表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/65

第四十七話

 季節は実りの秋へと移った。ここ豊前の米収穫高は昨年を遥かに上回り空前の収穫高を記録していた。文禄二年 誠二郎が朝鮮から豊前に来た時は一反当たりの収穫量は1石にも満たなかったが今年(慶長4年・西暦1599年)の収穫量はなんと二石半/反を超えたのだ。


豊作の原因は言わずと知れた化学肥料と農薬の普及にあろう、しかし過剰な肥料・農薬の投与は土壌汚染を生じさせ いずれ豊前の田畑は駄目になると誠二郎は憂いていた、それは農産部からの報告でも明らかになった。


誠二郎は慶長の初め工廠内に農産部を創設すると農業技術部門に化学肥料・農薬が及ぼす環境被害の実態を探らせていた、それは以前から化学肥料を与えると何故か害虫が好んでやってくるという苦情が寄せられていたからだ。


調査を始めて三年、農産部から調査結果が寄せられた、それに依れば窒素肥料により土壌が「過剰窒素化」するとその窒素に害虫が誘引されるというものである。


百姓らはその原因が解らぬまま肥料と共に支給される農薬はこのためとばかりに過剰に散布するらしい、この悪循環が年々繰り返されれば土壌は高濃度な窒素と農薬に汚染され いずれ使用不能になるだろうとの見解であった。


その報告を受けとったとき誠二郎は窒素肥料の危険性について昔新聞の日曜版で、植物中の窒素が過剰になると植物自体が窒素過剰状態の「硝酸態窒素」植物となり、硝酸そのものは無害であっても動物体内に取り込まれると還元作用により有害な亜硝酸に変化すると書かれてあったことを思い出した。


亜硝酸態窒素とは血液中のヘモグロビンに結合すると正常な酸素運搬機能を失い極度の酸欠状態と呼吸困難を誘発するというのだ、アメリカで新生児の突然死の原因として問題化したブルーベービー症候群(チアノーゼ現象)はこれにあたり、また亜硝酸は体内のアミンに結合すると発癌物質であるニトロソアミンを生成するとも言われていた。


一方農薬は急性・慢性中毒を誘発する毒性を有し、大気・土壌・水を汚染していく。

そして農薬に直に触れる農民の急性中毒は言うに及ばず、過剰投与により植物内に取り込まれた高濃度毒素が消費者の体内に蓄積され慢性中毒症を引き起こすという。


農産部の報告に依れば一部の百姓に吐き気やめまい、頭痛、下痢などといった体全般の不調を訴えている者も僅かながら出てきているが、この原因が農薬による中毒症状か或いは風土病によるものかは数の統計を待たないと判別出来かねると報告された。


この農産部の報告に接し誠二郎は窒素肥料・農薬の過剰投与が招く弊害を文盲率の高い百姓らにどう周知させるか検討するよう農産部に指示はしたが、今や工廠で生産される化学肥料と農薬は百姓らに「魔法の粉」とありがたがれ、撒けば撒くほど実るという思いこみは そう簡単に改まるとは思えなかった。


この豊前の地は試験農場、そう考え誠二郎はこの豊前に肥料や農薬を試し実際効果として収穫高は新田開発に依るところも多いが僅か四年で3倍近い増産に成功した、だが予想した弊害も出てきている、誠二郎は農産部に収穫高データー以外に肥料・農薬が及ぼす弊害も調査させデーターを採るよう指示したが、最近になりその結果がようやく数字として出たといえるだろう。


誠二郎はこの試験結果をもとに農産部に「農業白書」をまとめさせ、また豊前以外の地域に実用展開できるよう肥料・農薬の製法、及び適正散布量などを含めた「農産物増産手引書」を作成するよう命じた。


この豊前領は過度な化学試験の結果その土壌は汚染され使い物にならなくなる…そんな恐れから誠二郎はこの秋以降は単位面積当りの最小必要量のみ肥料・農薬使用を許可するよう農産部に徹底させるとともに 肥料・農薬工廠の生産量も二分の一に抑えるよう命じた。


あと一~二年の内に黒田家は中央へと進出しこの地を捨てることになろう、この時代であれば当然百姓らは使い捨てで、増産結果の後遺症など黒田家は与り知らぬとこの地を捨てるのだろうが、飛ぶ鳥跡を濁さずとはいかず豊前の農民には申し訳ないが肥料と農薬さえ取り上げれば…数十年もすれば豊前は元の土壌に戻るはず、少々残酷なやり方ではあるがこれも致し方なしと誠二郎は考えていた。



 そんな豊前の高収穫を聞きつけたのか慶長の役が終わった昨年より豊前に隣接する筑前や筑後そして豊後より疲弊した逃散百姓や走り百姓が続々と豊前に流入、その数は農産部が掴んだ数だけでも一万五千人を超え、密かに入り込んだ者らを加えればその数は二万人近くに及ぶであろうとの報告も届き、文禄慶長の役による九州諸大名の戦役疲弊は如何に庶民に大きくのし掛かっていたことかと長政以下黒田家重臣は震撼した。


反面 黒田家にとって百姓という働き手が自然増加する現象は好ましい限りだ、しかし如水・長政が恐れたのは百姓らに紛れて密かに侵入する乱破・素破の類いだ、それは黒田家が徳川方にくみしていることは九州諸大名には既に知られ、徳川派閥に属する黒田家の動向は当然九州諸大名の注目の的となり乱破・素破が入り込む素地は充分に有ったからだ。


そのころ上方では前田利家の死から半年以上が過ぎ石田三成は佐和山城に退隠の身、また毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝、そして利家の跡を継いだ前田利長ら大老職にある有力大名らも相次いで国元へ帰り、中央政治は一人伏見に残っている徳川家康の独断場にあった。


九月七日、家康は伏見城を発つと大坂へと下った、表向きは重陽の節句に際し豊臣秀頼に祝辞を述べるための下向である、家康が九日に大坂の旧石田三成邸に入ると奇妙な情報が耳に届いた。


その情報とは五奉行の一人である浅野長政と豊臣秀頼の側近でもある大野治長らが大老・前田利長を盟主に家康暗殺を謀っているというものだ、この恐るべき情報を聞くや家康はこれを奇貨と捉え、身に危険が迫っていることを喧伝するとともに喜び勇んで大阪城の西の丸に避難したのだ。


家康の行動はこれだけに留まらず、さらに身の警護を名目として伏見城に駐屯する徳川の兵数百も大阪城に入城させ臨戦態勢を布いた、そしてここを新たな根城として居座りを決め込んでしまう。


家康が大勢の兵を連れ大坂城に居座ったとなれば豊臣秀頼にしてみれば居室の離れ部屋に怖ろしげなヤクザの大親分が危なそうな子分数百人と共に居座ったのも同然だ、それでいて「私では無くあなたを護るため」と面憎つらにくくも平然と言ってのけたのだからもはやヤクザと変わりは無い。


こうして秀頼の喉元に刃を突きつけながら家康は権力を一手に握るべく東国二百五十万石という圧倒的覇力を背景に次々と示威的な布石に打ち、その恐るべき本性を現した。


まずは十月二日、家康暗殺の嫌疑を掛けられた者等の処分を独断で発表し、浅野長政には甲斐国府中に蟄居を命じ、大野長治は下総国の結城秀康にお預けの身とした、これにより豊臣秀頼の側近であった石田三成に続き大野長治までもが排除され豊臣秀頼の孤立化はさらに深刻なものになっていく。


翌三日 家康は大阪城西の丸に大阪在住の諸大名を集めると増田長盛の密告を根拠として強引にも反徳川方の大物 前田利長に謀反の意思有りと有らぬ嫌疑をかけ北陸遠征軍を組織するに至る。


この報を加賀で聞いた利長は恐れおののき母である芳春院(利家正室まつ)を人質に差し出すことで何とか家康の赦しを得た、しかしこの弱腰により家康が謀った通り前田家は家康傘下にいとも簡単に呑み込まれてしまう。


この中央における家康の専横極まる悪辣ぶりは豊臣恩顧の九州諸大名にも衝撃を与えた、そして豊臣家に仇為す不忠の輩として家康を憎悪すると共にその家康に与する卑劣漢「豊前黒田家」も同類として攻め滅ぼす対象となり、近隣諸大名より中津城下には多くの乱破・素破が送り込まれたという。


そんな中、十一月の初め家康の許しを受けた如水が大坂から豊前中津へと帰って来た、如水は帰着早々 重臣らを集めると評定を開いた、そこで大坂での家康の動向を皆に語り終えると…。


「先日前田利長殿と婚姻関係にある細川忠興殿にまで謀反の嫌疑を掛けこれを屈服させた、よっていま家康殿にとって残る目障り者は会津百二十万石の上杉景勝であろう、景勝殿はいま会津領内の諸城強化改修に力を注ぎ、増兵や道普請など軍事力増強に次々に着手しておる由、これに家康殿が目を付けぬ筈は無い、来年早々にも会津征伐が論議されよう。


これが天下分け目の戦に発展するは間違い無き事と儂は読んでおる、ゆえに我等もこれに呼応し天下取りの準備を本格化させねばならぬ、よってこれより詳細なる段取評定に入っていくが皆の者よいな!」と如水は重臣ら一人一人の貌を確認するように見ていった。


その評定のあらましは、会津征伐は来年七月(慶長5年・西暦1600年)になると予想されることから六月までに現状八千の正規兵を一万五千まで増員し、別途雇い兵三千ほどを調達可能とすること。


練兵場を工廠川向こうの三角州に建設し、徹底的に新式火器の扱いと射撃訓練を全兵に施すべし、なお黒田家の動向及び調練状況が外部に絶対漏れぬよう兵三千を交代制で国境に配備し、人の出入りを徹底的に取り締まるとともに領内に入り込みし乱破・素破を短期に検挙せよ。


また海戦に必要な軍船(戦艦)四隻を来年八月までに完成すべし、そのほか軍整備や軍事行動、軍費捻出、兵站物資の必要量算出と備蓄段取りの検討など この戰時評定は三日間に渡って開催され綿密に煉られると如水・長政の裁定を以て評定は既決した。


その後、裁定事項は各担当部署に下ろされおよそ半月近くの検討・再訂が繰り返され十二月にようやく会津征伐、九州制覇、天下取りに至るまでの詳細な軍事行動及び軍事関連事業が決定された。


年が明けた慶長五年一月五日、後藤基次少将が率いる第一軍およそ三千の兵が豊前国境の警備に就き、全兵 新式の歩兵小銃を持ち一町(109m)置きに二名ずつが昼夜交代で歩哨に立ち厳重なる警備を開始すると共に伝令密なる体勢を布いた。

これにより人の出入りは関所以外は一切禁じられ筑前・筑後・豊後三国にまたがる国境全域は完全に封鎖された。


また通行関所として田川関所・日田関所・宇佐関所の三箇所が設けられ以降 憲兵隊が発行する通行証を持たぬ者は何人たりとも越境は出来ず、徹底して人や荷の通行が取り締まられた。


そして三角州練兵場と工廠を含む城西周辺には警備兵一千が投入され人の通行を取締まるとともに練兵場に隣接する周防灘には海軍の哨戒挺(六間関船を改造)十隻が常時哨戒に就いた。


それらに関連し憲兵司令部の母利太兵衛中将は第二軍の将兵一千を率いると、この二年の内に豊前に流入した百姓・町人・浪人らおよそ二万人を一人残らず取り調べ、怪しき者には苛烈な拷問を加え容赦なく検挙していった。


この流入した民衆の中には九州大名の疲弊や戦乱終息により余剰となった兵らが浪人となり 黒田家に仕官するため流れてきた者も多く、太兵衛はこれらの身元を徹底調査した上で正規兵として召し抱え、その数は二千人にもおよんだ。


また兵の増員は教育総監部の黒田三左衛門が担当となり、第三軍の兵およそ五百を密かに九州各地に派遣すると兵の募集に当たらせた、また以前赴いた越前・美濃・尾張・三河に腹心の部下を送り慎重に遠方他領の兵募集にも当たらせていた。



 一方 兵器行政本部の安田誠二郎中将は海軍が必要とする艦船及び艦載装備の兵器製造が当面の主担当となり、この命を受け十一月中頃より全長30mほどの小型戦艦の構想設計に着手した、しかしボートを設計するのとは訳が違い半月ほど手探りに計算や構想設計を繰り返してみたが…その殆どの実証に模型実験や実物大の部分実証が必要となり頭を抱えた。


工廠設計部員百人全員投入しても設計完了までに最低で一年は係ろうか、また戦艦製造に必要な大型形鋼設備・板材裁断設備・溶接技術の確立などこれらにも同日数は係り、予定に間に合わないばかりか莫大なる予算計上となるため新規戦艦の構想は遂にあきらめた。


結局は黒田家所有の千石安宅船を改造し新鋭艦に仕立てようということになり、誠二郎は周防灘に面した入り江桟橋に浮かぶ黒田家御用船(安宅船)九隻を微にいり細に入り調査しその構造分析に入った。


しかしその形状・構造を調べるほどに…これらを戦艦に仕立てるは無理と判断するに一日も係らなかった。


だが戦艦四隻の完成引き渡し時期は来年八月と決められている…あと九ヶ月もないのだ、誠二郎は途方にくれながら目の前の腹ボテ木造船を凝視した、見れば見るほどあのスマートな海上自衛隊の護衛艦とは比べようもなく「フーッ」と溜息をつきながら苦渋の想いで(しかたないが腹ボテでやってみるか…)と工廠設計部にスケッチを命じた。


およそ五日もかけスケッチを終え次にフリーハンドで改造構想に取りかかった。

改造は船の舷側全てに6mmの鋼板を打ち付けた鉄甲船とし、甲板上の矢倉や帆柱は全て撤去し新たに6mm鋼板とリブ材で補強した高さ一間半・幅四間・長さ十一間のコンテナ状缶体を甲板上に設置、船倉も一新して後部に12mm鋼板で囲った砲弾・火薬庫を設けると以下は百五十人分の多段ベット・厨房・銃器庫を配置する構造とした。


また兵装は以前設計しレプリカで止めた二寸七分榴弾砲を艦載用に設変し船の前後に各一門を搭載、舷側甲板上には左右それぞれに機関砲三門ずつを配備、そして銃器庫には強力歩兵銃と軽機関銃を百丁ずつを収納することに決めた。


構想図を書き終えると誠二郎は三十人の設計者に改造設計を急がせ、工廠長の佐八郎には二寸七分榴弾砲を艦載用に設変するよう指示し設変出来次第製造にかかるよう命じた。


誠二郎はその後精力的に動き、艦船改造用ドックの建造に取りかかり昼夜を徹し工事完遂するよう命じた、そして予定通りドックは二月中旬に完成をみた。

建造場所は工廠横の中津川河口岸辺に三十間×十間の乾ドックを築かせた、その構造は至って簡素で中津川横に石で囲った深さ二間半のプールを築き、それに仕切り堰と排水ポンプ及びクレーン二基を設置しただけの簡素なドックである。


名称は中津船渠せんきょと命名し二月末より操業を始めた、これに先立ち工廠の製鉄場と工作場及び組立場はフル生産に入り、艦船用鋼板の圧延、艦載砲の製造などが急ピッチに進められていった。


また戦艦の推進動力として旧式1本マストの帆走では戦艦機能は果たせずと結論、誠二郎は工廠で使われている500KVA蒸気タービン式発電機に目をつけた。


この蒸気タービン式発電機は現在工廠で五基稼働しているが、これらは既に三~五年も連続稼働しており更新時期にあったため昨年初めより更新用の蒸気タービン及びボイラー四基の製造を開始し、暮れより順次更新を始めていた。


誠二郎は更新でいらなくなった蒸気タービン及びボイラーをオーバーホールし戦艦の動力に使えないかと考えた、だが問題は回転数だ 蒸気タービンは3600rpmもあり戦艦のスクリュー回転数はキャビテーションや工作精度を憂慮すれば100rpm前後が適切だろう、つまりは1/36の大型ギヤ減速機を造らなければならない。


しかし現在工廠にあるギヤ加工用のホブ盤はMAX:m8/400PCDが限界で五百八十馬力もの伝導を可能にする大型厚ギヤ加工などは出来ない、仮に工廠に有る割出盤とシェーパーで加工したとしても平歯車しか出来ず このタービン回転数であれば騒音や衝撃摩耗を考慮すればヘリカルギヤにしなければならずギヤ減速方式はあきらめた。


代わりとしてVベルトやタイミングベルトによる減速機構を考えたがこの時代にゴムはない、誠二郎は一時 多列チェーンも考えたが製造に手間がかかる上 材質・硬度の均一性は望めないと判断した、結局行き着く所は低速高トルクに不向きな革製平ベルトしかないとの情けない結論に至った。


それにしても木製安宅船の重量はおよそ百十トン、これを鉄甲船に仕立て榴弾砲などを装備し兵を乗せれば二百トンは越えよう、それを僅か五百八十馬力の動力で動かそうとは…通常漁船に装備される動力で600馬力相当の船重量は15ton~20ton以下の船と定義される、その十倍の重さとなればその船速はとうぜん牛速となろう。


流体力学的に船の馬力速度は、馬力×75/正面投影面積×抵抗係数により求められ実際速度はこれにスクリュー効率・機関効率などを乗じ造波抵抗を差し引いた値となり、廻船の如く豚尻のような舳先ではプロファイル抗力も大きく誠二郎が暗算で計算したところ時速10km以下と計算された。


誠二郎は思わず笑いが込み上げた(こりゃ俺のランニング速度だな…)艦重二百トンの戦艦ともなれば最低二千馬力は欲しいところ、それでも維新当時に太平洋を渡った咸臨丸は六百二十トンもの排水量でたった百馬力の蒸気機関というから…それよりはましかと蒸気タービンの搭載を決めるに至った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 今回も楽しく読ませて頂いております。  尚、釈迦に説法とは存じますが、咸臨丸には3本マストも有りましたので、風次第ではむしろ咸臨丸の方がもっと速かったのでは無いでしょうか。  やはり今…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ