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第五話

 文禄元年六月二十日、大同江の戦いを終えた黒田長政率いる三番隊は平壌を後にし、担当守備地区である黄海道の海州に戻るべく数日前に通った江南邑、松林、材令邑を逆に辿たどっていた。


白兵衛は往路と同様 薬籠や食料を積んだ荷車を押しながらただひたすら地面を見つめ歩いた。

復路は往路とは逆に下り坂が続き体力の消耗も少なく嬉しかった、しかし夏のきざしか往路とは一転し雨は一滴も降らず初夏とはいえ下帯さえも汗でしとどと濡れた。


しかし往路で難儀した腹具合は今のところ渋ることなく快調だった、というのもこの時代の不衛生な水に内臓が慣れるには数ヶ月は要すると考え 今は一度沸騰させた湯冷ましを呑むようにしていたからだ、これも記憶が戻ったからであろうか衛生観念にも想いがいくようになり、特に口に入れる物の腐敗状況には注意を払うようになっていた。


食料は平壌城に敵が残した10万石余の兵糧から黒田軍にも相当量が支給され、為に今押す荷車にも薬籠の他に支給された雑穀が二斗ほども積まれていた。


この量であれば金傷医療班七人が三食腹一杯食ったとしても黄海道の海州に到着するに充分な量であろう、しかし腹一杯と言っても所詮しょせん高黍タカキビアワヒエなどの雑穀類である、現代人の白兵衛にとってこの世にこれほど不味まずいものが有ったのかと思えるほどの代物ではあるが…。


調理は高黍・粟・稗などを鍋に入れ塩と少量の焼き味噌、それに水をたっぷり加え煮ただけの雑炊ぞうすいだ、道端に食えそうな青菜や偶然飛んできた鴨や雉の肉でも入れば大層な御馳走だろうが、この朝鮮に落ちてからこのかた白兵衛はそのような「旨いもの」など口にしてはいない。


つまり旨味というものが全く無い食生活なのだ、香味野菜・肉の脂・糖分など食べて旨いと感じる要素は何一つなかった。


だが空腹には勝てない、生きていくためには旨い不味いなどとは言ってはいられない。

このたびの平壌遠征に際し、往きの行軍時の食事と着いてから戦場での食事は戦況が長期化するのを憂い上から厳しい節約令が出されていた。


支給される量は一人一日一合、朝飯は支給された雑穀を雑炊にして三分の二ほど食べ、残した雑炊を竹皮にくるんで昼過ぎにその半凝固した塊を喰らう、夜は夜襲に備え煮炊きは禁じられ干飯を一握りといった具合で 生きていく上でのギリギリのカロリー量だ。


朝七時から夜七時までぶっ通しに重い荷を担ぐか荷車を曳いて道無き道を十里も進む、或いは刀・鉄砲で生き死にを賭けて戦う、カロリーの摂取と消費がイコールならまだしもこれでは完全にマイナスだろう、結局不足分は体脂肪でおぎなうしかない。


正直 白兵衛は路傍ろぼうに生える草でも口にしたかった、それほど腹が減るのだ。

戦場で兵等は夜陰にまぎれ陣営を抜け出し虫や鼠・爬虫類など食える物なら片っ端に腹の足しにしていると聞き、白兵衛も一度誘われ無人と化した村にネズミや大型昆虫を探しに出掛けたことがあった…だがナメクジ・ゴキブリ・ハエのウジぐらいしか見つからず、それでも皆は旨そうにクチャクチャと咀嚼そしゃくし薄笑いを浮かべてはしきりに白兵衛にすすめるも 彼はその横でガタガタ震えるばかりだった。


しかし復路に関しては食料は潤沢に有った、白兵衛は荷車を押しながらチラチラと上目遣いに積まれた高黍俵を見てはニヤけた、目の前に食材が有るというだけでなぜか心踊り嬉しくてたまらなかった、最近などは小鳥の餌ぐらいにしか思っていなかったアワヒエでさえ炊きたての臭いを嗅いだだけで唾液が止めどなく溢れるのだ。


だがいま目の前の俵にはその粟や稗ではなく高黍コーリャンが詰まっている、それも二斗ほどだ。

高黍の食感は蕎麦ソバに似ているが噛んでいると甘く蕩けてしまう、今朝初めて高黍を食べたが粟や稗などに比べたら断然旨い、今も懐には昼食用にと朝食べ残した高黍に僅かな塩を加え、擂り粉木で半突きし丸めた「きび団子」が竹皮にくるまれ甘い香りを放っている。


(早く昼にならないかなぁ…)そう思いながら白兵衛は止めどなく溢れる唾液を呑み込んだ。


この戦国期、雑兵らが何で朝鮮くんだりまで戦いに出かけたのか…それはただひとえに「飯」が腹一杯食べられるからだろう、それは太平洋戦争当時の貧農出身兵に共通するのかもしれない。


諸大名らが兵の徴発・募集を行う際「子連れ禁止」とまで高札を掲げた例さえあり、如何にこの時代は食に飢えていたかがうかがい知れよう。


白兵衛は二十代の頃に読んだ「人間の条件」や「イワン・デニーソビッチの一日」など、飢餓下における食に対しての人間の飽くなき貪欲さを浮き彫りにした小説に圧倒され、今でも心の片隅に残っているが そのときは想像の域は出なかったが…。


しかし今はどうだろう、解ると言うより今まさに飢餓の真っ只中で藻掻もがき苦しんでいる、人の三大欲とは食欲・睡眠欲・性欲と言うが今の白兵衛にとって「糊口をしのぐ」「口に糊する」に寄与する手段以外は全く関心というものがなかった。


その日一日…何の憂いもなく食事が口に入る喜び、この時期でのこの何の「憂い」もなくとは暴力によって欠食させられるとか仲間に盗まれるとかというたわいもないことであったが…この冬から来春にかけ真の飢餓を経験することになるのだが 白兵衛はこのときはまだ知らず、今はふところで揺れるきび団子のズッシリとした重さについニヤけてしまう白兵衛だった。



 黒田長政軍は六日目の昼過ぎにようやく海州の駐屯地へと帰着した、しかし駐屯地は出ていったときとは状況が一変し、陣所として敵より接収した建物の殆どは使用不能なほど打ち壊され、帰還後の当座の兵量にと土中深く埋めた芋や雑穀も敵に掘り尽くされ持ち去られていた。


これでもし平壌を出る際、戦利品の兵糧が支給されてなかったら黒田軍は海州に帰着したとたんに立ち往生の飢餓におちいっていただろう。


三番隊の黒田軍は帰着後二日間だけ露天で休憩を取ると 報復に燃え海州掃討に出陣していった、そして七月七日までに海州一帯を掃討すると敵を追って南湖里・松禾など黄海南道を攻略しながら七月二十日に念願であった黄州城へようやく入城を果たした。


そして七月も終わるころ諸侯が集う漢城府の会議の席上で、明の援軍を得て朝鮮・明の連合軍が南下する事態に対応するため 広がり過ぎた戦線を一旦縮小し主要街道の防御を固める方針が打ち出された。


だがこの「広がり過ぎた戦線の縮小」は聞こえはいいが秀吉の明朝征服(唐入り)からすれば朝鮮地域で既に守りの姿勢というほかはない。


四月十二日の釜山上陸から朝鮮の首都・漢城府(現ソウル)陥落までわずか二十一日で成し遂げ、平壌までも破竹の勢いで陥落させほぼ朝鮮全土を手中に収めたというに、眠れる獅子“明”の参戦を知るや慌てて守りの体勢へと変化…。


これはまるで1950年当時、中朝国境付近に集結した中国軍およそ三十万が鴨緑江を渡り朝鮮への進撃を開始、これにより米韓連合軍は膠着状態に陥り 遂には平壌から撤退し38度線まで後退、防戦に至れりという「朝鮮戦争」の末期に近似していると白兵衛は思った。



 三番隊黒田軍五千の将兵は八月の初旬 黄州城から二十里東に行った主要街道沿いに構えを成す延安城占拠を命じられ進軍を開始した。


当時 延安城では城主・李廷馣と義勇兵及び民衆を合わせ二千人ほどが籠城していた、黒田軍はこれに倍する五千の兵で攻めたてた。


しかし城を守る敵兵の指揮はすこぶる上がり、敵は城壁より熱湯をかけたり丸太や岩を落とすなどして激しく抵抗、黒田軍の数次の攻撃をものともせずこれを全て撃退した、この激しい抵抗に手を焼いた黒田長政は兵の消耗を憂い延安城を落とすことはついにあきらめ撤退した。


以降、黄海道の広範な制圧から戦線を縮小し主要街道の防御を固める方針転換に従って北方から盛り返す朝鮮や明の攻勢に対抗するため黄海北道の南部(開城北)礼成江流域沿いの街道にある白川城に黒田長政は入城することになる。


またそこより四里離れた江陰城には黒田官兵衛の異母弟である黒田直之と黒田家宿老の栗山善助・母里太兵衛らが入り、併せて金傷医療班の治兵衛と医療見習いになったばかりの白兵衛の2名が配された。


そしてさらに北には江陰城の付け城とも言うべき竜泉城があり、そこには黒田家侍大将の小河伝右衛門が入城し以後この三城が南下する朝鮮・明連合軍の奔流を堰き止める最前線となり、南下してくる明・朝鮮連合軍の激しい攻撃に晒されていくことになる。


秋風が吹く季節になり江陰城では朝鮮・明軍の攻勢をかんがみ城の修繕並びに防戦の備えに日夜明け暮れていた、一方 治兵衛と白兵衛は弦斎や三郎らと離れここ江陰城で先の延安城の戦いで傷ついた将兵らの治療に専念していた。


だが十月の終わりには治療する患者も次第に減っていき、白兵衛らは日がな一日なすことも無く漫然とその日を過ごす…そんなおだやかな日々に変わっていった。


「白兵衛よぉ、おみゃぁまだ気失せは治らんのきゃぁ」

そう聞いてきたのは治兵衛だ、薬房の縁側で洗いざらしの綿布をたたんでいた白兵衛を見つけ声をかけてきた、この治兵衛のなまりりは明らかに名古屋訛りと分かるのだが…早口でまくし立てられると未だ理解出来ず、へたに聞き返すと機嫌が悪ければ「ちゃんと聞いとれぃ!」と頭を殴られた。


それでも三郎ほど酷く殴ることはなく時折優しい一面も見せ、弦斎の言いつけなのか白兵衛にひもじい思いをさせぬよう食には配慮してくれた。


「はい、まだしっかりとは思い出せませんが…」


「ほうきゃぁ そりゃぁ難儀やね、しかしおみゃぁの訛りは尾張か美濃辺りにちきゃぁが、ほんでも喋り方には品があるというか…、儂は尾張中村のざいやがそこほど訛ってにゃぁ、一体どこぞの生まれきゃぁなぁ…」


「はて尾張か美濃の訛りに近いですか…と言うことはその辺りの生まれでござりましょう」


その頃 白兵衛は完全に記憶を取り戻していた、記憶を取り戻す切っ掛けとなったのは六月の「大同江の戦い」のおり、朝鮮軍の夜襲により傷ついた黒田正好・黒田長政の治療を見ていたとき血の色や痛みにゆがむ形相と生死を別つ治療の緊迫感、それらのショックが記憶を復元させる引き金になったのであろう。


しかし白兵衛は記憶を取り戻したことは依然誰にも喋ってはいない、喋っても誰も理解はしてくれぬどころか下手をすれば狂人扱いにされないからだ。



 白兵衛の本名は安田誠二という、大手の工作機械メーカーで技術管理職(工機部本部長)として活躍していた。


2014年7月10日、誠二はJL869・18時10分発の便で成田から商用のため北京に向けて飛び立った。

今回で北京入りは十二度目となり、プロジェクトがこれで一段落するかと思うとこれまでの苦労が報われる感じに自然と笑みが零れ出ていた。


誠二はいつものように膝上にノートパソコンを置き、モニターを開いて起動するまでの間は窓側に身を寄せている。

機体前方の雲海上に夕陽が赤く輝いていた、その夕陽を見つめていると機体はその沈みゆく陽に少しでも近づこうとまるで足掻いているようにも感じられた。


暫く夕陽を見つめてからパソコンへと視線を転じたときキャビンアテンドが笑顔で近づいてきた。

「何かお飲み物でもお持ちしましょうか」との声に「熱いコーヒーを下さい」と応え書きかけの書類に目を通し始めた。


しばらくして機体が一瞬揺らぎ誠二はふと我に返った、そのとき背中が強張った感じに キーから指を離し背を後方に思い切り引き延ばした、つい夢中になり前屈みの姿勢を長く取り過ぎたらしい。


窓の外はいつしか赤黒い夕闇に変わりつつあった、前方のテレビモニターに映る機の現在位置は韓国の東岸に差し掛かった位置だ。


(もうこんな所まで…)肩をもみながらもう一度背筋を後方へ引き延ばした、どうやら膝上のパソコンが低すぎ前屈みになり背中が固まったようだ(ふぅっ、もう歳かなぁ)。


何かパソコンの下に敷く物はないかと椅子廻りを探し毛布を見つけた、その毛布をパソコンの下へ潜り込ませキーに指を置いてみた、これなら良さそうと背筋を正して時計を見た。

(到着まであと二時間ほどか…これなら書類は完成できそうだな)

誠二は胸のポケットから手帳を取り出し、頁に記載されたデータ値をパソコンに転記しだした。


誠二は愛知の ある大手工作機械メーカーに勤務する技術者だった。

現在は技術開発センターの本部長で、以前は工作機業界不振の時から始めた大手医療機器メーカーからのMRIやCTの機構部開発やOEM生産を請け負っていたが工作機業界が活況を呈しはじめた数年前よりは本業である工作機械の新鋭化開発に戻っていた。


この度の北京入りは六年前 北京から100kmほど南東の武清という街に設立された子会社である天津機械有限公司に新たなマシニングセンタ生産工場を増設したため、ようやく医療機器からは完全に外れその生産準備の為この数ヶ月のあいだ度々訪れていた。


明日は朝一から北京支店で新型マシニングセンタの機械加工部品製造の最終打合せが行われ、明後日からは武清の工場で三日間の生産技術会議に出席を予定していた。


書類を書き終え上書き保存をして誠二はノートパソコンの蓋を閉じた、依然背中は強張っている、パソコンを脇テーブルに置き背筋を伸ばすと視線は自然に前方のテレビモニターへ行く。

モニターの地図上に示された機の現在位置は朝鮮の海州沖辺りにあった。

(えっ、まだこんな所…意外と早く書類を書き終えてしまったが、抜けは無かったのかな…)


そんなことを考えながら冷たくなったコーヒーを啜ると妙に不安になり書類を見直そうと再度パソコンを膝上に置いた。


その時である、後ろから蹴っ飛ばされるような凄まじい衝撃と轟音が加わり 一瞬で耳奥がキーンと弾けた。

体はまるで空中に放り投げられたような感覚で天地さえ分からぬまま猛烈な炎と爆風にさらされた、誠二はその恐怖に体を思い切り縮めて頭を両手で抱える、幸いベルトを外すのを忘れていたため椅子から放り出されることは無かったが横目に見えた中央付近の乗客らはことごとくかき消えていた。


後方からの炎は瞬時に消えたが猛烈な風圧と気の遠くなるような冷気が全身を刺す、何秒経ったのだろう誠二は凍るような寒さと息苦しさで意識が遠のく中 風が吹き込む機の後方をゆっくりと振り返り驚愕した、何と自分の席後方はただ茫漠とした闇が広がるだけで何も無かったのだ。


その時薄い三日月がポッカリ空いた後方の空間に一瞬姿を現し流れて消えた。

誠二は(あぁぁこれで死ぬのか)と朧な感覚で想った、妻と子の顔が不意に浮かび上がり その像に手を伸ばしかけたところで意識は途切れた。



 「白兵衛、おみゃぁなにをぽかんとした顔でわしを見とるんじゃ、しっかりせえ!」

言われて白兵衛は我に返った。


「おみゃぁ最近よく今みてゃぁにぽかんとした顔で何んか考えとるようやが…何か思い出したんと違うきゃぁ、誰にも言わせんで儂だけに教えてちょぅ」


「いえ 何となく朧に機械…いやカラクリのような物が涌いて出まして、以前はそんな仕事をしていたのかと…」と誠二は言葉に詰まり咄嗟とっさに取りつくろうような言葉を洩らした。


「カラクリ…南蛮人が時を計るカラクリちゅうもんを造るとむかし聞いた事があったが…おみゃぁはそんなもん造っておったのきゃ」


「いえそんな大仰おおぎょうなものでなく水車の回転を歯車に伝え臼を引いたり杵を動かしたり…それもカラクリと言いますが」


「なんだぁ、大工きゃぁ…ふぅんおみゃぁは大工だったんか、それにしては日焼けも手に手斧胼胝ちょうなだこも出来とらんとは解せにゃぁが」


「たぶん大工でも絵図面を引く図師だったような…」

どんどん話は横にそれうやむやになっていく、誠二は意図して出鱈目を言っているわけではなく主点をはぐらかすとこんな話になってしまう。


「大工だったらおみゃぁさん 雑兵相手に治療なんかしとらんで城普請でも手伝ったらええが、いま敵が攻めてくるちゅうて城壁に仕掛けをつくっとるがや」


「城壁に仕掛けですか」


「おお、なんでも敵が城壁を登ってきたら丸太や大石を落とすらしいが、ためしに石落としの仕掛けを造ってみたんだと ほんでもって城内からその仕掛けを落とす“つっかい棒”をたたき落とそうと何度も叩いたらしいが重おてびくとも外れんらしい、普請頭の後藤様がさっき頭を抱えとったわ」


白兵衛(誠二)は若い頃 機械設計をする傍ら建築学を学ぶのも今後何かの役に立とうと二級建築士の免許だけは取得していた。


「治兵衛殿、それがし家を造る絵図面は引けもうそうが…石落としの仕掛けなんぞは経験ありませぬが…」


「そんなもんだぁれも知りゃせんわ、考えてもみいよ本国の城の城壁下は堀と決まっとるだろぅ、仮に空堀であっても上から石なんか落とそうなんぞ姑息な手はつかわんぞ、そんなもん朝鮮か明ぐりゃぁの汚にゃぁ種族が考える事よ、だから知らんであたりみゃぁ どうよこう見えても儂しゃぁ後藤様とは昔から昵懇じっこんの間柄、これから儂と一緒に行って後藤様の相談にのってみんきゃぁ」


「はぁ…それはいいですが、でも戦になったら治療する人手もいるでしょう」


「あったりみゃあだろう、戦になったら戻ってきてちょぉよ」


「そうですよね…じゃぁ行ってみますか」誠二は成り行きとは言え いらぬ仕事を増やしたと後悔した。

膝上のたたみ終わった綿布を柳行李やなぎごおりに仕舞い、渋々立ち上がるとあきらめた様に治兵衛の後に従い薬坊から表へと向かった。


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