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第四十八話

 慶長五年五月、黒田家では昨年十一月の評定で決定された軍事諸事項はほぼ完遂され、いよいよ会津征伐に向け出征する将兵五千人の選抜が開始された。


そのころ上方では家康の政治的影響力が強まる中、東北会津では五大老の一人 上杉景勝が会津盆地中央の阿賀川畔に「神指城」を新たに築城し軍備増強に力を注いでいた、この上杉の不穏な動きは近隣大名の最上義光や堀秀治らにとっては脅威に映り、上杉の侵攻を怖れ「上杉に謀反の兆しあり」と家康に通報してしまった。

さらに上杉家臣で越後津川城主である藤田信吉が出奔し江戸の徳川秀忠を通じ上杉家の謀叛が家康に報じられた。


以前より家康と上杉景勝の関係修復に努めていた藤田信吉が上杉家から出奔し謀反を報じるとはただ事にあらず、遂に四月一日 家康は景勝に対し問罪使二名を派遣した。


この派遣に際し家康は諸法度や外交文書の起草に優れたる者に弾劾状を書かせた、その状文は「世情不安なるこの時期に軍備増強するは近隣諸国を脅かすことになり、侵攻を意図するとも捉えられる、よって上杉景勝殿にそれら異心無きときは直ちに軍備増強を差し止め誓書を提出すること、併せて早急に上洛し弁明におよぶべし」というものだ。


この返答に上杉家重臣 直江兼続は後世に有名な「直江状」を家康に送ることになる、この数箇条にわたる直江状は家康を怒らせに足る内容であったのだろう、この書状を発端に「関ヶ原の戦い」のきっかけとなる「会津征伐」を家康に決意させたのは紛れもない。

それは直江状が家康のもとに届いたその日の内に上杉征伐が決したからだ。


会津征伐の先鋒は豊臣恩顧の福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられ、伏見城の留守居には家康の重臣・鳥居元忠が任じられた。


会津征伐の決定を受け、五奉行の前田玄以や長束正家らによって征伐の中止が嘆願されたが家康はこれを聞き容れず、六月二日諸大名に対し会津征伐の陣触れが出された。


六月六日大坂城西の丸で会津征伐に関する評定が開かれると朝廷は勅使を大坂に下し 家康の出陣を慰労するとともに後陽成天皇より曝布百反が家康に下賜された。


次いで六月十五日、豊臣秀頼より黄金2万両と米2万石の軍費が家康に下賜され、これにより家康は名実ともに豊臣秀頼の「名代」となり会津に出征することになる、これこそが覇者の座を狙う家康が最も欲しかった「大義名分」であろう。


そして六月十六日、家康は遂に大坂城より出陣し一路江戸へと下った。

一方豊前中津の黒田長政は第一軍から第三軍の将兵の中より白兵戦に優れる将兵五千人を選抜すると、せっかく訓練した新鋭銃を元の火縄銃に持ちかえさせ鎧兜に身を包ませると旧態依然の装備に戻し、集合場所である江戸城に向けて進軍を開始した。


豊前中津から江戸までの距離はおよそ二百八十里、一日平均七里半を行軍しても四十日の日数を費やす距離にある、この距離は兵等にとっては気の遠くなる距離であったろう、あの文禄の役に於いて加藤清正軍が踏破したという釜山から北の最果て咸鏡道の吉州よりもさらに遠い距離にあり、江戸に着いたとしてもすぐに会津までの六十里を踏破しなければならない、この行軍は日本縦断にも等しく中国・四国・九州の諸大名にこの距離の出征を強いる家康の覇力は充分にうかがい知れよう。


それでも黒田軍五千の将兵は七月六日には江戸城に無事到着し翌七日に家康の厚い饗応を受けた、この時江戸城に参陣した大名家は百家近くを数え、その兵数は五万六千にも達した、その中で特に有名な大名家は以下の如くである。

黒田長政、浅野幸長、有馬豊氏、池田輝政、生駒一正、織田有楽斎、森長近、加藤嘉明、真田信繁(幸村)、真田信幸、真田昌幸、田中吉政、筒井定次、寺澤広高、藤堂高吉、藤堂高虎、福島正則、細川忠興、森可政、山内一豊など総計九十九家を数えた。


これに徳川家の旗本6万騎以上が糾合されその数は十一万五千にも膨らむと 七月十九日 徳川秀忠を総大将とする第一陣が会津に向けて進軍し、家康は二日後の二十一日に残る軍勢を率い会津征伐に向け江戸城から進軍を開始した。


こうしたなか家康が会津攻めに出征し畿内を留守にしたのを絶好の機会と捉えたのは石田三成である、七月十七日 石田三成は大谷吉継や毛利輝元、宇喜多秀家ら反家康派の諸大名を糾合し挙兵したのだ、そのころ家康はまだ江戸城にあり その四日後に江戸城を発つが…この挙兵はまだ家康の元には届いてはいない。


この挙兵情報が家康の耳に届いたのは家康本軍が下野国小山に入った七月二十四日の昼前であったという、伏見城に留守居として残した家康の重臣 鳥居元忠が発した急使により石田三成ら反家康派の挙兵を知ったのだ。


家康が会津に出陣した後、石田三成らは家康の居城である京の伏見城を攻略すべく大挙して攻め入った、これを迎える鳥居元忠には留守居兵僅か一千八百の兵しかおらず籠城策を採るしかない。

だが籠城策をとるも家康軍は遙か東国にあり、使わした急使から三成挙兵を知ったとしても来援はあてにならず、それでも籠城策をとったのは鳥居元忠は端っから玉砕を覚悟していたのだろう、証拠に三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺しその遺体を送り返すという挙に出たのだ、そして十三日間の攻防のすえ遂に鳥居元忠は討死する。


三成らの挙兵を知るやまるで予想していたかのように家康は直ちに会津征伐の中止を宣言、同日 家康は秀忠や参陣した諸将を招集し小山評定を催した、この評定で重要な議題となったのは西軍の動きと参陣諸将の態度決定にあろう、この三成ら西軍の挙兵はその陰に否応なく豊臣秀頼がちらつくのは否めない、だが家康とて上杉を討つため十一万もの兵を糾合し大阪城を留守にしたのは何のためか、もし三成らの挙兵を慮れば留守居が数千足らずなどは有り得ぬ事、つまり三成は家康の目論見通り「挙兵させられた」のである。


徳川方東軍に参陣した九十九家にものぼる大名諸将の殆どは元々豊臣恩顧の大名衆だ、いくら家康がこの度の上杉征伐に秀頼の名代として出陣したとしても秀頼は大坂に有り、三成らが秀頼を西軍の盟主に担ぎ出すは当然の流れ、そうなれば東軍に参陣した諸将らは逆臣の汚名を着ることになろう、小山評定は招集当初より諸将の心の内は揺れていた。


この評定でまず家康が語り出したは三成をはじめとする毛利輝元・宇喜多秀家らが豊臣秀頼の御心を惑わせ「謀反」を起こしたと詭弁を弄し決めつけたことだ、そしてここに参集した諸将の妻子は現在大坂で人質の憂き目に遭っていると告げ、三成の「卑劣さ」をことごとく上げ連ねた。


そして締めとなったのは芝居じみた有名なセリフだ。

「ここに集まりし豊臣恩顧の諸将ら心情を慮れば この陣より引き三成が元に馳せ参じたいと思うは当然の理、そうとなってもそれがしは一切恨みもうさぬ、去りたい者は安堵し早々に去られよ」と諸将を見渡した。


座は沈黙に静まった、暫くしてその重苦しい沈黙を破るかのように大声が座の中から発せられた「大坂の妻子を顧みることなく、それがしは家康殿に御味方し三成めを討伐する!」と叫んだのは諸将の中でも豊臣恩顧筆頭とも言うべき武闘派の福島正則であった。


これに即座に呼応したのは黒田長政で「それがし黒田家も家康殿に御味方仕る!」と叫んだ、この豊臣恩顧の二人の叫びは座を一気に家康側へと引き付ける力があったのか「我も我も!」と座は怒号に揺れ、参陣した諸将は一気に家康方になびいてしまった。


またこの評定で名を上げたのは掛川城主の山内一豊である、彼は家康に平伏すると「我が居城をどうぞ御自由に御使い下され、また忠誠の証として人質を差し出しまする」と叫び家康を喜ばせた、すると東海道筋に居城を持つ諸将らは「我も我も!」とこぞって一豊に倣ったという。


後日談であるが関ヶ原で何の武功も上げなかった山内一豊が後に土佐九万八千石を家康から与えられ、その後 高直しにより二十万三千石を領し土佐藩初代藩主になれたのはこの小山評定での「一言」が功労とされたのであるが、このとき他の諸将も申し出たはず、だが「最初の一言」がいかに大事であるかこの逸話からうかがい知れよう。


この座の沸騰に勢いを得た家康は、まずは大阪を鎮圧すべく福島正則と池田輝政を取り急ぎ尾張清須城に向かわせそこで本隊到着を待てと言い渡した、しかし家康は依然不安を隠せない、それはこの評定を一気に家康方に靡かせた福島正則の心の内だ。


家康はこの評定の前に黒田長政を呼び長政の親友でもある福島正則の去就を確認していた、長政はこの時「正則は我と同様に三成憎しは凄まじきもの、家康殿がそれほど気掛かりなればそれがしが正則に会い家康殿に御味方するよう談じまする」と告げ、その結果は上記の如く上首尾となった。


評定は上首尾に終わったものの…未だ家康は気掛かりなのか急ぎ西上する長政を呼び寄せ「福島正則のことくれぐれも頼み参らせる」と暗に正則の牽制を促した、だが真意は面前の長政が逆に福島正則に誘引され西軍に寝返りはしないかと家康は怯えていたのだ。


それは秀吉旗下で向かうところ敵無しとも称えられた福島正則、黒田長政、加藤清正の三人が西軍に寝返り、さらに大軍師如水が加わったならもはや勝つこと難しいと読んでいたからだ。


しかしまさか二ヶ月後、この親徳川派筆頭とも言うべき黒田長政が突然豹変するなどという生易しいものでなく、恐るべき新鋭兵器を携えた黒田陸軍の精鋭部隊を率い、関ヶ原で勝ちに乗じ上洛する家康連合軍を琵琶湖湖畔で待ち構えているとは この時家康は想像だにしなかっただろう。


家康は長政を見送った後、結城秀康の軍勢を宇都宮城に残し上杉に対しての押さえとし、伊達政宗・最上義光を上杉に対する牽制役に据え上杉封じ込めの形を整えた、そして自らは反転西上し三成らの討伐へと向かっていった。


一方の残された上杉景勝は小山評定があった日、家康の命を受けた伊達政宗によって上杉領の白石城を攻撃される、この攻城戦に先立ち政宗の重臣片倉小十郎は白石城に繋がる全ての街道を封鎖し上杉本軍の来援を断ったことでその日のうちに白石城は陥落する。この戦により上杉景勝は反転西上する家康を追い討ちする余裕も無く、当面の後顧の憂いを絶とうと出羽の最上義光を攻略することにまずは方針を転換した、こうして徳川軍と上杉軍が直接相見あいまみえることなく上杉征伐は終息をみた。



 豊前中津では長政らが東国に出兵した後、残るおよそ一万の兵らは中津川練兵場で日夜調練に励んでいた、そして演習に使用した実弾数は既に百万発を超え備蓄量の三割以上を使い果たしていた。


そのため工廠の実包工場では工員を二倍に増やし、三直体制を布くなどして備蓄量を取り戻しつつあった、また七月には中津船渠せんきょで改造戦艦二隻が進水式を終え、今や周防灘を縦横に操舵し戦艦の航行性能や艦載砲の威力・命中性能を検証中であり、八月中には残る二隻の戦艦も工程通り完成できる見込みはついていた。


それにしても豚のような「ずんぐり戦艦」ではあるが、この時代 蒸気機関を動力に黒煙を噴き上げて推進する戦艦は見る者を驚嘆させた、それは関ヶ原の戦いから二百五十三年もの後に登場する黒船が最初であったはず、よってこの時代にあっては蒸気船出現に驚嘆するは無理からぬ話であろうが帆も櫓もない船が滑るように動き出す様はまるで魔法の如くであったろう、如水さえこれを見て「海神の如し!」と讃えたほどであった、しかし当の誠二郎は黒豚が泳いでいるとしかどうにも見えず不満この上ない。


それもそのはず予想に違わず戦艦速度は僅か五ノット(時速9km)が限界で、歩くよりはましな程度だ、旧日本海軍で最速だった駆逐艦「島風」3000tonの最大速度は四十ノット(時速74km)というから誠二郎が腐るのも頷けよう。


このため誠二郎は七月から不効率なベルト式減速機構を無くすべく蒸気タービン式から低回転領域に優れるレシプロ式蒸気機関の製造に着手していた、この蒸気機関の定格出力は千三百馬力でD51機関車と同等のシリンダーサイズとし、クランク軸直結でスクリューを回転させる方式とした、このレシプロ式蒸気機関を安宅船に二基対向して搭載すれば その航行速度は最大二十五ノット(時速46km)が出せると計算された。


この蒸気機関はいま改造中の戦艦には間に合わないが次に予定している五隻目からは何とか搭載できようと蒸気機関の製造を急がせるとともに大型スクリューの高効率翼型の研究も進めていた。


そのころ豊前中津では長政出陣中の留守居として大殿如水(官兵衛)が中津城を指揮していた、しかし七月に三成らの挙兵を知るや九州諸大名のその殆どが西軍側につくことを表明した、こうして九州全体でも東軍にくみするのは黒田長政と加藤清正ぐらいのもので、立花宗茂・小西行長・島津義弘ら九州の有力大名の殆どは西軍に与していた。


またどちらの陣営に属するか鮮明に打ち出さない大名らもいたが、この時の九州における東西勢力分布図を見れば黒田領の周辺はぐるりと西軍に囲まれたようなもので如水が安穏としてはいられないのも頷けよう。


三成の挙兵を知った如水は予てよりの計画通り家康に味方することを鮮明に打ち出し「家康殿の下知有ればすぐさま九州を平定仕る」と家康に意思表示を行った、これに対し長政の元へ家康の重臣・井伊直政より返書が届いている。


それを要約すれば「九州の情勢は西軍に属した小西行長を中心にその勢力は侮れず、黒田家は一層精を出し、九州平定に力を注ぎ 滅ぼしたる国々は切り取り次第!云々」とあり御墨付きの体裁をととのえた返書であった、つまり家康は西軍についた九州諸大名を討伐することを許し、討ち取ったる国々は黒田家の領地としてもかまわないと言っているのだ。


その返書は長政から豊前中津の如水の元へと届けられた、その文面から逆に家康の現況がいかに苦しいかが読み取れたが…如水にしてみればこんな御墨付きなどあの家康狸にかかればいつでも反故になる、そんな軽いものと即座に重臣らの前で破り捨てた。


今の如水にとって家康の尊大なる御墨付きなど笑止千万であり、言われなくとも天下取りに邪魔な九州諸勢力をまずは平らげようと出動の機会をうかがっているのだ、如水にとって今や西軍・東軍などどうでもよく全ての九州大名に降伏勧告を行い、これに応じねば相手が誰であろうと無差別に殲滅せんめつしていくつもりであった。


こうしてうだるような灼熱の七・八月は過ぎていき、機は熟し一触即発の九月が到来したのだ。

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