第二十七話
誠二郎が豊前中津に来てから一ヶ月が経とうとしていた。
当初 大屋敷が出来るまでの仮住まいは調度品など何もなく 暮らしていく上での最低限の家財道具のみ揃え安田家は発足した。
だがタヘが戻り家来もこの一ヶ月で四人増え家具調度品もそれなりに整っていった。
そんなある日、大殿官兵衛から書状が海を渡って届けられた、文の内容はあの日 秀吉の勘気はやはり解けず結局 秀吉にも会えずに朝鮮に戻ったこと、それと例の件で国元での費用捻出が困難になったときは堺の豪商 近江屋幸右衛門を頼れと書かれ、また重臣らが誠二郎の差配に反対の意を唱えた場合は添付した儂が「御墨付き」を上意に掲げ断行せよとあり、幸右衛門への添え状とともに御墨付きも添付されてあった。
文に書かれた通り官兵衛は文禄二年五月十九日名護屋湊に立ち釜山に帰っている、あの日 官兵衛は秀吉の勘気を解くべく名護屋城に向かい秀吉との面会を嘆願したが…やはり勘気は解けず門前払い同様に失意のうち朝鮮へと発った。
官兵衛は過ぐる三月十五日、秀吉から軍事顧問として朝鮮渡海を命ぜられ朝鮮へと向った、そのころ漢城まで撤退した日本軍は飢餓のどん底に喘いでいた、原因は三月の中旬 明軍の計略により漢城南に隣接する竜山館の兵糧倉庫群が焼き払われ、これにより漢城に籠もる五万人の食料は尽き兵らは飢餓と おりから流行り始めた疫病に次々に倒れていった時期でもある。
では官兵衛がこの朝鮮の地で秀吉に勘気をこうむるような何をしでかしたのか、これには諸説有るが黒田家譜によれば石田三成・大谷吉継・増田長盛の三奉行が軍事顧問として朝鮮に来た官兵衛に軍評議を求めるべく参集したおり、当の官兵衛は浅野長政と囲碁の最中にあり彼ら三人を暫し座敷に待たせてしまった、この待ちぼうけの原因が囲碁打ちと知れ 奉行衆を侮った無礼なる対応と断じ三人は怒り心頭に帰ってしまう。
後日三奉行はこの件を秀吉に讒言したらく秀吉は大いに激怒したという…、だが実際のところこの時期は朝鮮の指揮系統は相次ぐ敗戦と飢餓で乱れに乱れ、特に三奉行や小西行長の独断専行なる振る舞いに軍事顧問として渡来した官兵衛は業を煮やし彼らとは酷く対立していた、それゆえ黒田家譜では無難な碁打ちを原因にしたのだろうが実際のところは怪しい限りである、多分朝鮮奉行衆は秀吉に重用される官兵衛の小言が疎ましく、嫉妬なども手伝い秀吉に讒言を弄し官兵衛排除を目論んだ…が本筋ではなかろうか。
誠二郎は主税奉行として着任当初は数多の抵抗に挫けそうになるも大殿のお墨付きを活用し抵抗勢力を徐々に排除していった、その甲斐もあり妨害工作は途絶え黒田家の会計方式は次第に刷新され資金捻出はスムーズに進み、また官兵衛の命である銃火器工廠建設も着々と進んでいった。
そのころ秀吉は来日中の明国講和使節に「大明日本和平条件」を発給し、小西行長の家臣内藤如安らを随行させ首都北京へと送った、だがその裏で六月二十一日 南朝鮮の慶尚道にある晋州城を総攻撃するよう指令し使節が日本を発った翌日の二十九日にこれを陥落させている。
これは先の大明日本和平七条件の四項にある「朝鮮八道の内、北方四道並びにその国城は朝鮮国王に還す」とあり、残る南朝鮮の四道は日本の占領下にある事を既成事実とするために晋州城を攻めさせこれを陥落させたのだ。
晋州城の陥落を最後に明・朝鮮との大規模な戦は終息し明国の講和承諾を待つ体勢となり休戦状態となった、これにより在留する日本軍は「御仕置きの体勢」へと移っていった。
この「御仕置きの体勢」とは、休戦下 内藤如安が明の首都北京で講和交渉を進めるにあたり日本側有利の形勢へと持ち込むべく南朝鮮は事実上日本の管理下にあることを知らしめるため朝鮮南部の沿岸地域に日本式「倭城」を築き、兵およそ四万を駐屯させ明・朝鮮を牽制する軍事外交を言う。
なお御仕置きの体勢で造られた倭城は十五城にも上り、労役動員された朝鮮人夫は七十万人以上に上ったという。
この文禄の役において日本から朝鮮に出征した将兵はおよそ十五万人、そのうち朝鮮で消息知れずになった者は六万人弱で内訳は戦没者五万(病死含む)と八千余りが逃亡したり明・朝鮮軍に投降したと推測された。
残る九万人のうち四万人がこの御仕置き在番兵となり、九州・中国・四国の西国大名に割り当てられた。
それら在番を免れた将兵およそ五万人はこの年の九月に日本に帰還することになる、こうして次の「慶長の役」が勃発するまで在番兵およそ四万人は朝鮮南部の占領下に駐屯することになった。
その中に黒田長政の姿も有った、彼の在番地は釜山から五里北東の機張郡で、日本海を望む海辺近くに機張城は築かれた、築城開始は東海岸の在番地決定が遅れ九月から開始され翌年の文禄三年四月に完成している、動員された労役はおよそ五万人を数え機張郡周辺の朝鮮人を徴発し労役に充てている。
この機張城の築城にあたり築城費用捻出を円滑化すべく一老の栗山善助と重臣ら数名が朝鮮から豊前へと帰ってきた、この栗山善助の帰還は誠二郎にとっては天の恵みで主税奉行の御役レベルではどうにも断行できなかった黒田家奥向きの経費削減が善助の働きで大いに進んだ。
その翌年の文禄三年四月、朝鮮南部機張郡の在地に城が完成した知らせは豊前中津にもたらされた、主税部を担当する誠二郎には今年初めより機張城が四月頃に完成する事は分かっていた、それは朝鮮に送る城普請資材に減少が見えたからだ。
去年九月より朝鮮に送った物資と兵粮は石換算でおよそ四万石にも及んでいた、現代の価値にすれば三十億円を越えようか、それら費用捻出は朝鮮在陣の長政の命により主税部が処理したのだが、これら物資調達のため中津城内と所領全域に節約令を発し浪費を抑え年貢・課税を厳しく取立て その捻出に奔走したのだが…他の重臣や住民らに不評を買った割には効果が薄く結局は大阪堺の豪商 近江屋幸右衛門から借財し 何とか間に合わせたが実情だ。
そんな苦境の最中、昨年六月から開始した工作場や製鉄場を含む銃火器工廠の建設までは何とか達成できたが設備調達に至っては資金枯渇から殆ど不可能事となった、誠二郎は何度も設備投資は朝鮮戦役が一段落するまで延期したいと栗山善助に相談した、しかしその都度「事を成すべき際に困窮はつきものよ、それを成し遂げる事こそおぬしの知略、責任は儂が取るゆえ何とかしろ」の一点張りで誠二郎は多くの重臣らの誹謗と怨嗟のなか止むに止まれず無理な設備投資を断行していった。
これら困窮の種はやはり黒田家の領地の石高の少なさであろう、本来なら朝鮮戦役だけの支出で一杯一杯のところ金のかかる銃火器工廠建造や設備製造費用の捻出のため家臣への俸禄の多くは召し上げ、城下のインフラや城の造作工事も完全に止めた、また農民への年貢もこれまでは収穫米の5割を年貢(本途物成)として上納させていたが「百姓共をば死なぬ様に生きぬ様にと合点致し収納申付くる様」と搾取手段は苛烈を極め、昨年秋の収穫期より地味・作柄・地域には一切差を付けず「戦役下に於いては六公四民に統一する」としてこれを断行した。
この異常とも言える御布令に接するや農民らの年貢減免を要求する一揆は方々で起こった、また他国へ逃散する農民も相次いだ、しかし布令を出す前よりこの現象は当然予想していたため誠二郎は事前に兵によりで国境を警備・封鎖し逃散を許さなかった、また一揆には兵をもってこれを鎮圧し その首謀者や煽動者は見せしめに極刑をもって弾圧した。
それはまるでドラマに出てくる悪代官の所行そのものである、誠二郎はその悪行に悩み極刑を課した者らの家族には密かに支援を行い、六公四民は機張城築城の一年限りとして翌文禄三年からは元の五公五民へと戻したが農民らの怨嗟の声は未だ収まらず誠二郎の悩みの大部分を占めていた。
黒田家は封地の際十二万三千石の領地と言われたが太閤検地実施後は十七万石以上と訂正された、しかし黒田官兵衛が天正十六年に実際に領国石高を調べたところ十一万石もなく、以降新田開発と殖産振興を図り八年後の文禄三年の現在においては米換算で実質十八万石ほどになっていた、しかしこの石高でも全く足らず誠二郎が豊前に来た文禄二年度の会計決算は、米穀収入は十八万石のおよそ六割に当たる十一万石弱と少なく、町民・商家への課税およそ二万石を合わせた十三万石しかなく、支出は家臣への家禄・職禄及び雇い兵への支給石およそ十万七千石と、各諸役経費が一万石に黒田家奥に一万三千石、朝鮮戦費特別会計四万石と銃火器工廠の普請に二万石(16億円)、そして設備製造費用に一万石(8億円)で計二十万石の支出であった、つまり文禄二年度の収支は七万石もの赤字を記録したのだ。
この赤字分を内部留保米三万石と他大名家への貸付回収、また家禄借り上げと豪商への借り入れでギリギリ何とか凌いだ。
南朝鮮の機張城完成をみた半年後の文禄三年十月、誠二郎は銃火器工廠内の工作場を出ると 次に製鉄場へと向かった、途中 製鉄場に隣接する空き地に「小型高炉」の基礎部分が出来ていたためその仕上がり状況を点検した。
この高炉は鉄需要の増大を見込み建設を開始したのだが、現状での鉄需要は兵器量産に必要な工作機械の製造分に必要な量で、その程度の消費量なら出雲辺りから鉧(精錬前の鉄素材)を購入すれば事足りた。
高炉は一旦火を入れ高温化するとその容量にもよるが炉内 耐火物ライニング等の膨張量は極めて大きく、止めれば冷却収縮時に耐火レンガのひび割れ・剥がれ・崩壊の危険性は高く、修繕費用は再ライニング費ほどを覚悟しなければならない。
それゆえ連続生産を余儀なくされるのだが、現在は開発中の豊前西部の鉱山より産出する鉄鉱石や北部炭鉱での石炭安定供給にはあと半年ほどはかかり、それに合わせ兵器の量産も来年春より開始としていた。
それらの事情から高炉建設は今年の年末以降で充分間に合うだろうと基礎工事・屋根造りまで建設したら一旦止める計画だ。
また同様に製鉄場においても鉄鉱石やコークスの破砕分鉱機 (クラッシュローラー)や焼結炉もスペースだけを確保し、現在その場所には「踏鞴製鉄炉」を築炉していた。
この「踏鞴製鉄炉」築炉の発端は朝鮮より帰国した栗山善助からの命によるものであった、それは黒田家が現在推進している「先進武器開発」を他国に知られぬよう旧態依然の製鉄法を前面に出し、もし太閤殿下や石田三成らに洩れた場合の言い逃れに使えると踏んでの築炉である、だが銃火器工廠の警備体制が完全に整う来年三月以降は近代化された製鉄所を稼働させる計画だった。
余談になるが踏鞴製鉄とは千年以上の歴史を持つ日本古来の製鉄法で、製鉄反応に必要な空気を送りこむ送風機の鞴が踏鞴と呼ばれていたため付けられた名称である。
この製鉄法は砂鉄と木炭を層状に積み重ね木炭の炎と空気の送り込みで砂鉄を加熱溶融し日本刀製造に適した玉ハガネなどを得るオープン式製鉄法をいう。
現代の冶金学的な分類として炭素量0.02%以下を鉄、2.1%以上を銑鉄呼び、その中間の炭素量のものを鋼と呼んでいる。
鉄は炭素量が増えるほど硬く且つ脆くなる性質がある、純鉄と呼ぶものは炭素量は零のため非常に軟らかく伸展性に富む、一方銑鉄は炭素量が多く硬くてもろいためそのまま使われる事は少なく、殆どは炭素量を減少させ鋼を造る原料となる。
また銑鉄は溶け易い性質を生かしキューポラなどで屑鉄(低炭素材)と混合溶融させ炭素量を1.5~2.5%程度に調整し鋳物材料としても用いられる。
また日本古来の製鉄法である踏鞴製鉄は色々な炭素量が異なる鉄が得られる。
踏鞴製鉄は製法上から鉧押し法と 銑押し法に区別され、前者は砂鉄から直接に鋼の製造を目的とし、鋼以外に銑や製錬が不充分な鋼である歩鉧などもできる。
銑押し法は主に銑(銑鉄)の製造を目的とし、その大部分は歩鉧などと一緒に鍛冶場で脱炭・鍛錬されて鋼(左下鉄:さげがね)や包丁鉄(割鉄とも言い錬鉄のこと)に加工され道具鉄の素材となる、また茶釜や鉄瓶の鋳物材料としても多く使われた。
誠二郎は暫く高炉基礎の仕上がり状況を点検してから製鉄場の建屋へと入った、製鉄場の建屋入口奥に踏鞴製鉄炉は築炉されている、この炉基部(床釣り)は二ヶ月半前に完成しその上に踏鞴釜が築かれ、これまでに数回製鉄操業が行われそのつど踏鞴釜は更新されていた。
この踏鞴製鉄炉では釜造りから破壊までの1回操業を一代と呼ばれ、この間に多量の木炭と砂鉄が投じられる、現状製鉄場で築炉された釜サイズなら木炭使用量は三千五百貫(13トン)で砂鉄も同量重さの三千五百貫程が一代でくべられる。
それで出来る鉧は砂鉄三千五百貫中 二千七百五十貫ほどで、残る七百五十貫分は鉄滓と共に廃棄される計算だ、それにしても木炭13トンと言ったら嵩比重から計算すればおよそ三十五立方メートルにも及び とてつもない量を消費するんもんだと誠二郎は思った。
誠二郎は当初この踏鞴製鉄炉は操業費用が係り過ぎることから計画からは除外し、高炉が出来るまでの間は近隣諸国より出来上がった鉧を大量購入しようと考えていた、しかし栗山善助が大量の鉧を近隣より購入するは太閤殿下に疑われる可能性大ゆえ、原料砂鉄は出来るだけ遠方より買い求めここ中津で踏鞴吹きで密かに製鉄せよと命じてきたのだ。
しかし踏鞴吹きなど誠二郎は知るよしも無い、そこで鍛冶頭の太田源三郎に相談したところ出雲のたたら師で助五郎なるものを知っているということで源三郎を出雲に急遽派遣し砂鉄の買い付けと助五郎の招聘を依頼した。
それから一ヶ月後、助五郎は銭二十貫という法外な要求を申し入れてきたが誠二郎はそれを呑んだ、出雲の助五郎は招聘に応じ大量の築炉用土を携えこの中津に来ると まずは「床釣り」といわれる地下部分を構築し順次 元釜・中釜・上釜の三層を造り上げた。
その際、鍛冶頭の太田源三郎を頭に鍛冶職人四名も張り付かせ、徹底的に炉の製法を学ばせ、また踏鞴操業時もその製鉄技術を学ばせた、そして三回の操業まで出雲の助五郎を村下として使ったが四回目からは太田源三郎を村下に登用し、助五郎抜きで操業させ同等近い品質を得た。
出雲の助五郎は契約の三ヶ月が過ぎると今後の釜造りの土と砂鉄の供給を約して出雲へ帰っていった、以降二回操業されたが品質は助五郎が作ったものと遜色はなかった。
六回の踏鞴製鉄により鋼は一千二百貫(4.5トン)、銑や歩鉧は一万五千三百貫(53トン)ほども出来、当面の工作機械や銃器試作には材料はこと足りあと一回の操業で当分の間は踏鞴製鉄は休止させようと考えていた。
誠二郎は感慨深げに踏鞴製鉄炉を見つめ豊前中津に来てからの一年半を振り返っていた。
その期間は経理部と技術部と製造部を兼任したようなもので現代の金額にしておよそ30億円をかけ銃火器工廠と工場に配備する工作機械や製鉄設備を作ってきた、それらは資金不足から未だ未完の状態にあるが来年の春までに八割ほどは完成させ、予定通り最新兵器の量産にこぎ着けたいと考えていた。
一方、誠二郎が愛するリ・タヘは今年十九才になり名を改め安田多恵と称していた、この若き多恵はますます美しさを増し、四十七才になった誠二郎にとって二十八才も年若い娘となれば可愛くてしょうがない、見ているだけで過労を癒やすに足る存在となっていた、また日本語も利発なせいか一年でほぼ会話レベルは習得した…しかし彼女が会話する相手は大半が下女か隣近所に住まう女のため奇妙な豊前訛りが身につき早口で喋られると理解出来ずこれには困った。
また屋敷の方も城下整備の普請工事を止めたにもかかわらず一老の善助や普請奉行の益田正親らの計らいで昨年末に城近くの大地に広大な屋敷を完成させてくれた、多恵や下男下女、また家来も三十人近くに増え引っ越しに五日を要したが幸いその年の暮れには間に合い、新年正月は真っ新な大屋敷で迎えることができた。




