第二十一話
文禄二年三月、釜山から漢城に至る諸街道の殆どが朝鮮義軍らの手に落ち北上する日本勢の兵糧輸送は停滞していき、また漢城周辺の飢餓状況は凄惨を極め現地兵粮調達は絶望的になった、これにより漢城府の食糧不足はますます深刻化し諸将らに漢城撤退も止むなしとの声が洩れ始めた。
その頃、厭戦的気分は日本軍の将兵だけにとどまらず、敵「明軍」の内部でも食料調達に行き詰まりをみせ軍糧を用意できない朝鮮朝廷を詰るも朝鮮そのものが飢餓のどん底にありどうにもならぬ事を知るや厭戦気分はさらに広がりをみせていった。
この空気を察知した李如松は安州に兵を展開する宗応昌と談合し、膠着局面の打開に沈惟敬を担ぎ出し小西行長との講和の可能性を探らせていくことになる。
三月、漢城の南にあった龍山館の兵糧貯蔵庫群が明軍の宋応昌に襲撃され焼き払われるという事態が発生、蓄えられた兵糧の殆どが焼失し漢城に籠もる五万の将兵は食糧不足と折から蔓延しだした疫病とが重なり漢城維持はほぼ不能状態に陥った。
とはいえこのまま漢城を放り出し全軍撤兵すれば明・朝鮮連合軍の苛烈な追撃に遭い被害は計り知れず、だからといってこのまま漢城に踏み止まれば自滅・自壊は必至となろう。
残された選択肢は沈惟敬の講和提案を受け入れ休戦状態に持ち込むしか策はなかった。
このように日本と明の両者は当時それぞれ苦しい事情を抱えていたことで交渉はうまく噛み合ったのであろう講和交渉はあれよあれよと合意へと向かった。
明軍とすれば極力小さな犠牲で漢城を奪還できれば上首尾、日本側にしても追撃を受けることなく南下できればそれで良かった。
こうして講和交渉が形ばかりに合意し、日本勢は四月十八日に漢城を撤退した。
この撤退に際し朝鮮の朝廷は明の李如松に対し漢城から退く日本勢を追撃するよう激烈に嘆願した。
しかし李如松は遠征した明軍に軍糧も用意できずして他人のフンドシで相撲を取ろうとする朝鮮朝廷に憤慨しこれを無視したという。
その二日後 李如松は漢城へ入城を果たした、しかし彼が漢城で見たものは目を覆いたくなるほどの惨状であったという。
このとき漢城府は無人と化し辻々には餓死者の白骨が累々と重なり、城内ではそれを凌駕するほどの人馬の死骸や日本兵の骸に埋め尽くされていた、その死臭は都邑を覆い尽くすほどであった言う。
こうしてからくも漢城を脱出した日本勢は追撃を受けることなく南の尚州へ逃避を続けた、その一行には黒田軍の将兵も行軍していた、しかしその姿はかつて開城に入ったときのあの威容は無く、兵の一割を漢城で飢餓と疾病で失い 今はまるで亡霊のような哀れな姿で行軍していた。
その中に誠二の姿が有った、しかしあの颯爽とした馬上の人ではなく いまや折れた槍の柄に縋ってよたよた歩く老人であった。
振り返れば漢城に入城したときより三月初めまでは毎度出される豪勢な食事に誠二郎はいつしか飢餓という言葉さえ忘れていた、しかし龍山館の兵糧焼失事件から日に日に食事は粗末なものになっていき四月に入ると雑穀の雑炊さえも支給は間欠化し四月中頃には下賜された馬が餓死した。
その愛馬はすぐに解体されたが馬も痩せ衰えて骨と皮ばかりで母衣衆や重臣らで分けたらほんの僅かな肉と内臓しか手元には残らず それも二日で喰らい尽くした。
それでも誠二郎を含む重臣らは食っている方だ、それに比べ足軽や雑兵らの飢餓は熾烈を極めた、城外に出ても辻には人っ子一人おらず民らはとうに食料を携え逃散し街の路傍草はすでに食い尽くされていた、当然鼠や虫などはとうに民らが食い尽くした後だ。
この閑散とした都邑に八万人近い将兵の腹を満たす食い物などとうに底をつき、まだ何とか動ける兵等は都邑から遠くに出掛け敵のゲリラ活動に怯えながら野山で筍や麦の芽を探し、川辺では田螺や川魚など捕獲し空腹の凌ぎとし深夜に寝るためだけに漢城に帰ってくる日々が続いた。
漢城を出てから難所の鳥嶺を越え四日が経った、あと三日歩けば尚州に着くと聞いたが着いたところで兵粮があるとは限らない、ゆえに兵等は絶望の淵を歩く囚人が如くの有様だった。
この数万の兵が通過した跡には草さえ生えていない程で、途中の村や街は日本軍の強奪の餌食になっていった、それでも三日後になんとか尚州の入口である報恩郡を越えた、あと二里で尚州邑である、誠二郎も若き三人の母衣衆も元々体力の無い いいとこの坊ちゃん育ちで既に体力は限界を越えていた。
その時、前方より口伝えで釜山より大量の兵粮が尚州に届いているとの情報が流れてきた、情報の出所は先頭を進む大谷隊で半刻前に尚州城に入ったという、それを聞いた黒田隊から喚声が湧き上がった、そしてその口伝えは次々に後方へ伝播していった。
黒田軍はこの尚州の地で三日間の栄養補給をすると目的地である釜山へと行軍を進めた。
一行は慶尚北道・南道の善山→仁同→大邱→清道→密陽→梁山を経て釜山近郊に至ったのは五月四日、その釜山浦より二里半ほど内陸の東莱邑城に入城した、
ここは昨年四月 日本軍が釜山に上陸した際に真っ先に標的になった城で、東莱府使の宋象賢を中心に軍・官・民が一体となり激しい闘いが繰り広げられた山城である。
黒田軍の諸将らが宿舎として宛がわれたのは城山に登る右手前の明成殿であった、母衣衆四人はこの殿中に案内され部屋を割与えられると甲冑を脱ぎようやく安堵に寛いだ。
尚州に入るまで死相さえ浮かべていた誠二郎であったが尚州城には兵粮が潤沢にあったため栄養失調症は回復に向かっていた。
この東莱邑城で一段落し数日経ったときのこと、同輩らと談笑中に見知らぬ兵が部屋に入ってきた「安田様はお見えでござりましょうか」との問いに「儂が安田だが…」と応えた。
「栗山善助様から隆真殿まで至急おいでを請うとの伝言を承って御座る、それがしと御同道下され」との口上である。
誠二郎は兵の後に従い明成殿を出た、暫く歩いたところで民家の多さに驚かされた、朝鮮の城内は日本の城とは異なり城壁内に無数の民家を抱えている、山城手前の城壁に囲まれたこの平地は東西600m四方も有り、そこには大小一千軒ほどの民家が軒を連ねていた。
やがて隆真殿に着くと殿中に通された、その広大さに驚きながらも磨き込まれた廊下を案内され中庭へと出た、そして渡り廊下を越えると中庭に沿って歩き豪奢な扉前へと案内された。
「どうぞ中へ」と飾り扉を開けられ中に導かれる、すると広い部屋の窓際に設えられた象眼黒塗りの机に三人の武士らが何やら深刻そうな顔で声をひそめ語らっていた。
その三人のうち二人はすぐに長政と善助と分かった、しかしもう一人の威厳に満ちた初老の武士は初めて見る顔だ。
誠二郎は扉を閉めその場に佇んだ、それは近寄りがたい雰囲気だったからだが、やがて長政がその武士に向かい「父上、明後日帰られるとは…それではいくら何でも早計に過ぎまする、殿下の御不興をかうこと明らかなれば今暫らくの御再考を」と長政が困り果てた顔でその武士を取りなしていた。
そのとき誠二郎は(あの御方が黒田官兵衛様…)と歴史ドラマで余りにも有名な大軍師と知ったのだ。
「大殿、石田三成様との間にどの様な確執があったかはおよそ想像がつきまするが短慮はなりませぬ、ここは浅野長吉様とまずはご相談あそばし…」
と栗山善助が必至に取りなそうとの言葉は途中官兵衛に遮られた。
「石田三成めがこの儂に軍監職務を放棄しているとほざいたは長政とて間近で聞いたであろう、彼奴こそ総奉行の務めもろくに出来ん腑抜けのくせして偉そうに、殿下に取り入ることだけ上手の文官風情が…ええい もうよいわ!儂は帰るぞ」
取り付く島さえない官兵衛の激昂ぶりだ。
「しかし殿下のお許しもなく帰れば軍規違反を犯したとして厳罰は免れませぬ、ゆえにここは我慢し 石田殿が名護屋より戻られたら再度面会し誤解を解かれたら如何で御座りましょう、それがしが何とかその場を作りますよって」となおも善助は喰い下がった。
「善助もう遅いわ、今頃三成めは儂についての讒言を太閤殿下にぶちまけておろうぞ、儂の帰国は殿下にそれを弁明するためなんじゃ、殿下とて儂が直接出向いて申し開きに及べば分かって下さるはず、心配するな殿下の御勘気さえ解くことが出来ればまたこの地に戻ってくるゆえのぅ善助や」
こうまで言われたらもう返す言葉は長政も善助にも無かった、後は神妙に聞き入るしかない。
その頃、石田三成と小西行長ら奉行衆は明の講和使節なる者らを伴い肥前名護屋に向かって渡海の最中であった、しかしこの講和使節は明皇帝が正式に派遣した使節ではない。
その正体は宗応昌配下の参将 謝用梓と遊撃 除一貫という者らで いわばでっち上げの偽物である、この小西行長の茶番は石田三成だけは気づいていたはずだ、しかし泥沼化するこの朝鮮の役を終息させるためと、奉行責任回避のため当面の間は目を瞑むろうとしたのであろう。
こうしてその場凌ぎの偽りで粉飾した講和交渉が開始されていくのだが、この講和使節とともに漢城から退いた長政や善助が彼らを偽物と見抜いていれば…その後の官兵衛が名護屋に帰り秀吉に罵倒され追い返される醜態は見ずに済んだのかもしれない、この点は文事派の三成・行長の方が一枚上手であったろうか。
誠二郎は固まったように三人の話しに聞き耳を立てていた、そのとき善助が誠二郎に気付いた。
「誠二郎!来ているなら来ていると申さぬか、さぁこちらに参れ」そう言うと善助は手招いた。
誠二郎は畏まって机の横へと進み三人に向かい深々と一礼した、そして「さぁそこへ座れ」と指示されたのは官兵衛の正面であった。
「この者が先日より御話し致しておりました母衣衆の安田誠二郎と申す新参者に御座ります」
善助は官兵衛に対し起立姿勢のままの誠二郎を紹介した。
「おお 此奴が四百年後の時代から罷り越したという者か…、ふむぅ どんな化け物かと思うたが何ら儂らと変わらぬように見ゆるが、しかし背丈が高い割に細いのぅ お前らちゃんと食わせておるのか、まっいいからそこに座れ」と誠二郎を見上げる官兵衛は威厳に満ちた眼差しで正面に座るよう促した、誠二郎は震える思いで促されるまま官兵衛の前に座ると目を伏せた。
そのとき誠二郎は(あれ…)と思った、それは座る際一瞬垣間見えた右眉上の痣らしきものである…それは時代劇で描かれるような眼を覆いたくなるほどの醜いものではなかったからだ。
「誠二郎というたかな、おぬし四百年前から来たと言うからにはこの時代の出来事なども知っておろう…どうじゃ儂のことなど歴史の大きな流れからして記録にさえ載らぬ小者であったのかのぅ」
と予想に反し 親しげな言葉で語りかけてきた。
誠二郎はその言葉にチラッと目を上げもう一度官兵衛を見た、やはり痣は気になるほどのものではない、官兵衛の逸話は江戸時代や明治以降の創作がほとんどと聞いてはいたが…自分の知る歴史なども実際とは大きく異なっているのだろうとこのとき感じた。
「誠二郎、大殿が御下問されておる、早うお応えせぬか」と横で善助が小さく囁いた。
「はっ、黒田官兵衛様は後世でも有名な武将として伝えられ、戦国の大軍師と言えば官兵衛様を指すほどで御座ります」
「ほぅ儂が大軍師か…それも四百年もの後世に儂の名が残っていようとは、そちの作り話であっても嬉しい限りじゃ、もそっとおぬしの作り話が聞きたいものよ、のぅ善助そろそろ陽も暮れるよって夕餉の馳走でも用意を致せ、此奴の戯事を肴に今宵は別れの宴でも開くといたそうかのぅ」
そう言うと官兵衛は誠二郎の眼を見つめ笑った、しかしその眼差しは誠二郎を震え上がらせるに充分な 心を射貫くほどの強い眼差しであった。
誠二郎は宴席の用意が整うまで明成殿へと戻った、戻るとすぐに同輩の若者らが駆け寄り筆頭殿にお呼び出しとは如何なる御用向きで御座りましたかと聞いてきた。
「ふむぅ ようは分からぬが大殿にお会いしての、今宵は御帰国の宴席に招くからお前も来いというおぼし召しであったが…」
「何と衣母衆が大殿のお招きに預かれるとは…」と同輩らは羨望の眼差しで見つめてきた。
「筆頭殿は太閤殿下の縁戚に繋がる大事な御方、母衣衆と言えど御招きに何の不思議がありましょうや、我らとは端っから出自が違うのよ」と知ったような顔で稲垣寅左右衛門が独りごちていた。
「今宵の夕餉はいらぬから」と言い残し誠二郎は着物を上等なものに着替えると羨望の眼差しをかいくぐって外へ出た、西の白楊山の頂きの陽が沈みゆくのを見ながら再び隆真殿へ向かう。
隆真殿の門衛に案内を請い磨き込まれた廊下を進み、渡り廊下を越えると今度は小さな部屋に通された、別れの宴と言うからには重臣らが挙って集まるゆえさぞ大きな部屋に通されるものと予想していただけに拍子抜けして部屋に入った。
誠二郎は部屋に入ると膝立ちして控えた、中を見ると大殿と殿が二人並んで座り、対座に善助一人が座っていた、誠二郎はもっと多人数を予想していたが先と同メンバーであることに驚いた。
「おお来たか、ここへ座れ」と善助に言われ空いた善助の横へ進むと一礼して座った。
座ると同時に「今宵の宴はおぬしの出自を慮り大殿の御意向で内輪だけの宴にしたのじゃ」と善助が囁いた。
「では揃ったゆえ始めるとするか」と官兵衛が言う。
誠二郎はその声で立ち上がると、酒の入った塗り提の柄を持ち、大殿の盃から酒を順次注いでいった。
注ぎ終わると席へ戻り盃を持った、そして大殿のかけ声と共に盃を一気に呷る。
何と酒は焼酎でもなく濁り酒でもない まさに清酒そのものだ、誠二郎は思わず「旨い」と言葉を洩らしてしまった。
「ほぅ…その方澄み酒の味が分かるのか、四百年後でも酒とはこの様なものを言うのかのぅ」と官兵衛は興味深げに誠二郎を見た。
「はっ、この様な透明なる酒は清酒と申し多くの日本人に愛飲され、いまや外国でも広く珍重されておりまする、しかしながら清酒の飲酒量は全国では三位で、一番飲まれているのはやはり大麦の麦芽を酵母で発酵させたビールなるものかと存じまする」と控えめな声で応えた。
「ビールとな、んんどの様なものか儂も一度飲んでみたいものよ、まっそんなことより朝鮮とは暫しの別れとなろう、皆の者今宵は心行くまで美酒に酔い痴れようぞ」そう言うと机上の塗り提を手に取り空になった誠二郎の盃に大殿みずからなみなみと酒を注いでくれた。




