第五十二話
黒田少将は城島城を迫撃砲と無反動砲で壊滅させると接収兵二百を城島城に留まらせ、残る将兵を従えると二里先の海津城攻城戦の応援のため進軍を開始した。
だが街道は一昨日の大雨で至る所がぬかるみ、砲弾や迫撃砲を積む重き荷車の車輪は深く沈み進軍速度は一刻当り一里半と遅く、それでも半刻後に行く手 前方に黒煙が噴き上がっているのが見えた、既に海津城も榴弾と焼夷弾の餌食と化したのであろうか、少将は行軍を止めると前方の大善寺広川の土手を駆け上がった。
土手の上から目をこらし海津城辺りを見つめる、すると噴き上がる黒煙の下辺は赤黒い炎がのたうち回っているように見え火災の広がりは二町以上と思われた。
それを確認すると土手を駆け下り伝令兵を呼び「至急海津城へ走り、大河内大佐に海津城には接収兵二百程を駐屯させ早急に大善寺広川南岸に集合するよう伝えよ」そう命じた。
一刻後、城島城攻略軍と海津城攻略軍は広川南岸で合流した、このとき時間は午刻九ツ半(12:40)で明日の明け四ツ(9:20)に柳川城付近に布陣を終えるには今宵の内に柳川城半里北の矢加部辺りに到着したいと黒田少将は考えていた。
矢加部までは直線にしておよそ四里、砲弾や迫撃砲それと兵粮などの荷駄隊を急ぎ行軍させれば二刻もあれば到着出来ようか、しかしここは敵の真っ只中、陥落させた二城以外にも出城や陣所は多く追い討ちする敵、また迎討つ敵の数は数千余は覚悟しなければならない、黒田少将は市街地の正面突破は無謀に過ぎると平野を迂回し遠回りになるが山間部を抜け矢加部を目指す方が被害は少なかろうと東廻りの迂回路をとることに決定した。
黒田軍第四師団二千七百の将兵は広川の岸辺に沿って東へ軍を進め三里ほど行軍したところで川岸を外れ南に進路を変えた、そして二里ほども行軍すると矢部川の河畔に出た、この川は四里程西に下ると有明海に注ぐ。
黒田少将は安全を考慮し川向こうの街道を進むつもりでいたが川幅は一町ほどもあり土手の深さから歩いて渡河は無理とみて橋を求め斥候兵を走らせた。
だが上流下流とも半里先まで橋は見当たらないとの報告で仕方なく川の北岸細道を行軍することにした。
もし大善寺広川から久留米市街を正面突破していたらとうに柳川城に着いている頃だろう、安全を考え大迂回を選択したが…安全策に過ぎたかと悔い始めていた。
矢部川の北岸を暫く進むと辺りの風景は急に狭まり道の右側には深い森が迫ってきた、また道幅も荷車が何とか通れるほどで行軍する隊列も自然と十五町ほどに延びきった、黒田少将は街道絵図を見ながら森が続く距離を計ろうと絵図に目をこらした、しかし川と街道筋が描かれているだけで森の範囲までは描かれてはいなかった。
やがて森の奥深くに怖れていた敵らしき人陰が見え隠れし始めた、それでも数は少ないとみて強行突破すべく短機関銃隊を前衛に移動させ注意深く進んだ。
暫くすると矢部川は左に大きく曲がり川幅も半町と狭くなり流れが速くなった。
また右の森はさらに深くなり 森からの攻撃を受けたら逃げ場は川しか無く黒田少将の不安は昂っていく。
そのとき突如 行軍前衛近くの森より火縄銃数百丁が撃ち出されてきた、敵はこの狭隘の森を関門として待ち伏せを敢行したようだ、火縄銃は止む暇無く盛んに打ち出され黒田軍は進むことかなわず置楯を慌てて引き出し身を隠すのが精一杯であった。
それでも火縄銃の至近距離での発砲には威力があり、一寸厚さの板に薄鉄を張った置楯を貫通し前衛の多くの兵が傷ついて倒れた、そして十五町にも伸びきった黒田軍の行軍は前衛で糞詰まり状態に陥ったのだ。
このとき後方を進んでいた黒田少将は前衛付近で火縄銃の音が湧きあがるのを聞き敵の待ち伏せを知った、少将は馬から飛び降りると後続の短機関銃部隊五百をすぐさま森へと侵入させ前方に全速力で走らせた。
やがて前方の森から短機関銃の連続音が盛んに鳴り、暫くすると隊列は牛歩ながらも動き出した、だが兵らは何処から飛んでくるか分からぬ敵の狙撃に怯え次第に早足になり、群集心理なのか遂には走り出し各将らはそれを押し止めようと盛んに声を荒げるも遁走は止まらず、兵糧荷車や砲弾荷車など数台が細道から脱輪し引き手共々川へと落下していった。
やがて発砲音は次第に遠ざかり全軍が深い森を抜けたときには発砲音は鳴り止んでいた。
全軍が森を抜け広い河原に辿り着いたとき その惨状が明らかになった、バラバラになった隊列を整え点呼をとると百二十人ほどが到着しておらず おそらく撃ち殺されたか動けぬ重傷者らの数と思われた、また何とか辿り着いた負傷者は三百人近くにのぼり黒田少将は逃げ場のない川岸細道の迂回策は失策と言うより敵の思う壷にはまった感が強く、安田中将の叱責が脳裏をかすめた。
少将は機関銃隊二百と荷車十台を元来た道に急ぎ走らせ一里以内の動けぬ重傷者や死亡した者らを収容させた、死者を岸辺に仮埋葬し負傷者の手当が終わったころ辺りは夕陽に染まっていた。
その後も行軍を続け矢部川の岸辺道は依然狭く鬱蒼とした林や森は続いた、また地の利を生かした「撃っては引く」ゲリラ攻撃は止むこと無く黒田軍の死傷者は増え続け矢部川の岸辺道を抜けるまでどれほどの死傷者が出ようかと黒田少将は生きた心地はしなかった、だがこれらゲリラ活動は矢部川が漆黒の闇に包まれた頃より散発的になり狙い撃ちを避けるべく明かりは付けず兵の間隔を開け暮れ四つ(21:50)ころに柳川瀬高辺りで岸辺道を外れようやく柳川市街に続く街道へと出た。
柳川城は軍神として讃えられた立花道雪の養子・立花宗茂が領する筑後・柳川十三万石の居城である、天正十五年豊臣秀吉の九州平定に際しその功により立花宗茂は筑後・柳川十三万二千石を賜り養父道雪が龍造寺家晴の時代に攻めあぐねたという柳川城の城主となった。
七月、立花宗茂は徳川家康から法外な恩賞を約束され東軍に付くように誘われた、しかし「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付ぐらいなら命を絶つ!」とまで強く拒絶した、だが立花家中では家老の薦野増時が西軍に勝ち目はないとみて東軍への味方を進言したが「我 勝敗に拘らず」と宗茂は潔さをみせ薦野増時の進言を退けると石田三成率いる西軍に与すべく七千の軍勢を率い柳川を発っていった。
誠二郎が九月十四日、艦上より柳川城を睨んでいたころは当の立花宗茂は毛利元康・毛利秀包・宗義智らと共に関ヶ原の南西二十里に在る 近江の大津城を攻めたてている最中であろうか。
このとき柳川城の留守を預かるは家老の小野鎮幸らであった、しかし兵の多くは城主・立花宗茂が大津に引き連れ出陣しているため留守居の兵は雇い兵を含めても五千にも満たなかった。
立花宗茂が近江に出陣したころ黒田如水は柳川城に降伏勧告状を送っている、家老・小野鎮幸は驚きすぐさま立花宗茂に使いを走らせその対処を仰いだ、その返書が今月九月の十日に送られてきた。
返書には、九月の終わりには柳川に帰還するゆえそれまでは籠城してでも持ちこたえよとあり、黒田軍進撃の最前線になるであろう久留米・城島城の城代・薦野増時と海津城の城代・立花三右衛門に九月末まで黒田勢を何としてでも久留米辺りに釘付けするよう命じる旨がしたためられてあった。
この返書以降 柳川城では緊張が続いた、籠城のための兵粮や玉薬が運び込まれ昼夜を徹して城の増強工事も進められていた。
九月十二日の夕刻、柳川城家老・小野鎮幸の元へ「黒田軍およそ三千が筑前国境より城山・山隅の防御線を突破し久留米市街に侵攻中、敵は火縄銃ではなく連発に撃てる不可思議なる銃を携行、その銃の威力は凄まじく我が軍の死傷者はおよそ一千を数え、城島城の守備兵二千及び海津城の守備兵二千は防御線より退却しそれぞれの城に籠もった」との第一報がもたらされた。
次いで十三日の昼前、「黒田軍は十三日の未明 筑後川の浅瀬である塚島付近を渡河すると筑後川南岸を進み城島城東部の街道封鎖を突破、城島城東二町先に布陣した」との情報が寄せられた。
柳川城内はこの情報に色めき立った、敵はたった二千数百というに五千もの兵で固めた防御線を易々と突破し前哨基地である城島城の庭先に布陣したという、その大胆極まる黒田軍の動向に城方は一様に動揺は隠せなかった。
だが家老の小野鎮幸は、城島城の城代・薦野増時は冷静沈着にして勇猛果断なる武将、また海津城の城代・立花三右衛門も剛胆で知られた猛将、この二城の城代らに任せておけば 敵はたった二千数百の数、たとえ不可思議なる武器を持っていようと立花宗茂の大軍が関西から戻るまでの間ぐらいは黒田軍を久留米北部に釘付けは出来ようと楽観していた。
そんな十三日の夕刻、筑後川岸辺の出城から黒田軍を追って矢部川まで進んだ兵三十ほどが柳川城へ落武者の体で落ち延びてきた、その兵等は追撃に打って出たのはよいがその殆どが返り討ちにあったらしい、兵等の報告に寄れば今朝 城島城は敵の攻撃で落城、次いで海津城も昼前に落城。
昼過ぎ山間部の迂回路を柳川城に向け進軍する黒田軍を補足し久留米近隣の出城や陣所の兵およそ一千が追撃に移った、しかし敵の持つ武器の威力は凄まじく七割方は死傷、追撃の効果は二百ほどしか仕留められずこのままの勢いであれば明日の明け方にはここ柳川城に黒田軍二千五百程が殺到するだろうとの報告であった。
この報告に接し柳川城に籠もる諸将等は震撼した、それは城島城も海津城も堅固な城構えとして知られる名城で、兵粮・玉薬も籠城に備え二ヶ月分の蓄えがあり、掘や城壁も幾重にも張り巡らされ力攻めしてもそうは容易く落せぬ城である。
それが僅か一刻余りで相次いで落城するとは…家老・小野鎮幸は治療中の兵を叱咤すると 二城が落城した様子をさらに詳しく聞き出そうとした。
兵等は息も絶え絶えに筑後川岸辺の出城から見た通りの「城島城 落城」の様子を語り出した。
それによれば、黒田軍およそ二千七百が城島城二町先に陣取ったのは卯刻・明六ツ(4:40)頃、朝五ツ半(8:10)黒田軍は二隊に分かれ半数は海津城を目指し進軍を開始、それを阻止せんと城側より火縄攻撃を仕掛けるも黒田軍側から放たれた不可思議なる強力連射銃で沈黙。
朝四ツ(9:20)黒田軍から花火の様なものが天に向けて打ち出されると放物線を描き城島城に落下、一気に城全域が爆破炎上しその炎は天をも焦がす凄まじきもので爆風は六町先の出城の塀を揺らすほどであったいう。
つまり敵は城壁や城門を打ち壊して城内に討ち入ったのではなく、二町先より打上げし花火の様なもので城島城全域を爆破炎上させたと言っているのだ、「そんな馬鹿な!」と小野鎮幸は他の負傷兵にも問い質したが答えは同じであった。
であるならばこの柳川城とて固く籠もってさえいればやり過ごせると考えていたが…敵の摩訶不思議なる打ち上げ花火を喰らえば城島城の二の舞になるではないか、その恐るべき武器を携えた敵は明朝にもこの柳川城に殺到してくるという、諸将等の怯えは尋常ではなかった。
この負傷兵等の報告に基づき柳川城本丸では深夜に及び最終軍議が開かれていた。
論議は明朝の黒田軍攻撃に対し「殿に命じられた通り籠城策をとるか、または打って出るか」に焦点が絞られ論議は紛糾した、しかし明け方近くには籠城すれば城島城と海津城の二の舞は必至、打って出れば一昨日の如く五千もの兵を繰り出した城山・山隅の防御線は簡単に突破され惨めに敗走した事実は覆せない。
つまりは「籠城も、城から出ての迎撃も敵には敵わず」となろうか、明け方 諸将等の脳裏には「降伏」の文字が浮かんでいた、しかしあと十日もすれば殿は横着なる家康を滅ぼし関西から凱旋されよう、そのとき戦いもせず僅か二千そこそこの黒田軍に恐れをなし開城・降伏したとあれば諸将全員が腹を切って済む話しではない。
九月十四日明六ツ半(5:50)、柳川城では徹底抗戦が評決されると軍議は閉じた、そして朝五ツ半(8:10)城から兵三千が火縄銃や大筒を携え掘外の北面に展開を終え迎撃態勢を布いた。
このとき沖端川・矢留湊の陣所から伝令兵が駆けつけ「今朝がた不審なる黒船(鉄甲艦)が沖端川を遡上し矢留湊に向かっている」との報告がもたらされた。
その黒船には細身の大筒二門が搭載され、帆や櫂さえ無いのに恐るべき速さで進む大型鉄甲艦だという、また艦上頂部には黒田家の紋章「藤巴」が翻っており、明らかに黒田軍の侵攻と報告された。
この報告は早々に掘外北面で指揮を執る家老の小野鎮幸に知らされた、小野は「敵は北面のみならず海側にも有りや」と呻り「して敵艦は何隻押し寄せたのか」と聞いた、「これがたった二隻のみで御座ります」の応えに、「何と2隻とな…ならば敵兵は三百そこそこ、また艦載砲と言えどいくら何でもここまでは届くまい、放っておけぃ!」と一蹴した。
朝四ツ(9:20)柳川城に騎馬二十ほどを引き連れた黒田軍の使者・久野政右衛門なる者が降伏勧告に対する返答を聞かせよと正面門に来ていることが小野鎮幸に知らされた、小野は急ぎ正面門へと走ったとき門前では一触即発の状態となっていた。
黒田の騎馬兵を城方の兵およそ二百が取り囲み今まさに襲い掛からんばかりに詰め寄っていたのだ、小野は慌ててその輪に割って入るや「皆の者、下がれ!」と一喝した、この怒声に包囲の輪は広がった。
小野鎮幸は騎馬上の将と思しき者に向かうと「貴公ら無礼であろう、馬から下りられよ!」と叫んだ、久野政右衛門はそれに応じ馬から下りると「それがし黒田家家臣・久野政右衛門と申す、早々に御座るが過日我が大殿如水より遣わされし降伏勧告に対し留守を預かる小野鎮幸殿にその返答をお聞かせ願うべくこうして罷り越した、返答や如何に!」と相手の殺気に負けじと久野政右衛門も大音声で叫んだ。
この大音声に小野鎮幸はニヤリと笑うと「降伏とは片腹痛し、この国欲しくば力ずくで取ってみよ!そう如水殿にお伝え下され」と応じた、久野政右衛門はその返答を聞くや「返答しかと受領もうした、ならば御言葉通りこれより打ち掛からせて頂きもうす」そう言うと馬に飛び乗り「御身大切に御無礼いたした」と言い轡を引いて馬を転回させた。
そのとき遠回りに取り囲んだ輪の中から「帰すな!討ち取れぃ」の声が発せられた、その声を切っ掛けに取り囲んだ兵等の眼差しは険しくなり腰の刀を抜刀すると口々に「殺せ!殺せ!」と叫び始め人垣の輪は縮まっていった。
この殺気に馬上の兵等は肩に掛けた短機関銃を一斉に肩から下ろした、その見慣れぬ銃を見るや縮まりかけた輪が一瞬止まった、そのとき「者ども動くな!、道を空けよ」と小野鎮幸が叫んだ。
この叫び声に騎馬が向かう先の人垣は少し開いた、久野政右衛門は小野鎮幸に深く一礼すると、その人垣を馬体で圧し開くよう広げ通っていった、依然兵等の目つきは険しく一触即発の危険を孕んだまま騎馬隊はゆっくりとした馬速で人垣の間を通り抜けていく。
やがて四町も離れたとき馬速は駆け足から鞭打たれ最速になると、馬上より二発の信号弾が天に向け発射された、やがて騎馬の姿は視界から消え 空には真っ白な煙を噴き出す発煙筒が朝日に照らされゆっくりと下降していった




