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第二十三話

 誠二郎は震える女を矢倉内の自室へと連れ込んだ。

部屋に入るなり女は怯えた表情を見せ誠二郎の手を激しく振りほどいた、どこにそんな力が隠されていたのかと思えるほど力強い拒否だった。


女は汗と脂で薄汚れた顔を歪ませ、怯えを含んだ眼差しで誠二郎を睨みつけると部屋隅へ後ずさり着物の襟と裾を手でしっかり押さえ 肌を隠すように小さく蹲った。


(まいったなぁ)と誠二郎は呆れた、今から俺が何かいかがわしい行為におよぶとでも思っているらしい、(俺ってそんなに飢えているように見えるのかなぁ…)


確かに一年近く女の肌には触れていない、しかしこの一年は性欲より食欲の方が遥かに勝り、まずは生き残ることに一生懸命で性欲など無縁だった。

だが食に余裕ができた今は…知らぬ間に顔の何処かに好色さが表れているのだろうか。


そのとき 部屋に漂う異臭に気付いた。

部屋にこもっていたあの魚の腐臭とは別な動物臭を感じた、その臭いの元は部屋の隅に蹲る女から放たれていた。


魚の腐臭で辟易へきえきしていたところへこの女の匂いが加わり吐きそうなほどの汚物臭へと変化したのだ、一体この女は何ヶ月体を洗っていないのだ、誠二郎は女のつま先から頭の天辺までを観察しはじめた。


たぶん女は不潔な環境で長いこと監禁されていたのだろう、垢にまみれたボロ着の腰から下は明らかに糞尿が付着し薄汚く茶色に染まっていた、また髪はゴミや脂でザンバラ状、顔は汗と泥で黒く染まり眼だけが異様に光っていた。


誠二郎は勢いだけで女を部屋に連れ込んだことを後悔した、しかし今さら部屋から追い出せばあの水主らに酷い仕打ちを受けよう、再び(まいったなぁ)と溜息が漏れる、どうしようかと途方に暮れ女の顔を見やった。


相変わらずこちらを睨み付けていた、まるで虐め抜かれた野良犬そのものだ、どう見ても女とか色香とは全く無縁の「汚物」としか形容できない。


またもやフッと異臭が鼻をつく、ウッと顔をしかめ誠二郎は顔をそらせた、とにかく息苦しく新鮮な空気が吸いたいとばかりに窓を大きく開け外に向かって深々と息をした、そのとき船が岸を離れていることに気付いた。


(さてこの女をどうするか…一時は不憫と思い保護しようと思ったが、この臭いと拒否姿勢では取り付く島さえない、どうせ俺のことを海賊の仲間ぐらいにしか思ってないだろう、んん海賊…)


海賊と言えば先日 母衣衆で情報通の黒田弥太郎と喋っていたとき、弥太郎が昨年の秋口より朝鮮の各戦場で生け捕られた男女が密かに名護屋の湊に送られていくと言っていた。


生け捕られた者らは海賊商人の船や大名御用船の船底に隠され名護屋・呼子辺りに陸揚げされると日本各地や諸外国に転売されていくらしい。


(そう言えば大殿が太閤殿下が人買いを禁じる御触れを出したと言ってたな…)


秀吉は朝鮮に布陣する諸将や、これより朝鮮へ渡海する者等に朝鮮に於いては男女に依らず一切の人取り・人買いはまかりならぬとの禁制札を大量に出していた。


当時、日本に限らず侵攻した戦場地域に住まう男女を奴隷扱いに生け捕るといった風習は西洋東洋を問わず至極一般的であったが秀吉はこれを恥ずべき行為と断じ禁じた。


だがこれはザルに等しき建前的禁制で、戦時下にあっては捕えた敵側の人々らに情けをかける余裕などなく、現地で捕らえられた多くの朝鮮人らは処刑されるか密かに日本へ送られたという。

またこれとは逆に朝鮮各地で敵側に捕らえられたり投降した日本兵らも同様に、俘虜(降倭)となるも首に鉄輪を嵌められ雑兵らは奴隷扱いに酷使され、武将らは耳や鼻を削がれ処刑されたという。



 誠二は窓辺にもたれ どうしたものかと海を見つめていた、大殿官兵衛はこの女を船頭から脅し取り誠二郎にやると言った、だがせっかく貰ってもこのざまではどうすること出来ない、官兵衛は女として与えたのか それとも誠二郎が領地で事を為すに身の回りを世話する者が必要と感じてのことか。


たぶん前者であろう、それにしては汚い女をあてがわれたものよと思う。

そのとき若い水主が窓辺を通り過ぎ、ヒョイと部屋内を覗くとニヤっと笑った、誠二郎は一瞬ムッときたが堪えその水主を呼び止めた。


呼び止められた水主は笑ったことを叱られるとでも思ったのか恐る恐る近づいてきた。

「おぬし、たらい二個に水をタップリ入れ、隣の空き部屋に用意してくれぬか」と申し付けた。


「あんおなごしに行水ばしゃしぇるんやかい」とまたニヤけた。


「うるさい!黙って言われた通りにせんか」


「ばってん体洗いに真水は勿体なくて出しぇまっしぇん」と小馬鹿にしたもの言いで返す。


「ええい、海水でよいから早く用意せい!盥は二つだぞ」


「へいへいわかったんやけんちゃ、ちょこっと待ていてくれんねな」と言いながら相変わらずニヤけ、そそくさと消えた。


振り返ると女はまだ部屋の隅に蹲ったまま警戒の色を解いていない。

「臭くてかなわぬ、行水の用意をするから体を洗ってくれぬか」と少し苛立って声をかけた。


しかし回答は得られず黙ったまま怯えた目で誠二郎を睨むばかりだ。

(まいったなぁやはり日本語は通じない…こうなったら無理にでも盥に放り込むしかないか)

誠二郎はそう決めると自分の荷を解き 中を物色した(あの子が着れそうなものは…この長襦袢では大きすぎるし、この長着も大きいなぁ…あっこれかな)と取り出したのは白の半襦袢だった。


(半襦袢でもあの子の背丈なら膝下近くまでは届くだろう、しかしこれ一枚じゃ寒いな、おっと そういえば母衣(マント)が有ったはず)


誠二郎は荷の一番奥にたたんである黒母衣を引きずり出した(これなら厚手で生地も上等だから温かいはず、あの女なら肩から裾まで優に包めるな…)


その二つを横に置くと荷を戻した、そして女に襦袢と母衣をかざして見せた。

すると女はいっそう怯え、襟と裾を手で強く握りしめ体を硬くした、今から着物でも剥がされると思ったのだろう。


またもや「はぁ困ったな」と呟いてしまった、この女は今日まで余程酷い仕打ちを受けきたのだろう、言葉さえ通じれば齟齬そごなど生じないものをと思う。


暫くすると窓からあの水主が首を突き入れ「言われた通り隣部屋に用意しとった、ついでに糠袋も付けておきたばいちゃ」と言って女の方を暫し見て、誠二に向き直るとニヤっと笑って逃げるように消えた。


(あの野郎…)と思いつつ、襦袢と母衣を脇に抱えると女の前へ行き、腕を掴むと嫌がって暴れるなどは無視し部屋から引きずり出した。


一旦甲板上に出て すぐに隣部屋を開けると女を中に押し込んだ。

少々乱暴なやり方だったがこれも致し方なしと 女を盥の前まで引きずった。


そして臭う着物を脱がそうと泣いて暴れる女の襟に手が掛かった、その瞬間 (それはマズイだろう)と誠二郎は躊躇ためらって立ち上がった、そのとき隣部屋から咳払いが聞こえた。


(あぁぁ大殿にはこの一部始終がまる聞こえだよなぁ…)と顔が赤らむのを覚えた。


しかしどうしたら分かって貰えるのか、盥に揺れる水面を見ながら途方に暮れた。

手振り身振りで伝えるか…それとも知っている韓国の単語を並べるか、しかし現代の韓国語がこの時代に通じるのかそんなことを考えながら女を見た。


乱暴に扱ったことが余程 怖かったのか頭を抱え女は泣いていた、苛立ちまぎれに強引に過ぎたことを反省し誠二郎はまず謝るべきと 謝りに関する韓国語を必至に思い浮かべようとした。


(ごめんなさいが ミアネヨ、乱暴はナンポクだからナンポク ミアネヨ?…単語並べのそのまんまじゃないか)とは思うものの他に手立てはない。


取り敢えず女に向かって「ナンポク ミアネヨ」と言ってみた、すると女は頭を抱えていた手を離すと涙目で誠二郎を見た、何やら通じたみたいと思い、同じ言葉を二回繰り返してみた。


ミアネヨだけが通じたのかも知れないが女の警戒色は若干緩んだようにも見えた、次いで(体がモムで洗うがシッタ…髪を洗うは分からないなぁ、まっいいか)


誠二は盥を指差し「モムルシッタ」を二回繰り返し 体を洗う真似をした、すると又もや怯えた目に変わった、あれっと思うも誠二郎は体を洗えは裸になれと同じだったと慌て、腰の手拭いを抜き取ると女の膝に置き、二つの盥を指差しながら「モムルシッタ」を繰り返して部屋を飛び出た。


扉を閉めると「やれやれ」と呟き、甲板を歩いて船の舳先へと向かった、そして「はぁぁ面倒臭い」と本音が漏れる、正直 女などいらぬと思った、言葉も通じない朝鮮醜女を貰ったとてこの後どうやって面倒を見ていくのか鬱陶しいの以外の何ものでも無い、大殿からのせっかくの賜り物だがこの船を下りる際は大殿に詫びを入れ船頭に返そうと思った。


その時ふと気付いた、前方に青い陸が広がっていたのだ(あぁぁ日本だ、帰ってきたんだ)そう思うと憂鬱が瞬く間に晴れていく、そして何故か若い頃に同期の技術者らと博多の歓楽街で酔い痴れたことが昨日のように脳裏に浮かび上がった。


(あいつら今頃何してるんだろう、志津江や子供らはどう暮らしているのか…)

日本を目にした瞬間、この数ヶ月は飢餓にさいなまれ 思い出す余裕さえなかった郷愁が一気に噴きあがり誠二郎の心を濡らした。


(博多はどの辺りだろう)と涙を袂で拭きながら前方左手に目を懲らした、しかしいくら凝らしても陸は朧にしか見えず、暫らく眺め 肩を落とすと踵を返して船矢倉へと戻っていった。


部屋に入り再び窓辺に寄る、この玄界灘は対馬海峡より波は穏やかと感じた、佐八郎らに玄界灘は荒れますぞと聞いていたから意外に感じ、また魚の腐臭も鼻が慣れたせいか吐き気も感じなかった。


その時、隣の部屋に水音が立った(あの娘ようやく観念して洗い始めたようだな)そう思い、隣との仕切りの板壁に耳を当てた(んん、よしよし洗っているぞ…って俺は何をやってんだ)壁際を離れると頭を振り想いを切替ようとばかりに再び荷を解き文箱を取り出した。


蓋を開けると中にはぎっしり図面が詰まっている、それを掴むと机の上に置き上から順に捲っていった、この図面束は漢城で飢えを少しでも和らげようと日夜没頭して描いた図面集である、その殆どは武器ではなく工作機械の図面だ。


それらは若いころ嫌気が差すほど描き散らかした旋盤・フライス盤・ボール盤の図面やライフリングブローチ盤・各種工具や治具の図面である、いずれもこの時代に即した簡易型に書き換え、要部以外は極力 木製で構成されたものだ、その中から描きかけの図面を抜き出すと机上に広げた。


広げたのは薬莢プレス機である、まだ下書きの段階だが順送式多頭深絞りプレス機で薬莢トランスファ部を描きかけたところであった、基本の型は昔誠二が子会社の銃弾製造会社に出向していたときに工場の隅で埃を被っていたアメリカから輸入された薬莢プレス機を模した設計である。


そのプレス機は出向会社で昼休みのたびに微にいり細に入り観察した米国製で、製造年は明治中期と古く骨董機械と呼べる代物だった、しかしメカニズムは素晴らしく当時の人智を集合して設計されたものであろう、各機構は現代の組立機の原型いうべきもので学ぶ点は各所に有った。


特に印象深かったのは殆どが木製であることだ、例えば架台・フレームは当然木製だがプレスパンチの基部ロッドやエジェクターピンの昇降アームまでもが木製なのだ、必要最小限にしか金属を使わないという設計思想は当時の金属加工技術の未熟さと軽量非鉄が高額だったからだろう、しかし現代の高速機械に通じる軽量化の虎の巻のように誠二には感じられた。


誠二郎は書き掛けの計算書を抜出すと トランスファ作動のタイミングチャートを暫し見つめ、カム加工の座標値を検算しはじめた。


暫くして部屋の扉が開けられた、誰が来たのかと誠二郎は扉の方に振り返った。

逆光で形しか分からなかったがマントが風に翻っているのを見てあの女と気付いた。

女はオズオズと部屋に入り扉を閉めた、そして誠二郎の前に進むと片言で「アリガト」と言った。

そこには黒のマントを羽織った美しい女性が浮き上がっていた。



 玄界灘を渡り廻船は名護屋湾へと入った、やがて船の右手に名護屋の湊が見え、その奥に官兵衛が縄張り(城郭・建屋の配置計画)をしたという壮大な名護屋城楼閣が望めた。


昼八ツ(14時過ぎ) 廻船は湊の岸壁に横着けすると渡り板が下ろされた、誠二郎は女にわずかな荷を持たせると手を引いて部屋を出た、そして揺れる渡板を二人で歩いて岸辺にようやく降り立った。


その感慨は一入ひとしおである、ようやく日本の土を踏んだ…そうは思うもこの地は四百年前の日本であって たとえ故郷の尾張小牧に帰ったとしても妻や子はいない。


しかし日本に戻れたというだけで誠二郎は嬉しかった、一行は下船すると湊の出口に設けられた入管所へと導かれ、通過証明台帳に家名と役名そして氏名が記録されていった。


順番が誠二郎に回ってくると「豊前中津黒田家 主税奉行・安田誠二郎」と名乗り、連れの女は「安田家下女」と応えた、役人は一瞬「何」という顔をした、しかし女の身なりを見て合点したような顔で「黒田家預かりコカクセイ1人」と書き込み「通ってよし」と言うと、咎めることなく通してくれた。


こうして無事に管理所を出ると官兵衛は誠二郎を木陰に呼んだ。

「儂らはこれより名護屋城に行き殿下に御目通り致す、そちはこのまま豊前中津に向かえ、儂の護衛兵を二人ばかり付けるよってのぅ。


儂らは殿下の御勘気が解ければ一旦中津の城に戻るが、殿下への目通りが叶わなければ このまま朝鮮に戻ることになる、さすればそちとは当分会えぬよってこの書状をもって行け、昨夜書いておいたのじゃが、これを中津城の普請奉行 益田正親に渡せ。


益田正親は先月の終わりに朝鮮から戻っておるはずじゃ、そちのことをくれぐれも頼むと書いておいたゆえ悪いようにはせぬはず、ではこれでの 皆の者達者で事を成せ」

そう言うと官兵衛はふところから重そうな銭袋を出し誠二郎に渡すと護衛兵二名残し名護屋城に続く辻へ去って行った。


官兵衛を見送ったあと「さて儂らも行くとするか」誠二郎はそう言うと護衛兵の二人に「おぬしらの名をまだ聞いていなかったが名は何と申す」と問うた。


二人は直立に畏まって姓名を名乗ると、その一人が

「御奉行、中津城までは三十五里ほどもあり御奉行を徒歩で歩かせたとなれば我等が咎を受けまする、これより黒田家陣所まで走り馬を調達してきますよってここで暫しお待ち下され」と言った。


「そうか…ではそうしてくれるか、ついでと言っては何じゃが荷車も調達してはくれまいか」


「はっ、承知致しました」そう言うと護衛兵の二人は走って行った。


誠二郎は馬が届く間 茶店で休もうかと皆を連れ茶店に入った、誠二郎が椅子に腰を下ろすと女は目の前に立っていた、その姿を見たときこのマント姿は周囲にいかにも浮き上がって見えると感じた。


その時ちょうど田所吉兵衛が横に座った。

「吉兵衛よ、すまぬがこの女の身なりはいかにもマズイ、なんぞ似合いの着物を見繕って着せてやれ、その賑やかな通りなら呉服屋などもあろう」そう言うと先ほど貰ったばかりの重そうな銭袋を手渡し「金は惜しむな、また好みもあろうゆえ女に選ばせてやれ」と申し渡した。


初め女は嫌がったが誠二郎が微笑んで大きく頷くと理解したのか黙って吉兵衛に手を引かれ何度も振り返りながら賑わいの中へ消えていった、誠二郎は優美なその女の後ろ姿を目を細めて見入ってしまう。


あの時…舟矢倉に入ってきた女は全身を黒マントで包み窓から吹き込む風に黒髪を揺らせていた、誠二郎はあまりの美しさに暫し我忘れ見つめてしまった、そのとき風にマントが揺れ女の前がはだけ素肌が露わになった、その胸からつま先に至る白さは尋常でなく まるでミルクでも溶かしたような初肌は光輝くように見えた…誠二郎はこのとき「この女 返せるわけがない…」そう思えた。

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