和尚が寄宿する部屋に訪れ、用意した短冊を振って見せた。

短冊は横振れもなく風切り音も発せずに縦一文字に勢いよく振り下ろされた、それを見た善吉和尚は膝を叩いて「でかした!優れた手並みじゃ、そちは余程の器量とみゆる、並の者なら一月やっても敵わぬというにそれを二日で会得するとは…」


「では次に進むとしようか」そう言うと和尚は傍らの筆箱より細筆を摘まむと三左右衞門に渡し「筆が水平になるよう両端を摘まんで構えよ」という。


三左右衞門は再び不思議顔で言われたとおり両手で筆の両端を摘まみ水平にして和尚の前に立った。

すると和尚は三左右衞門が振った短冊を軽く握ると水平に持った筆の柄をめがけ気合いもろとも振り下ろした。


すると筆の柄は「ピシッ」と音を立て中央で真っ二つに切断されたのだ。

三左右衞門はそれを見るや目を剥いて驚き、暫くは忘我の境地で筆の切断部に見入ってしまった。

(あんな柔な紙の短冊でなんで筆の柄が切断出来るのだ…)


「フフ驚いたようじゃな、おぬしにこれができたなら約束通り剣の振り方を教えて進ぜよう、まっあと十日ほども滞在するゆえその間に会得できればよいがのフフフッ」


三左右衞門は自室に帰ると早々に家来の植田助九郎を呼び「おぬしこの筆を両手で水平に持て」そう命じると短冊を握り助九郎の前に対峙する、当の助九郎は不思議そうに首を捻っていた。


「ええいぃ!」と気合いとともに短冊が振り下ろされた、そのとき「バサッ」と音を立て筆ではなく短冊の方が真っ二つに切断されてしまった。


三左右衞門はそれを見るや手に残った短冊を床に叩き付けると頭を抱え座り込んでしまった。

それを見た植田助九郎は「殿、いくら何でも紙で竹なんぞ切れるわけが御座いませぬ」と呆れた顔で三左右衞門を見下ろした。


「ええい分かっておるわ!もう一度じゃ、半紙をたんと持って参れ」そう言うと先ほど捨てた短冊を手に取り折り目を開き切断部に見入った、その切断部は皺がより引き千切ったように切れていた。


三左右衞門は暫く見ていたが、やがて(古竹といえどやはり紙では切れぬはず、和尚は短冊で切ると見せかけ 早くて見えなんだが一瞬指を立てたのではないのか)と疑心を抱いた。


そのとき半紙の束を抱え助九郎が部屋に戻ってきた、すぐに三左右衞門は造り馴れた短冊を折ると助九郎に再び筆を持つよう促し、それを今度は見事に切断して見せた。


助九郎は当然驚き入り「紙で竹の棒が切れるとは」と言ったきり目を剥いて切断された断面を見つめていた。


だが三左右衞門は暗い想いで短冊を見つめ、助九郎には見えなかっただろうが…振り下ろすとき一瞬指を立て、筆はその指で叩き折ったに過ぎなかった。


その手業は助九郎は欺せても数千回降った己は欺せない、それは明らかに不自然で和尚は指などは使っていないと己がやってみて初めて分かった…。


三左右衞門は再び頭を抱えた、和尚が見せた筆を見事に断ち切る技は、己が何年かかろうとも絶対真似など出来ようもないと思えたのだ。


それ以降数日間 助九郎を相手に筆切りに挑んだが破れた半紙の山を築くばかりで筆に傷さえ付けられなかった。


やがて十日近くが過ぎ、和尚は「やはり筆は切れなかったか…それでも刀の振り方だけでも教えて進ぜよう」そう言うと三左衛門を促し庭に降り、刀の握り方や刀速を上げる右手の被せ調子、左手の引き調子などを丹念に教えてくれた。


その翌日には実際に巻藁を切る試斬を教えられ、それは夜遅くまで続けられた、そして次の朝「そちは剣技に天分ありや、もそっと教えてみたいが今日にも薩摩に発たねばならぬ、次の機会が有ったなら天真正自顕流の極意十二打の奥義を伝授致そう」善吉和尚は言いながら三左衛門を見上げ、その六尺を越える偉丈夫に目を綻ばせながら「せめて筆が切れるよう鍛錬を怠らぬようにの」そう言って薩摩へと発った。


その後三左右衞門は刀の素振りと筆切りを二年ほども飽くなく続けたとき、なぜか筆が切れると不意に感じた、それが会得の境地というものかは分からねど、実際に試したら筆は見事に真っ二つに切断することができた。


和尚が帰りしなに言った「紙短冊で竹の筆柄が切れたなら もう切れぬ物などないと思えるはず、鉄兜さえのぅ…」その言葉が思い出された。


三左右衞門は会得した境地を是非和尚に知らせたい、また天真正自顕流の極意十二打の奥義が学びたく和尚が再び訪れるのを待ちわびた。


だが文禄二年に再び善吉和尚が豊前中津に訪れたとき、三左衛門は朝鮮の地に有り和尚は仕方なく京に帰った、その後 三左衛門は帰国し和尚が訪れたことを知るや居ても立っても居られず京へと走った、だが三左右衞門が京に着いたとき和尚は三月も前にこの世を去っていた。



 三左衛門は我に返ると未だ間欠的に血を噴き出しているむくろを見つめ、いらぬ殺生だったと頭の隅で悔い、部下に瀬田川に捨てよと命じ再び正面を見た、さて この仕儀に至り相手がどう出てくるか…蜂の巣を突っついた様な狼狽えぶりを見せる家康軍を見て「機関砲部隊撃ち方用意!」と大声で吼えた。。


慶長五年九月二十日、黒田軍八千は瀬田の唐橋で家康軍七万の軍勢と対峙していた。

中山道方面から京・大坂方面に向かう場合はこの瀬田川を渡って行くのだが、この瀬田川を渡らずして京に向かうには琵琶湖を大津まで船で渡るか、もしくは南北を大迂回するしか手はない。


この唐橋は瀬田川に架かる唯一の橋である、ゆえに瀬田の唐橋は京都防衛上の重要拠点となることから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」とまで言われた。


この橋が最初に架けられたのは西暦三百年前後と言うから、景行天皇(日本武尊の父)の時代になろうか、そのころは両岸に生えていた藤の木を利用し、丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられたのが最初と伝わる。


その後、唐風弓形につくられ欄干を備えたこの橋は、ことわざで「急がば回れ」の由来ともなっている、このことわざは宗長(室町時代の連歌師)の歌で「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」である。


「矢橋の船」とは草津宿と大津宿を結んだ湖上水運の事で、当時京へ向かうには草津矢橋から琵琶湖を漕ぎ渡る方が瀬田の唐橋を渡る陸路より近くて速かった、だが比叡山から吹き下ろされる突風(比叡おろし)により、たとえ2500mほどの湖水を渡るだけでも危険な航路となったためこのような歌が読まれたのだろう。


唐橋を現在の位置また形に変えたのは織田信長の命によるものとされ、当時瀬田城主の山岡景隆が九十日で完成させたと伝わる。

天正十年六月二日、本能寺の変で織田信長を謀殺した明知光秀は信長築城の安土へ進攻を開始した、そのとき山岡景隆は光秀軍の侵攻を遅らせようと唐橋を焼き落とした、しかし唐橋は光秀によってただちに修復されてしまったらしい。


いま三左衛門の背後に架かる唐橋は豊臣秀吉により再建された橋である、光秀が死して十八年、信長も秀吉も もうこの世にはいない、世は変わり今まさに最後の英傑・徳川家康が京・大坂に駆け上り天下に号令しようとしている。


それを僅か八千の兵で阻止し、家康に取って代わり黒田家が天下に号令しようというのだ、この歴史的大転換期とも言うべき戦国末期に、安田誠二郎というエンジニアが四百年の時を超え突如出現した、これは単なる偶然だったのだろうか。


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