第五十八話
過ぎた話になるが、関ヶ原の合戦が東軍の大勝利に終わろうとしていたとき、石田三成の応援要請を拒否した西軍の島津隊は逃げ時を逸し東軍の福島隊に包囲され壊滅的打撃を受けていた。
このとき島津は後世に伝わる敵中突破退却戦「島津の退き口(捨て奸)」を敢行するのだが…この捨て奸とは本隊が撤退する際、数人若しくは小隊をその場に捨て置き、追ってくる敵を死を覚悟し足止めさせる役目を担い、本隊はその「捨て置き小隊」を次々に後方へ置き去ることでやがて本隊は痩せ細っていくが殿さえ無事に逃がす事さえ出来れば成功という捨て身の退却戦法だ。
この時間稼ぎの戦法は足止めを担当する兵らはまさに捨て置きとなり生還の可能性はほぼゼロという壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である、しかしながら捨て置かれ死を覚悟した射手らは落ち着いて追い縋る敵将らを狙い撃ちにできることから狙撃効果は絶大とされた。
これは終戦間際の特攻隊に似て、島津義弘や重臣から「捨て奸」に指名された者より志願者の方が多かったという逸話さえ今に残る。
島津義弘隊一千五百は東軍に包囲され壊滅的打撃を受け、残る兵はわずか三百を切ったとき、遂に奮い立ち福島隊中央に向け百丁の鉄炮を同時に撃たせると そのまま強引な敵中突破を敢行した、合戦が終息し西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡・投降する中 まさか敗残兵三百そこそこで突撃に打って出るとは思いもよらず、虚を衝かれた福島隊の中央部は大混乱に陥った、その虚を衝き島津隊は見事に敵の中央を突破して見せたのだ。
次いで小早川隊が島津の前に塞がるがこれも強引に突破、さらに行く手に待ち構える松平・井伊・本多の三隊の軍勢をも突破した、この三重突破だけで捨て奸の兵は百人余も消費したが島津隊の行く手にはもはや遮るものとて無く家康本陣が迫っているのみだった。
家康は島津隊の突破劇を目の当たりし慌てふためき床几から転げ落ちた、また家康を護るべき前縁を固める旗本衆もその肉迫に恐れをなし左右に泳いだ、そのとき家康まであと数馬身というところで島津隊は急転進すると家康の鼻先をかすめ嘲笑うかのように正面に見える伊勢街道を目指し遠ざかっていった。
面目を潰された松平・井伊・本多らの徳川諸隊は島津隊を怒り心頭に追撃に転じるが、島津隊は捨て奸戦法を用い決死の覚悟で死兵と化したためその抵抗は凄まじく、追撃に打って出た井伊隊は島津の殿兵を槍の餌食にしながら追撃するも井伊直政のあまりの猛追ぶりに配下らは追いていけず単騎駆けになったところを狙撃され井伊直政は脚を負傷し追撃をあきらめ後退した。
この逃走中に島津方は島津豊久・阿多盛淳が捨て奸となり玉砕した。
次に追撃に出た松平忠吉も同様に狙撃されて後退、また追撃中に負傷した本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬し後退した。
追撃に打って出た徳川諸隊のことごとくが指揮官が捨て奸により相次いで狙撃され、島津隊の抵抗の凄まじさに手が付けられぬ有様となり 遂に家康から追撃中止の命令が出された。
一方の島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出しながら一千五百もの兵は八十前後にまで激減、それでも殿軍の後醍院宗重らが奮戦し義弘は辛くも撤退に成功した。
同じく西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢は戦わずして撤退を開始、撤退に際し浅野幸長・池田輝政らの追撃を受けるが長宗我部・長束・安国寺隊の援護を受け無事に戦線を離脱、伊勢街道から大坂方面へと撤退した。
このとき殿軍に当たっていた長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は大きな損害を受けるも辛うじて退却に成功、安国寺勢は毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ撤退、長宗我部勢と長束勢はそれぞれの領国を目指し逃亡していった。
大勝したその日の午後、家康は首実検の後に山中村へ陣を移し休養を取った、そのとき合戦の大功労者であり家康が最も信頼を置いていた黒田長政がいないことにようやく気が付いた。
家康は戦場で長政の左翼を固めていた細川忠興と加藤嘉明の二人を呼び、長政の所在を問い質した、その回答によれば三成軍が崩れて敗走した際、黒田隊はそのまま追撃に移り我々が止めるのも聞かず伊吹山方面に全兵引き連れ向かったという回答であった。
これを聞き家康は激怒した「おぬしら何で長政を押さえられなかったのじゃ、それに儂が聞かねば報告も無しかよ!既に三刻も経とうというに未だ帰着もしておらんということは何か良からぬ事が起きた証よ、奴め心配させおって…おぬしら早々に長政の後を追え!」と命じた。
そして翌九月十六日、細川忠興と加藤嘉明の探索軍は昼過ぎに家康のもとに帰着した、だが黒田隊五千の所在は伊吹山の山中から長浜に至るまでの広範囲を探索したが杳としてその所在は知れず、代わりに三成の残党二十名ほどを捕縛し戻ってきた。
ここに至って家康は長政の不可解なる行動は三成追撃に非ず、戦線離脱ではないかとの疑心を抱いた、ではこの期に及んで何故離脱する必要があろう…彼の戦功からすれば破格の論功行賞が待っているというに…家康は首を唸るしかなかった。
長政の不可解な行動を慮りながらも、その日のうちに家康は裏切り組である小早川・脇坂・朽木・赤座・小川の諸将らに三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じ、これらの軍に田中吉政のほか軍監として井伊直政を加わえ、二万を超える大軍を以って近江鳥居本の佐和山城へ進軍させた。
家康は関ヶ原から六里南西にある佐和山城が一望できる平田山に本陣を移すと佐和山城に向け総攻撃を命じた、このとき佐和山城には三成の兄である石田正澄を主将に父・石田正継や三成嫡男・石田重家、大坂から援兵に駆けつけた長谷川守知ら およそ二千八百の兵が守備していた、だが数にして六倍以上もの兵力差に加え 小早川秀秋ら裏切り組は汚名挽回と御家安泰のため軍功を挙げねばならず佐和山城に猛攻を加えた、これに対し石田方は大いに奮戦し家康方の第一波は何とか退けた。
だが石田正澄は第二波は耐えきれぬとみて家康の旧臣だった津田清幽を使者に降伏交渉を申し出た、家康はこの降伏の申し入れに対し正澄の自刃と開城をひきかえに石田一族や城兵、婦女子は助命するという条件でこれに応じた。
しかし翌九月十七日、大坂から援兵にきた長谷川守知が小早川秀秋と内通し裏切り、城に放火し秀秋の兵を城内に引き入れてしまった、これにより瞬く間に三ノ丸は陥落し翌十八日の早朝には田中吉政隊が城中に導かれ本丸に攻め込んだため佐和山城は呆気なく陥落、これにより正澄ら石田一族は長谷川守知を恨みつつ自刃して果てた。
長谷川守知の卑怯な裏切りに便乗し恭順した石田方を陥落させるは不義であるとし、降伏交渉に当たっていた津田清幽は面目を潰されたと家康の違約を激しく詰問した、その結果 三成の三男佐吉をはじめとする生き残った者らの助命だけは何とか了承を取り付けた。
一方 関ヶ原本戦直前まで西軍の前線司令部であった大垣城には福原長堯を始め垣見一直らなど西軍諸将が守備の任に就いていた。
これに対し東軍は松平康長らが包囲を布き対陣していた、そして関ヶ原本戦が西軍の敗北に終わったと知らされるや大垣城内で守備する将兵等に動揺が広がり、城内に籠もる相良頼房の裏切りなどにより九月二十三日大垣城内の西軍派は降伏し大垣城は家康方に明け渡された。
また伊勢方面では西軍の敗報を知り多くの大名が退却している、また桑名城も同日に開城、東軍の長島城を包囲していた原長頼は西軍の敗退を知り逃走したが捕縛された、また美濃駒野城に籠城していた池田秀氏や、伊賀上野城を占拠していた新庄直頼は城を放棄し退却している。
東西どちらつかずに迷っていた鍋島勝茂は父・鍋島直茂の命で伊勢・美濃国境付近で傍観していたが、西軍敗走の報を聞くや直ちに大坂へ退却した、また志摩の鳥羽城を巡り嫡男・九鬼守隆と合戦していた九鬼嘉隆も西軍の敗報を知るや伊勢答志島へ逃走しそこで自刃して果てた。
家康は西軍の首謀者で敗戦後逃亡し行方不明となっている三成や宇喜多秀家・島津義弘らの捕縛を厳命すると、家康本軍は毛利輝元が籠もる大坂城の無血開城を敢行すべく九月十九日彦根を発ち、いよいよ中山道を大坂に向けて進軍を開始した。
途中、北陸方面の東軍総大将であった前田利長がこれに合流し、中山道軍総大将であった徳川秀忠も真田昌幸に上田城で翻弄され本戦には間に合わなかったが近江八幡でようやく家康本軍に追いつき合流した。
こうして七万の軍容に膨れあがった家康軍は酉刻暮六ツ(18:30)中山道・近江国蒲生郡(近江八幡)の武佐宿に入ると兵を休めた、このとき瀬田・大津方面に出張っていた斥候より瀬田川に掛かる唐橋は黒田軍一千が占拠しており通行かなわずとの報告が寄せられた。
家康はこの報に接するや己の耳を疑った、一体何のために…が本音であったろう、つい先日まで関ヶ原で東軍のために働いた黒田長政がなぜ我に歯向かおうというのか、先般家康の養女・栄姫を娶り我の側近として可愛がってきた長政である、またその父の如水とは豊臣時代から懇意にしている間柄…どう考えても歯向かうなどは青天の霹靂であろうか。
ゆえに家康は、長政は歯向かうのではなく西軍の落ち武者を追ってこの地まで出張り、家康本軍の先駆露払役としてその前衛に身を置いたと合点した「何と頼もしい奴よ」と家康は喜んだが、本多忠勝や井伊直政ら側近は長政の奇異なる行動を怪しんだ。
翌九月二十日朝、家康軍七万は武佐宿を発つと一路次の陣泊地である大津城を目指した、この九月二十日は新暦に直せば10月26日で晩秋である、この日は朝方から琵琶湖に掛かる雲は低く辺りは夕方の如く暗かった、そして家康軍が中山道の野洲川を渡りきった頃より氷雨が一頻り降り、雨が小雨になったとき気温は一気に下がった。
兵等はこの奇妙な天候を訝しみ、銃や火薬が濡れるのを防ぐため荷駄隊に銃を預け菰を掛け火薬樽も油紙で厳重に包んだ、また大砲も同様に茣蓙を掛け縄で括ると寒さに凍えながら七万の大軍は大津を目指した。
家康軍が守山宿に差し掛かった頃、雨雲は俄に薄れ太陽も顔を出し気温は上がり始めた、だが兵等は大坂に着くまでこの家康軍を襲う敵などいるはずも無いと仕舞った銃砲や火薬の雨仕舞いを解く者はいなかった。
そのころ家康軍七万の軍列は佐竹宿以西に続く中山道の道幅が一気に広がり見せたことから五列縦隊の行軍となった、それでも七万ともなれば荷駄・大筒隊を含めその軍列は長蛇に伸び先頭が守山宿を過ぎたとき殿は未だ佐竹宿を出て一里ほど進んだところという有様であった。
一方、瀬田に陣を布く黒田軍八千は三日間の休養と潤沢なる兵粮により関ヶ原の疲れは消え志氣は盛んであった、しかし敵の徳川軍の軍勢が四万弱と読んでいただけに七万の大軍と聞き 及び腰になっていたのも事実である。
安田誠二郎中将の弁に依れば中山道軍総大将である徳川秀忠は家康本軍に半日遅れて瀬田の唐橋を渡るはずと聞いていただけに、その一日前に近江八幡で合流したという誤算に長政や三左衛門らは思い悩んでいた。
敵は黒田軍に対し九倍近い軍勢である、それも戦勝に沸き立ち戦意は上がり持てる火縄銃も数万丁を数え大筒も百門近くを牽引しているという、普通であれば端っから戦にもならず攻撃三倍則や戦略・戦術などあったものではない…ただ唯一の勝算根拠は黒田軍が携える武器が二十世紀の数千丁におよぶ新鋭兵器ということだけだ。
しかしながら敵は黒田軍が敵と気付いてもたかが数千、当然踏み散らかして瀬田川を越える挙に出よう、つまり活路は敵の油断につけ込み新鋭兵器で待ち伏せ攪乱し殲滅する、これしか無いと長政は結論した。
これに対し三左衛門に付き従った吉田長利少将と吉田重明大佐は一旦豊前中津に引き、九州平定後に九州諸兵力を率い大坂辺りで一大決戦した方が勝ち目が高いとの進言に及んだ。
これを聞いた長政は言下に却下、この瀬田の地にて八千の兵で徳川軍を迎え撃つと断言した、これにより九月二十日辰刻五ツ半(8:30)石山寺本陣に諸将が招集され将十八名で軍議が重ねられた。
軍議が既決したのは午刻九ツ半(12:50)、そのころ家康軍の先頭は草津宿の一里手前まで迫っているが、さいわい家康軍は午前中の雨で銃や砲の防滴保護のため殆どが荷駄に乗せられ薦被りにあり、兵らの殆どは銃を持たず無防備に進軍中との報告も寄せられた。
これを聞いた諸将は好機とばかりに急ぎ兵の所へ走ると作戦通りに兵や武器の展開を始めた。
黒田軍の配置は未刻昼八ツ(14:00)に配置を終えた、その配置は瀬田の唐橋を草津側に渡った中山道に兵一千を配し機関砲二十門を配備した、また迫撃砲・無反動砲をそれぞれ十門ずつと兵等には短機関銃を装備させた。
その北側、瀬田川から草津までの二里半続く山麓や林に一間毎に兵を置き歩兵小銃や短機関銃を携行させその数六千の兵をもって中山道の南東山側を封鎖した、また最後陣の草津には機関砲を二十門・迫撃砲十門・無反動砲十門を配し、残る砲や機関砲は二里半に及ぶ山麓や林に潜んだ兵らにそれぞれ配った。
申刻七ツ(16:20)、家康軍先頭が瀬田川手前二町まで進んだとき、前方に無数の黒田軍の旗が翻り、兵およそ一千が唐橋手前を封鎖しているのが見えた。
これを訝しんだ家康の旗本衆で大番組頭の大須賀弥兵衛が前に進み、唐橋の袂に布陣する黒田軍の三左衛門と対峙した。
大須賀弥兵衛が京の徳川家屋敷に滞在中、長政の御供で京屋敷に訪れていた三左衛門を二度ほど見掛けたことがあり剛の者という風聞を聞き三左衛門の顔はよく見知っていた。
「貴公…関ヶ原では見なんだがここに来ておったのか、しかしどうしたことかこの有様は、我が殿の露払いで長政殿が先行しているとは聞いておったが…その露払いがなぜ我が軍の行軍を止めるのか」と問う。
「ふん!我ら黒田家が徳川の露払いなんぞいつ引き受けたかよ!、儂らはここでお前らを殲滅するため家康が来るのを首を長ごうして待っておったのさ、通りたくば力ずくで押し通ってみよ!」と三左衛門は声高に叫んだ。
「おぬしら気でも狂ったのか、たったこれしきの軍勢で我が七万の兵を押し止めるとな、そんな馬鹿話しには付き合ってはおれぬわ、長政殿をこれへ呼べ、下っ端のお前ごときが出しゃばるでない下がりおろう!」と弥兵衛は三左右衞門の胸板を力強く押した。
この応酬の刹那、三左衛門は腰の剛刀「同田貫藤原上野介」を抜きざまに弥兵衛の首を真横に薙ぎ払った、この三左衛門の一撃は六尺を超える体躯且つ丸太のような利き腕で振り出された剛刀の威力は凄まじく、肩近くに掛かった兜の錣ごと首の七割近くを切断し血潮を一間近くも噴き上がらせた。
弥兵衛に付き従った供の武者四人は噴き上がる血と三左衛門の血濡れた鬼の形相を見るや震え上がり一目散に後方に逃げ出した。
大須賀弥兵衛の骸を瀬田川に投げ捨てると三左衛門は相手の出方を静観し、後方に控える機関砲部隊に射撃の用意を調えるよう命じた。
やがて逃げ帰った兵等は先頭集団に留まり慌てて悲鳴のような報告を吐く者、また先頭を通り過ぎ後方へ走る者などその混乱状況は手に取るように見えていた。
家康は先頭から半里後方を行軍しており旗本衆に囲まれ馬上の人となっていた、だがこの時まだ行軍の先頭で何が起こったのかは知らず、後方に従う本多忠勝と大阪城奪還後の毛利輝元の処遇を談笑しながら西に向かっていた。
そのとき四町東南の林から密かに狙撃兵十名が強力歩兵銃(バレットM82ライフル)で馬上の徳川家康と本多忠勝を的にその照準は絞られていた。




