第三十三話
昨年の米の収穫は案の定 九州全域に及んだ「穂首いもち」の影響で豊前国の被害は二万石を越え 豊前の隣国に至っては被害はさらに深刻で、筑前は四万石、豊後は五万石の被害と推定され九州北部に住む百姓らは飢饉の到来に怯えた。
誠二郎はこの事態に主税部を総動員し被害の多かった豊前南部地域を調査させ被害に応じ五公五民を軽減し救済に奔走した、ただ豊前に限っては三年前から誠二郎主導で殖産振興として綿花栽培、豊前海塩田、漁業の促進を計っていたことが幸いし年貢米以外の別収入が三万石ほど増え近隣の大名と比較すれば打撃は少なかったと言えよう、だがそれは黒田家台所の被害が少ないという意味で百姓らにとっては被害に苦しむ九州諸大名の農民らと何ら変わりは無かった。
殖産振興の一つである綿花栽培は三年前より黒田家自墾地で本格的に進められ 始まって三年とはいえその収入だけでも六千石を超えた、この綿花栽培は誠二郎が主税奉行になったとき綿織物が異常高騰していることに着目し、城の西方に分散する黒田家自墾地や 水田に適さない山際農家の副業として補助金を供与し栽培を促したものだ。
綿織物が異常高騰している原因は、その頃 綿の殆どが勘合貿易で明・朝鮮から輸入され文禄の役が始まってからは 明・朝鮮からの輸入が途絶えてしまったことによる。
輸入が途絶えてから綿は高騰し 京・大阪の豪商や西国の大名らは堪らぬとばかりに自領農民に綿栽培を奨励した、黒田家はその先陣を切り早くから大量栽培に着手した大名でもあった。
また豊前海塩田は、豊前の海が中国・四国沿岸に囲まれ波も穏やかであったため塩田作りに適すと考え城の南に広がる浜辺に幾つもの塩田を整備させた。
整備した塩田は入浜式塩田と呼ぶもので、遠浅海岸の満潮・干潮の中位海抜に堤防を築き その内側を平にならした塩田である、この方式は満潮時 堤防に築かれた堰を切れば海水が塩田に浸水し自動的に塩田全域に浸透されるという画期的な方式だ、この当時塩の製法は揚浜式や古式入浜式に限られ生産量は寡少、そのため塩の価格は現代では考えられぬほど高額で取引されており 大量生産できればその実収入は大きく誠二郎が最も期待する殖産興業といえた。
この入浜式塩田の導入により従来周防やここ豊前海(周防灘南部海域)でも行われていた揚浜式塩田のごとく海水を砂に散布する人為作業が省略され大幅な労力軽減が実現した、これにより大量生産が可能になり「豊前の天日塩」という銘柄で塩のブランド化を図るべく京・大阪・尾張・関東方面に拡販を行っていった。
この塩田方式の発想は転生以前 誠二郎が山口県三田尻の鍛造工場に十日ほど詰めたとき、宿の近くに三田尻塩田記念産業公園があり、その古式な塩造りに興味を持ち土日の休暇を利用し二日間通って詳細に目に焼き付けた製塩方式である。
また豊前海は良好なる漁場としても知られ、新鮮な海の幸が豊富に採れた、しかし豊富に採れた新鮮な魚は京や大阪までは持って行けず これまでは地産地消を限度としていた。
この豊富な海の幸に誠二郎が着目しないはずはない、遠国に売り捌くべく生魚を乾物に加工することを大いに奨励し黒田家御用船を仕立て京・大阪への拡販を援助していった。
その振興政策により黒田領内の漁師らはこれまでは地元でさばける分だけの魚しか獲っていなかったが肉厚乾物や燻製物が京大阪で飛ぶように売れる事が分かり出漁は次第に増加していき、今年は三年前に比べ漁獲高は四倍にも増え、漁村に面した浜辺や辻は何処でも天日に晒された乾物が見られるようになった。
そのほか誠二郎が取り組んだ殖産事業は、「織物の町」としての地位を確立しようと「豊前綿織物」を基幹産業とすべく城下に大規模な織所を建設していった、併せて「豊前の天日塩」「豊前乾物」のブランド化を図り、造船・海運・農機具・絹織物、また割符システムにも力を注いでいった。
だが肥料・農薬開発の方は遅々として進まなかった、それは余りにも誠二郎の専門外であったからであろう、それゆえ肥料農薬抜きで米の増産を図る方策も併せて進め、主税部の農産租税係の官吏らに二毛作や早植え、マメ科穀物や菜種の裏作などその普及程度を調査させ、併せて鯉農法や合鴨農法など誠二郎が思いつく殆どを実施させ有効と判断されたものは順次各村々に奨励していった。
また各村を巡視したさい感じたのは 誠二郎が子供の頃 近くの田でカエルやザリガニを捕ったとき、田は四角形に区画され畦道の整備も行き届き小幅ながら水路は縦横に切られていた記憶があった、しかしここ豊前の田を見るに田の形は不揃いで用水完備にはほど遠く水はけも悪かった、また実りの稲穂も密集と散在が目立ち どう見ても日当たりや風通しが良いとは思えない。
元世のような網の目状態に植える「正条植え」は時代はずっと下って明治中期と言われるが、この田植え法を取り入れれば日当たり風通しもよく単位面積当りの収穫高も安定且つ積算もしやすいと考え 誠二郎は正条植えを普及させるべくまずは黒田家自墾水田で実施、「苗代造り」から「正条植え」そして中途での「中干し」を試しその効果を調査、それらノウハウを取得しだい豊前領に普及させていった
一方 肥料については元世の生活では誠二郎自身が肥料に関わることなど殆ど無かった。
ただ在所の尾張小牧は田畑が多く子供の頃は近くの水田でオタマジャクシやカエル釣りに興じたおり田畑の脇小屋に硫安と書かれた肥料袋を見たり、また農薬散布や肥料蒔きの光景など幾度となく目にした記憶はある。
また肥料に触れた経験は、妻が裏庭で家庭菜園を行っていたとき家庭菜園用肥料を近所のホームセンターに一緒に買いに行き、説明書を読みながら肥料を土に混ぜ肥土造りをしたり、妻が読んでいた「家庭菜園」の雑誌を数冊読んだ程度だ、ゆえに誠二郎の肥料・農薬の知識は雑誌から得た知識と高校時代化学部で培った化学知識程度のものだ。
そんな朧な知識によれば 植物が正常に生育するために必要な元素は炭素、水素、酸素、窒素、リン、カリウム、カルシウム、マグネシウム、硫黄、ホウ素、塩素、銅、鉄、マンガン、モリブデン、亜鉛の16元素とされており。
そのうち炭素、水素、酸素は大気及び根から水の形で吸収するため人為的に外部供給する必要はなく それ以外の元素は根から自吸収するという、その吸収源である土壌に必要不可欠な元素といえば窒素、リン、カリウムだ、これらを肥料三要素と呼び施用が適格なら経済的に大きな効果をもたらす元素だろう、またカルシウム、マグネシウム、硫黄は三要素に次いで重要な地位を占め これらを二次要素という。
以上のように概論程度の知識しか無く、これで肥料を作るなどは烏滸がましい限りだろうが 一旦口を滑らせ造ってみようと三左衛門に言った限りは何らか形にしなければ男の沽券に関わるというもの、ゆえに肥料三要素を生成することに誠二郎は躍起になっていた。
だが三要素の元素は道端に転がっているわけはない、現代であればこれら元素は入手が可能で窒素、リン、カリウム等を含む肥料は造れなくもない、しかしこの時代ときたら何も無いのだ。
誠二郎は研究を始めて一ヶ月後、三左衛門に恥を忍んで「申し訳ない、それがしの能力では無理」と伝えた、しかし三左衛門は納得しなかった。
「現状の黒田家収入でどうやって家臣など増やせよう、おぬしが進めている殖産振興には望みは見えたがそれだけでは不足なのじゃ、やはり農産物の増産こそが収入を端的に増やす唯一方策であろう、駄目元でもよいからまずは開発に着手して欲しい、儂も手伝うゆえ頼み入る」との熱意に誠二郎は根負けし生成に着手していった、だが裏腹に「兵を増やすのはお前の役目だろう」金をかけずに集める方策を少しでも考えたのかと言いたかった、だがとっちゃん坊やに言ったところで詮無いこと(はぁやるしかあるまい)とあきらめていた。
まず最初に試みたのが窒素肥料だ、窒素は空気中に80%も含まれているが植物はこのガス状窒素をそのまま吸収することはできない、吸収の主体はアンモニウムまたは硝酸の無機態窒素となる。
窒素肥料には速効性のある硫酸・硝酸アンモニウムや中性の尿素、また石灰窒素などがあるが特に石灰窒素は土壌線虫の駆除や除草にも効果があり肥料でありながら農薬の役目も果たすとウィキペディアに書いてあったことを思い出した。
誠二郎はいつまでも考察するばかりでは前に進まずと、まず手始めとしてこの石灰窒素を生成してみようと考えた。
石灰窒素の化学式 CaCN2 から CaO+3C → CaC2+CO CaC2+N2 → CaCN2+C と石灰窒素の原料は生石灰とコークス及び窒素ガスからなる、生石灰の原料である石灰石は幸いここ豊前には露天に剥き出しの状態で存在した、それは以前 三左衛門と中津西方の赤村に行ったさい山肌に石灰石が多く露出しているのを発見した。
石灰窒素の製造工程は、石灰石を高温で焼成し生石灰を造る、次ぎに出来た生石灰にコークスを加え これを粉砕して電気炉に入れ溶融させる、溶融し冷却固形化したものがカルシウムカーバイトである。
そのカーバイトを攪拌容器に入れ高熱を加えながら窒素ガスを吹き込み反応させれば石灰窒素になる…と製法は分かっていてもカーバイトと窒素ガスを得るにはそれなりの設備を造らねばならない。
まずは石灰石を焼成し生石灰とする焼成炉は製鉄場のコークス炉を流用することにし、またカーバイト造りのカーボン炉は以前誠二郎が勤める会社の開発室にあったものを真似て1/4サイズの小型のものとし、電源仕様も10KVAに抑えるため坩堝は二寸半の小サイズ径とした。
次ぎに窒素ガスは工作場の三台のコンプレッサーを流用し小型の水洗冷却器・吸着器・精留器は板金加工で簡易に造り、熱交換器は製鉄場のものを流用して「深冷空気分離法」で窒素ガスを大気より分離させることにした。
またカーバイトと窒素ガスを反応させる熱源はコークス炉を流用し、反応容器はコークス炉内に安置できる耐熱小型容器を造った。
見てくれは悪くまた流用設備ばかりの寄せ集めだが石灰窒素試作の最低設備は何とか造り上げた。
十二月の始め三左衛門を頭として生石灰の製造から開始した、このプロセスは煆焼と呼ばれ石灰石をコークス炉で加熱し温度を維持させながら石灰石から二酸化炭素を放出させるのだが、出来た生石灰をコークス炉より取り出しそのまま大気中に放置すると再び大気中の二酸化炭素と反応し先の逆反応が起こるため密閉出来る陶製容器に封入し製造を終えた。
続いてカーバイト造りである、電気は今年四月より工作機械のモーター電源として試作を進めていた小型蒸気レシプロ式発電機(定格出力:18KVA)が先月末に完成していたためこれを流用した。
また製鉄場の隅に設置された小型カーボン炉は二寸半の坩堝容積しかなくこのため必要量のカーバイトを得るに五日も係ってしまったがそれでもなんとかカーバイトと深冷空気分離法で窒素ガスを得ると高圧ボンベに圧縮して詰めた。
十二月十五日、朝からコークス炉には火が焚かれ炉内の反応容器には粉砕したカーバイトとコークスが装填され触媒として蛍石粉1.0~1.5%を添加した、その容器を炉外よりハンドルでゆっくり回して攪拌しつつ炉内温度が指定温度に達したとき容器内に窒素ガスを吹き込んだ、そしておよそ二刻のあいだカルシウムシアナミド合成を行い昼前には六貫ほどの石灰窒素の合成に成功した。
この合成でカーボン(C)は遊離し白色石灰窒素(CaCN2)が得られ、昼過ぎより粉砕器にかけ粉状の石灰窒素にして袋詰めを終えた、完成した窒素肥料を前に三左衛門は喜びに目を潤ませたが誠二郎は溜息を洩らしていた。
たった20kgそこそこの窒素肥料を造るに一体いくらの費用をかけたのだろう、設備費を除外してもグラム換算すれば銀の価値を超える高価な肥料になった、こんな高価なものを田畑にバラ蒔く馬鹿などいない、要するに「コスト無視で何とか造ってみた」に過ぎないのだ。
例えこの肥料で米が今よりも多く収穫できたとしても費用対効果は全く合わず無用の長物である、そんな事は三左衛門でも察しが付いているはず、それでもこの喜びようはこの化学合成を驚異と捉え誠二郎とは全く別の次元で喜んでいるのだろう。
(やはり石灰窒素製造は当初の予想通り無理が有ったな…これをコスト低減するには長年の試作研究が必要であろうし巨大な設備や水力発電も必要となろう、しかしとてもそんなものに手は回らないし金も無い、やはり石灰窒素はあきらめるしかないのか)
では代わりになるものは何があろう、すぐに思いつくのは硫安や硝安であった、しかしその原料となる硫酸も硝酸も火薬造りの貴重な原料で現状いくらあっても足りない、それを土中に蒔くなどとんでもない話である。
だったら後は何がある…誠二郎が知ってるのはもう尿素しか無かった、尿素は窒素肥料として稲穂の充実に効果があることぐらいは雑誌を読んで知っていた。
尿素は窒素を約46%も含む、窒素肥料の中では最も窒素成分の高い肥料と書かれてあった、この尿素は人が排泄する尿の中にも含まれ、成人では1日30gほどの尿素を排泄するという。
計算上だが豊前の民全員が一日に排泄する尿から尿素を抽出すれは1.2トン程度ぐらいにはなろうか、坪あたり30gの尿素散布が適正と聞いた事があり、その量からすれば十三町歩ほどの水田に充当しよう、豊前の耕地面積はおよそ二万町歩あり その三分の二の水田面積に散布しようとすれば民全員の三年分の排泄量が必要となる計算だ。
(三年分にもなるのか…これに回収率と抽出効率を乗ずれば…およそ十年分に相当するだろう、ふぅっ十年も係ってようやく撒き終わるのか、それでも石灰窒素や硫安・硝安を造るより短期且つコストは数分の一となろう、しかし十年もかかっては江戸時代になってしまう、コリャ駄目だな やはりアンモニアの化学的合成に依らねば大量生産は難しいだろう…)
この化学合成とは、窒素N2 と水素H2 からハーバー=ボッシュ法に従って N2+3H2=2NH3 という反応によりアンモニア合成することを言う。
この合成に必要な窒素は空気から分離したものを用い、また水素 (水素ガス) は石炭やコークスを燃焼させてこれに水蒸気を吹込み水素ガスを得る、そしてこれらを高温高圧下で合成しアンモニアを作る。
次ぎに出来たアンモニアと炭酸ガスを反応させてアンモニウムカルバメート(NH2COONH4)を生成させ、これを分解して尿素を精製する方法だ。
アンモニア合成に成功すれば火薬への応用や冷媒としても実用価値は高い、誠二郎は高校時代ハーバー=ボッシュ法を知り猛烈な興味を覚え合成してみようと関連文献を読み漁ったが、高校には合成に必要な高圧コンプレッサーが無く、また化学部の顧問から危険に過ぎるとして禁止された苦い経験の合成法でもあった。
(よし…危険は伴うがやってみるか)
そう思うと目の前の石灰窒素が色褪せて見えた、それでも出来た肥料を前にして喜ぶ三左衛門や職人らの努力を思うと今の落胆は表情には出せなかった。
(折角造った設備ゆえあと100kgほどは実験用として製造を続けさせ、後は使える機器だけを残し廃棄しよう)と考え始めていた。




