第二十六話
誠二郎は旨いもの食べたさに町に出かけてみたが…この時代 豊前の田舎で旨いものを食べようと思うことじたい無理があり 結局は塩辛いだけの煮魚と冷えた麦飯で腹を膨らしただけに終わった、(あぁせめて食後の珈琲でもあれば我慢できようも…)そんな想いに溜息をつきトボトボ屋敷に戻ってきた、すると門外に屋敷の中をしきりに窺うあやしげな男女五人を見つけた。
(おや、あいつら俺の家を覗いているようだが何か用でも…といっても俺はきょう初めてこの中津に来たのだから知り合いなどいるわけがない、あっ銭函…いや泥棒が門前でうろつくわけはないか)
誠二は男らの背後に近づくと「おぬしらこの屋敷に何か用でもあるのか」と不審げに問いただした、その声に男女五人は驚いたように振り返ると「御奉行の安田様でござりますか」と男の一人が頭を下げながら聞いてきた。
「安田はそれがしだが…」と応えると「井上佐八郎様から中間や下女として雇って頂けるちゅうことでまかり越しました者で」と言う、誠二郎はその五人を不審げに観察しだした。
(自分と家来二人に中間と下女合わせて五人はいかにも多すぎやしないか…)と思った、しかしいずれ家来も増えよう、せっかく佐八郎が気を利かして手配してくれたのであれば快く引き受けねばと男女に向き直った。
「佐八郎の紹介とあれば雇ってつかわそう、では皆 中に入ってくれぬか」
誠二郎は五人を屋敷内に招き玄関脇の部屋に通した。
「儂は尾張の在で太閤殿下の縁戚に繋がる者、よって言葉使いは名古屋弁ゆえ中津の方言はようわからぬ、じゃからこれよりは儂にもの言うときは出来るだけゆっくり喋ってくれぬか、それとこれは当座の賄い銭じゃ、足らぬようになったら申し出てくれ」そう言い銭袋から一掴みの銭を握り 年嵩のいった女の両手に掴ませた。
「それとおぬしらの素性など聞かねばならぬが、その方より順に出自や家族構成など答えて下され」
そう言うと右側に座した武士とも町人とも取れる三十代の男に向き直った。
こうして男女五人の身上を聴取すると「それと大事な給金の事じゃが…儂にはこの地の相場がよう分からぬ、でっそれぞれ当てにしていた給金額などもあろう、それぞれ忌憚なくその額を言ってはくれぬか」と五人を見渡した。
しかし五人とも俯くばかりでいつまでたっても返答は返ってこない。
(この時代でもさすが給金ともなれば即答には遠慮があるんだ…)
そう思いながら「では佐八郎殿と相談し後日決めるとにしよう、それと今日よりこの屋敷に住み込みで働いて貰いたいのだが、通いを希望する者はおろうか」と五人を見つめる。
「………………」
「いないようだな、ならば住み込みとあれば当座の金が入り用であろう、しばしまて」
そう言うと屋敷奥に行って押し入れの銭函から永楽銭五結(百文詰×5束)を取り出し戻ってきた。
「前渡し金の相場は分からぬが給金が決まるまで取り敢えず各自に百文ずつ渡しておく」と各自に永楽銭を一束ずつ渡した。
すると、この時代前渡金制度というものが一般に普及していなかったのか、はたまた前渡し金が多すぎたのか五人は手に受けた一結びの銭束を呆けたような眼差しで見つめ、気づいたように頭を米つきバッタのように下げ始めた。
(先ほどの飯屋でたらふく食って確か四文、あれで四百円と換算したから百文なら一万円程度のつもりでいたが…そんなに高額とはとうてい思えぬが、まっ明日にでも主税部で豊前の貨幣相場や奉公人の給与慣習など調べねばな…)
その後中間二人に門横の中間部屋、下女三人に十畳部屋を割り当て自分の部屋も決め一段落した、その後下女や中間らに全員分の布団や家財道具、当面の衣料や食料品など買ってくるよう銭を渡し使いを頼んだ。
夕刻になり頼んだ家財道具が各部屋に設えられ曲がりなりにも住屋としての体裁が整った、そして夕刻には家来の二人も帰着し、こうして一日目その数八人で安田家の生活が始まった。
翌日朝四ツ半前に誠二郎は城に出仕した、衣装は昨夕 棚橋助三郎に言いつけ出来合いの肩衣と袴を城下の呉服屋を回って何としてでも見つけてこいと言いつけた、その結果姫路町の呉服屋二軒に以前客より返品されたという男物の武家装束が数点在庫があったらしく身丈の大きい衣装や帯・草履・足袋・襦袢など大風呂敷に一杯詰めて帰ってきた。
「おいおい儂は肩衣と袴を買ってこいと言うたが…一体この大荷物はなんとした事じゃ」
「はっ、選んでおりましたら あれもこれも必要かと ついつい呉服屋の主人が用意するままに買うてしまいました」そう言って申し訳なさそうに風呂敷包みの前で項垂れた。
「よいよいどうせ必要なものばかりじゃろう」そう言うと包みを解き買ってきたものを畳の上に並べた。
その中に家紋付きで揃いの肩衣と袴が有った、それを見て棚橋に「家門付きはいくら何でもまずかろう」そう言うと、この「下り藤」の紋は家中の多くの者らが付けておりますよって問題ありませぬとシレっと言う、現に出仕したとき皆の紋をそれとなく見たら五人に一人の割合で下り藤の紋が付いていたため安心したのだが。
紺地に小さな菱白柄の 揃いの肩衣と袴には左右前身頃・背・腰板と袴の左右合引の六ヶ所に紋が染め抜いてあり、紋ばかりが目立ち少々若作りと思ったが、着てみるとまんざらでもなく棚橋のセンスも捨てたものではないと笑みが洩れた。
今朝は家来二人を伴い大手門から入った、すると虎の口で昨日屋敷に案内してくれた主税方組頭の須田与五郎が迎えに出ていた。
主税方は大手門から真っ直ぐ北に抜けた三の丸の北端右手が役部屋になっていた、中に案内され御役部屋を見て廻った、主税業務は主計と主税の二組に分かれそれぞれに三十名近くの官吏が配されていた。
誠二郎は奉行間に通されると組頭と各小頭を集め挨拶を行った、以前会社の会議室に次課長や主任らを呼んで売上げ目標や開発諸問題を聴取したり監査したあの感覚が蘇ってきた。
一刻ほど挨拶やら職務内容の聴取、主税方の当面の問題とその対策などを各担当に言わせその能力などを推し量った。
聴取を終えると現状の黒田家主税方のあらましが見えてきた、それは江戸時代の「支配勘定勝手方」ほど確立されたものではないが公事方を除けばそれに近い組織であることが解ってきた、そして各担当の答弁から管理の粗雑さもちらほら見えてきた。
主税方は年貢・租税の徴収と米蔵の管理を主な業務とし、主計方は禄米支給及びその検査官を兼ね切米手形改め・支出改めなど財政一般を管理する部署であった、また土木・普請事業の現地出張検分や戦時は戦場に出張し消費資材の検分や戦傷・戦没の遺族補償の業務までも行うという。
現代と違ってパソコンの無い時代である、膨大な書類から金の動きを掴みその金の運用のための会計手続きは並大抵ではなかろう。
黒田家上級武士はおよそ百数十人 下級武士三千数百人と 戦役時の二千数百人に上る雇い兵を擁しそれらの家禄と職禄支給の事務だけでも大変な煩雑さであろうか。
そのうえ大殿・殿そして奥の生活支出、それに土木・建築・公共施設の新規・更新・修繕普請の支出管理や 特に朝鮮戦役の膨大な支出管理などあらゆる財政出納事務を五十~六十名ほどで処理していくことは拙劣なる経理手法では事実上不可能で、殆どどんぶり勘定に近いと誠二郎には見えた。
またこの主税方担当に要求される算勘熟達度や特殊且つ閉鎖的環境から他職からいきなり転職してくることは殆ど不可能事で、特に武辺者が主税奉行になった場合は金勘定や帳簿付けなど算勘卑しむべきと武士顔で形ばかりの奉行職となろう、はなっから出来るわけがないのだ。
それゆえ重職の桐山信行が誠二郎に言った「普請や予算などは貴公に御任せするゆえ勝手次第に御進めなされ」の言葉の裏に、「どうやって殿に取り入ったか知らぬが武辺の新参者がやれるものならやってみろ」が暗に含まれていたのだろう。
午前の部が終わると当然昼餉と思ったら…この城では昼は食わぬと言う。
(おいおい昼飯抜きかよぉ)とガッカリした、こんなことなら朝飯をもっと食ってくればよかったと悔やみ以前のように水で腹を満たすかと近くの官吏に水…いや茶を所望した。
茶が来る間「お前達 帳簿などは書いておるのか」と聞いてみた、「はっ、収支勘定は我等の務めで御座りますよって」と初老の男が何を聞くのだといった顔で応えると周囲から失笑が洩れた。
彼らにしてみれば朝鮮で武功を上げ俄に成り上がった新参者が分かりもしないで知った風なことを言いやがると思ったのであろう、誠二郎の前任奉行は半年でその前は一年で交代したという、まるでどこかの国の財務大臣がすげ変わるのに似てお飾りは黙って座っておれとでも言いたげである。
腹が減ってイラッと来ているところへ失笑、さすがに誠二郎もムカッときた、だったらお前らが書いた帳簿や書類を監査してやろうじゃないのと「年貢・租税収入、それと一年分の支出帳簿を持ってまいれ」と指図し苛立ちを静めるため城内の散策に出かけた。
四半刻ほどの休憩後 再び業務が再開された、誠二郎が部屋に戻ると座卓にはこれ見よがしに帳簿が山と積まれ、それでも足らずと座卓横にも山積みにされていた、(あの野郎ども無造作に積みやがって…)そう思いながら上部の帳簿一冊を手に取り頁をパラパラと捲り見ていった。
(こんな大きな文字で雑に書きおって…そりゃ山にもなるわけだ)
(十二万石と言えば一石=一貫=八万円と換算すれば九十六億円を売り上げる会社規模か…、エッ俺が勤めていた会社の五十分の一にも満たぬ売上げしかないんだ、と言うか俺の部署の十分の一の売上げ、たったそれだけ…)そう考えると急に気が楽になってきた。
(と言うことは売り上げ百億弱の中企業に経理課だけで六十名はいかにも多過ぎる…だが計算機やパソコンの無い時代…庶務や人事の一部も含むとなればしかたのないことか)
誠二郎は数冊を取り上げると座り込んで頭から読み込んでいった。
暗算で計算しながらふと想う、売上げに汲々として営業や開発の連中を奔走させなくとも売上げは年貢・租税というかたちで民から厳しく取り立てれば入ってくる、この時代 飢饉や戦役さえ無ければ社長や取締役は何と楽なものよと思った。
この豊前国の人口はまだ知らないが、この土地の物産や誠二郎が考える先進技術で工業化を促進すれば この時代であれば他国に飛ぶように売れる企画などいくらでも構想出来よう、これで営業を本格的に行えば年貢など余録ぐらいに思える収入が望めるやもしれぬ、誠二郎は俄然やる気が出てきた。
見たところ帳簿類は現代で言えば地方自治体の現金主義に基づく単式簿記に似た形で記帳されていた。
これでは収支に限らず全体的な財産の状態と損益の状態をどう把握するのだろうと思った、あのしたり顔の連中は流動の多寡から経験に基づいた勘を頼りに損益の状況を把握しているのだろうか、それとも単なる丼勘定か。
この時代は田畑や屋敷などの土地の価値に至るまで面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算し石単位で表示していた、このような制度を石高制と言うが米以外の農作物や 海産物の生産量さえも米の生産量に換算されて表示されていたのだ、つまり「米の貨幣化」であり銭は米の代替えとして未だ効力は薄かった。
この米を「現金」と言い換えた場合、黒田家に限らずこの時代の大名会計は現金主義であり資産の一部である蔵米が増減する取引のみを記録する方法であろうか。
それは小遣い帳や家計簿に似て1つの科目(主に蔵米)の変動を記録し、会計の知識がなくてもその増減は把握できる、そのため現金主義を採用する場合は単式簿記によって蔵米の収支のみを記録し期中の収支とリアルタイムの残高を容易に把握することが出来よう。
大名経営に於いて現金主義が採用されてきたのは租税(年貢)が取りも直さず現金であって、その徴収権限と支出権限を経営者(殿)は各部署に付与するため予算書作成に重きが置かれる、この予算書は石数記入或いは銭換算のいずれで表示するかはその多寡による、銭換算の場合はその時の米相場も併せて明記していた。
そのため、殿にとってこの提示される予算の統制は非常に重要なファクターとなり収支が見える単式簿記は有効に機能した、また単式簿記は専門的な会計知識がなくても理解が出来るという利便性も手伝ったのであろう。
しかし現金主義は測定の対象が現金(蔵米)に限られるため、資産の一つである現金(蔵米)の変動しか測定できず、資産や負債の全体を把握することができない、また単式簿記は資産や負債の記録と把握はできるが、単にそれらの増減を記録するだけで増減の原因記録を欠いている、そのため総合的な財務状況の把握や内部管理への利用が困難と言えよう。
誠二郎は帳簿を読むうち会社経営も領地経営もその目的に変わりは無いと思った。
ゆえにこの拙劣なる現状の記帳法は廃し、資産・負債・資本・費用又は収益のいずれかに属する勘定科目を策定し、借方と貸方に同じ金額を記入する仕訳手法を導入、つまり複式簿記の導入は必須であろうと結論した。
また複式簿記の必要性は財政状態の把握による黒田家経営管理の向上にある。
財政状態の把握とは黒田家の経営活動を帳簿に記録し資産や負債などの財政状態を明らかにすることにある、ここでいう財政状態とは黒田家が保有する資産の状況と捉えられる。
また経営管理とは、黒田家の経営成績を明らかにするということであり、これは行政サービスのコストを把握するということに当てはめて捉える。
また複式簿記導入により期待される効果は、事業評価において財務情報を利用した分析が可能となり、行政及び戦役投資における費用の捻出のみでなく、その後の維持運営に関するコストの考慮や、有効な投資であるかが判断でき、終了後も予定コストに対する実際コストを比較分析することが黒田家を運営する上で役に立とうと考えた。
また複式簿記を導入することで各事業単位(戦役も含む)での財務諸表を作成し、さまざまな角度から事業評価を行うための重要な財務情報を経営者(殿)に提供し理解を促すことも出来よう。
誠二郎は若い頃、このケースはどの勘定科目を使えばいいんだとかこの摘要欄に書いてある取引はこの勘定科目であっているのかなど経理課員に尋ねたことが多々有り、会計弱さは技術者ゆえに仕方ないと思っていたが、管理職になって会計力や戦略思考力養成はこれからは必須と考え経営マネジメントや会計/税理のセミナーには進んで参加していた。
また昔 ISOマネジメントシステム規格の取得にあたり規格要求事項の作成とその後の運営に主導的役割を果たしてきたという自負もあった、それら手法がこの時代に落ちて役に立ってくるとは…誠二郎は(この際思い切って改革してみるか、さすれば武器造りの予算捻出も容易かもしれない)そう思い帳簿を閉じた。
すぐに午前の部で集めた連中を再び招集した、連中はまだ何かあるのかと言った顔でそれぞれ席に面倒臭そうに着いた。
まず誠二郎は素人ではないことを衆人に分からせようと先程嘲笑った初老の男に「おぬしが書いた帳簿をこの山から探してここへ持ってまいれ」と命じ、その帳簿に記された数値を暗算しながら記入された一行ずつを根掘り葉掘り聞きただし、記帳の動機と結果の矛盾を突き「お前は記帳したらそれでしまいか!」と給弾し徹底的に問い詰めた、姑息な手段だが見せしめとばかりにその男を血祭りに上げたのだ。
そうやって五人ほどをグーの音も出ぬほどにやり込めてから、「お前らがしたり顔で書く帳簿とはこんな子供だましかよ!」と一喝するも、中には優秀な者もおり矛盾や新たな質問を言い募る者もいた、しかし誠二郎は即座に彼らの予想を遥かに超える回答を返し沈黙させた、それはこれより四百年もの長い歴史をかけ改良し培われた現代の会計学に この時代の豊前の田舎官吏らがどう足掻こうが勝てるはずはないのだ。
誠二郎は皆の意見が出尽くしたとみるや帳簿記帳を新手法に改めると宣言し、複式簿記の効用を分かり易く説明後これより一ヶ月を掛けてお前らを徹底的に教育しなおすと申し渡した。
部屋が薄暗くなる頃に多くの者らは誠二郎を見る目つきが午前のような嘲りの色は消え畏敬の色に変わっていった、しかし中には説明した会計手法が理解出来ないのか依然嘲りに満ちた光で窺う者が三名いた、誠二郎はその者等の姓名を問いただし記録するとともに人相を記憶に刻んだ。
夕刻屋敷に帰ると玄関の上がり框に「リ・タヘ」が神妙な顔で正座し出迎えてくれた、その隣りに作左右衛門も控えていた。
「おぬしらもう来たのか、家財道具も全部は揃っておらぬし布団も一竿しか無い…困ったのぅ」
と誠二郎は困惑顔でタヘと作左右衛門を交互に見た。
「この娘が師匠のところへ行きたいとうるそおて ほとほと疲れましたわ、もう一日たりとも御預かりは勘弁して下さりませ」と辟易顔の作左右衛門である。
「仕方ない、では置いていけ」と言いつつも誠二郎は嬉しかった。
「それと作左右衛門殿、頼んでおいた火床や鞴の絵図面は進んでおるか」と問うた。
「鍛冶頭の太田源三郎殿と先程相談致したのでござるが大きなものを造るより当面は使い慣れた小振りのものを数基造った方が仕事が進むと仰せられ儂もそう思っていたところでござった、よって朝鮮で造ったものと同等なるものを四基ほど設えようと描き始めたところござる、五日の後にはお見せできると存じまする」
「ふむぅ、四基のぅ まっそちらが良いと申すならそれで進めよ、それと鍛冶場と工作場の導線も良い案があったら又聞かせてくれ、もう一つ鍛冶衆の人集めも頼んだぞ」
そう一通りを言うと作左右衛門はまた来ますと言って帰って行った。
居間で着替えをタヘに手伝って貰い夕餉についた、下女らは膳を用意すると気を利かせたのか別間へと去った。
二人差向かいで箸を取った、その時タヘが誠二郎を見つめクスっと笑った。
こんな日が来るとはあの白兵衛の飢餓時代には思ってもみなかったこと、ここに来てようやく新たな家族が形成されようとしていた。




