表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/65

第三十四話

 石灰窒素の製造は三左右衞門の協力を得て試作に踏み切ったがやはり予想通り製造費用が係り過ぎ100kg程を造ると試作設備は破棄した、一方 加里肥料とリン肥料の試作は工廠北側建屋の一部を区割りし、化学工場分室と命名して工廠の設計部と製造部から七名を選出して進めていた、そして加里は豊前海南沿岸に無尽蔵に繁殖する海藻から抽出を始めた。


海藻はコンブ科の褐藻でカジメとアラメである、この海藻は外海性岩礁帯に生育する大型の多年草海藻で多量の加里とヨードを含む、誠二郎は高校時代加里抽出の話を化学部の顧問から聞き、海藻から加里が摂れるんだと感心し鮮明に記憶に残っていた、その際 加里を得るには海藻を燃焼して抽出するが燃焼する際 温度を制限して加里の損失を防ぐことが重要な鍵と聞き、また燃焼したケルプからの浸出法、発酵法、炭火法などによってカリを抽出すると聞いたが記憶はそこまでであった。


ゆえに豊前海よりカジメとアラメを採取し乾燥させ、その蒸し方や焼き方を種々実験させて加里損失低減の方法を探らせるとともに加里抽出法も高効率な方式を併せて実験させていた。


またリン肥料はリン鉱石を硫酸で処理した過リン酸石灰が化学肥料の第1号と言われるが、日本にはこのリン鉱石は殆ど存在しないことは分かっているため、当初は製鉄場で不要となったリン分の多い鉄屑や残渣からリン酸鉄として析出できないかと鉄の電気分解法を考えた。


しかし計算的に電気分解法はコストからして全く合わぬことから もっと安価に抽出できないものかと考えていた、そのとき海岸に乾物加工し捨てられた大量の魚骨の山を見たとき「これだ!」と思った。


魚の骨にはリン酸が17~20%近く含まれるため特にコストをかけてリン抽出する必要はなかろうと考えた、つまりそのまま乾燥し粉骨すれば「有機質リン酸肥料」として充分使えるだろうと思えたのだ。


こうして窒素を除く加里・リンの肥料造りは着々と進み、早ければ来年春の田植え時期までには試作肥料が間に合うと読み、三町歩程度の田で肥料効果の実験が試せると誠二郎は意気込んだ。


残る肥料は石灰窒素である、これは先日苦労し試作設備を作り少量を生成してみたがグラム当りの生成費が銀の単価に等しく実用化にはあたらぬと断念、すぐにハーバーボッシュ法でアンモニア合成を試みようと実験を始めた。


まずは圧力200~350気圧下で温度500℃を加え窒素と水素を反応させるにクランク式ピストンポンプを造り35Mpa(345気圧)の油圧上昇に成功し、この油圧を以て鋳造製シリンダーを作動させ360気圧の窒素圧縮に成功した。


だがゴム系Oリングなどは無いため シール材に麻糸を撚って角断面形状に整え膠・鉛・油を混合した溶液を含浸させたグランドパッキンを造りシールとした、だがこのパッキンは気体封止が甘く短期高圧には適するが高圧維持は一分ほどしかもたず、麻糸以外の材料や断面形状をいろいろ試したが元世のゴム系Oリング+バックアップリングに適うはずもなく、また鉄アルミナ系触媒に代わる触媒金属を種々実験するもやはりアンモニア合成には至らず結局ハーバーボッシュ法もあきらめることとなった。


そして年の瀬も押し詰まった二十八日、豊前北端の石黒村で石炭採掘中に石炭層を覆う邪魔な岩層に当たったためその岩層を取り除き野積みにしたところ野積の山が雨に溶け崩れたとの報告があった。

その報告を聞き誠二郎は岩石が雨に溶けるなど有り得ぬ話、たぶん五日前に降った大雪が溶け野積みが緩んだのだろうと思った、だが素人でも分かる雪解け崩落を岩石が溶けたと報告するとはもしや…と思い現地へ向かった。


現地で崩れた野積山の岩石を調べるとやはりもしやと予想したとおり塩安(塩化アンモン石)と判明した、この鉱物は火山噴気孔周辺 或いは古代に石炭が自然発火した層などで産出し、火山煙や石炭煙に含まれるアンモニアと塩素が反応して形成された水に溶けやすい鉱石だ。


誠二郎はさっそく坑内を見て廻り塩安層が以外に厚いのに驚き驚喜した、すぐに石炭掘りを中断させ塩安の採掘を優先するよう指図し採掘した塩安は水に濡れぬよう貯留小屋の増設を命じた。


この塩安はクラッシュローラーで粉末にすればそのまま窒素肥料として使える優れものだ、誠二郎は肥料製造のほか火薬製造の原料であるアンモニアを取り出すべく工廠に着くやアンモニアを分離抽出する「加熱反応塔」の設計を工廠設計部に指示した。


文禄四年の年はこうして暮れようとしていた、一方この年は朝鮮半島では特に目立った動きは無く、釜山近郊の機張城に駐屯する長政から送られる書状にも朝鮮半島から明軍はほぼ撤兵し大将の劉綎もすでに北京に帰還したと記されてあった。


だが秀吉の元では年頭初より朝鮮問題は新たな段階を迎えていた、それは過ぐる文禄二年六月 講和の答礼使として小西行長の腹心である内藤如安が明の講和使節団とともに肥前名護屋城を発ち明国の首都北京へと向ったが、北京入邑の許可は未だ下りず遼陽の地で待機状態にあるとの知らせを最後に彼らの消息が途絶えたというのだ。


この一年半にわたる日本を無視した明国の対応といい、明国現地の状況が掴めぬ焦燥感は秀吉にとってどれほどのものだったろう、一旦矛を収めた秀吉が再び刃を抜くのは時間の問題で現にここ豊前の中津城内でも次第に慌ただしくなり、再び朝鮮半島への再派兵が取り沙汰されるようになってきた。



年が明けた文禄五年三月に塩安を原料とするアンモニア製造設備が出来上がると工廠北区画の化学工場分室では手狭なため新たに工廠北に「肥料工廠」が新設され七月初めから加里肥料とリン肥料そして窒素肥料製造は本格稼働を開始し併せてアンモニア生産も開始した。


七月九日亥刻、深夜突然の轟音と共に屋敷が大きく揺れた、そのとき誠二郎は書斎で大阪の如水宛に肥料工廠稼働の状況を知らせようと書状を書いている最中だった。


誠二郎は驚いて目の前の座卓の両端を掴むと天井を見上げた、軋むような音とともに天井が大きく波打っていた、咄嗟に頭を過ぎったのは隣の閨で寝ている多江のことである、掴んでいた座卓から手を離し閨に行こうと一歩足を踏み出した、その時 目端の行灯が倒れ慌ててそれに手を伸ばしたが遅かった、倒れると同時に行灯から炎が上がった。


これに慌てた誠二郎は今まで座っていた座布団を掴むや体ごと行灯の上に被せ 転がる様に火を消そうと藻掻いた、幸い油が少なかったのか行灯は潰れ炎はすぐに消えた。


すると隣の閨から多江が襖を開けて飛び込んできた。

「あなたお怪我は…」と言いつつ眼を剥いて誠二郎の姿を呆然と見つめた、月明かりにもその顔は蒼白く映ったが すぐにも笑顔に変わり「クスッ」と笑いが零れた、誠二郎は裾を無様に広げ尻を剥き出しの状態で畳に腹ばっていたからだ。


誠二郎は我に返ると慌てて起き、何も無かったように裾を正すと正座に座り 照れたように多江を仰いだ、その頃にはもう揺れは収まっていた、それでも部屋隅の書棚二つが倒れ部屋の半分近くに書類がばら撒かれ地震の程度を物語った。


幸い深夜で行灯を使っていたのは誠二郎だけだ、すぐに家臣らと共に庭に出て屋敷廻りを点検するも特に被害らしき箇所は見つからず 胸を撫で下ろし部屋に戻ろうとしたとき遠くに早鐘が聞こえた。


その方角を見ると何となく空に赤みがさして見えた、気になって家臣らに見て参れと申し付け多江が待つ閨へと戻った、その後も余震なのか軽い揺れが何度もあり その夜はまんじりともせず不安な一夜を過ごした。


この地震はのちに伊予地震と名付けられ震源地は豊後沖 速吸瀬戸を挟んだ伊予あたりと知らされたが ここ豊前では被害は殆どなく町屋の数軒が火災で焼失した程度に終わった。


それから三日間ほど小さな揺れが頻発し誠二郎はこの揺れを奇妙な感覚で捉えていた。

七月十二日 朝から蒸し暑く奉行部屋の窓や襖は全て開け放っていたが風はなく額にはじっとりと汗が滲み出ていた。


誠二郎は襟を広げると扇子で胸元に風を送りながら昼からの会議に備え書類の目通しに余念がなかった、しかしこの日も朝から軽い揺れが何度もあり その内大きな揺れが来そうな予感に落ち着いて仕事に集中出来ず苛立ってもいた。


今も揺れを感じふと手を止めると思い出すような仕草で遠くを見つめた。

(そう言えば慶長の大地震というのがあったはず…、確か文禄五年に大地震が相次ぎ その天変地異の多発により十月に文禄から慶長へ改元されたと何かで読んだ記憶があるが…。


文禄五年って…エッ!今年じゃない おいおいまさかその前兆がこの揺れではあるまいなぁ、慶長の大地震で被災にあった地域はたしか京都伏見が被害甚大だったと覚えているが…群発地震で九州の何処かでも大きな被害があったはず、あぁぁ何処だったか…まさか豊前ってことはないよなぁ。


文禄五年ということは覚えているが…何月何日までは記憶にない、はぁ何のために未来から転生してきたのやら 情けない、しかし東日本大震災のような大地震でなければ良いが、もしあの規模の地震であれば津波も来るだろうし、そうなれば塩田や漁村それに漁船も全滅するだろう、揺れが酷ければ海辺に限らずこの城も工廠も城下町も危うくなる…はぁまいったなぁ)

誠二郎は伏見以外の被災地を思い出そうと四半時近くも瞑想したがやはり出てこなかった。


二ノ丸書院での会議が終わったのは未刻昼八ツ半を少し過ぎた(午後四時頃)ときだった、誠二郎は二ノ丸を出ると部下二人をともない三ノ丸に向かって歩いていた、そのとき地鳴りと共に地面が緩やかに揺れているのを感じた、まるでそれは船に揺られる感じに似て気味の悪い揺れ方だった。


三人はそれに気付きはたとその場に佇んだ、その時である まるで地面から突き上げるような衝撃に腰が砕けた、三人は狼狽え地面に片膝をつくと両手で地面を押さえる仕草に周囲を見た、木々が揺れ北に建設途中の櫓が大きく揺れたと見えた瞬間 櫓は轟音と共に崩れ落ちた。


誠二郎はまさかという思いで後方に聳える天守を仰いだ、すぐに口をついて悲鳴が洩れた 今まさに天守庇の瓦が雪崩のように崩れ落ちる瞬間だったからだ。


ただ呆然とその崩壊を見つめ、本丸天守倒壊の予感に体が震えたとき はたと揺れが止まった、誠二郎は溜息と共にその場に尻餅をつき再び天守見つめた、屋根庇の一部欠損は見られるも今なおその雄大さを目の当たりにし「はぁぁ」と胸を撫で下ろした。


この地震の揺れは三十秒ほどと思うが先日深夜の倍近い震度にも感じられた。

揺れがおさまり三人は立ち上がると二人の部下を主税部へと走らせ係員全員に領地の各地域に走らせつぶさに被害状況を調査するよう命じると誠二郎は単独で本丸横を走り抜け北御門へ急いだ。


北御門に走った理由は豊前海を間近に見るためだ、津波が来るとなれば潮が一旦引くという事は東日本大震災のときテレビで何度も見ていた、誠二郎は北御門を飛び出ると左に折れ中津川の河口堤防を駆け上がり正面の豊前海を望んだ。


やはり予感が的中した、河口の流れはまるで海に吸い込まれる様な速さで引き それに呼応するように海岸線の砂浜が大きく海側に広がりを見せていた、これは明らかに潮が引いている現象だ。


誠二郎は「津波が来るぞ!」と無意識に叫んでいた、それは他所に知らせる術がなかったからだ、この北御門から門衛を城南・城北の漁村に走らせても一番近い宇島村や大新田までは一里以上もあり今にも押し寄せる津波にはとうてい間に合わない、誠二郎はその場に崩れるようにへたり込むと 忘我の眼差しで豊前海を見つめた。


暫くして一旦引いた潮が止まったように見えた 遠くには長州宇部の岬が朧に見える、その岬がみるみるうちに海に沈んでいく、いや岬が沈んでいるのではない 沖合の潮が膨らんでいるんだと気付くのに時間は係らなかった。

(あぁぁ来る、来るぞ!)と心の内で叫んでいた、あのときテレビのニュースで見た津波の始まりそのものだったからだ。



 地震の翌々日、方々に飛んだ部下による現地被災報告が続々と誠二郎の元に寄せられた。

それによれば城北部には殆ど被害はなく、南部地区 特に豊後との国境の被害は大きく倒壊家屋三百二十軒、死者八十五人を数えていた。


震源地は豊後別府湾内(当時は硫黄洋)と推定され、津波による流出家屋数千戸、死者七百余名、高崎山と由布岳の山崩れなどの被害をもたらし、津波被害は寺院の鳥居などの水跡から 推定される高波は十三尺(4m)から最も高いところで三十五尺(10.6m)程と豊後沿岸部は壊滅的な被害を受けた。


一方豊前は幸い震源地が別府湾内であったため津波は湾内に集中し、ここ豊前国には大きく張り出した国東半島が防波堤となり、押し寄せた津波高さは最大でも三尺程度と低くその被害は南部海岸線に造られた塩田のおよそ三割近くが浸水した程度で済んだ。


地震の翌日には城の三ノ丸に地震対策本部が設けられ その頭に三左衛門が就いた、彼はすぐさま南部地区の救援活動を指揮し、また隣国豊後の救援として一千人の兵を送ると不眠不休で救援助成に当たらせた。


誠二郎は普請奉行の益田正親に命じ城施設の損傷箇所の修繕及び城下の倒壊家屋の救援に当たらせると共に、自らは工廠に赴くと特に被害が大きかった製鉄場修復の指揮を執った。


後にこの地震は慶長豊後地震と呼ばれ、翌日京都伏見でも起こった伏見地震と三日前の伊予地震の三つの群発地震を総称し「慶長大地震」と呼ばれ後世に伝えられた。



 文禄五年閏七月十三日、秀吉は伏見城で明国使節団を迎える準備を進めていた、しかしこの日の子の刻(深夜十二時頃)畿内一体を揺らす大地震が発生 世に言う慶長伏見地震である、震源は京都の伏見付近で伏見城天守や東寺また天龍寺等が倒壊し死者は一千人を超えた。


地震は直下型地震で、地震による死者数は京都と堺だけでも一千人以上を数え、完成したばかりの伏見城天守はこの地震により倒壊、城内にいた者等は崩れた天井・柱・石垣で六百人ほどが圧死したと言う。


京都では東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺等が倒壊し、被害は京阪神・淡路島の広い範囲に及び大坂・堺・兵庫では家々の多くが倒壊、また讃岐・阿波でも強震を伴ったと伝えられた。


その頃 明国・朝鮮の講和使節団が大阪に到着するのは一ヶ月後に迫っていた、秀吉はこれを伏見城で引見する手筈となっていたが、この度の地震による伏見城の被害は甚大で 一ヶ月では城の修繕は到底無理と判断し使節団の引見を九月一日に延期、場所も大阪城に変更するよう石田三成らに命じた。


文禄五年九月一日、秀吉は大阪城で明の正使・楊方享と副使・沈惟敬らを歓待した、正使・楊方享は儀礼を尽くし秀吉に対し明皇帝の国書と金印そして冠服を贈り講和成立の祝賀を述べた。


なお李氏朝鮮の正使・黄慎と副使・朴弘長は秀吉の要求であった朝鮮王子らを日本に連れてこなかったことに激怒し対面を拒んだ、これに対し小西行長は弁解を尽くしたがやはり秀吉の勘気は収まらず朝鮮の正使と副使には最後まで対面することはなかった。


九月二日、秀吉は大阪城で贅を尽くした宴席を設け明の正使と副使を接待し、その後 正使らが堺に戻ると秀吉は引き続き歓待する意味から高僧・西笑承兌ら数人を堺に派遣し明の使節団を接待するよう命じ、正使の楊方享には「望みあれば何でも申すように」との秀吉の言葉を伝えさせた。


このとき楊方享は秀吉の言葉を拝聴し安心したのか不用意にも本音を吐露してしまった、この堺でのやりとりこそが和議決裂の要因となっていく。


楊方享は「朝鮮半島に作った倭城及び全陣営の完全破却、並びに日本駐留軍の撤退と李氏朝鮮を許すこと」という懇願書翰をしたため僧・西笑承兌にこれを託してしまった、僧・西笑承兌はこの書翰を石田三成か小西行長に届ければ後の和議破綻など無かったろう、だが西笑承兌は書翰を直接秀吉に渡してしまった。


秀吉はそれを受け取り読むうち、朝鮮諸陣営取り壊し要請箇所に及んだとき顔色は憤怒に染まっていった。


秀吉がこれほど激怒したのは日本の権威中枢に立つ我に明国人や朝鮮人は恐れ入っているいると信じた上で柄にもなく彼らに特上の接待を示したのだ…しかしその応えが侮りに満ちた書翰で返され、初めて講和条件七ヶ条が一切反映されていないことを知り烈火のごとく怒ったのだ。


激怒した秀吉はこれまで和平交渉に当っていた小西行長を呼び付けると「ようも儂を謀り厚顔無恥にも明の正使を儂の面前に連れてこられたものよ!」と激情に燃え、この場にて行長の首を切れと申し渡した、しかし駆けつけた石田三成らが仲裁に入り どう秀吉を丸め込んだのかこれだけの欺瞞をやってのけた小西行長は不思議にも危ういところで処刑を免れている。


このとき小西行長は秀吉に「明との和平交渉は順調だったのですが、李氏朝鮮が邪魔をしたのです」と弁明したとも伝わるが、ともかく最終的に秀吉の怒りは明国ではなく李氏朝鮮へと向けられていった。


こうして大阪での講和交渉は決裂し文禄五年(慶長元年)九月、秀吉は朝鮮半島への再派兵を決定し、主力となる九州大名らに速やかなる渡海を命じ、中国・四国の大名らは年明けの慶長二年の渡海と定められた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ